社会の違いと結論

文字数 1,827文字

 ここで言う「西洋」が、なぜこんなに「現実的」なのか。なぜ崇高な存在が、現実の壁にぶち当たってしまったのか。

 それは、ソクラテスの場合もイエスの場合も、彼らの間に「絶対的な権威」が存在していなかったからだ。
 ソクラテスの生きたアテナイでは民主制から、絶対的な権威は存在し得なかった。失政を犯したり民衆の人気を失った権力者は、容赦なく権力を剥奪された。
 そしてイエスの生きたユダヤ人社会では、唯一の「神」がその絶対的な権威であり、人間の間には存在していなかった。これもまた、それぞれの人が個々に信仰している宗教に悖るとみられるや、反発を受け権力を維持することができなかった。そのためにユダヤ人社会も、一つの民主制のようになっていたと言える。
 どちらも一人一人の票や信仰、彼らの力が社会を作り上げていたのだった。

 一方ここで言う「東洋」は、長い間階級社会が固定し、おおむね権威が安定していた。君主と臣民という関係性が存続し得ていた。たとえ支配者が変わっても、一般人の社会が安定していたり、その国の風習を支配者が取り入れたりして、民衆を巻き込んだ大きな動乱にまでは至らなかった。
 またポリス社会と違って、節操のない経済活動を退けたために、人間の欲望が前面に押し出されることもなかった。人々は基本的に君主に従って、間違いのない「規律」を信じていればよかった。

 つまり、東洋では長い間、民衆の一人一人から出てくる判断や力に依らない非民主的な社会であったために、このような「普遍的な人間」が覆い隠されていた、また人々がそれを見ないで済んでいたのだ。
 そのために「規律さえ正せば社会は良くなる」という、完全には正しくない「幻想」を持ち続けられていた。
 そしてまたそのために、いったん民主的な社会ができて「普遍的な人間」の姿が現れるや否や、そこから生まれる分裂や規律からの逸脱を理解できずに、その原因をやはり「規律からの逸脱」が原因だと見なして、ファリサイ派のようなむやみな杓子定規に陥ってしまっている。
 しかし世の中が安定しない原因、それは自分を含めた一人一人の「人間」の中そのものにあるのだ。
 人間は意識しなければ「自分さえよければ良い」とごく自然に思ってしまう。そしてそういった人々が集まってできている社会もまた、自由であればあるほどそれを個人に求めるのだ。

 つまり、結論としてはこういうことになる。
 ここで言う東洋でも西洋でも、その思想を能動的、自戒的に、つまり本当に正しいものを求め、自分を律するために学ぶのであれば、どちらも有益であり、優劣は付けられるものではない。重要なのは現実への応用とその実行にある。
 しかし受動的、批判的に、つまり崇高であることを相手に要求して批判するならば、どちらであろうとどんな真理であろうと有害になり得る。
 しかもそれは自分が「弱い」立場であれば、それに苦しめられるのは自分である。相手がそうしてくれないと、無理なことで常に悩むことになってしまう。そして思い上がった「強い」立場であれば、それに対する容赦ない反論が待ち構えているだろう。たとえファリサイ派のようにその時代で「勝ち」を収めても、後の時代からは誤りの代名詞ともなってしまう。

 そして西洋の思想には、すでに真理がそういった批判的な態度にさらされて、退けられている様子が、むしろ重要な要素になっている。
 ソクラテスは良くしようとしたその国家に死刑を言い渡され、イエスもユダヤ人に憎まれ、弟子たちにも見捨てられて十字架に架けられた。
「人間」そのものを批判した彼らは、それだけに無理解な人々にとっては人間の否定、自らの全面的な否定にすら映った。そのために彼らは、身を滅ぼさねばならなかった。
 しかしそれがまた、彼らを歴史に深く刻むこととなったのだった。
「自らを犠牲にしても正しいことを貫いた」という事実が、能動的、自戒的に人生をとらえる人々には、常に感銘を与える。彼らの生き様が、感動と共にわれわれの生きる糧となる。
 たとえ受動的、批判的な人々に貶められ、捨てられたとしても、すぐに蘇って人間に活力を与える生命が、彼らの生き様に永遠に宿っている。

 これからの「自由な」時代に、われわれが西洋の思想から学べることは絶大である。われわれもまた同じ「人間」であるがために、彼らの後を追って行くことになるからである。

(完)
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