第5話 審判
文字数 2,821文字
「三次さん、どうされますか」
いつの間にか目を閉じていたらしい。呼びかけられて、ゆっくりと瞼 を持ち上げる。それだけのことが妙に億劫 で仕方ない。金色の光が見えた。瞬きを繰り返すと、それがあの天使の姿だと気付く。あのときと同じような白いスーツ姿だが、長い髪は結ばずにそのままにしてある。
「このままだと、あなたは死にます。どうされますか。あなたの望みはなんですか」
そうか、死ぬのか。ぼんやりと三次は思う。まるで実感がない。死というのはこんなふうに突然やってくるのだな、とひとごとのように思った。
「あなたを生き返らせることもできます。刺されるまえに時間を戻して、あの人物を消すことも可能です」
あの男を消す。そうすれば鳩子はあんなふうに殴られることもなく穏やかに暮らせるだろうか。倒れた三次にすがりついて泣いていた鳩子の姿が目に焼きついて離れない。あの男がいったような、鳩子に気があるとか、そういう感情ではない。たとえば、そう、道端 に咲いた可憐な花をいとおしく思うような、そういった気持ちに近い。雪のなか、寒さに負けず凛と咲いた水仙を見守るような。
三次には身寄りがない。打ち込めるような趣味もなく、毎日を淡々と生きてきた。いざ、おまえは死ぬといわれたところで、足掻 くほどの執着もない。ただひとつ、心残りがあるとすれば、やはり鳩子のことなのだった。ずいぶん泣かせてしまっただろう。気に病む必要はないのだと伝えたい。あの兄からの度重なる暴力に耐えて、それでも大丈夫だと笑っていた、あんな痛々しい笑顔ではなく、心から笑って過ごせるようになってほしい。
いまの三次に望むことがあるとするならば、ただそれだけだ。
「鳩子さんが、しあわせでいられるように」
目を閉じて、そうつぶやく。
「それが、あなたの望みですか」
「はい」
「彼女の望むしあわせとは、どんなものでしょうか」
天使の言葉に、三次はうっすらと目を開ける。視界に霞 みがかかったように、天使の姿がよく見えない。
鳩子の、しあわせ。
それがどんなものなのか、三次にはわからない。
あいまいすぎるだろうか。
そんな三次の心を読んだように、天使はいった。
「彼女自身に聞いてみることにしましょう」
「三次さんっ」
名前を呼ばれている。そう認識した。すると、ふいに、意識が引き戻される感覚があった。身体 から離れようとしていた魂がもとの場所へと連れ戻されるかのような。
「三次さん」
涙混じりの悲痛な叫び。喉から血を吐くような、そんな必死の思いが伝わってくる。この声は。たまらなく重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。うすぼんやりとした視界に、キラキラと輝く光が見えた。
真っ赤な顔で泣きじゃくる、金色の髪の少女。
ああ、後光が差しているのはあなたのほうではないか、と三次は思った。
「鳩子さん」
掠れた声で少女の名を呼ぶ。鳩子の大きな目からぼたぼたと大粒の雫が落ちてくる。
「三次さん、よかった、ごめんなさい、ごめんなさい」
両手で顔を覆って泣きじゃくる鳩子の姿をぼんやりと眺めていた三次は、夢を見ているのだろうと理解した。なぜなら自分は死んだはずだからだ。そう納得したとたん、それは否定された。
「三次さん、これは夢ではありません」
天使の声がいう。
「どうして」
呆然とする三次に、天使は続けた。
「彼女がしあわせでいられるように、というのが三次さんの望みでした。ですからわたしは彼女に事情を説明し、あなたのしあわせはなんですか、と尋ねました。彼女はこう答えました。いまここで三次さんが死んでしまったら、きっと一生しあわせになんかなれない、と」
三次は目を見開く。
「彼女のしあわせとは、三次さん、あなたが生きていることだそうです。ですからあなたを生き返らせました。幸いにも、といいますか、死にたてホヤホヤでしたから」
まさかそのフレーズを自分にあてはめることになろうとは夢にも思わなかった。
「もう起きてもかまいませんよ。傷は塞がっているはずです」
そういわれて、おそるおそる身体を起こす。痛みはない。刺されたはずのナイフはなく、服にも一滴の血もついていない。
ほんとうに生き返ったのか。
「化け物」
乾いた声がそうつぶやく。三次を刺したあの男が恐怖に満ちた表情をして三次を凝視していた。すっかり酔いも醒めただろう。
「なんなんだよあんた、さっきまで死んでたのに、なんで」
「死んでいなくて助かったのはあなたのほうでは?」
天使がいくぶん冷ややかな声でそういった。
「あのまま三次さんが亡くなっていたら、あなたは人殺しになっていました」
「は、ははは」
男はいびつな笑い声をあげる。精神に変調を来 しかけているのがわかった。だが、天使は容赦なく男を追いつめる。
「化け物は、あなたのほうではありませんか。血を分けた実の妹に平気で暴力を振るうことができるのだから」
「おまえになにがわかる!」
「わかりませんし、わかりたくもありません」
にべもない。天使というのはもっと慈悲深いものではないのか、と三次は驚いていた。男の視線がつと三次を捉 える。暗く濁ったその瞳に、ふいにそれが見えた。まるで映像が映し出されているかのように。
泣き叫んで抵抗する鳩子にのしかかり、押さえつける男。
それは獣 のごとき所業 であった。
鳩子の言葉が蘇る。
子どものころからずっと暴力を受けていたから慣れている。
親の見ていないところで、ずっと。
ずっと、鳩子はこんな目に遭っていたというのか。
三次はいまだかつてないほどの怒りに震えた。
「悔い改めよ!」
その瞬間、爆音が響き、地面が揺れた。
気がつくと、目のまえにあの男が倒れていた。いったいなにが起きたのかわからない。
「お気持ちはわかりますが、どうか落ち着いてください。あなたの怒 りは雷 を呼び、大地を揺らします」
天使が宥めるように三次にいった。
「どういうことですか」
聞き返すと、天使は窺 うように三次の顔を覗き込む。
「思い出されたわけではないのですか」
「思い出す? なにを、ですか」
「なるほど。怒りのあまり力が発現しただけで、封印が解かれたわけではないのですね」
そうひとりごちると、天使は三次の肩越しに声をかけた。
「鳩子さん、心配はいりません。もう大丈夫ですよ」
そうだ、鳩子は。あわてて振り返ると、鳩子はさきほどの爆音と地揺れに驚いたのか、泣きやんでぼんやりとしていた。
「いまの、なに?」
「あなたの兄の行いが、神の怒りに触れたのです」
「神さまの?」
そういうと、なぜか鳩子は三次を見つめる。
ああ、そうか、後光があるからか。いや、しかし、善行貯金満額の褒賞はもう受け取ったのだし、後光は消えたのではないのか。
「鳩子さん、あなたはこの三次さんを神さまと思っていらしたのでしょう」
「は、はい」
天使はマスクの奥でにっこりと笑う。
「すばらしい。あなたには本質を見抜く力があるのですね。そのとおりです。このかたが、神なのです」
いつの間にか目を閉じていたらしい。呼びかけられて、ゆっくりと
「このままだと、あなたは死にます。どうされますか。あなたの望みはなんですか」
そうか、死ぬのか。ぼんやりと三次は思う。まるで実感がない。死というのはこんなふうに突然やってくるのだな、とひとごとのように思った。
「あなたを生き返らせることもできます。刺されるまえに時間を戻して、あの人物を消すことも可能です」
あの男を消す。そうすれば鳩子はあんなふうに殴られることもなく穏やかに暮らせるだろうか。倒れた三次にすがりついて泣いていた鳩子の姿が目に焼きついて離れない。あの男がいったような、鳩子に気があるとか、そういう感情ではない。たとえば、そう、
三次には身寄りがない。打ち込めるような趣味もなく、毎日を淡々と生きてきた。いざ、おまえは死ぬといわれたところで、
いまの三次に望むことがあるとするならば、ただそれだけだ。
「鳩子さんが、しあわせでいられるように」
目を閉じて、そうつぶやく。
「それが、あなたの望みですか」
「はい」
「彼女の望むしあわせとは、どんなものでしょうか」
天使の言葉に、三次はうっすらと目を開ける。視界に
鳩子の、しあわせ。
それがどんなものなのか、三次にはわからない。
あいまいすぎるだろうか。
そんな三次の心を読んだように、天使はいった。
「彼女自身に聞いてみることにしましょう」
「三次さんっ」
名前を呼ばれている。そう認識した。すると、ふいに、意識が引き戻される感覚があった。
「三次さん」
涙混じりの悲痛な叫び。喉から血を吐くような、そんな必死の思いが伝わってくる。この声は。たまらなく重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。うすぼんやりとした視界に、キラキラと輝く光が見えた。
真っ赤な顔で泣きじゃくる、金色の髪の少女。
ああ、後光が差しているのはあなたのほうではないか、と三次は思った。
「鳩子さん」
掠れた声で少女の名を呼ぶ。鳩子の大きな目からぼたぼたと大粒の雫が落ちてくる。
「三次さん、よかった、ごめんなさい、ごめんなさい」
両手で顔を覆って泣きじゃくる鳩子の姿をぼんやりと眺めていた三次は、夢を見ているのだろうと理解した。なぜなら自分は死んだはずだからだ。そう納得したとたん、それは否定された。
「三次さん、これは夢ではありません」
天使の声がいう。
「どうして」
呆然とする三次に、天使は続けた。
「彼女がしあわせでいられるように、というのが三次さんの望みでした。ですからわたしは彼女に事情を説明し、あなたのしあわせはなんですか、と尋ねました。彼女はこう答えました。いまここで三次さんが死んでしまったら、きっと一生しあわせになんかなれない、と」
三次は目を見開く。
「彼女のしあわせとは、三次さん、あなたが生きていることだそうです。ですからあなたを生き返らせました。幸いにも、といいますか、死にたてホヤホヤでしたから」
まさかそのフレーズを自分にあてはめることになろうとは夢にも思わなかった。
「もう起きてもかまいませんよ。傷は塞がっているはずです」
そういわれて、おそるおそる身体を起こす。痛みはない。刺されたはずのナイフはなく、服にも一滴の血もついていない。
ほんとうに生き返ったのか。
「化け物」
乾いた声がそうつぶやく。三次を刺したあの男が恐怖に満ちた表情をして三次を凝視していた。すっかり酔いも醒めただろう。
「なんなんだよあんた、さっきまで死んでたのに、なんで」
「死んでいなくて助かったのはあなたのほうでは?」
天使がいくぶん冷ややかな声でそういった。
「あのまま三次さんが亡くなっていたら、あなたは人殺しになっていました」
「は、ははは」
男はいびつな笑い声をあげる。精神に変調を
「化け物は、あなたのほうではありませんか。血を分けた実の妹に平気で暴力を振るうことができるのだから」
「おまえになにがわかる!」
「わかりませんし、わかりたくもありません」
にべもない。天使というのはもっと慈悲深いものではないのか、と三次は驚いていた。男の視線がつと三次を
泣き叫んで抵抗する鳩子にのしかかり、押さえつける男。
それは
鳩子の言葉が蘇る。
子どものころからずっと暴力を受けていたから慣れている。
親の見ていないところで、ずっと。
ずっと、鳩子はこんな目に遭っていたというのか。
三次はいまだかつてないほどの怒りに震えた。
「悔い改めよ!」
その瞬間、爆音が響き、地面が揺れた。
気がつくと、目のまえにあの男が倒れていた。いったいなにが起きたのかわからない。
「お気持ちはわかりますが、どうか落ち着いてください。あなたの
天使が宥めるように三次にいった。
「どういうことですか」
聞き返すと、天使は
「思い出されたわけではないのですか」
「思い出す? なにを、ですか」
「なるほど。怒りのあまり力が発現しただけで、封印が解かれたわけではないのですね」
そうひとりごちると、天使は三次の肩越しに声をかけた。
「鳩子さん、心配はいりません。もう大丈夫ですよ」
そうだ、鳩子は。あわてて振り返ると、鳩子はさきほどの爆音と地揺れに驚いたのか、泣きやんでぼんやりとしていた。
「いまの、なに?」
「あなたの兄の行いが、神の怒りに触れたのです」
「神さまの?」
そういうと、なぜか鳩子は三次を見つめる。
ああ、そうか、後光があるからか。いや、しかし、善行貯金満額の褒賞はもう受け取ったのだし、後光は消えたのではないのか。
「鳩子さん、あなたはこの三次さんを神さまと思っていらしたのでしょう」
「は、はい」
天使はマスクの奥でにっこりと笑う。
「すばらしい。あなたには本質を見抜く力があるのですね。そのとおりです。このかたが、神なのです」
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