第2話 鳩

文字数 3,267文字

 やはり余計なお世話だったかもしれない。少女に名刺を残して帰ってきてから、三次(みよし)はいまさらながらそう考えた。
 あの日は金曜日で、ちょうど週末に入ったため、あれ以来、店には行っていない。仕事帰りに立ち寄るのが習慣になっているので、役所が閉館する土日祝日は家の近所のスーパーや弁当屋で惣菜などを買って食べている。自炊はめったにしない。
 週明けの今日は、いつもならあの定食屋に立ち寄るのだが、どうにも気が重い。不審者だと警戒されたのではないか。のこのこと顔を出して、また来た、と不快に思われてしまったら申し訳ない。
「課長、お客さまがお見えです」
 パソコンをまえに悶々としていると、おずおずといったようすで声をかけられた。いかん、仕事中だ。気持ちを切り替えて立ち上がる。
「どなたですか」
「それが、あの」
 女性職員はいいづらそうに言葉を濁す。視線をめぐらせると、ぱっと目をひく金髪が視界に入る。通路に、あの少女が立っていた。

「あの、お仕事中にすみません。突然押しかけてきて」
 心なしかざわついたようすのあの場を離れて、相談室と呼ばれる小部屋へ移動してきた。個室にふたりきりというのはあまりよろしくないので、ドアは開けたままにしてある。テーブルを挟んでソファに座ると、少女はポニーテールを揺らしてぺこりと頭を下げた。
「いえ、かまいませんよ。ちょうど休憩に入るところでしたし」
 内心、驚いていた。名刺を渡した以上、連絡があることは想定内だったが、まさかこうして直接訪ねてくるとは思わなかった。少なくとも、不審者扱いはされずにすんだと思ってよいのだろうか。
「名刺をありがとうございました。あのときはびっくりして、なにもいえなくて。すみません」
「いえ、無理もない。不審者だと思われたでしょう」
 三次の言葉に、少女は目をまるくしてぶんぶんと首を横に振る。
「まさか。神さまをそんなふうに思うはずないです」
「は?」
 いま、妙な単語が聞こえなかったか。
「あっ」
 しまった、というふうに、少女はマスクの上から口を押さえる。赤面したのか、瞬く間に耳まで真っ赤になる。
「すみません、あの、あたしたち勝手に神さまって呼んでいて」
 だれを?
「だから、つい癖で」
 なんの?
 三次は思わずまじまじと少女を見つめる。マスク越しでもわかる、くるくるとよく変わる表情は見ていて飽きない。不自然な痣さえなければ、年相応にあかるく屈託のない少女である。
「三次さんって、おっしゃるんですね」
「はい」
「あたし、神崎鳩子といいます。鳩子は、鳥の鳩に子どもの子って書きます」
「鳩子、さん」
 やはり三次の想像で合っていた。
「へんな名前でしょう?」
「どうして」
「おんなじ鳥でも、つぐみとかすずめとかのほうがかわいいのに、なんで鳩? って」
「よい名前だと思いますよ。鳩は平和の象徴といわれるでしょう」
「鳩が?」
「そうです。ノアの方舟(はこぶね)という話を聞いたことがありませんか。旧約聖書のなかで、いうことを聞かずに好き勝手にふるまう人間に怒った神が、唯一まじめに教えに従ったノアに、設計図どおりの方舟を造って、ノアの家族と地上に生きるすべての生物をワンペアずつ船に乗せなさいと告げる。船が完成し、指示されたとおりの乗客を乗せると、神は大洪水を起こして方舟以外の生きものすべてを流してしまう。やがて、嵐が治まり、ノアは鳩を空に放つ。最初は、止まり木となる木すらも見つからず帰ってきた鳩が、数日後にふたたび飛ばしたときにはオリーブの枝を咥えて戻ってきた。それによって、水が引き、陸地が現れたことを知るのです。ノアが陸地に降り立ち、神への供えものを献上すると、神はそれをよろこび、ノアへ祝福をあたえ、二度とこのようなことはしないと約束し、その証に空へ虹をかけたといわれます。だから、鳩とオリーブの枝はいまでも平和の象徴として用いられているのです」
 少女ーー鳩子はポカンとしている。いかん。せっかく不審者の汚名を(まぬか)れたというのに、墓穴(ぼけつ)を掘ってしまったか。そんな三次の内心の焦りとは裏腹に、彼女はキラキラと目を輝かせる。
「神さまから神さまの話を聞くなんて、へんなかんじ。でも、そっか、そんなふうにいってもらえたら、この名前も好きになれそう」
 そういうと、鳩子はふっと目を伏せて手首に残る痣を撫でた。
「神さま、じゃない、三次さんは、あたしの怪我を心配して声をかけてくださったんですよね」
 神さま、というのがどうにも気になるが、三次はそれには触れずにうなずいてみせる。
「お店のお客さんには、彼氏にやられたってごまかしているんですけど、違うんです。ほんとは、兄に殴られてるんです」
「お兄さんに?」
「兄は子どものころから出来がよくて、両親の自慢の息子なんです。いい大学を出て、いい会社に就職して、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)な人生を送ってきました。それが、昨年からのこのウイルスの影響で、会社の業績がみるみるうちに悪化したらしくて、思いどおりにいかないストレスから、あたしに当たるようになっちゃって」
 彼氏でもけしからん話だが、まさか相手が兄妹とは。ますますもって許しがたい。
「でも、それはべつにいまにはじまったことじゃなくて。子どものころから、親の見てないところで暴力は受けていたし、もう慣れてるんです。優等生の仮面をかぶり続けるのもしんどいんだと思います」
「子どものころから?」
「はい。でも、あたしも兄とは正反対のできそこないなので、仕方ないんです」
「そんなことはない」
「え?」
「できそこないなどという人間はいない。他人と比較することに意味はない。それに、」
 鳩子自身には見えないだろうが、桁違いの善行貯金が彼女のひととなりを如実(にょじつ)に表している。だが、その数字をもとに鳩子を評価することを、三次は()しとしなかった。
「あの店で、あなたはよく働いている。お祖母(ばあ)さまもさぞ助かっておられるでしょう」
 鳩子はうつむいたまま黙っている。なにかまずいことをいっただろうかと狼狽(ろうばい)する三次の耳に、すすり泣くような声が聞こえてくる。鳩子が泣いていた。
「は、鳩子さん、申し訳ない、わたしが余計なことを」
 うつむいたまま、鳩子がふるふると(かぶり)を振る。
「ちが、違うんです、あたし、うれしくて」
 しゃくりあげるように泣きながら、途切れ途切れに彼女がいう。
「そんなふうに、だれかにいってもらったこと、はじめてで」
 三次はスーツの内ポケットからハンカチを取り出したものの、なににウイルスが付着しているかわからないこのご時世に他人のハンカチなど差し出されても困るだけだろうと思い直し、「すぐに戻ります」といい残して部屋を出ると自分のデスクへと急いだ。引き出しから除菌ウェットティッシュとふつうのティッシュを掴むと、あわただしく部屋へと戻る。ほかの職員たちからの視線を痛いほど感じたが、それどころではない。緊急事態である。
 「鳩子さん、苦しいでしょう。マスクを外してもかまいませんよ。換気のために窓を開けましたし、わたしはじゅうぶんに距離を取って離れていますので」
 鳩子のまえに二種類のティッシュを置くと、そういって三次は窓際へと移動する。開け放した窓から入る風はまだ冷たいが、動揺した頭を冷やすにはちょうどよい。背後で、鳩子がもぞもぞとティッシュを使う気配がする。
「すみません、ご迷惑をかけて」
「お気になさらず」
 さっきまで泣いていた鳩子が、くすくすと笑う声が聞こえて、三次はそっと振り返る。マスクを外して、濡れた頬を拭いながら、鳩子が笑っている。いま泣いた(カラス)がもう笑う。いや、あれは子どもの機嫌の変わりやすさをいう言葉だったか。
「三次さん、いいひとですね。ほんとに神さまみたい」
「さっきから、その神さまというのはなんのことですか」
 尋ねると、鳩子は笑みを浮かべたまま、じっと三次を見つめる。
「三次さん、だれかにいわれたことありませんか。後光(ごこう)が差してるって」
「後光?」
「後光です。うーん、いっちゃってもいいのかな。三次さん、ほかのひとみたいに数字はなくて、後光が差してるんですよ」
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