最終話 福音

文字数 3,921文字

「三次さん、ほんとに神さまだったんですね」
 泣き笑いのような表情で鳩子がつぶやく。それについてはいまだ半信半疑である三次はなんと答えてよいのかわからない。
「謝ってすむことじゃないけど、兄のしたこと、ほんとうにすみません」
「もうすんだことですし、鳩子さんが謝る必要はありませんよ」
 鳩子はふるふると(かぶり)を振る。
「いいえ。ダメなひとだとは思っていたけど、まさかあんな真似をするなんて」
「罪を認め、償うのは、彼自身がなすべきこと。あなたがそれを肩代わりする必要などないし、あなたに許しを()うべきなのは彼のほうです」
 許すかどうかはまったくべつの話であるが。
 三次の言葉に、鳩子は神妙な顔をしてこくりとうなずく。
「彼は、わたしが引き受けましょう」
 ふいにそういうと、天使は荷を抱えるように軽々と、意識をうしなった男を肩に担ぎ上げた。
「鳩子さんへの狼藉(ろうぜき)の数々、そして神殺しの大罪。自らの罪を自覚して、存分に償っていただきましょう」
 にっこりとうつくしい笑みを浮かべてそういう天使は、その装いもあいまって、ならず者を始末するマフィアにしか見えない。その背中に真っ白い羽が広がり、三次と鳩子は目を見開く。
「人間が人間である限り、最後の審判は繰り返されることになるでしょう。何百年、何千年後か、いずれふたたび審判は下される。かつてノアの方舟が造られたように、歴史は繰り返されるでしょう。神の苦悩は尽きません」
 ですから、と天使はやさしくささやく。
「三次さん、つかの間の人間としてのひとときを楽しんでください。あなたがいずれ人間に絶望して、すべてを滅ぼしてしまわないように」

 土曜日の午後。すっきりと晴れ渡る青空の下、三次と鳩子は肩を並べて歩いている。梅の花が見ごろを終えて、桜前線が列島を北上していた。
「花見でもしませんか」
 そう声をかけたのは三次である。
 あの事件のあとも、三次は変わらずに仕事帰りには定食屋に立ち寄っていた。毎回、鳩子は笑顔で出迎えてくれたが、ふとした(おり)に見せる沈んだ表情が気になっていた。
 あの男、鳩子の兄はまだ姿を見せない。いまもあの天使のところにいるのだろうか。

 ふたりは地元にある、桜で有名な神社に来ていた。
「神さまが神社に行って大丈夫なんですか」
 と鳩子に心配されたが、おそらく問題はないだろうと安易に考えていた。桜見物にお邪魔するだけで他意はない。いちおう念のため、心のなかで挨拶だけはしておいた。
 境内(けいだい)は花見客で賑わっていた。とはいえ、みなマスクをしているし、当然、宴会などはご法度(はっと)である。屋台で買ったものを飲み食いする程度で、文字どおり花見に専念していた。風もなく、暖かい日で、花見にはうってつけの陽気である。桜は七分咲きくらいだろうか。満開ではないが、目に華やかでうつくしい。
 ふと、カラフルな色彩が目に飛び込んでくる。なにやら色とりどりのわたあめを売っている屋台があった。鳩子がじっとそれを見ているようなので欲しいのかと思い、ひとつ購入した。レインボーカラーとやらの賑やかなわたあめである。
「鳩子さん、どうぞ」
「えっ、あたしにですか」
「欲しいのかなと思ったのですが、違いましたか」
 いらないのなら悪いことをした、と思っていると、マスクの下で顔を赤くした鳩子がおずおずと受け取ってくれる。
「あの、ありがとうございます。嬉しいです」
「それはよかった」
 しばらくしても鳩子はわたあめを食べようとしない。
「わたあめ、食べないのですか」
 もしかして、マスクを外さなくてはならないのを気にしているのだろうか。もしそうなら、たしかに家に持って帰ってから食べたほうがよいだろうが。
「食べちゃうのがもったいなくて」
「もったいない? どうして」
「あたし、こんなふうに屋台でなにか買ってもらうの、はじめてで。家族で出かけることなんてなかったし、友だちとも、そんなに遊んだりしないし」
 だんだんと尻すぼみになっていく声を聞いているうちに、なにやらいじらしくなってきて、三次は思わず鳩子の頭をよしよしと撫でていた。とたんに、鳩子がさらに真っ赤になって三次を見上げる。
「すみません、つい」
 ぱっと手を離すと、鳩子はなにかいいたげな目をしながらも小さく首を振る。しまった。いきなり勝手に触れられて、さぞ不快に思われただろう。親子ほどの歳の差があるとはいえ、異性には違いない。
「鳩子さん、すみません」
「謝らないでください」
「しかし」
「三次さんに触られるのはいやじゃないです」
 小さな声だったが、はっきりとそう聞こえた。鳩子は少しためらうような素振(そぶ)りを見せたが、思いきったように切り出した。
「あの、三次さんは、いなくなっちゃうんですか」
「え?」
「神さま、だから、ずっと三次さんとしてここにいるわけにはいかないんですよね?」
 鳩子はいまにも泣き出しそうな顔をしている。
「いえ、わたしはそのつもりですが」
「えっ」
「いや、わたしが勝手に決めてよいのかはわかりませんが」
「神さまなのに?」
「正直いうと、その自覚はあまりないので」
 鳩子はしばらくポカンとしたあと、こらえきれないというふうに笑いだす。さっきまで泣きそうな顔をしていたのが嘘のようだ。いや、もちろん、笑っていてくれるほうがよいのだが。
「三次さんっておかしい。すごいひとなのに、ぜんぜん自覚ないんですね」
「わたしはごくふつうの人間ですよ」
「ほらまた」
 からからと笑う鳩子のほうが、よっぽどキラキラと輝いていて眩しいくらいである。
「でも、そっか、よかった、安心しました。ずっと、三次さんがいなくなるんじゃないかって、それだけが気になっていたので」
 そういう鳩子はすっきりとした顔をしている。まさかと思うが、それが気がかりで、彼女はときどき沈んだ表情を見せていたのだろうか。
「三次さんのおかげで、あたしは救われました。ずっとつらかったし、神さまなんてこの世に存在しないんだって思ったこともあったけど、そんなことなかった。神さまはちゃんといて、あたしを助けてくれた」
 ずっとつらかった。鳩子の言葉に、三次は目を伏せる。自分さえ我慢すればよいのだと、かたくなに大丈夫だといい続けていた鳩子が、心を()じ伏せることなく気持ちを口にできるようになったのはよろこばしいことだ。しかし、その傷が消えることはない。
「わたしは、なにも」
「いいんです。三次さんに自覚がなくても、あたしが助けてもらったのは事実ですから」
 そういって鳩子は笑う。その笑顔を見ていると、もし自分がほんとうに神であるならば、傲慢なのは人間ではなくわたしのほうではないだろうかと、三次は思わずにいられない。鳩子の兄のように、どうしようもない(やから)がいるのはたしかだ。環境のせいで否応(いやおう)なしに道を外れてしまう人間もいる。自分の力ではどうしようもない事態に陥り、神も仏もないと嘆く人間もいるだろう。それでもなお、心折れることなく、自分の力で現実に立ち向かい、前へと進もうとする人間もいる。
 暗闇の逆境のなか、心にわずかな灯りを(とも)しながら、それでも手探りで進んでゆく力を、それを強さといわずになんというのか。
 けっして愚かなだけが人間ではない。
 ひととして生を受け、ひととともに生きてきたいまだからこそ、わかることもある。
 あの天使がいったように、いずれまた、人間の行いに嫌気が差して世界の終わりを手繰(たぐ)り寄せることがあるかもしれない。いまの三次にはなんの力もなく、未来を垣間見ることもできない。それでも、だからこそ、いまはまだ、ひとびとの(いとな)みをいとおしく思い、ただその()(すえ)を見守りたいと思う。
「あっ」
 ふいに鳩子が声をあげた。三次の背後を見上げている。振り返ると、側にあった桜の大木(たいぼく)が瞬く間に花開き満開となる。それを合図に、あたり一帯の桜がいっせいに満開を迎える。花見客からわあっと歓声があがった。
 鳩子が驚いた表情で三次を見上げる。自分がいま微笑んでいるだろうという自覚があった。
 これが祝福というものか。
 空を(あお)ぐ。雲ひとつない青空にすうっと大きな虹がかかる。
 約束の橋。
「三次さん」
 鳩子が目を潤ませて三次の名を呼ぶ。ノアの方舟の話をした鳩子には、この虹の意味が理解できただろう。
「鳩子さん。わたしにはなんの力もありませんが、こうしてひととして生まれてきてよかったと思っています」
「はい」
「そう思えるのは、きっと、あなたに出会えたからでしょう」
「え」
「あなたにはしあわせになってほしい」
「あたしは、いま、しあわせです」
 鳩子は目を潤ませたまま笑う。
「あたしのしあわせは、三次さんがいることだって、あの天使さんにもいいました」
 そうだった。たしかにそう聞いた。彼女がそれを望んでくれたからこそ、三次はいまもこうしてここにいられるのだ。
「三次さんがそばにいてくれるなら、あたしはずっとしあわせなままです」
「そう、ですか」
「そうです」
「それならよかった」
「はい、よかったです」

 ※ ※ ※ 

 そののち、善行貯金というシステムは突然この世から消えることとなる。ひとりひとりの貯金額はそのまま持ち主へと還元され、ひたむきに善行に励んできた者にはさまざまなかたちで恩恵があった。そして逆もまた(しか)り。
 世界じゅうを脅かしたウイルスは、やがて特効薬が開発され、ワクチンとともにひとびとのもとへと行き渡り、ウイルスそのものの消滅とまではいかないものの、無事に終息を迎えた。
 こうして、地球上に多くの犠牲をもたらしたウイルスは、人類の叡智(えいち)により克服(こくふく)された。たとえ、それに携わった研究者が善行貯金の恩恵により特効薬の開発に成功したのだとしても、その功績にはなにひとつ偽りはない。


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