Case:001 緋色の邂逅 -01

文字数 11,271文字

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他の医学特区もそうだが、九州は一層白い。街全体が白いのだ。
さらに特区の中へまで延伸した地下鉄のおかげもあり、俺が貧乏医学生をしていた当時よりも、格段にアクセスが改善されていた。

故郷には久しぶりに戻ってきた。東都医科大学付属病院__俺が医者になる為六年間学んだ学舎であり、研鑽の地であり、尚且つ俺にとっては正直戻って来たくはない場所だった。
いい思い出が殆どない。クソみたいな権力争い。学閥争い。そんな事をしても患者の命は救えないのに、上の連中はそれに精を出している。俺の指導医だった先生は立場が立場なだけに権力闘争に巻き込まれて辟易しているとよく言っていた。下らねえ。今でもやっているのかどうか毛ほども興味は無いが、不本意ながらもここに戻ってくる事になったのだ。挨拶はしておかなければ、と思う。

東都医科大学付属病院__通称『東医』、そこの総合診療科は以前から機能不全に陥っていると指摘されていた。絶対的な医師不足、そしてそもそも総合診療科に人を回す余裕が病院そのものに無い。上層部の無益な争いがこういう節々に出ているのが今の東医。めんどくせえ、と俺はA4の紙に手書きで『総合診療外来』と書かれた部屋(おそらくここが医局なのだろうが)の引き戸を開けた。
凡そ部屋の内部は医局と呼ぶには狭く、だが診察室と呼ぶには広すぎる。まるで実験室を無理やり改造して研究室のような、医局のような、どちらともつかない微妙な内装にされているその部屋には、赤い髪の女性がいた。彼女は椅子にふんぞり返って煙草をふかしている。仮にも医局であるのなら流石にこの場で喫煙は自重すべきだろう。

俺は絶句しながら彼女を見た。エメラルドグリーンのドクタースクラブに真っ白な白衣。鮮やかなボブカットの赤い髪。
俺はあまりにも無気力というか脱力しきっている彼女にそっと近づいてみる。俺が部屋に入ってきたことすら気づいていないのか、彼女は鶯色のオフィスチェアーに体を預けたまま天井を虚ろな目で見ている。まさかこれは煙草っつうわけやないんか? 大麻? だとしたらこの症状にも説明がつく。薬物を堂々と医者がやっている? アホな。ありえんやろ。
俺はそう思いとりあえず近場の机に自分の荷物を置いて、彼女を再び観察する。


「残念ながら私は薬物中毒患者ではないぞ」
「びっくりした……」

赤と青の双眸が俺を見ている。瞳だけがギョロリと動くので恐ろしくもあったが、不思議と嫌悪感は感じなかった。
赤い髪に、赤と青の瞳。左目の少し下の泣き黒子。俺の指導医である沖田先生によく似た顔。間違いない。この女こそ、〝医学における万能の天才〟と呼ばれる女。
__四宮椿。

「お前が我が総合診療科に新しく配属された螺旋捜査官の市ノ瀬咲良か。少し評価を改める必要がありそうだ。お前はもっと普遍的でどこにでもいる男だと思っていたが違うらしい」
「は? 俺は……普通やろ」
「普通ではないよ、市ノ瀬。お前は私を観察した。私が明らかに薬物中毒の様相を呈していたにも拘わらず、お前はそうだと決めつけなかった。目の前にある事実をそのまま認識するのではなく、多角的に見ようとしているのは医師として実に良い傾向を持っていると言えよう」
「ちょっと待て。本当に大麻なんやないやろうな? それ」
「メビウススーパーライトだ」
「安心した……」俺はほっと胸を撫でおろす。四宮は再び双眸だけを器用に動かして俺の方を見た。
「安心か。興味深い事を言うな。何故そう思った?」

四宮は長い脚を組み、両手を胸の前で合わせた。変な奴やな、と思うが俺はとりあえず話に付き合うことにする。

「大麻は日本じゃ手に入らん。それこそ非合法なルートやないと……世界から注目を集める天才が、そんなもん吸って己の才覚を持ち崩していくとは思えん」
「それだけか?」
「え……あ、ああ、まあ」
「重要な部分が大いに抜け落ちてはいるがいい線をいっているぞ」
「はァ?」俺は何を言っているのかわからずにそんな返事をする。四宮はふっとどこか俺を小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「大麻を吸ったことがあるから同じ状況を再現できると考えなかったのか? あらゆる薬剤は治療を行うために試した。だがその程度で私の頭脳は崩れ落ちんさ。一番キたのはMDMAだな。あれは流石に死ぬかと思ったよ」
「……………冗談きちぃちゃ……」

俺は頭を抱える。あらゆる薬剤を己の躰で試した? 治療のために? なんやこいつ。東医の前はフィラデルフィアにでもおったんか? 俺は本気で困惑していた__その様子を見て四宮は楽しそうに形の良い唇を横へ引いた。

「いい反応をしてくれて嬉しいよ。全部冗談だ。煙草を吸ったのは今日が初めて。部下になる男が喫煙者であることは把握しているからな」
「え?」

俺は思わずアホみたいな声を出して四宮を凝視した。

「日常的に煙草を吸うだろう。一日二、三本ペースで。最初はニコチンの少ないものを吸っていたが、それでは満足できず一気にニコチンの濃いものに煙草を変えた。ストレッサーとなるものが多すぎるだけでなく、そのストレスのはけ口にできる趣味もない。運動習慣は外科手術に耐える為だけのマラソンと週三回のジム。数年付き合った彼女には我慢強く付き合ったようだが割と最近愛想をつかした。国家公務員であれば給料がいいだろうとその程度の思慮しかない頭の悪い女だったようだな。相手の女は浮気もしていたな? 甘い香水の匂いが嫌いなのはそのせい。ふむ。シトラスの香りか、これは昔の恋人からの贈り物が最初。香りが好みだったから継続して購入し使用している。だがそれが決定的な、相手の浮気の原因に」
「ちょ、ちょっと待て!! 何で……そんなことが……?」

俺は顔を引きつらせながら四宮に問いかけた。四宮は左右で色が違う瞳で俺を見つめている。

「観察すれば大抵の事はわかる。私はあらゆる情報を見逃すことはない」
「か、観察……そんな俺のプライベートなことまでどうやって」
「もう少し明かしてやろうか?」
「……もう少しったって……もう明かせることなんか……」
「薄っすら残っている日焼けの痕は手首から先、首から上。強い日差しに当てられた事を示している。警察病院にいた間に中東で起きた大水害の災害派遣に行ったな。長い髪は切る暇がないのではなく、陰陽庁に所属する陰陽師という側面を持つゆえに伸ばさざるを得ないのだろう。そうか……お前は神巫だな? ん? ほう。拳銃を扱う心得があり加えて右手の親指付近にある黒子は先天的なものではなく、拳銃を扱ううちに火薬が入り込んでできたものか。実に興味深い経歴だ。どこで拳銃を? ああ言わなくていい。あの災害の後、医療団が二つに分けられて一部がシリアへ派遣されたことは知っている。……その桃色掛かった茶髪は市ノ瀬家の人間の特徴的なもので方言混じりである事から分家筋。おや、何故__という顔だな。
他にもわかるぞ。左脚を引きずる癖がある。これは一度腱を損傷したことが原因の癖だが、その癖のせいで靴底がすり減るのが早いため革靴は定期的にソールを交換している。腕時計は安物をずっと使っている。物持ちがいい反面物に対しても無頓着。外科以外のスキルはまあまあだったようだが、海外派遣で幾つも酷い症例を治療して、救急でもかなり重宝される外科医になった。しかし帰国後医療事故を起こしたことをきっかけに厚労省へ。事故と呼べる事故ではないが……兎も角、医療事故において訴訟が起きなかったのは公安局への隷属の対価、螺旋捜査官という職を押し付けるにあたり公安局が出張って行って示談にした」

四宮はそう言って煙草を唇へあてがい、空間へ紫煙をふうと吐き出した。俺は彼女の慧眼に驚きつつどうしても一つだけ納得できなかったことを口にする。

「一つ、間違いがある」
「聞こう」
「時計は死んだばあちゃんの形見だ。当時は相当高価なもんだった」
「失敬。ミスだ」

無表情のまま四宮はそう言った。明らかに形式上自分の推理の過ちを認めたという風ではあったが、この天才は存外人間の心の機微を理解しようと努めてはいるらしい。というか、まずなぜ彼女がここに? 四宮椿は『医学における万能の天才』なんて異名を与えられた、とんでもない才媛なのだろう。そうであるならばこんな地方で燻っておらずとも世界へ出ていけばいいのに__。

「気になるか?」
「まぁ、多少は」
「ふ。やはりお前は面白いな、市ノ瀬。私にこれだけプライベートを暴露されて怒らん者も珍しい」
「……怒っても仕方なかろうが。全部事実なんやけ」
「それを正しく認識できない者の方が圧倒的に多いという事だ。大抵私にあらゆる事を暴露された患者や医者はな……」
「『黙れ! その口を閉じろ!』って罵倒すんだろ」

そう言ったとき、俺はちょっと自分自身この目の前にいる女に腹が立っていることに気付いた。


「正解だ」

「じゃあ同じこと言ってやるよ。……人の知られたくない事をベラベラ喋りやがって。その口縫い付けてやろうかこのクソアマ」


四宮は俺の言葉に一瞬呆けた顔をして固まった。だが次の瞬間、「ああ。怒りの瞬発力がないんだな。理解したよ」とか言い出すので俺は完全に諦めた。
この女には凡人が何を言っても無駄だと、本能が告げていた。







そもそも何故俺がこんな歩く大厄災のお守りをやる羽目になったのか。それは約一週間前に遡る。

陰陽庁とかどう考えても平安時代の役場にあったであろう、そんなネーミングセンスの省庁が未だ現役なのは、秘するべき儀式や魔術の類いと、それを受ける神や妖の如き存在が実在するという所にある。
俺はそんな陰陽庁と螺旋捜査部という組織に二足の草鞋を履かされ、まるでレンタルビデオの如く貸し借りされる日々を送っていた。

俺が一人で立つ神楽殿の天井には、大蛇のような姿ではあるが美しい鱗と尾鰭、飾り鰭を水流に漂わせて泳ぐ海の龍の姿があった。俺は一度その天井の龍へ向かって銀色の三番叟鈴を持ち上げ__一度打ち鳴らす。
単純に舞えれば良いという儀式でも無いから俺が選ばれたのはよくわかっている。女装した神巫がいるのだ。
それにこの水天宮に祀られる存在と縁が深い血脈の人間である必要があり、そんな尊ぶべき血の持ち主で簡単にこの役を引き受けてくれそうな「使い勝手のいい奴」なんて、俺以外にいるはずもない。


涼やかな顔を浮かべて、脳内では上司の顔を殴り飛ばす妄想をしながら、一歩。つま先から素足を踏み出してふわりと床に足をつけて回転し、鈴の尾についた長い紺色と緋色の紐を尾鰭のように空中で舞わせる。

俺の足と雅楽の音色が重なり合い単が二重に重ねられて、御簾によって遮光された薄暗い神楽殿の中で俺は只々決められた通りの動きを繰り返す。幼い頃から厳しく叩き込まれ、神巫として事あるごとに呼びつけられて、決して望んでこんな役目を担うわけではないが、やらなきゃならねえのは事実だった。
長く引きずる袴の裾を踏まぬよう細心の注意を払ってもう一度、鈴を空へ、尾鰭を波へと揺蕩わせる。娑羅娑羅と音を立てる銀の鈴の音は波間の歌、俺は尾鰭を空いたままの片手でそっと持ち上げて神楽殿の中央で静止した。それとほぼ同時に雅楽の演奏が止まる。

数十分間に及んだ、一年のうち最大の苦行が終わった。漸くこれで解放される。普段の黒スーツの自分が心の中でサムズアップしているのがよくわかった。
眼前の御簾がそっと持ち上げられて、俺は摺り足でそちらへ向かう。引きずる単が全て御簾の向こうへ届いた時、さっと下ろされた。

「ご苦労様。無理言って悪かったね」

陰陽庁の上司がそう言って笑った。見かけは同世代だが、そもそも背も低いから幼く見られがちなこの上司__瀬川迅一。俺は彼が大層苦手だった。

「あんたが無茶苦茶を押し付けてくるのは今に始まった事じゃねえでしょ」
「? 俺はそんな、咲良に無理難題をふっかけたことはないはずだけど?」嘘だろこの男。本気で言っていやがる。俺はあからさまに「うげえ」という表情を作って上司を見返した。
「で、今度はなんすか。舞のクオリティにケチつけるならもう二度とやりませんからね。ただでさえ陰陽庁のお偉方が御簾の向こうにいてじっと見られて、たまったもんやねえ」

俺は肩をぐるぐると回しながら言う。上司は困った様に眦を下げていたが、決して困っているわけではないと言うことは手に取るようにわかった。

「着替えたら執務室に来てくれる? ちょっと重要な話があるんだ」

これだよ。最悪だ。俺は本気で苛立ちがピークに来ていた。
なんでも俺に押し付ければいいとでも思っているのだろうか? いや、この男の事だ__恐らく本気で何も考えていない。寧ろ善意で『頼み事』をしているまであるだろう。この瀬川迅一というクソ上司はそういう男なのだ。
自分ができることは他人にもできる。そう信じて疑わない。そんなんだから嫌われて友達失くすんだ。俺はそんな事を思う。決して言わないが。
とは言え、どれほど文句を連ねようと瀬川ができる陰陽師である事は間違いなく、彼の差配に逆らうともっととんでもない目に遭うのは経験上分かっていた。俺は必死に怒りを噛み殺して、「は」と「い」の平仮名二文字を絞り出した。



「これは俺が、というよりも、君の本来の居どころである螺旋捜査部の案件でね」

瀬川はそう切り出す。俺は既に着替えを済ませてスーツに戻り、いつも通り適当に長髪は後ろの下の方でくくっているだけになっていた。
目が若干ゴロゴロするのは多分、目元につけていた紅を落としきれていないか、適当な洗い方をしたせいで目の中に洗顔料が入ったかの二択だろう。

「わざわざ俺にですか。陰陽庁へ出向しろっつったのは向こうなのに、もう呼び戻すのかよ」
「まあまあそう言わずに。これは特A禁忌案件だよ」

俺はその言葉に一瞬息を忘れた。
特A禁忌案件。存在は知っていたが本当にそんなもんが俺の元に転がり込んでくるとは。体よく面倒事を押し付けられただけの様にも思える。だが多分わざわざ俺を、という事は。

「神秘案件ですか」
「そうだとも言えるし、違うとも言える。医学特区の詳細は流石にわかるよね」瀬川はデスクトップパソコンを操作して医学特区の概要を俺の方へ見せた。
「馬鹿にしてます? 自分の職場の概要が分からんはずがないでしょう」
「ごめんごめん。だよね。簡潔にいうとこれは、九州のいとしま医学先進特区で進行してる案件でね。ある人物の監視任務なんだ。すでに一人、五年前に着任した螺旋捜査官が、彼女の監視についているんだけど……」
「まさか消されたとか言いませんよね」俺は眉根を寄せて画面に表示された『いとしま医学先進特区』のホームページを睨みつけた。
「まさか! 消されてなんていない。これは人員の補填だ。これまでも彼女に対しては複数人で監視業務を行うことが上の会議で決まってる。でもその、何というか。五年前に着任した捜査官は兎も角、人員補填で入る捜査官たちがね、それはもうコテンパンにされて、心を折られて『もうあの人の元にはいたくありません』と泣きながら帰ってくる。とにかく舌が立つ御仁なんだ」
「はあ」

俺はいまいち飲み込めずアホみたいな返事しかできなかった。舌が立つ御仁。地元の大物政治家か何かなのか?

「彼女の名前は『四宮椿』」

瀬川は再びパソコンを操作してその人物の資料を提示した。燃える様な赤毛に、左右で色の異なる瞳。左目の下には泣き黒子がある。一般人に紛れても一瞬で見つけ出せるほど、かなり目立つ容姿だ。
俺は写真の女性に己の師を幻視した。とてもよく似ている。瀬川は再び口を開いた。

「彼女に関しては色々、俺レベルでも明かしてもらえていない事が多くある」
「瀬川さんにまで、ですか?」
「それに関してはまあ、今はいいんだ。とにかく、咲良にはこの四宮椿女史の監視任務に就いてもらう」
「その……四宮椿って、何者です?」俺は堪えきれずに問いかけた。
「いとしま医学先進特区内にある、東都医科大学附属病院に所属する総合診療医。そして大学内に自分の研究室を持っている研究医でもある。階級は準教授。彼女の研究はデジタルデバイスに人間の意識を抽出し、移植する『電脳化技術』。どうもこの研究が特A禁忌に指定されているらしい」
「電脳、って……攻殻機動隊じゃねえんだから……」俺は思わず敬語も忘れてぼやいた。
「世界を見渡せば『電脳化』というSFチックな技術は盛んに研究がなされている分野の一つだよ。まあ四宮女史のように、人間の意識を丸儘別の匣に移し替えてしまおう、みたいな事を考えている人は少数派のようだけど」
「そういえば脳にICチップを埋め込んでどうとかみたいな研究がありましたね」

俺はふと目にしたニュース記事の見出しを思い出した。電気自動車か何かを開発している会社が、そうしたインプラントの開発に乗り出す__そんな話だったはずだ。元医者の立場から言わせてもらえば、脳にそんなものを埋め込むなんて正気の沙汰とは思えない。どんな健康被害が引き起こされるか。挙げようと思えば幾らでも挙げられる。まあ企業人側からすれば重箱の隅を突かれるような気分になる話だろうが。

「彼女に打ちのめされて、泣きながら帰ってきた螺旋捜査官はこれで九人目。これは彼女からの最後通牒かもしれない」
「本当に……四宮椿って一体何なんですか? っていうか何でそんなめちゃくちゃな奴を収容せず、医学特区で野放しにしてんだ」

俺は腕を組んで息を吐きだす。瀬川は俺の質問に答えることは無く話を続けた。

「まず彼女は螺旋捜査官の監視を受け入れるにあたり、ある程度条件を提示してきたんだ」

瀬川は珍しく難しい顔をして、柔らかいフェイクレザーの執務椅子に背中を深々と預けた。

「……『一つ、医学知識があり、医療行為ができること。二つ、診療に口を出さない事。三つ、実際に臨床の経験があること』。この三つだ。だがそんな調子よく臨床経験がある螺旋捜査官なんて用意できるはずがない。知っての通り螺旋捜査官という職は、一般的な国家公務員とは異なり、医学・薬学・警察機関などの関係者や資格保有者から選出される。だから確かに、臨床現場に出たことがある医療従事者がいるのはその通りだ」
「つまり公安局は、その提示条件に合致しない人材を送っていたっつうことですね」
「そんな人材そうそういないしね。そこは四宮女史も納得しているようだ。が、先に螺旋捜査官の方が根を上げる。ついていけないらしい」
「ついていけないって、それどういうことですか」
「彼女は螺旋捜査官に高度な知識を求めている」

瀬川は静かに言った。

「四宮女史の能力についていけるだけの螺旋捜査官は……。でも君がいる。君は病院で脳外科医として働いて、実際に何人もの患者を救った実績がある。さらに言えば医学特区評議会の議長が君を指名した」

瀬川は冷ややかに告げた。俺は黙る。政府のお偉方が、四宮椿という特A禁忌案件をしっかり認識している。当然ではあるだろう。そもそも特A禁忌なんて滅多な指定ではない。
俺はだいぶ草臥れた自分の革靴を睨みつける。公務員の安月給じゃ東京で生活するにはカツカツだった。

「君がこの仕事を受けてくれたら、特別手当が出ることになっている」瀬川はそう言って机に置かれていた黒いファイルをペラペラと繰った。「まあ、大雑把にはボーナスが二倍だと思えばいいさ。当然だがまず家賃は全額補助。それから時間外労働時間は一分単位で給料が支給される。それと公用車の利用も可。医療行為を行った場合はそれに準じて加算だ。全額国から出る」
「な、んだ、と……」
「もう一つある。当然だが、年一回の水天神楽の奉納は続けてもらう。それに伴う飛行機代、ホテル代、拘束時間に応じ給料も発生する」

悪くない条件だろ? と瀬川は口角を釣り上げた。東京にこのまま留まれば、月十万円の家賃で生活はカツカツのまま。いとしま医学特区へ行けば天才のお守という最悪業務がオプションでついてくるが、生活にゆとりが出る。
どちらを取るかなんてもう迷う理由は何もなかった。

「行きます。帰ります。福岡」
「うん、いいお返事。伝えておくよ」

しかし俺はこの後、この選択を死ぬほど後悔することになる。
だがその事をこの時の俺は知らなかったのだ。おめでたい話である。







そんな経緯もあり、のこのこと古巣に戻ってきた訳だ。
医学特区内に用意された俺の新居には、既に荷物が運び込まれていた。あとは俺が荷ほどきをして家具を組み立て直すだけの状態になっている。しかし一向に封が開けられていないのは、面倒くさがってとりあえず引っ張り出したマットレスと枕__そして掛け布団がリビングの端に積み上げられていた。
東京であれば1LDKなら十二万で安い方だろうが、この新たなマンションの一室は俺が金を払う必要が無く、このストレスフルな仕事に多少の憐れみを見出した政府が負担してくれることになっている。

玄関を開けて右に一室があり、奥はリビングと少し広めのキッチン。狭い友人関係であり誰かを招くような事は一切ないが、以前住んでいたワンルームのキッチンでは狭すぎて満足な料理は何もできなかった。大概スーパーの安売りで購入した総菜とインスタントの味噌汁、クソ狭いキッチンに陣取っている炊飯窯で炊いたコシヒカリ。大抵この組み合わせである。
何もやる気が出ない日はカロリーメイトやカップ麺の類で済ませるなんて日常茶飯事、健康管理もへったくれもない終わった食生活のままだった。

先日初めて会った四宮椿という女は、やはり俺の想像を超える失礼千万な奴だった。
今日が土曜日でなく月曜日であったなら、俺の肉体にはストレスがかけられまくり、絶不調に絶不調を突き抜けて虫垂炎まっしぐらである。心の底から今日が土曜である事に感謝していた。

俺は適当に髪を縛って電気ケトルに水道水を流し入れ、スイッチを押す。朝飯に何をしようかなんて考えるのも久々だったが、その安寧をぶち壊す着信音が大音量で室内に鳴り響いた。


「はいもしもし」

死にそうな声で俺はスマホに向かって呟いた。すぐに電話に出る癖がついているのは当直業務の賜物である。

「私だ。四宮椿だ」
「は……? ちょ、ちょ、ちょッちょっと待てちゃ!! お前どうやって俺の番号を」
「お前たちには私のあらゆる情報が公開されている。身長・体重・血液型、DNAの塩基配列、学歴、生活リズム、心拍数、現在の位置情報にいたるまで。であれば、私にも知る権利を行使する機会はあって然るべきだ」
「答えになっとらんわボケが。俺はどうやって俺の私用の番号を知ったんかって聞いとるんちゃ」
「ふむ。気乗りしないが質問には答えよう」四宮は不機嫌全開の声音で続けた。「お前は東医の出身者だ。ならば東医のデータベースでお前の情報は見つけられる。予想通り第一著者の論文を見つけたよ。するとその論文を見ればお前の担当教授と指導医が誰なのか、そして専門分野が何なのかわかる。そこから東医の人事データベースへ飛んで出向履歴を探る。お前は当時の脳外科医長の推薦で東京の警視庁赤羽病院に出向し東医には戻っていない。つまりお前は出向後すぐに螺旋捜査官になった。まず螺旋捜査官になる以前の連絡先は今の番号とは絶対に違うと断言できる。長年使っている携帯番号のままであれば__」
「長えよ。簡潔に言えや」
「……。要するに、探知した」
「犯罪やねえかちゃ……」

俺はシンプルに四宮の行為に引いていた。この女が監視を受けている理由は一瞬で理解できた。『調査』という名目で、平気で法律の線引きをひょいと超えるのだ。この女は。信じ難い倫理観の無さに俺は絶句する。

「つうか何の用事だ? 今日は休みのはずやろうが」
「残念ながら休暇は中止だ。市ノ瀬、お前の力が必要だ」四宮は平坦な声音でそう告げた。休暇中止? 何の権限で? 俺は混乱する頭を振って「いや」という一言をふり絞る。
「いや、待て。何の権限でそんなこと……俺は厚労省の役人で……」
「確かにな。だがお前には私の監視をするという仕事がある。つまり私が何らかの行動を起こすとき、お前は同伴する義務があるという事だ」
「まさか下らん事で権限使おうっちゅう魂胆やなかろうな……」俺は嫌な予感に冷汗を流しながら電話越しの四宮に問いかける。
「お前が言う通り、『下らん事』であれば良かったのにな。残念ながら違う。殺しだ。死体が出た。検死に行くぞ」

殺し? 死体? 検死? 唐突過ぎる展開に頭が一切追いついていない。俺は電気ケトルが切れており、水蒸気がもくもくと注ぎ口から出ていることなどもうどうでもよかった。とにかく送られてきた位置情報が示す場所へ向かわなければならないということは分かる。俺は冷蔵庫に放り込んでいたゼリーを吸い込んで、慌ててその辺に引っかけていたスーツにファブリーズをして着替える。

示されている場所は医学特区の中でも治安が悪いことで有名な場所だった。港湾部である。下の駐車場に停めてある黒い公用車に乗り込んで俺はその紅い印へと車を走らせた。

「つうかその殺しって一体何なんだよ。大体何でそんな情報が」繋ぎっぱなしにしていたスマホは車に乗り込んだ時点でスピーカーに切り替えている。
「県警の刑事に知り合いがいる。難解な事件や不可解な事件が起きた時、私の頭脳を頼りに来るんだ」
「探偵みたいな事か」
「鋭いな。だが実際の立場としては法医学者に近い」四宮は静かに__だがどこか熱に浮かされたような口調で言った。「流石に私の元に持ち込まれるだけあって奇妙だぞ」
「奇妙?」俺は一度赤信号で車を停めて電話越しに話しかける。四宮は少しの沈黙の後に口を開いた。
「遺体の内臓が全て抜かれた状態で逆さに吊るされていたそうだ。遺体は男性のもので、警察の話によると死後三日は経過しているとの見立てだ。実際に見なければ何とも言えないところではあるが、今は使われていないコンテナ倉庫のクレーンに吊るされていたという状況を考えると状況そのものにも意味がある」

四宮はそう言って「実に興味深いな」とあからさまに楽しそうな口調でそう言った。
何で猟奇事件が起きて面白がってんだ。やっぱり倫理観をどこかに捨ててきたんかこいつ。そんなんだから螺旋捜査官に監視される羽目になるんやねえか。

「なあ。四宮……何で監視なんかされてんだ?」
「聞かされているはずだが。私がやっている研究に問題があるらしい。それは表向きの理由だがな」四宮は先程の楽しそうな声音とは打って変わり、冷たい声音で言った。「私は数十年前に死んでいたはずの命だ。そんな死に体を生かした神秘が私の身に宿っている」
「神秘、だぁ……?」俺はニュートラルに入っていたギアをファーストに入れて、クラッチとアクセルを踏んで発進する。「一体どんな神秘が宿ってるっつうんだよ」

俺は棘のある口調で四宮に問う。昨日は良く見なかったが__緋色の瞳は幻想の印。
幻想や神秘を扱う陰陽庁に一応籍を置き、水天神楽の奉納なんて神事をやらされているのに何故その可能性を検討しなかったのか。

単純に四宮椿という人間が幻想に寄っていると思いたくなかっただけだろう。
あんな全能的な推理と洞察力で俺の全てを暴き立てやがった奴に、神秘まで宿っていたらそんなもの役満どころか国士無双じゃねえか。俺はみじめな気持ちになりながら四宮の言葉を待った。

「ホルスの瞳というらしい」
「…………あ?」

俺は耳を疑った。ホルスの瞳? 確かツタンカーメンの黄金マスクが出てきたとき、同じ場所から出てきた遺物の一種だったか。詳細は明らかにされていなかったが、英国の神秘管理局という陰陽庁に似たような機関が収容していたはず。それが四宮の片目に?

「まあ眉唾だ。私も何が自分の身に宿っているかどうかは知らん。もう切るぞ。目の前だからな」

規制線の前に紅い人影があった。スマホを軽く耳から外した四宮椿が俺のことをじっと見ている。

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