Case:001 緋色の邂逅 -03

文字数 11,058文字

03



結局東医の四宮研究室に戻るころにはすっかり暗くなっていた。四宮は適当にカロリーメイトを齧ってからその煙草の吸い殻と灰を分析し始める。俺は給湯室に置かれた古い金属製のやかんで湯を沸かし、インスタントコーヒーを二人分淹れた。
四宮は吸い殻をしげしげと眺めたり、灰をもう一度炙ってみたりとよく分からない(多分何か、意味のある官能試験であるのだろうが)行動に時間を費やしていた。そして最終的に俺が持っていた煙草を一本奪いとり、匂いを嗅いだり吸ったりとどう考えても単純に煙草が吸いたかっただけなのでは、と思いたくなる行動へ至る。

「やはり同じだ。咲良、これをどこで買った?」
「地下鉄の北口にあるファミマ。医学特区駅の」俺は素直に答える。「この銘柄なら別のコンビニにもあるやろ。そんな珍しいもんでもない」
「いや。医学特区はその性質上流通させられる煙草と酒類に厳しい規制が掛かっている。玄関口である地下鉄とモノレールの駅にあるファミリーマートにだけ重めの煙草が売られているんだ。特区外から煙草や酒類の持ち込みが禁止されているのは知っているだろう?」
「ああ__そういえば空港の手荷物検査みたいなのあったな……」俺はつくば医学特区に初めて来た日のことを思い出す。羽田空港の保安検査場とそっくりな保安検査場が設置されており、そこで煙草を没収されたのだ。
「この煙草を規則的に買う人物を絞り込む。その作業と並行して中洲のぼったくりホストクラブに、被害者が出入りしていないかもな」

四宮はそう言って分析結果をその辺に置かれていた適当な裏紙に書き付けた。

「絞り込むったって……どうする気かちゃ」
「あまり褒められたやり方ではないが、正攻法では第二の殺人が防げないかもしれないな」四宮はそう言ってチラリとLAP-LASの方を見た。
「待て。今第二の殺人っつったか? 何で第二の殺人が起きると分かる」

俺は大型のPCモニターをLAP-LASに接続し始めた四宮の背中に問いかけた。確かに坂木柊作が殺害され、そこにタロットカードなんて意味深な物が落ちていたんだから『第二の犯行』が起きる可能性を検討するのは分からなくもないが、確信を持ってそんな事が言える理由がわからない。

「煙草だ」
「煙草……?」
「あの遺体の近くに煙草の灰が落ちていた。それと二種類の靴跡があった。片方は革靴、二十九センチのもの。もう片方はスニーカーで二十七センチから二十七・五センチだった」

モニターに[accept]の文字が浮かんでいる。待機モードになっているらしい。俺は椅子から立ち上がって四宮の方へ近づいた。

「革靴の跡が一箇所に、かつ明瞭に残っていた事を考えると、長時間そこに立っていたと考えるべきだ。それに煙草の灰が落ちていたからな。その灰が、さっきお前が車で吸っていた銘柄と同じ『Firenze』__少なくともあの場には被害者以外に二人の人間がいた。そして革靴の人間は煙草の火を踏んで消し、二人で立ち去った。だがあの二種類の靴跡も煙草の灰も新しかった。つまり警察よりも遺体を先に発見した可能性がある」

四宮が引っ張ってきたキーボードで何かコマンドを打ち込む。健気なLAP-LASは、四宮の指示に忠実に従って複数の画像を表示した。一見すると防犯カメラ画像のようである。もう分かった。こいつは医学特区内部の防犯カメラをハックして、このモニターに表示させているのだ。俺は四宮の行動に慣れ始めていた。

「地下鉄とモノレールの特区駅、革靴二十九センチ、喫煙者」

四宮はその条件を入力する。直後画面に表示されていた画像が消え、五日前の日付と共に男性の写真が大量に示された。四宮はさらに煙草の銘柄を追加する。該当したのは五件まで一気に絞り込まれた。

「先週の日曜日に特区駅のファミマで『Firenze』を購入した男がいる。あと昨日にも該当者……何だ、これは咲良か。LAP-LAS、螺旋捜査官の市ノ瀬咲良は全部除外だ」

その声で該当件数が二件になった。LAP-LASはその二人の全身図を表示した。

「片方は眼鏡をかけてる。結構レンズが分厚い。近眼か? スーツはそこまでの高級品じゃない。靴も合皮だ。指が長いな。ピアノをやっている可能性がある。こっちは随分羽振りが良さそうだぞ。牛皮の本革靴に時計はロレックス」
「見覚えがある気がする」

俺は大写しにされた、不機嫌そうな顔の男を眺めた。細身ではあるが、体には無駄のない筋肉がついているのが分かった。鋭い目つきである。

「何だと?」
「ここに着任する直前、霞ヶ関にある螺旋捜査部の本部に呼び出されてな。そん時に」
「お前の記憶が確かならばこの男は螺旋捜査部の上役という事になるな。だがコンビニの監視カメラに写っていたと言うことは、少なくとも五日前__被害者の死亡日時にはいとしまに滞在していたわけだ。LAP-LAS、この男を検索しろ。特区全域、中央管理区域のロビーもだ」

[loading]の文字が表示され、その文字の下にパーセンテージが徐々に数値を百へ近づけていく[all_cleared]の文字が点灯した後、最新の監視カメラ画像が表示された。

「六分前だ。リーガロイヤルならすぐそこだな。高級フレンチ……会食か? たった六分前ならまだいるはず」四宮の声の直後画面が切り替わる。
「は、お、おい! おい椿! これ__」LAP-LASが表示したのは画像ではなく映像だった。信じ難い光景がそこにあった。先程俺たちが調べようとしていた男が背中をナイフで深々と刺され倒れている。
「な……何が起きている! たった今の映像か!?」LAP-LASは短く[yes]と表示した。「まずい。位置からして肺動脈をやっている可能性が高い! 一刻を争う。咲良!」
「言われんでも分かっとる!」俺はドクターズキットを椿に投げ渡した。流石にそれは埃被ってなどいない。椿はそれを受け取って、俺たちはすぐ側にある職員用駐車場へ走った。





喧しい音を立てて車が止まり、俺と椿は転がるようにしてホテルへ走る。フロントは俺たちに様子に慌てふためき、「ご予約は……」と恐る恐る言った。向こうで椿はエレベーターの上三角ボタンを押してエレベーターを呼んでいた。しっかり高層階専用を選んでいるあたり準備がいい。
俺は事態は一刻を争うこと、螺旋捜査官である旨を明かして上のレストランで大惨事が起きている事を伝える。フロントのの女性は真っ青になって「すぐに救急車を」と言って番号をかけた。

「私は医者だ!」椿はそう叫んで漸く降りてきたエレベーターに乗り込んだ。「早く来い咲良!」

地上三十八階まで一気に昇れるはずの高速エレベーターが、異様に長く感じたのはこの時が初めてだった。どんどん上へ進む階層表示に焦れながら考える。
俺は椿の話から、現場にいた二人は坂木柊作を殺した犯人なのではないかと思っていた__だが実際は違うのかもしれない。今回刺された男は確かに椿が言った足跡や煙草の灰に合致する人物だろう。ではこの事件が椿の示した『第二の殺人』なのか? 俺は必死に考える。どうにも引っ掛かる。こんなにタイミングよく背中を刺された人間が現れて、しかも俺たちがそれを(非合法ではあるにせよ)目撃する。そんなミラクルが果たして運良く、そんな偶然に起きるだろうか。

この男はもしかして椿の裏を掻き、自ら刺されたのではないか。俺はそんな事を考える。
だがそうだとしたら何のために__違法な臓器密売組織とやらの事はいまいち不明瞭だし、そもそも秋津さんからの情報を待っている段階だ。
椿が遺体から導いた推理が全部間違っているとは思えない。俺がそう思いたいだけかもしれないが。

「菊武! しっかりしろ!」

人が殆どいないレストランに駆け込む。内部には必死で止血を試みる若い男がいた。俺はその止血しようとしている男の顔を見て思わず顔を歪める。
瀬川迅一。何でこんなところにおる。俺は思わず舌打ちした。

「う、ぐ……」瀬川に必死で止血されている男は痛みに苦しんでいるようで低く唸った。
「不幸中の幸いだな。すぐ手術すれば余裕で助かるぞ。入院は必要だがな」

菊武と呼ばれた男は震えながら頷いた。その場に救急隊が到着する。椿は的確に状況を伝えて引き継ぎを命じた。俺たちも共に救急車で東医へ戻る。瀬川に公用車のキーを渡して東医へ来るよう頼んだのでそのうち来るだろう。
うつ伏せでストレッチャーに寝られていた菊武は激しく喀血した。これほどの激しい喀血があるとなれば既に肺は血の海だ。余裕で助かるなんて適当な事抜かしやがって。無論患者のためを思った言葉なのはわかる。しかし刺さった肉用ナイフを見れば明らかに肺を傷つけ、複数の血管を損傷させている事は容易にわかる。
気絶している彼を手術準備を万全にした当直医らに引き継ぐ。今の俺ではこの男を助けてやれない。螺旋捜査官なんてままならない身の上では。

何のために俺は医師免許をとった?
少なくとも螺旋捜査官なんて職に就くためではない。俺は唇を噛みながら手術室へ運び込まれていった菊武を見送った。


「しかしあの現場は妙な点が多すぎたな。不審とすら言える。テーブルの数と放置されていた料理を見る限り、ほぼ満員の客がいたはずだ。凶器にカトラリーが使われた事を考えても、刺した人物は事前に瀬川と菊武の会合について知っていた事になる。陰陽庁の副長官と、螺旋捜査部の上級役員の会合だぞ。トップシークレットにすべきことが洩れて……」
「それは違います。四宮先生」

こちらへ歩み寄り、俺に鍵を手渡してくる小柄な人影があった。瀬川迅一である。柘榴色の瞳と深い紺色の髪。妙な圧がある男だった。

「あくまで私的な飲み会でした。特に政治的な意図はありません」
「どうだろうな。政治家というのは私的な会合で色々と権謀術数巡らす生き物なのだろう?」椿はあからさまに疑いを掛けて言った。
「そう言われて否定できないのが悲しい所ではあります。貴女がどうやってこの惨事を知ったのかは分かりませんが__兎も角、二人とも。菊武を助けてくれてありがとう」
「搬送までの処置をしたのは咲良だ。私は確かにれっきとした医者だが、医療行為の制限を受けている身。もしあの場で処置したのが私だったらお前たちは私を捕まえる羽目になる」運が良かったな、と椿は謎の返事をした。
「なんかちゃ。照れ隠しか?」
「そんなわけがあるか。患者からの謝辞など治っても無いのに受け取れるわけなかろう。実際、菊武幹春の容体は芳しくない。率直に言ってあと数分搬送が遅れていれば命が危うかった。如何にこの医学特区が卓越した医療の都市であるとはいえ、人の生死を左右する時間が短い事に代わりは無い」椿はそう言って険しい顔つきになった。「瀬川迅一といったな。菊武を刺した人物の顔を見たか?」
「実は、残念ながら見ていません」瀬川はそう言って悔しそうに顔を歪めた。「電話があって席を外しました。多分五、六分程度だったと思います。その後席に戻ると菊武が刺されていたんです」
「誰からの電話だ?」
「直属の部下です。ある事項についての調査を命じていました。それに関する報告を受けました」
「その『ある事項』とは?」椿は畳みかけるように質問した。だが瀬川は「国家機密です」と営業スマイルで制する。椿は分かりやすく不機嫌な顔になり、隠すこともなく舌打ちをかました。「まあいい。とにかく席を外して戻ってきたら菊武が刺されていたわけか」
「ただ……個人的に引っ掛かることが」
「何だ? 些細な事でも言え」
「菊武が刺されて倒れていたテーブルからは全ての料理が引き上げられていました」瀬川は思い出すように顎に手を当てて続けた。「俺が席を離れた時、まだテーブルにはケーキが乗った皿があったはずです。何の前触れもなく刺されたなら、そこに食器が全部残ったままになっているほうが自然だと思うのですが」
「瀬川さん……それは、つまり」俺は横から口を挟んだ。自分が一瞬でも考えた仮説が本当かもしれない。背中に冷たいナイフを当てられているような感覚があった。「菊武さんは何者かと共謀してこの殺傷事件をでっち上げたと? でも何のために」
「東医に入院するためだろう」

椿は冷ややかに呟いた。東医に入院するため? そのためにわざわざ刺されて死に目に遭うのか? 検査入院でもすればいい。高い人間ドックとかやりようは幾らでもあるだろうに。

「重要なのは単に入院するのでは駄目だという所にある。奴にはICUに入りたい理由があったんだ」
「ICU!? どうして」瀬川は驚きに満ちた顔で俺と椿を交互に見た。
「東医には第一から第十までの手術室があるが、一か所__第四手術室が今も使用禁止になっている。そこがとある未解決事件の現場だからだ」
「それと菊武さんが刺されたことにどう関係がある?」
「東医に犯人がいるから、その話をするんだよ」







俺は嫌な気配を感じ取る。最初に殺害された坂木柊作。そして刺された菊武幹春。立場も年齢も異なる二人だ。だが椿は既にこの二人の共通項を見出し、そして真実へ通じる扉に手を掛けている。俺は末恐ろしくなってコーヒーを一口飲む。
救急部から大学棟へ移動して、エレベーターで八階へ登る。四宮研究室には瀬川、俺、椿の三人が応接用のソファに座っている。低めのテーブルには誰が買ってきたのか、茶菓子の箱が置かれており食べてくださいと主張していた。瀬川はラングドシャを手に取り封を切って食べ始める。椿は難しい顔のまま俺が淹れたコーヒーを一口飲み、スマートフォンを睨みつけていた。秋津さんからの長文メールがそこにあるらしく、「野々花め……」と苦々しく呟いた。

「この件が螺旋捜査部に引き継がれたらしい。情報提供はできないと言ってきた。このまま引き下がれるか。意地でも真実に辿り着いてやる」
「そうは言ってもどうする気なんかちゃ。机上の空論じゃ上は動かん。螺旋捜査部は事件そのものを終わらせる事に特化した部署なのはお前も良く知っとるやろ」

俺は息を深く吐き出した。確かにこのまま有耶無耶になるのは癪に障るが、本来螺旋捜査部__ひいては螺旋捜査官、その職務は『事件の秘匿』という所にある。
上がどう決めるかは分からないが、上役が何者かに刺されたともなれば流石に重い腰を上げて犯人探しを始めるのかもしれない。だが椿の監視任務という訳の分からない仕事を与えられている俺には多分、いや絶対に、情報を渡して貰えるとは思えない。そもそも何か厄介な動きをされては困るから、この天才を監視するのだ。もう一人の監視要員は今東京に行っていて、ここにはいないようだが。

「仕方ない」

椿は院内用のスマホをポケットから取り出しどこかにかけ始めた。数秒のコール後、微かにだが向こう側で男性の声が聞こえてくる。

「嘴馬。暇か?」その言葉の後すぐにスピーカーホンに切り替えられる。
「暇なわけがあるか! お前な~~俺が常に時間のある悠々自適な老後を過ごしてるジジイだと勘違いしてるだろ! 俺はお前のパパと同い年なんだからな!」
「老け顔だからな。無精髭を剃り、保湿に気を遣えば多少は若く見えるはずだ」
「はいはい若作りアドバイスどうもありがとうね〜。で、どういう用事だ。椿お前、どうせまた妙な事件に首突っ込んでんだろ?」

嘴馬と呼ばれた男は呆れた様に言った。聞き流しそうになったが嘴馬ってまさかあの嘴馬か? 東医において最も腕が立ち、幾人もの患者を救ってきた天才外科医__。
嘴馬遼士郎。現状の東医における最上の名医たる心臓外科医の名だ。俺は内心冷や汗をかいていた。たとえ師匠が嘴馬先生でも四宮椿が手術まで上手いとは限らない。鷹の弟子が雀という可能性もある。頼むから椿には外科医としての才覚がありませんように、と祈りながら俺は二人のやりとりに耳を傾けた。

「調べたい事がある。外科全ての手術履歴にアクセスする許可をくれ」
「まあいいけど……手術履歴なら俺が調べたほうが早いだろ」
「駄目だ。履歴が残ってしまう」椿は何かに警戒するように顔を険しくした。「私なら履歴を残さず調べられる」
「履歴が残ると困る事でもあんのか? どういう内容の手術記録を調べるんだよ」嘴馬先生は少し声を潜めて椿に問う。
「臓器移植の記録だ。心臓移植、生体肝移植から角膜に至るまで、全て」
「心臓は二ヶ月前に一件ある。俺が執刀したからよく覚えてるよ」
「二ヶ月前……」俺は一瞬その数字に聞き覚えがあった気がして反芻する。椿は俺の様子を見て頷いた。
「他には? 記録には手をつけるな。記憶している範囲でいい」
「ん〜……移植とは違うが、印象だけで言えば五年前のバチスタはすげえ鮮明に、良く覚えてるけどなあ。ほら、因幡大学との合同医療チームで、小児患者のバチスタ手術。俺は第一助手だった」
「嘴馬。そのオペ、確か執刀医は__」
「菊武幹春先生。今はもう医者辞めちまって厚労省に入ってるけどな……ってちょっと待て! 菊武先生、うちに入院してるじゃねえか!」電話越しに嘴馬先生は何かをガタガタ言わせていた。「椿、一体何が起きてる? お前色々知ってんだろ? 俺から一方的に情報を引っこ抜いてくんじゃなくて多少は教えろよ」

今からそっちに行くから大人しくしてろ、と言い残し、嘴馬先生は一方的に電話を切った。椿は不服そうにしていたが珍しく「仕方ない」と何故か折れた。師匠には案外頭が上がらないのか? 瀬川は俺たちのやり取りを眺めていたが、スマートウォッチの通知音に表情を曇らせた。

「すみませんが、俺はこれ以上四宮先生のお力にはなれないかもしれません」
「どういう意味だ?」

椿は嫌な予感を感じ取ったのか、鋭い声で瀬川に尋ねた。

「この案件に関しては陰陽庁を関わらせるなと、どうも公安局の局長級が圧をかけているようです」瀬川は声のトーンを落としていった。「菊武が刺された事も一員であるとは思いますが、何か__もっと大きな力が働いているように思います。単なる殺傷事件ではないでしょう。四宮先生が追っている猟奇殺人もまた、これに関係があるかもしれない」
「別に構わない。最初から陰陽庁には期待していなかった」椿は身も蓋もないことを言ってのけた。「そもそも宮内庁のきょうだいのような場所が、犯罪捜査に首を突っ込んでくるのが間違いなのだ。大人しく星でも読んでいろ。瞬きの間に私が解決してやる」
「あはは……ご忠告痛み入ります。とはいえ、そこの市ノ瀬咲良もまた陰陽庁に所属する陰陽師という__ミステリアスな側面を持つことをお忘れなきよう」
「さっさと帰れ。推理の邪魔だ」

椿は瀬川を適当に追い払った。何かをじっと考え込むように両手の指を突き合わせ、椿は一人掛けソファに深く腰かけなおす。足を組み替えて集中するように瞼を閉じて黙ってしまった。
俺は何となく居心地が悪くその場を離れる。窓を隠すように嵌め込まれたコルクボードがある。そこに貼られた事件の手掛かりは、器用に紅い毛糸のような紐で互いに結びつけられていた。坂木柊作、菊武幹春。二人を繋いだのは__まさか、東医……この東都医科大学附属病院なのか?

二か月前、坂木柊作は一度実家へ戻ったという。そして父親に対し『自身の過去を清算し心を入れ替える』という旨の発言をした。嘴馬先生の記憶が確かならば、二か月前に東医で心臓移植の手術が行われている。
坂木柊作はドナーと何か関係があったのではないか? もしそうだとしたら、執刀医だった嘴馬遼士郎は知らずの内に事件に関係している事になる。そしてその手術の詳細を菊武幹春が知った。つまり菊武は嘴馬先生の口から真実を聞くため、わざわざ刺されて東医へ搬送されてきた……。
俺は思わず椿の方を振り返る。椿は相変わらず瞼を閉じて思考の海に漂っているらしい。だが勢いよく開け放たれた扉の開閉音で、椿は現実へ帰還した。


「ったく、気軽に俺を呼びつけやがってこの弟子は」

嘴馬遼士郎はそう言って、先ほどまで瀬川迅一が座っていた一人掛けのソファに腰を下ろした。僅かに香る煙草の匂い。先ほどまで自分の居室で嗜んでいたらしい。
どこか草臥れた風貌に、少し伸びた襟足は適当に輪ゴムで括っている。黒縁メガネに無精髭。俺は時折見かけていたその男の印象を改めた。眼鏡の奥で光る鶯色には輝ける叡智が__いや、それ以上の神秘が宿っているのがわかる。只者ではない。

「お前が勝手に来ると言ったんだろう。こっちから出向いてやろうと思っていたのに」
「ほ〜う。本当かぁ? 毎度毎度呼びつけられりゃあ、嫌でも出向いてやる癖がついちまう。甘やかし過ぎか?」
「看護師でもないのに私をオペ看として駆り出していた奴が何か言っているな」
「その話は止めろ! 謝ったろう。というか楽しくお喋りするために来たんじゃない。菊武先生の事だ……一体何が起こってる?」
「私の質問に答えてくれるならば教えよう」椿は肘掛けに腕をやり、頬杖をついてそんなことを言った。「二ヶ月前に心臓移植をやったと言っていたな。その移植された人物とドナーの個人情報が知りたい」
「移植されたのは女性だ。長岡真波、二十一歳。福岡市内からこっちに転院する形で入院。悪性心臓腫瘍で心臓移植以外に根治の手立てが無かった」嘴馬先生は澱みなく答えた。「肝心のドナーが全然見つからなかったんだが……」
「だが、何ですか?」俺は思わず問いかける。
「ん〜……どう言えばいいもんか。妹がいてな、長岡真波には。その子と血液型、白血球の型が合致した。だからもしも妹に何かあって、助かる見込みがないような状況になった場合は真波に臓器を提供すると、妹本人が言った。名前は長岡真凜。当時は十九歳だった」
「そして実際、真凜の心臓は真波に移植されたわけか」
「絶対に何か裏がある」嘴馬先生はそう言って深くため息をついた。「考えてもみろよ。そんな話をして一ヶ月も経たねえうちに真凜が瀕死の状態で搬送されてきて、しかも助からない可能性の方がめちゃくちゃ高い。今なら真波の手術ができる。そんな状況が生まれるか? 結局オペはしたけどさあ……」
「長岡真波は今どうしている?」

椿はそう言ってメモパッドを持ってきてローテーブルに置いた。そこに凄い速度で長岡真波・真凜姉妹の情報が書き留められていく。

「当然まだ入院中だよ。ついこの間一般病棟の個室に移ったけどな」
「では私が『診察』という名目で訪問しても問題ないわけだ」椿はそう言って口角を上げた。
「っていうかお前、市ノ瀬咲良だろ。蒼司の弟子の。東医に戻ってきてたのかよ」嘴馬先生は急に俺の方へ話しかけた。「ちゃんと師匠に挨拶行ったか?」
「……いえ、こいつのお守りで忙しくて行けてません。もう一人の螺旋捜査官が戻ってきたら行きます」俺は横で飴を舐め始めた椿を指差して言う。
「何だと? お守り? 随分な言い草だな、咲良。お前たちが勝手に私に馬銜を噛ませ、手綱をつけようとしているからじゃないか。何も私は好きでお前らの監視を受けているわけではない」
「俺だって好きでお前の監視任務なんかしとらんわ」
「減らず口め。まあいい。長岡真凜の搬送状況は?」椿は嘴馬先生に向き直って問いかけた。「できるだけ詳しく教えろ」
「頭を数回、バールかトンカチか何かでぶん殴られたのか__脳挫傷と、頚椎骨折。他の外傷は見当たらなかった。どう考えても刑事事件だよなあ」
「通報は? ……いや、しているわけがないか。していれば長岡真波が生きているはずはない」
「まあ、現場判断ってやつだな……」

嘴馬先生は白衣のポケットからタバコを取り出して吸い始めた。銘柄は椿が指摘していた『Firenze』ではなく、どこのコンビニにも置かれているニコチンの軽いものだった。

「搬送された時点で死に体だったとしても、救う義務が俺にはあった。だが俺は長岡真凜を見殺しに、長岡真波を救う事を選んだ」
「嘴馬先生、それは」

俺はかける言葉を見つけられなかった。違うと言えないのは何故か。自分でもわかっている。医者である以上、往々にしてそういう事がある。全員は救えない。だが全員を救う努力はすべきなのだ。

「蒼司はいい弟子を持ったな。残念ながら螺旋捜査部に横取りされちまったようだが」
「好きで螺旋捜査官なんかやってませんよ。今すぐにでもバックれてやりたいんです、こっちは」
「だろうな〜。わかる」唇に煙草を当てがい、吐き出す。その動作にはどこか慣れと諦めが混じっているような気がした。「椿のお守りをするやつはみんな胃痛まっしぐらだ」
「誰が胃潰瘍患者製造マシーンだ」
「そこまでは言ってねえよ」
「……長岡真凜の持ち物や衣服に奇妙な点はあったか?」椿は気を取り直して質問に戻った。
「ああ、そういえば__」嘴馬先生は逡巡する。「なんか、カード? 貴重品類を親族に引き渡すために預かったんだが、その時になんていうんだ、ほら。占いに使うような縦長のカードあるだろ」
「タロットカードですか?」俺は焦って問いかける。
「そうそれ! 星だったかな……なんか星みたいな絵が書いてあって、マッキーペンで『reverse』って書いてあったんだよな。それ以外は特に何もねえかなあ。保険証、免許証、学生証なんかもそのまんまだったし」
「星……『reverse』、即ち逆位置か」

椿は前屈みになって指を突き合わせ集中するモードに入った。長岡真凜には『星』の逆位置が、坂木柊作には『吊るされた男』の逆位置が傍にあった。
タロットカードは一体何の意味があるんだ? 俺は無い頭を振り絞って必死に考える。第一、そんなものを置くのは犯人にとって大いにリスクのある行動だ。俺が犯人ならそんなことは絶対にしない。

「坂木柊作という男が殺害されてな。特区港湾部の、今は使われていない倉庫に__逆さ吊りにされ内臓を抜かれた状態で発見された。そこに長岡真凛と同じように逆位置のタロットカードが置かれていた。カードは吊るされた男」

椿は一度言葉を切り、タブレット端末の電源を入れて死体検案書を表示させた。

「死因は同様に脳挫傷及び頚椎骨折。坂木柊作は長岡真凛とは違い、殺害される前に何らかの目的で暴行されていた可能性が高い。体に複数の打撲痕や火傷痕があった」
「お前はこの殺人と、二か月前の心臓移植__ひいては長岡真凜の死に関係があると思ってるわけか……」

嘴馬先生は死体検案書を読みながら呟いた。そこには明確な後悔が滲んでいる。自分が犯罪に加担した可能性を考えているのは容易に分かった。

「明日、長岡真波に会いたいのだが。許可してくれるな」椿はそう呟く。
「それは無論構わねえけど……お前のワトソンは嫌そうだぜ」
「ワトソンじゃない。ただの政府の犬だ。嘴馬、お前が一緒に来ればいい。どうせ明日もいるんだろ?」誰が政府の犬だ、と思ったが、確かに国家公務員にされているので間違いではない。俺は椿を睨みつけた。
「いねえよ。俺は明日普通に休みです~~。勝手にいることにすんな」
「そうか。良かったな咲良。明日も元気に仕事だぞ」

予想はしていたが、俺の平穏な土日は消え去った。もう抵抗するのも面倒くさくて白旗を上げ続ける。
正直なところ、この事件の幕引きを見届けるまで引けない、という気持ちはかなりあった。
どうせここまで来たのなら、最後まで付き合ってやろう。そう思い俺は研究室を後にした。未だ明かりがついたままの四宮研究室だけが、星のように瞬いている。
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