第5話

文字数 1,177文字

 翌朝、いつもより早く目が覚めた。いつの間に寝たのか、よく覚えていないけれど、きちんとベッドにいた。
 目覚ましが鳴る前に起きたのは、ずいぶん久しぶりだった。
 昨日寝たのは普段より遅かったはずなのに、重たい瞼とは裏腹になんとなくすっきりした気分だった。普段よりゆっくりと準備をしてもまだ時間は余っていて、いっそのこともう家を出よう、と思った。
 いつもより30分早いだけで街は透明な空気をしていて、そこに時折混ざる、卵が焼ける匂いや味噌汁の匂いが、カラフルだった。私も、あの匂いの中で育ったのだ、と心があたたかくなった。
 足は自然に、最寄り駅の本屋が入っているビルに向かった。
 ビルの入り口にはひもが張られており、10:00~、と書かれた看板が立っていた。看板んお奥に見えるビル内は静かに暗くて、マネキンだけがこちらを見ていた。
 手頃な洋服を見るのにも利用しているから、朝10時から開くことは知っていたはずだった。
 それでも私は今日、目が覚めてしまったから、ここにいる。
 フロアが違うから見えもしない本屋の、一番目立つところに置いてあるであろうあの本が、私を引き寄せた。

 終業後、私はまた、ビルに向かった。
 仕事終わりの人々と、学校帰りの生徒と、さすがに駅付近には沢山いる、夜になるにつれて元気になっていく類の人々がごった返す中、この十年まともに足を踏み入れたことのない『本屋』の前まで行った。
 久しぶりに感じる本屋独特の静けさと紙の匂いは、よく来たな、と私を冷たく迎えた。私の背後では聞こえる賑やかな人の往来と、私の正面にある誰もが静かに、ゆっくりと歩く空間が、地続きであることが不思議だった。
 私は1番目立つところに置いてある彼の本の前に立った。でも、もし目立たないところに置いてあったとしても直ぐに見つけられたと思う。
 それは、装丁の具合がとても好みで、高校生の私が、間違いなく手にとっただろうものだった。私が、惹かれて、そうなりたいと願ったすべての物が集約されたのがその一冊だった。
 シンプルな白い表紙につけられた派手な帯、そこに書かれた私が敬愛してやまない作家達からの惜しみない賛辞を読んだ。読み切ることは出来なかった。名立たる作家の名前が、一言が、重く私にのしかかった。
 手に取るなんてとんでも無く、買うなんてもっての外だった。
 逃げるように帰った翌日も、その翌日も、私はその本屋に行った。毎日毎日、その本を眺めて、逃げ帰った。
 いつまで経っても中身は読めなかったし、買う事だって、もちろんできそうになかった。
 それでも私は毎日通った。
 いつしかテーブル一面平積みになっていた彼の本が、半分になり、一列になり、一段になり、やがて他の数多の作品と同じように棚に一冊だけになっても、私は通った。
 いつになったらその一冊を読めるのかは、分からなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み