第1話

文字数 4,838文字

昨日から、どのニュース番組をみても、『史上最年少』の文字が躍っている。
 すごい、素晴らしい、かっこいい、天才。
 あまりにも分かりやすい誉め言葉の羅列は、どうにもわざとらしくて、それを信じ切っている世間をひっくり返したくなる。
 何でも早いことが正義って訳じゃあないだろう。
 確かにファストフードにはお世話になっているし、鈍行よりも特急に乗りたいし、近道を通りたくなるのだけれど。それでも金で買えるのは未来の時間だけで、過ぎてしまった時間を取り戻すのはどんな大金を積んでも今のところは叶わない。
 最短距離だけを突き進む生き方なんてつまらないと、誰か嘲笑ってくれないか。寄り道することで得られるものの方がよっぽど大事で素敵だ、と称えて欲しい。
 コンビニで昨日の夜買ってきた値引きシールの付いたおにぎりと、せめてもの野菜ジュースを小さな折り畳み式テーブルに並べて、軽く手を合わせる。
私はおにぎりのフィルムをはがす前に、テレビのチャンネルを回した。何回か変えていくと、ちょうど天気予報が始まる番組があった。
「それでは、今日の天気です。今日は、広い範囲で晴れ間が見られるでしょう。日差しも強くなることが予想されるため、日傘を忘れないようにしてください。次に、各地の天気を見ていきましょう。」
 朝の情報番組特有の、新人女性アナウンサーだかキャスターだか、とにかく若くて可愛らしい女の子が行う天気予報のコーナーは、いつ聞いても小学生がやる学芸会の発表のように思えた。にじみ出る一生懸命さと初々しさが彼女たちの一番の強みであり、それを客観的に理解しているはずの私は、どうしても胸やけがする。
 ひょっとしたら自分より15は年下かもしれない彼女たちの、清潔感と純粋さ、育ちの良さを感じさせる話し方とか立ち居振る舞いとか、私には無かったものだ、と体の奥の奥がざわざわする。
 それを求められる、とまでは言わないけれど、確実に、そうできたら生きるのが楽になることって、この世界に無限にある。有形無形の無限のマナーの中から、わざとらしくない程度の振る舞いを選びだすことができる人を、世渡り上手だというのだろう。
 ただでさえ憂鬱な週の真ん中、水曜日。
 これ以上出勤前に心をざわつかせたくなくて、チャンネルを変えるボタンを肘で押した。おにぎりをこぼさないように両手で持っていたし、食べ終わるまで見続けるのは嫌だった。でも、チャンネルを変えたところで扱っているのはどの局も『史上最年少』のニュースで、仕方なく私は指を使ってテレビの電源を切った。
 最新の注意の上に成り立っていた米と具の絶妙なバランスが無理やりに片手を自由にしたことであっけなく崩壊し、明太子がテーブルの上に落ちた。
 せっかく好きなものはできるだけ後に残しておこうと頑張っていたのに。実家にいたころなら、だらしない、とか行儀悪い、とか言われて出来なかった変な食べ方だって、今は誰に遠慮することなくできる。他人の目がないと、人はきっとどこまでだって堕落していく。
 手を伸ばせばすぐ届く位置にあるティッシュを取って、明太子を綺麗に拭う。こぼしてしまった跡なんて判らないように、丁寧に丁寧に。
 楽しみにしていたおにぎりの具が満足に味わえなかった程度のことで苛立っていても、どうしようもない。淡々と、処理していけばよい。苛立ちはそれを受け止めてくれる誰かがいなければ、外に出しても虚しいだけだから。
 イライラしないためには、期待をしないことだ、と何かの本に書いてあった。確か会社においてあるアンガーマネジメントの本だったような気がする。期待をしなければ、裏切られることもない、他人を変えられるとは思わず、まず自分が変わりなさい、だっただろうか。
 丁寧にテーブルの掃除をしていたら、もう家を出なくてはいけない時間だった。
 就活生と見間違われなければ良いと選んだ紺色のパンツスーツに、無頓着な印象を与えない程度に適当に束ねた髪の毛、毎日同じ三センチの黒いパンプスを合わせて私は玄関のドアを開けた。
 鍵を閉めたか、ガスの元栓を締めたか、小さいころ母がよく何度も家に戻っていたのを覚えている。今の私は、自炊は一週間に一回するかしないかだからガスの元栓は心配ないし、鍵を閉め忘れていたとしても家には盗まれて惜しいようなものはたった一つだって無い。
 母が私を生んだのが34歳。
 当時にしては遅めの結婚に加えて、なかなか子宝に恵まれず、高齢出産ぎりぎりの年齢で私を産んだ。
 私は今日、34歳になる。
 大学を卒業してから軽く10年は過ぎ、高校球児はおろか、あらゆるアスリートが、ほとんど年下になった。ついこの間生まれたような子たちが、立派に活躍しているのを見ると私が生きてきた時間の意味の無さが浮き彫りになって嫌になる。
 最近意識的に遠ざけていたテレビを、今日は付けてしまったからか、いつもと違うネガティブな思考に飲み込まれそうだ。
 心を空っぽにするために、聴きもしないのに耳に突っ込んでいたイヤホンを外した。普段は周囲の音を遮断するように耳栓代わりとして使用しているイヤホンだが、今日は自分の世界にこもっていてはいけない日のようだからかえって不要なものだった。
 久しぶりに見上げた空は綺麗に晴れていて、真夏程には主張してこないが、日差しは確実にギラつきを増している。風は心地よいが、一度信号待ちで止まると湿気を含んだ空気が体にまとわりつく。
 そうだ、今日の帰りにはケーキを買おう。
 誕生日位、贅沢してもいいだろう。
 いつも通り満員の電車に、機械のように歩みを進める。
 ごとんごとんと揺れる車内で、踏ん張り続けるのは田舎者のやることだ、と教えてくれたあの人は今、何をしているのだろうか。
 東京に出てきたばかりの私に、『田舎者』について偉そうに語った、私より一年早く上京しただけの、私の地元よりもよっぽど『田舎』が地元だと言うあの人。宣言通りに大学の卒業後は地元に帰ったあの人は、きっと今は偉そうに地元で、『東京』について後輩相手に語っている。
 私は、もう、この十余年で流れに身を任せることを覚えた。複雑な地下鉄の乗り換えも間違えなくなったし、発車ベルが鳴ってから隙間を見つけて車両に乗り込むことだってできる。
 あの先輩が今の私を見たら、きっと『都会にかぶれた女』って言うんだろう。
 今日の隣のサラリーマンは、少しタバコのにおいがきつい。
 反対側のマダムは香水を付け過ぎだ。
 ああ、なんだか気持ち悪い。
 空気の抜けたような音を出しながら、車両は駅に止まった。
 ドアが開いて、人の塊が大きな何か意思を持ったもののように黒くうねって、吐き出されていく。構内は日の光の当たらない地下だから、すっきり気分が晴れる訳ではないけれど、車内よりは幾分かましだった。
 駅構内でも、人は大きな流れとなって蠢いていて、いったん間違えたらどんどん戻れなくなる程に皆規則的で効率的な動きをしているのだけれど、私だって立派にその構成要素になっているのだった。人がこんなにも沢山いるのに、発車ベルとかアナウンスとかは聞こえるのに、全く話し声が聞こえない不気味な空間。革靴とヒールの響く足音と、安っぽい衣服が擦れる音、キャリーケースを転がす音。全部が混ざり合って、人工的なさざめきになっている、コンクリートジャングルと揶揄される大都市。
 この一部になっていることに、誇りが持てれば、もう少しだけ日々が楽に過ごせるかもしれないのに。
 「おはよう、佐々木さん。」
 会社近くまで来て、上司に声をかけられた。
 「あ、係長、おはようございます。」
 今まで通勤中に声なんてかけられたことないのに、と一瞬不思議に思ったが、今日はイヤホンを付けていないからだろう、と納得した。
 ひょっとしたら今までも声をかけられていたのかもしれないが、全部無視していたのにも関わらず今日も挨拶をしてくれるこの人は、きっとすごくいい人だ。部下のイヤホンまで気遣って挨拶をしていたとしても、人がいいことには変わりない。
 課長は見るからに人のよさそうな風貌で、いわゆる世間を具現化したようだといつも思っていた。世間一般という物体があるとしたら、それを小さく小さく固めて丸めて人型にして、微妙に足を短く、腹をたるませ、頭髪を間引きしたら、きっとこの人が出来上がる。
 「佐々木さん、昨日のニュース見た?史上最年少で○○賞受賞の快挙!ってやつ。」
 課長はそのまま、話を始めた。もう会社は目の前だったし、どうせフロアもエリアも同じだから、変に気を使って時間をずらさなくて良いのは良かったが、ピンポイントでそのニュースの話題が出たことに動揺して、喉の奥が閉まるのが分かった。
 「ああ、見ました。確か受賞した子、15歳でしたっけ。」
 「そうそう。中学生の男の子だろ?すごいよな。俺は何やってたっけな、その頃。なんも考えて無かった気がするけどなあ。」
 「すごいですよね。みんなそんなものですよ、中3なんて。」
 彼を凄いと言わせたい世間は、こんなにも身近に迫っていたのだ、と背中が粟立った。今までのニュースとは違って、テレビを付けない、とかネットニュースを見ない、とか書店に行かない、とかの細やかな抵抗では防ぎきれない程に強力で有無を言わさない濁流に、今まさに飲み込まれてしまったのだ、と思った。
 もちろん私は大人だから、笑顔を絶やさず会話を当たり障りなく続けることなんて朝飯前なのだけれど、どうも息が上手く吸えなくて苦しかった。完璧なはずの作り笑顔がぼろぼろにはがれて、早くなった動悸がばれているような気がして、早く一人になりたい、と強く思った。
 タイムカードを押した後、私は逃げるようにトイレに向かった。清掃の済んだ朝一番のトイレは、暗さにのみ目を瞑れば社内唯一の隠れ家だった。もっとも、今まで使ったことも使いたいと思ったことも無かったのだけれど。
 個室に入って数回深呼吸をすれば、人前に出られそうな程度には嫌な汗も引いて、動悸も収まった。仕上げに学生時代から愛用している制汗剤を使う。
 蓋を置こうとペーパーホルダーを見たら、明らかに高さが足りず、芯だけのままセットされていることが分かる。若い頃は、こういうのを見つけては一人怒って、補充して使っていたのが懐かしい。
 三角に折っていけとまでは言わないが、せめてロールを入れ替える位はやっていけ、と憤慨していた頃は、まだこの世の全てに噛み付きたい年頃だったのだ、ともはや懐かしく思える。自分で補充すれば大して不自由でもないし、怒るのにもエネルギーがいる、と感じてしまう今の私では、義憤に浸ることは無い。
 今にして思えば、傲慢で独りよがりなその感情の傾きは、若さを盾にした世界へのちっぽけな脅迫状だった。それはあまりにも矮小で、脆くて、時間による風化には耐えきれなくて、現在、ほんの少しの凶暴さを残して、私のめったに表に出ない部分で眠っている。
 「おはようございます。ありがとうございます。お願いします。」
 個室を出てすぐの鏡に向かって、私の最終動作確認をする。
 鏡の中には、いつもと同じ作り笑顔が、何のほころびもなくあった。さっきまでの違和感はもうどこにもなくて、『事務の佐々木さん』になれる私が完成していた。
 ただのおめでたいニュース一つにここまで動揺しているなんて恰好悪いこと、外に出すわけにはいかない。大切に抱え続けたプライドがそうさせているのは明らかだったが、動揺の理由を問われてもうまく説明が出来ないからだ、という理由も確かにあった。
 どんなニュースがあろうが私の仕事内容は変わらず、いつもと同じように時間は過ぎていく。昇進や昇給も大して期待できない代わりに、月末や年末の限られた期間以外は忙しさとは無縁の、平和な部署だった。残業はほぼ無いに等しく、もちろん昼休み返上なんてのも一年に数える程だ。
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