第3話

文字数 5,851文字

 「お先に失礼します。」
 私はカバンをつかんでフロアを後にした。
定時が待ち遠しく思ったのは久しぶりだった。大して忙しい部署でもないため、ほぼ毎日定時上がりだが、その後の予定の有無で気分は全く異なる。大抵彩音とご飯に行く時は土日のことが多いから、平日にわくわくした気持ちで仕事を終えるのはなかなか無い。
 心の浮つきが外に出ていたのか、帰り際、エレベーターに乗り合わせた同期に声をかけられた。
 「佐々木お疲れ。なんかいいことあった?」
 コーヒーカップ片手に話しかけてきた田辺は同期の中ではよく話す方で、社内で会うことは少ないけれどあったら必ずこうして声をかけてくれる。そういう人懐っこいところが、さすが営業職、といつも思う。
 良いことなんてそんな簡単にあってたまるか、と普段なら適当に返事するが、今日は実際に良いことがこの後に待っているものだから、正直に答えた。
 「田辺もお疲れ様。今日誕生日なの。それでご飯行く約束があって。」
 「あら、そうなの。おめでとう。楽しんでね。」
 さらりと言って、彼女はエレベーターを降りて行った。未だ人が沢山働いている激務のフロアへヒールを履きこなして向かう彼女の後姿は、誰がどう見たっていい女だ。
 再び下降を始めた箱の中は彼女の残り香がふわりと漂って、私までいい女になった気分だった。
 一階で開いたドアから、私はかっこよくもなんともない姿で歩き出した。彼女の香りから一転、日没間際の外気は湿気を多く含み、もったりとして私にまつわりついた。
 地下鉄を待つ間、さっきの会話を反芻する。
 田辺には、少し変な言い方をしてしまった。
 あの答え方では、私が今日食事に行く相手は恋人だと田辺は思っただろう。実際は大学時代からの気心知れた女友達だが。
 友達と食事に行く、と言えばいいのにそう言わなかったのは、恋人の存在を匂わせたい私がどこかにいたのだと思う。34歳になる女の小さな見栄が言葉尻ににじみ出てしまって、それを表情も変えずに受け答えた彼女の格好良さが対照的に私には眩しくて、どうしようもなく恥ずかしくなってきた。
 電車がホームに入ってきて、前髪が風でぶわりと浮く。
 降りる人は少ないが、乗り込む人は多い。あっという間に満員電車となった。
 今日は途中で降りるから、少しだけ神経を尖らせて、私はまた音楽の流れていないイヤホンを耳に突っ込んだ。タイヤが擦れるごうごうという音とか、意外と響く発車ベルとか社内アナウンスとかが、水中で聴くときのように鮮明さが薄れて刺激が少なくなって、一日働いた体にやさしくなる。水泳の授業の後、眠気に襲われている時のような、心地よさだった。
 乗った駅とは反対に、下車するたくさんの人の波にのって、私もホームに降り立った。普段と違う動線は何回も来たことがあるとはいえ、なんとなくそわそわする。彩音に会えるわくわくと忍び寄る夏の気配と相まって、なんだか走り出したくなった。学生時代に戻ったみたいだ。
 地上に出るとすでにそこは暗くなっていて、ひんやりとした空気が肌を撫でる。朝と帰りは肌寒いが、日中は空調のお世話になる位気温が上がる。毎年この時期は服装に困るのだ。一枚羽織るものを持っていた時に限って猛暑となったり、反対に忘れた時ほどそこまで気温が上がらなかったりする。どこまで行っても人間は自然に翻弄されるということなのかもしれない。
 ざっくり半年ぶりの道を、大して高くないヒールで歩く。見慣れた道だが、さすが平日、スーツを着た人が多い。この辺りは住宅街だから、皆、急いで自分の家庭に帰るのだろうな、と妙な目線で左手の薬指が光る革靴の男性を見送った。
 見た感じだと同年代の彼は、私が中途半端に生きてきた時間のどこかで、結婚という重大な契約を結んで、それを今まで守り続けているのに違いない。今時離婚も再婚も珍しくないとはいえ、一応は一生ものの契約を交わす重さは、私には想像もできない。
 見慣れた看板が今日も明るく路地を照らしている。ひと昔前のスナックのような立て看板は、私たちの行きつけの居酒屋『すみれ』のものだった。
 「こんにちはー。」
 見た目に反して立て付けの良い引き戸を開け、暖簾をくぐる。
 「何名様?」
 「一人後から来るので、二人でお願いしまーす。」
 彩音からは六時には少し遅れてしまいそうだ、と連絡が入っていたから、二人席を確保して落ち着いたところで返事をする。
 『りょーかい』
 『座敷いけたからのんびり待ってるわ』
 『焦んなくていいから』
 立て続けに三通送って、彼女とのトーク画面を閉じる。忙しくしているのだろうし、返事は直ぐには来ないだろう。
 先に頼んだビールが到着するのと同時に、彩音がバタバタと顔を出した。急いで来たのだろう、顔はほんのり上気して、額に前髪が張り付いていた。
 「あらあら先に頼んじゃって。あ、すいませーん、私も同じビールでお願いします。」
 忙しなく上着を脱ぎながら、彩音は私のビールを運んできてくれたおばちゃんにビールを頼んだ。
 「あっついね、今日も。ああ、全然、お先に頂いちゃってください。冷たいうちに呑まないとビールに失礼だから。」
 それでも彩音のが来るまで待っているか、と思っていたが、そこまで言ってくれるのなら飲まない手は無い。今更気を遣い合う間柄でもないが、気を遣わせないような言い回しを自然にできる彼女にはいつも感心させられる。
 「じゃあ、お言葉に甘えて。」
 ジョッキを掲げ、おどけて返してそのまま口に運ぶ。
 独特の苦みが喉を落ちていき、くうう、と思わず声が漏れる。
 初めて飲んだ時には想像以上の苦みに顔をしかめたものだが、今はそれを待ちわびている自分がいる。苦みを楽しめるお年頃になっていることを噛み締めているうちに彩音のジョッキも運ばれてきた。
 「じゃあ、乾杯。お誕生日おめでとう。」
 「ありがとう。乾杯。」
 再びジョッキを持ち上げ、カチンと合わせた。
 彩音はそのまま半分ほどまで一気に飲み、大きく息をついた。
 「はあー。美味いね。」
 「ねー。」
 細かい言葉なんて必要ない会話が非常に心地よい。
 「お姉さん、何頼みますか?」
 「それは今日の主役様が決めて下さいよ。私が決めてどうすんのよ。」
 至極当然のことのように笑って言ってくれるものだから、嬉しくなって何十回と見たメニューをうきうきと開く。大抵いつもと同じメニューに落ち着くのだが。
 適当に二、三品注文し、それを待つ間に、これまたいつもと同じように彼女のマシンガントークが始まった。
 「久しぶりに今日は早く帰れそうだったから、由衣を誘ったのにさ。もう帰るって時に声かけてきて、これ総務に持ってくよう言われたのね。私も持っていきたい書類あったし、ちょうどいいやって思って気軽にいいですよーなんて答えちゃったのよ。そしたらさあ、何か全然エレベーター来なくて、でも三階上だから階段で行けなくもないって思って上り始めたらもうそれがきつくてきつくて。帰りは絶対エレベーター使ってやると思ったらまた全然来ないからもう時間食っちゃったよねーほんと。」
 決して誰も悪く言わない彼女の話し方は聞いていて心地よい。帰り際にお使いを頼まれるなんて私ならかなりムカッとしてしまうのに、それは別に良い、と社外の気の知れた仲の私にすら言うのだから、相当に器の広さを感じる。
 「由衣は最近どうよ。」
 喋り疲れたのか、私に雑に話を振ってくる。が、大して面白い話も持っていないから、さっき既婚者のサラリーマンを見たことなんかを口から出るままに話し出す。
 「さっき駅からここ来るまでの間にさ、サラリーマンとか沢山いたんだけど、その中で一人の人の結婚指輪が目に入ったのよ。その人には申し訳ないけど、別に普通のどこにでもいそうな男性で、多分同年代だろうな、って感じね。それ見た時、私なにしてんだろ、って思った。ちっちゃい頃想像してた34歳とは程遠いな、て。」
 思いつくままに話していたらなんだかしんみりした話になってしまった。どうしようこの空気、と思った時に、頼んだ料理をおばちゃんが持ってきてくれて、助かった、と思った。
 「はいお待ち!から揚げと、塩ゆで枝豆と、アボカドサラダねー。」
 「ありがとうございまーす。」
 大学時代から変わらない定番メニュー達がテーブルに並んで、食欲をそそる匂いが漂う。
 備え付けのお箸を彩音に渡して、二人で手を合わせる。
 「から揚げうっま。」
 「やっぱりこれでしょこれ。」
 最初は二人ともから揚げに箸が伸びる。今日だけはベジファーストなんて忘れてしまおう。今日だけは、が積み重なることで未来の私が出来上がることなんてよく理解しているのだが。未来のことはその時に考えればいい、という若い思考回路を、私は未だに手放せない。手放す必要も感じていない。
 次にアボカドに手を伸ばす。
 ここのアボカドサラダは、輪切りにしたアボカドに海苔とゴマ油を使ったドレッシングがかかったもので、私の好物だった。彩音はあまり好みではないようで、頼んでもあまり箸を付けない。反対に枝豆は彼女の好物だから、バランスはとれているだろう、と考えての注文だった。思考回路が似ているのか、彼女が頼むときもこの二品は定番となっていた。
 彩音は早々に箸を置いて、枝豆に取り掛かっていた。
 私は食べるまでのワンクッションが面倒で枝豆はあまり好んで食べようとは思わない。
 しばらくの食事の沈黙の後、彩音がジョッキをことりと置いて呟いた。
 「なんか分かるかもしれない、それ。」
 咄嗟には会話の繋がりが分からず、困惑する。
 「結婚って、重いよね。」
 ああ、それか。わざわざ話題を戻してくれたのだ。
 流れが理解できても気の利いた返しは思いつかないから、どうしよう、と彩音の顔をちらりと見る。何か正解を示してくれていないか、と淡い期待を込めたが彼女の視線は枝豆に固定されていて、なにも読み取れない。
 返事の代わりにジョッキを傾け、大きく息を吐く。
 彼女は明確な返事をしない私には構わず、一滴ずつ落とすように言葉を続ける。
 「いつまで経っても、小さい時のまま、いつかしたいもの、ってだけなんだよね。自分がいざその立場になる想像って全くできないというか。」
 彼女はビールを飲み干し、おばちゃんに私の分と一緒におかわりを頼んだ。
 「ま、結局無いものねだりというか、羨ましいだけなんだけどね。」
 いつになくしみじみとした話をしていたことに気恥ずかしくなったのか、おどけた口調で彼女は締めくくった。おかげで二人の間の空気は普段通りの軽いものに戻ったから、助かった、と思った。
 あの話を続けていたら、なぜだか泣きそうだった。
 楽しいはずの二人だけの誕生日会が、気を遣わせるような内容で終わるのは楽しみにしていた私にも、もちろん彼女にも申し訳ない。今日は朝から知らない感情の揺らぎ方をしていて、自分でも驚いて戸惑うけれど、今この瞬間は彩音との時間を楽しもう、と思った。
 「ごちそうさまでした。ありがとうね。今度彩音の誕生日は私がおごりますのでお楽しみに。」
 かたくなに私に財布を出させまいとする彩音に根負けし、私は財布をカバンにしまいながらお礼をいった。破天荒なのに律儀な彼女は、一緒にいる時間が長くなる程に魅力が増していく。
 一生一緒にいたい、と彩音に対しては思えた。ずっと、このまま年をとっておばあちゃんになっても、定期的に会っては他愛もない話をして過ごしたい。それが出来たら、他に何もいらないとまで思えるけれど、お互いに優先順位が更新される瞬間がいつ来るかは分からないから言わない。生きていると信じられないくらい簡単に、自分の行動を決める優先順位はひっくり返る。
 おばちゃんの元気な、ありがとう、また来てね、を背に、戸を開けた。
 冷房の効いた店内とそれほど温度差を感じる訳ではなく、お酒で火照った体に心地よい風が吹いた。それぞれの家から漂う夕飯の匂いが混ざって、夜の匂い、になっている。
 私たちは歩幅を合わせて、駅への道を歩き出した。
 たまに自転車が通る位、人通りも車通りもほぼ無い道の真ん中をふらふら歩くのはひどく気持ちいい。まるで何にでもなれそうな、何でもできそうな。
 「このまま、どこか行っちゃいたいね。」
 隣で彩音も似たようなことを言う。
 「ほんと、海でも行きたいよね。」
 私も何も考えず、口から出るままに答える。
 「前もこんな会話したよね。」
 「そうかもしれない。あれって、四年生の時だっけ?」
 「わかんないけど、そのくらいだと思う。」
 彩音が唐突にそんなことを言うから、私もだんだん思い出してきた。
 なんの飲み会かも覚えていないし、当時住んでいたアパートの方向も反対だった私たちが、どうして二人だけで歩いていたのかも分からないけれど、確かにこんな季節だった。
 湿り気は帯びているけれどひんやりとした空気に包まれて、同じように人影の見えない道の真ん中をのんびり歩いた。どこか遠くに行ってしまいたい、なんて所持金100円と230円とで言い合って、これじゃあどこにも行けないと二人で顔を見合わせて笑った。それじゃあ、一駅だって電車に乗れないのは分かっていて、それでもどこかに行きたかった。
 街灯はぽつりぽつりとしか無い上に暗くて、正直表情なんて分からなかったけれど、お互いに楽しいと思っていることだけはよく分かった。
 私たちの所持金は当時の軽く十倍以上にはなっているのに、やっぱり私たちはどこにも行けないままだ。あの時なら、金さえあれば本当にどこかに行ってしまっただろうに、今は明日の仕事とか体力とか、後のことが私たちにブレーキをかける。
 ほら、今日だって適当にどこかに行ってしまおうと返事をしている割に、二人の足取りは着実に一歩ずつ駅に向かっていく。お互いに本気にしないことが分かっているから言える夢物語は、無責任であればあるほどに楽しかった。大人になった私たちが、もしかしたら唯一、無責任であることを楽しめる場だった。
 改札を通り、軽く片手をあげて逆のホームへ降りていく。
 ホームに降り立ち、正面を向くと、彩音はこちらを見ていた。目が合った、と思ったその時に電車がやってきて、口パクで伝えようとした『じゃあね』は宙ぶらりんになったまま、轟音に乗って持ち去られた。
 電車が走り去った後には、当たり前だけど彩音は居なかった。
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