第25話 鼻血ブーとパパ活とパワハラと
文字数 3,491文字
十二月二十四日 午前十時二分
私は今、自分が所属している署に向かっている。
今日は休みだ。なのになぜ署に向かっているのかと言えば、須藤さんから出頭命令が出たからだ。
須藤さんからは、『まともな格好をして来い』と言われている。休みだからジャージで出頭するとでも思われているのか。心外だ。
事の発端は十九日の岡島の電話だった。
あの日の電話の要点は二点あり、葉梨が山野にフォーリンラブと、野川がパパ活していてパパは須藤さんという話だった。
ポンコツ野川と須藤さんの件は複数人から聞いている。それぞれ噂話の出処が違うが、野川がデパートで服と靴を買っている隣に須藤さんがいたのは事実だと岡島は言った。だが、続けた話はどうにも理不尽な話だった。
須藤さんが野川のパパだと本人の耳に入る前に、先に署の上にその噂話が届いてしまい、呼び出された須藤さんは絞られた。そして須藤さんはパパ活疑惑を持たれた原因の私にキレているという。
先月、私は野川から相談を受けた。ハイヒールを履いて速く走るにはどうすれば良いですか、と。
そんなものは練習あるのみだ。だから私はそう言って、野川は暇を見つけては官舎の外廊下でハイヒールを履いて練習していたという。野川は頑張り屋さんだ。
だが野川はポンコツだ。
すっ転んでよろけた野川めがけて須藤さんの部屋の玄関ドアが勢いよく開き、野川は跳ね飛ばされた。
ドアに顔面をぶつけた野川は鼻血ブーで着ていた服を汚し、ヒールがポッキリ折れたと。だから野川のハイヒールと服を須藤さんは補償したという。それを誰かが見ていて、パパ活していると噂になった。
――それは私のせいなのだろうか。
◇
署の隣にあるコンビニの前を通りかかると、後輩の本城昇太が買い物をして出て来たところだった。サンドウイッチだろう。
本城は私に気づいて走り寄った。
「おはようございます。出頭命令ですか? 例の」
本城の言う『例の』とは、もちろんパパ活チンパンジーの事だ。本城が知り得た話を聞くと、同じ署内でも交友関係の違いから微妙に異なる話が伝播していて面白いなと思った。
――私がチンパンジーをグーパンして鼻血ブー、か。
一昨日の夜に葉梨と電話したのだが、葉梨も噂話を聞いているものの自分の知り得た話と岡島の話が違う為、私に聞いてきた。葉梨はこう言っていた。
『パパ活している野川を叱責した加藤さんが野川からグーパンされて鼻血が噴き出したと聞きましたが本当ですか』
私が鼻血ブーなのかと思ったが、パパ活と鼻血ブーは正しく伝わっているのだなと関心した。
◇
本城と署の裏口から入ると、喫煙所を隔てる倉庫の奥に隠れるように須藤さんがいた。出頭場所は五階の刑事課だが、ここで話を終わらせても良いかと思い本城を先に行かせた。
須藤さんに近づくと、須藤さんは電話をしていた。それに気づいた時、私は須藤さんに近づき過ぎていた。相手の声が漏れ聞こえた。
――女だ。須藤さんは照れている。
須藤さんはむーちゃんと同期で今年三十九歳だ。管理職で離婚歴がある。長く独身で恋人はいないようだが、おそらく電話の相手は恋人だろう。付き合い始めて間もないのだろうか。
電話を終えた須藤さんは倉庫の奥から出て来たが、私がいる事に動揺した。
――これはチャンスだな。
「おはようございます」
「……おはよう」
岡島も本城も、須藤さんはそこそこのキレっぷりだから覚悟するようにと言っていたが、須藤さんのこの動揺を上手く使えば私は優位に立てるかも知れない。
須藤さんは私の目を探るが、諦めたようだ。
「電話、聞こえてた?」
「お電話をされていたんですか?」
「……外、行こうか」
パパ活の話ならば刑事課の課員の前で話せば良い。
私が原因だとして謝罪すれば、そのパフォーマンスを以てパパ活疑惑が晴れる。その為に私はわざわざ休みなのに来たのだ。だが須藤さんは署から出て裏手にある公園で話そうと言う。
――女の存在を隠したいのか。
言われなくても私は秘密を漏らさないが、信用されていないのかも知れない。
◇
私は須藤さんの後について行った。
公園は遊具が少なく、誰もいない。
須藤さんはベンチに腰掛け、私にも座るよう促した。私は須藤さんと向き合うように、少し離れて座った。
須藤さんの表情からは怒りは読み取れない。ただ少し疲れているように見えた。須藤さんは少し息を吐いてから口を開いた。
「パパ活ってさ、五十代のオッサンがやるもんだと思ってたんだけど、三十九歳の俺も若い女と歩いてるとパパに見えるの?」
――想定外の方向から飛んで来たな。
「それは野川と恋人同士に見られなかった事を痛たたたたっ!! やめっ! 痛っ!」
私の耳朶に爪を立てて引っ張る須藤さんは、思いっきり眉間にシワを寄せてマジギレ寸前だった。
須藤さんは二十三歳の野川など子供にしか思えないから恋愛感情を抱く事は無いが、だからといってパパは無いだろう、と言う。
野川と恋人同士に見えなかった事がショックだったわけではないのか。
「それはご自身がまだ若いと思って痛った!! やめっ……須藤さっ! 痛たたたっ!」
須藤さんはむーちゃんと同じでセクハラをしないジェントルポリスメンだが、パワハラはする。最悪だ。
私は松永さんのセクハラにはパワハラで返すが、須藤さんのパワハラには何も出来ない。
上司だから出来ないのではない。須藤さんからはパワハラで返して良いと許可は出ているし、むしろ返せと言われている。だが管理職になった今でも中山陸さん並に鍛えている須藤さんにパワハラを返すのは至難の技だった。だから私はまだ一度も須藤さんにパワハラを返せた事が無い。
裏拳や手の甲でフルスイングは躱されるか手のひらで受けるし、松永さんに教わった肘鉄は肩関節を外されそうになった。もうこの際だからグーパンしようかと思った時は肘に手刀されて返り討ちに遭った。セルフグーパン――。
中山さんと同じような背格好で体脂肪率十パーセント台の須藤さんに敵うわけがないのだ。だから私は、いつか膝カックンしようと心に決めている。
「刑事課の課員の前で謝罪はします?」
「うん。あとさ……」
須藤さんも今日は休みだから、刑事課で謝罪パフォーマンスをした後は一緒に出掛けて欲しいと言う。
「どこにですか?」
「デパート」
「私もパパ活してると思われるから嫌です」
「お前だと同伴出勤じゃないの?」
「同伴出勤」
言われてみれば確かにそうだ。パパ活女子は若い女の子――。
須藤さんは食事を奢ってくれると言う。
仕方ない。面倒だがデパートについて行く事にしよう。
◇
午後一時二十分
「タクシーじゃないんだからさ」
私は今、須藤さんとデパートに行く為に須藤さんの私有車に乗っている。ただ、助手席は嫌で助手席の後ろの席に座ったのだが、須藤さんはお怒りのご様子だ。
「助手席は別の方の専用席かと思いまして」
「…………」
ルームミラー越しの鋭い視線を受けながら窓の外の街並みを眺めていると、私はある事に気づいた。今日はクリスマス・イブ――。
何が楽しくてクリスマス・イブに上司のチンパンジーとデパートに行かなくてはならないのかと思ったが、食事を奢ってくれるとなれば行かなくてはならない。燃費の悪い私は食費がかかるのだ。
「加藤さ、電話の声、聞こえてたんでしょ?」
「お電話をされていたんですか?」
「……まあいいや。俺さ、女にプレゼント渡したいんだよ。お前に選んで欲しい」
須藤さんは恋人に何をプレゼントすれば良いのか本気で分からないのだろう。だが恋人にしてみれば、別の女が選んだプレゼントなどムカつくだけだと思い至らないのか。
「ご自身で選ばれた方が良いですよ。もしくは一緒に行くか」
「会う時間はデパートは閉まってる」
恋人に欲しい物を事前に聞いておけば良かったじゃないかと思うが、相手の女性は遠慮したという。
恋人ではないのか、そう尋ねると妙な間があって、「違う」と言った。
「もしかしてキャバクラのお姉ちゃんですか?」
「お前さ、引っ叩くよ?」
キャバクラのお姉ちゃんではないのか。
お姉ちゃんでもなく、クリスマスプレゼントを遠慮する女性となると、これしかないだろう。
「須藤さん、不倫はダメですよ」
「独身だよ! 馬鹿!」
その相手の女性の事を話してくれない限りはプレゼントを選べないのだが、須藤さんは話してくれない。
須藤さんとは四年前から特別任務の時に一緒に仕事しているが、直属の部下となって一年が経つ。
だが、まだ私は信用されていないようで少しだけ悲しくなった。
私は今、自分が所属している署に向かっている。
今日は休みだ。なのになぜ署に向かっているのかと言えば、須藤さんから出頭命令が出たからだ。
須藤さんからは、『まともな格好をして来い』と言われている。休みだからジャージで出頭するとでも思われているのか。心外だ。
事の発端は十九日の岡島の電話だった。
あの日の電話の要点は二点あり、葉梨が山野にフォーリンラブと、野川がパパ活していてパパは須藤さんという話だった。
ポンコツ野川と須藤さんの件は複数人から聞いている。それぞれ噂話の出処が違うが、野川がデパートで服と靴を買っている隣に須藤さんがいたのは事実だと岡島は言った。だが、続けた話はどうにも理不尽な話だった。
須藤さんが野川のパパだと本人の耳に入る前に、先に署の上にその噂話が届いてしまい、呼び出された須藤さんは絞られた。そして須藤さんはパパ活疑惑を持たれた原因の私にキレているという。
先月、私は野川から相談を受けた。ハイヒールを履いて速く走るにはどうすれば良いですか、と。
そんなものは練習あるのみだ。だから私はそう言って、野川は暇を見つけては官舎の外廊下でハイヒールを履いて練習していたという。野川は頑張り屋さんだ。
だが野川はポンコツだ。
すっ転んでよろけた野川めがけて須藤さんの部屋の玄関ドアが勢いよく開き、野川は跳ね飛ばされた。
ドアに顔面をぶつけた野川は鼻血ブーで着ていた服を汚し、ヒールがポッキリ折れたと。だから野川のハイヒールと服を須藤さんは補償したという。それを誰かが見ていて、パパ活していると噂になった。
――それは私のせいなのだろうか。
◇
署の隣にあるコンビニの前を通りかかると、後輩の本城昇太が買い物をして出て来たところだった。サンドウイッチだろう。
本城は私に気づいて走り寄った。
「おはようございます。出頭命令ですか? 例の」
本城の言う『例の』とは、もちろんパパ活チンパンジーの事だ。本城が知り得た話を聞くと、同じ署内でも交友関係の違いから微妙に異なる話が伝播していて面白いなと思った。
――私がチンパンジーをグーパンして鼻血ブー、か。
一昨日の夜に葉梨と電話したのだが、葉梨も噂話を聞いているものの自分の知り得た話と岡島の話が違う為、私に聞いてきた。葉梨はこう言っていた。
『パパ活している野川を叱責した加藤さんが野川からグーパンされて鼻血が噴き出したと聞きましたが本当ですか』
私が鼻血ブーなのかと思ったが、パパ活と鼻血ブーは正しく伝わっているのだなと関心した。
◇
本城と署の裏口から入ると、喫煙所を隔てる倉庫の奥に隠れるように須藤さんがいた。出頭場所は五階の刑事課だが、ここで話を終わらせても良いかと思い本城を先に行かせた。
須藤さんに近づくと、須藤さんは電話をしていた。それに気づいた時、私は須藤さんに近づき過ぎていた。相手の声が漏れ聞こえた。
――女だ。須藤さんは照れている。
須藤さんはむーちゃんと同期で今年三十九歳だ。管理職で離婚歴がある。長く独身で恋人はいないようだが、おそらく電話の相手は恋人だろう。付き合い始めて間もないのだろうか。
電話を終えた須藤さんは倉庫の奥から出て来たが、私がいる事に動揺した。
――これはチャンスだな。
「おはようございます」
「……おはよう」
岡島も本城も、須藤さんはそこそこのキレっぷりだから覚悟するようにと言っていたが、須藤さんのこの動揺を上手く使えば私は優位に立てるかも知れない。
須藤さんは私の目を探るが、諦めたようだ。
「電話、聞こえてた?」
「お電話をされていたんですか?」
「……外、行こうか」
パパ活の話ならば刑事課の課員の前で話せば良い。
私が原因だとして謝罪すれば、そのパフォーマンスを以てパパ活疑惑が晴れる。その為に私はわざわざ休みなのに来たのだ。だが須藤さんは署から出て裏手にある公園で話そうと言う。
――女の存在を隠したいのか。
言われなくても私は秘密を漏らさないが、信用されていないのかも知れない。
◇
私は須藤さんの後について行った。
公園は遊具が少なく、誰もいない。
須藤さんはベンチに腰掛け、私にも座るよう促した。私は須藤さんと向き合うように、少し離れて座った。
須藤さんの表情からは怒りは読み取れない。ただ少し疲れているように見えた。須藤さんは少し息を吐いてから口を開いた。
「パパ活ってさ、五十代のオッサンがやるもんだと思ってたんだけど、三十九歳の俺も若い女と歩いてるとパパに見えるの?」
――想定外の方向から飛んで来たな。
「それは野川と恋人同士に見られなかった事を痛たたたたっ!! やめっ! 痛っ!」
私の耳朶に爪を立てて引っ張る須藤さんは、思いっきり眉間にシワを寄せてマジギレ寸前だった。
須藤さんは二十三歳の野川など子供にしか思えないから恋愛感情を抱く事は無いが、だからといってパパは無いだろう、と言う。
野川と恋人同士に見えなかった事がショックだったわけではないのか。
「それはご自身がまだ若いと思って痛った!! やめっ……須藤さっ! 痛たたたっ!」
須藤さんはむーちゃんと同じでセクハラをしないジェントルポリスメンだが、パワハラはする。最悪だ。
私は松永さんのセクハラにはパワハラで返すが、須藤さんのパワハラには何も出来ない。
上司だから出来ないのではない。須藤さんからはパワハラで返して良いと許可は出ているし、むしろ返せと言われている。だが管理職になった今でも中山陸さん並に鍛えている須藤さんにパワハラを返すのは至難の技だった。だから私はまだ一度も須藤さんにパワハラを返せた事が無い。
裏拳や手の甲でフルスイングは躱されるか手のひらで受けるし、松永さんに教わった肘鉄は肩関節を外されそうになった。もうこの際だからグーパンしようかと思った時は肘に手刀されて返り討ちに遭った。セルフグーパン――。
中山さんと同じような背格好で体脂肪率十パーセント台の須藤さんに敵うわけがないのだ。だから私は、いつか膝カックンしようと心に決めている。
「刑事課の課員の前で謝罪はします?」
「うん。あとさ……」
須藤さんも今日は休みだから、刑事課で謝罪パフォーマンスをした後は一緒に出掛けて欲しいと言う。
「どこにですか?」
「デパート」
「私もパパ活してると思われるから嫌です」
「お前だと同伴出勤じゃないの?」
「同伴出勤」
言われてみれば確かにそうだ。パパ活女子は若い女の子――。
須藤さんは食事を奢ってくれると言う。
仕方ない。面倒だがデパートについて行く事にしよう。
◇
午後一時二十分
「タクシーじゃないんだからさ」
私は今、須藤さんとデパートに行く為に須藤さんの私有車に乗っている。ただ、助手席は嫌で助手席の後ろの席に座ったのだが、須藤さんはお怒りのご様子だ。
「助手席は別の方の専用席かと思いまして」
「…………」
ルームミラー越しの鋭い視線を受けながら窓の外の街並みを眺めていると、私はある事に気づいた。今日はクリスマス・イブ――。
何が楽しくてクリスマス・イブに上司のチンパンジーとデパートに行かなくてはならないのかと思ったが、食事を奢ってくれるとなれば行かなくてはならない。燃費の悪い私は食費がかかるのだ。
「加藤さ、電話の声、聞こえてたんでしょ?」
「お電話をされていたんですか?」
「……まあいいや。俺さ、女にプレゼント渡したいんだよ。お前に選んで欲しい」
須藤さんは恋人に何をプレゼントすれば良いのか本気で分からないのだろう。だが恋人にしてみれば、別の女が選んだプレゼントなどムカつくだけだと思い至らないのか。
「ご自身で選ばれた方が良いですよ。もしくは一緒に行くか」
「会う時間はデパートは閉まってる」
恋人に欲しい物を事前に聞いておけば良かったじゃないかと思うが、相手の女性は遠慮したという。
恋人ではないのか、そう尋ねると妙な間があって、「違う」と言った。
「もしかしてキャバクラのお姉ちゃんですか?」
「お前さ、引っ叩くよ?」
キャバクラのお姉ちゃんではないのか。
お姉ちゃんでもなく、クリスマスプレゼントを遠慮する女性となると、これしかないだろう。
「須藤さん、不倫はダメですよ」
「独身だよ! 馬鹿!」
その相手の女性の事を話してくれない限りはプレゼントを選べないのだが、須藤さんは話してくれない。
須藤さんとは四年前から特別任務の時に一緒に仕事しているが、直属の部下となって一年が経つ。
だが、まだ私は信用されていないようで少しだけ悲しくなった。