第1話 膝カックンと電話とグーパンと

文字数 2,382文字

 一月十六日 午前八時二十八分

 キッチンとダイニングスペースを隔てるカウンターに置いたスマートフォンが鳴っている。
 緊急の連絡だろうか。私は今、ケトルベルを振り回している。

 ケトルベルを床に置いてカウンターに行き画面に表示されている文字を見たが、私はその文字通りにスマートフォンをカウンターに置いた。

『出なくていい』

 ――岡島(おかじま)直矢(なおや)だ。

 同期の岡島は頻繁に連絡を寄越すが、私は絶対に出ない。ここ数日で七回目だが、私は絶対に出ない。
 理由は警察学校時代、岡島は私に膝カックンをしたからだ。私はその日の事を一生忘れないと心に決めた。そして私はこの十四年間ずっと思い続けている。物理的に抹殺してやる、と。

 私は警察官だから罪に問われるのはよろしくない。だから合法な抹殺方法を探しているのだが、ネット検索で見つからないまま十四年の時が流れた。図書館で調べた方が良いのだろうか。

 三年前だったか、岡島の件を松永さんに話したら「バカなの?」と呆れられた。だが松永さんは聞き捨てならない言葉を言った。「いくらなら出せる?」と。
 松永さんの人脈を考えれば岡島の抹殺など簡単であろう。だが松永さんも警察官だ。私は「バカなんですか?」と返しておいた。私は合法な抹殺方法を知りたいのだ。

 岡島は私が電話に出ないと分かっているのに電話をしてくる。留守電は聞かずに消してるし、ショートメールも無視している。もちろんメッセージアプリのアカウントも教えていない。岡島に教えたらスタンプを連投してくるだろうから私は絶対に教えない。何度でも言うが、絶対に教えない。

 カウンターに置かれたスマートフォンはしばらく鳴っていたが、やがて静かになった。諦めたようだ。
 私は再びケトルベルを持って振り回す。
 ケトルベルとは取手の付いた鉄アレイの事なのだが、重さも大きさも様々で、それを持ち上げて上下左右に動かしながら筋トレをするのだ。

 一度、手元が滑って落としてしまい、新築のマンションのフローリングに凹みが出来てしまった時はさすがに焦った。凹んだその場所は落としたケトルベルよりも大きいケトルベルを置いて隠している。

 私は休みの時は一時間ほどかけて筋トレをしている。汗を流すのはとても気持ちが良いし、ストレス発散にもなる。いつか私はサンドバッグを買おうと思っている。

 筋トレを終えてシャワーを浴びていると、またスマートフォンが鳴った。
 私は緊急連絡に備えてシャワー中であろうとも肌身放さずスマートフォンを手元に置いていて、風呂場ではチャック付きの保存袋に入れている。

 風呂場にもスマートフォンを持ち込まなければならない仕事だなんて警察官の募集要項には書いてなかったじゃないかと言いたいが、濡れた手で触りたくなくて鳴っても出ないから言わないでいる。それにシャワーの音で着信音が聞こえないのだから風呂場に持ち込まなくても良いとも思っている。

 そんな事を考えながらもスマートフォンを手に取り画面を見ると、そこにはやはり『出なくていい』と表示されていた。
 もちろん私は無視した。

 ◇

 昼過ぎまで寝ていた私はリビングへ行き、窓の外を見つめた。このところ雨続きだったが今日は珍しく晴れていて、雲一つない空が広がっている。ベランダでは洗濯物が風を受けて靡いている。
 そろそろ取り込むかと思っていると、手に持ったスマートフォンが鳴った。

 ――また岡島か。

 そう思ったが、画面に表示された文字は『ゴリラ』だった。

 ――あ、裕くんだ。

 すぐさま電話に出ると、相澤裕典は怒っていた。

「奈緒ちゃん! どうして岡島くんの電話に出ないの!?」
「嫌だから」
「もうっ! 奈緒ちゃんはいつもそうなんだから!」

 電話の向こうの相澤は頬を膨らませて怒っているのだろう。それを想像して口元が緩むが、続けた相澤の言葉に私の口角は下がった。

「岡島くんが飲みに行こうって!」

 またか。岡島はどうしてこうも挫けないのだろうか。

 警察学校を卒業する前だった。
 岡島は私に好意を寄せていると伝えて来た。学校時代の彼は背が高くて痩せ型の男の子だった。日焼けした精悍な顔立ちでモテるだろうなと思ったが、私は膝カックンされた事を恨んでいるので断った。

 今の彼は、時代は令和なのに昭和のチンピラスタイルだ。どこで売ってるのかも分からない絶妙な柄のテロテロしたシャツにスラックス、そしてオールバック、そして金のネックレスでテンプレのようなチンピラスタイルだ。だが体格の良くなった岡島にはよく似合っているから、私はそれだけは認めている。

「裕くんがいるなら良いよ」
「うん、俺も行くよ」

 新人の頃の指導員だった玲緒奈さんは、今でも私を監視している。私も三十を過ぎたのだし、いい大人なのだから良いだろうと思うが玲緒奈さんは心配だと言う。同業との飲み会には必ず裕くんと行け――。

 ――裕くんが私の気持ちに気づいてくれたらな。

 電話の向こうの相澤に十四年も想い続けているこの気持ちが伝われば良いのにと、電話をする度に思っている。

「あ、奈緒ちゃん、葉梨くんも来るんだって」
「誰?」
「官舎で同室の葉梨くん。葉梨将由くんだよ」
「ああ、玲緒奈さんがグーパンした奴か」
「あ、うん……そう、だよ。俺は二年ちょい、一緒の署だった」

 相澤と私は最初の赴任した署が同じだったが、二十四歳の時に相澤は異動した。そこで葉梨将由とやらと一緒だったと言う。

「どんな奴?」
「すごくいい子だよ。玲緒奈さんがグーパンしたのは遅刻したからだし」
「ふーん……」

 相澤がそう言うのなら安心して良いだろう。日付と時間を後日また改めて連絡すると言い、電話は切れた。

 私はその葉梨将由の経歴や素行など、伝を頼って調べてみる事にした。
 まずは玲緒奈さんに連絡してみよう。私はそう考えてメッセージアプリのアイコンをタップした。
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