第5話(終) 三寸

文字数 6,530文字

 だからこそ凛久は昴の太刀筋を目で追うことが出来たのだった。
(これならいけるかもしれない……!)
 そう確信すると同時に、凛久は地面を蹴った。一気に加速して相手の懐に入るべく駆け出す。
 その動きを見て昴は一瞬驚いたが、すぐに冷静さを取り戻し迎撃態勢を取った。彼は右袈裟斬りを放ったが、凛久は左脚を引き半身になって、それを躱すと反撃に転じた。
 刀を返し昴の右胴を狙う。
 しかし、それは読まれていた。
 昴は前へと踏み出す。
 凛久の刀が(はし)りだす前に、昴は右手で刀を刺突の要領で突き出すと、鍔で凛久の刀を押さえる。
 刀の動きを封じられた凛久に対し、昴は空いた左手を握ると拳を作り脇腹目掛けて打ち込んだ。
 息が詰まる程の衝撃。
 肺の中の空気が全て吐き出されるような感覚に襲われ、後ろへとよろめく。
 そこに目掛けて昴は刀を両手で握ると、左薙ぎに一閃した。
 凛久は咄嗟に後ろに飛び退くことで直撃こそ免れたものの、左肩口を浅く斬られてしまう。痛みに顔を歪めながらも、体勢を立て直そうと距離を置こうとするが、そこへ追い討ちをかけるように昴が間合いを詰めてきた。
 そこから繰り出された昴の刺突技に対して、凛久は反射的に体を捻って回避行動を取ると、今度は逆袈裟に斬り上げられた斬撃が来ることを予測していた凛久はその攻撃を防ごうと刀を構えようとするのだが、間に合わずに腹部に強烈な蹴りを叩き込まれた。
 これが剣道ならば反則だが、武術には反則はない。剣術は、刀剣を使って、敵と戦う武芸のこと。剣術は戦闘術であり、剣術でも必要ならば足蹴りや投げ技を使い、戦場で生き抜くための実戦力を重視していることを考えられている。
 そのことを考慮すれば、昴の攻撃は決して卑怯なものではない。むしろ合理的な戦い方であるとも言えるのだ。
凛久の口から呻き声が漏れると共に、体がくの字に折れ曲がる。
 地面に叩きつけられ、転がっていくうちに砂利や小石が傷口に食い込み激痛が走る。痛みに耐えながら何とか立ち上がろうとするが、膝が笑ってしまって上手くいかない。
 そんな凛久の様子を見た昴は、余裕綽々といった様子で笑みを浮かべながら言った。
「お前が俺に勝つことなどできると思うか、凛久?」
 昴の声は冷たく、響くように夜の橋の上に広がった。
 その言葉に凛久の心に沸き上がるのは怒りと悔しさ、そして兄に対する悲しみだった。彼は歯を食いしばり、深く傷を負った肩を押さえながらも、再び構え直す。夜風が二人の間を冷たく吹き抜け、凛久の痛みを一層際立たせた。
「昴、もうこれ以上、人を斬るのはやめろ! 父さんも母さんも、こんなことを望んでいなかったはずだ!」
 凛久は叫んだ。
 その言葉に昴は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐにその冷徹な笑みを取り戻した。
「お前には理解できない、凛久。俺は椿華流に選ばれた。俺の剣が求めるものを満たすために、俺は斬り続けるしかないんだ」
 言い終えるやいなや、再び昴が突進する。
 彼の動きは早く、冷酷な正確さを持っていた。
 凛久はその攻撃を受け流し、反撃に転じようとしたが、昴の剣筋は巧妙で、すぐに彼の防御を突破してきた。凛久の体に次々と浅い傷が刻まれていく。
 志遠との鍛錬により凛久は昴の太刀筋を完璧とは及ばずとも、軽症に抑えることに成功していた。
 だが、それでも静脈を傷つけ、徐々に出血量が増え、自分の動きが鈍っていくのが分かった。
 凛久は覚悟を決める。刀を八相に構えると、地に根を張ったようにしっかりと踏みしめた。
 昴は凛久の構え足の踏み位置から、次の攻撃を予測する。
(右脚を踏み込んでの、右薙ぎ……)
 そう読んだ瞬間、昴は地面を蹴っていた。
 凛久が待ちの徹した以上、間合いに入った瞬間に刀が飛んで来ることは確信できていた。
 ならば、その刃の下をかいくぐって懐に入って勝負を決する。
(勝った)
 そう思った刹那、昴の胸に熱い感触が走る。
 同時に、鮮血が飛び散るのが見えた。
 一瞬の出来事であった為、何が起こったのか理解できなかった昴だったが、自分が斬られたのだということを認識した時には、脚は止まり立ち尽くしていた。
 そして、斬られたハズの出血は夢か幻かのように消えてなくなっていた。
 凛久には分からなかった。
 なぜ昴が間合いを詰めるのを止め、その場に立ち止まっているのか?
(どういうことなんだ……?)
 凛久は混乱しつつ、昴は背後を振り返る。月明かりに照らされた その顔は驚きから穏やかさに変わっていた。
「晦まし、か」
 昴は、視線の先に立つ青年・志遠に向かって呟いた。
 志遠は、ゆっくりと頭を垂れた。
「一対一の勝負に水を差した無礼。お許しください」
 そう言って志遠は非礼を詫びた。
 一人理解できていない凛久に昴は、何が起こったのかを告げた。
「そこの霧生とかいう奴が俺にしたことは、殺気を放ち刃として相手を斬ってみせたということだ」
 昴の言葉に、凛久はすぐにその意味を理解した。
 武芸者たるもの殺気という目に見えぬモノを相手に戦うことになる。相手の攻撃を読み取り、それを躱すことによって勝利を掴むことができるからだ。
 しかし、この殺気というものは実際に存在するものではないので、読み取ることが難しい。だから、武芸者は修練を重ね、自らの肉体と精神を鍛えることで、殺意というものを感じ取れるようになるのだ。
 それを体得した武芸者がいた。

柳生(やぎゅう)宗矩(むねのり)】(1571~1646年)
 柳生宗厳(石舟斎)の五男として生まれ、柳生新陰流を宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだ。
 父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となるが、徳川家に仕官する。上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣した他、関ヶ原の本戦では本陣で参加。大坂の陣では将軍・秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人を瞬く間に斬り伏せた。
 一介の剣士から大名まで立身したのは、日本の歴史上、宗矩だけとされる。
 その宗矩の剣士としての鋭さを伝える話しがある。
 宗矩は小姓を伴い庭の桜に見とれていた。小姓は今なら背後から襲えるだろう、とふと思った。
 すると宗矩は散歩を止め、何か考えている様子をみせた。
 小姓が、その訳を訊くと、先程一瞬殺気を感じた。回りには誰もいない。不思議なので、そのことを考えていたと語った。
 小姓は青くなり、邪心を語り許しを願ったという。

 志遠は自身の持つ殺気を応用することで、昴の背後にそれを放ち、昴の意識に斬られたと思わせることに成功したのだ。
 昴は志遠の実力を認めたのか、フッと笑った。
「できそこないの弟と戦うより、お前と斬り合う方が面白そうだな」
 昴はそう言って刀を構える。
 志遠は、ゆっくりと深呼吸をしてから言った。
「……今の勝負。相打ちでしたよ」
 それは、昴にとって思いも寄らぬ言葉だった。
「なに?」
 昴は思わず聞き返す。
 志遠は静かに答えた。
「凛久は捨て身で、あなたを迎え撃つつもりでした。己の首が刎ねられる覚悟の上で、渾身の一撃をあなたに叩き込もうとしていました」
 志遠の言葉を聞き、昴は再び凛久の方を見る。
 彼は傷付いた体を庇いながらも、苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
 そんな凛久の表情を見て、志遠は小さく言った。
「兄を止めたい。その気持は理解できるつもりです。ですが、それではダメです。椿華流という剣が、この世から絶えてしまう。
 凛久。あなたには椿華流の心と技を次の世代に伝えていく役割があります」
 志遠は腰の刀に右手を伸ばすと、静かに抜き放った。
「白石昴。あなたの凶行は僕が止めます」
 月明かりに照らされて輝く刀身の美しさに凛久は一瞬目を奪われるも、すぐに我を取り戻して八相に構え直す。
 志遠も正眼に構える。
 二人の間に静かな緊張が走る。
 気が張り詰め、橋の上で風がささやき、月明かりが冷たく二人の剣を照らし出す。
 凛久は自分の傷を忘れ、眼前の決闘を見守るしかなかった。
 橋の上の静寂は、二人の息遣いと風の音だけが支配していた。
 月の光が志遠と昴の姿を浮かび上がらせ、その鋭い眼差しが互いの一挙一動を見逃すまいとしていた。
 凛久は血の気を感じる自分の傷口を無視し、その場に立ち尽くす。
 志遠の瞳はまるで闇夜に光る星のように鋭く輝き、昴もまた、冷徹な笑みを浮かべたままその場に佇んでいる。
 まるで呪いにより石像になったかのように。
 だが、二人の間には、見えない刃が交錯するような緊張感が漂っていた。
 一瞬でも気を抜けば命を奪われるという、張り詰めた空気が凛久の肌を刺し貫く。心臓の鼓動が耳元で響き、彼の全身を駆け巡るアドレナリンが、決して目を逸らさせない。
 互いが互いを斬るために、その間合いを詰める。
 志遠は静かに一歩を踏み出した。彼の目は昴の一挙手一投足を見逃さぬように鋭く光り、手の中の刀が微かに揺れる。
 昴もまた、同じように一歩を進める。その動きは滑らかでありながら、まるで獲物を狙う獣のように緊張感を孕んでいた。
 彼らの距離が徐々に縮まるにつれ、空気はさらに重く、鋭くなっていく。
 志遠の呼吸は静かで整っており、一瞬の隙も見逃さないという決意が全身にみなぎっていた。昴もまた、冷徹な表情を崩さずに、次の一手を見極めるべく集中していた。
 月明かりが二人の剣尖を冷たく照らし出す。
 夜風が彼らの間を抜け、わずかな音を立てて消えていく。その風の音すらも、二人の間に漂う緊張を際立たせる効果音となっていた。
 凛久はその場に立ち尽くし、息を潜めて二人の動きを見守っていた。
 一歩、一歩と近づくたびに、互いの殺気が増していくのを感じる。
 志遠の眼差しは一瞬たりとも昴から離れず、その鋭い視線が昴の心臓を突き刺すようであった。
 昴もまた、その冷徹な笑みを崩さずに、志遠の動きをじっくりと観察している。
 二人の距離が縮まり、刀が届く範囲に入る。
 どちらが先に斬りかかるのか、凛久には予測もつかない。その緊張感はまさに爆発寸前の火薬のように張り詰めており、橋の上の静寂が一層深まった。
 計り、必殺の一撃を放つ瞬間を待っていた。
 昴は志遠の首に鋭い視線を送る。その目は獲物を見定める猛禽のように鋭く光り、全神経を集中させていた。
 志遠の首元に焦点を合わせると、その皮膚が徐々に色を失っていく様子が見て取れる。月明かりが冷たく照らし出す中で、志遠の首の皮膚が白く浮かび上がり、血管や筋肉が際立って見えた。
 首の筋が緊張して浮かび上がり、その下を流れる血管が青く透けて見える。
 昴はその筋肉の動きを細かに観察し、微細な動きすらも見逃さないようにしていた。首を支える骨格が、まるで透けるようにくっきりと現れ、その輪郭が明確に浮かび上がってくる。
 骨の形状や位置が、昴の目にはまるで地図のように刻み込まれていく。
 志遠の喉が微かに動くたびに、筋肉の繊細な動きが皮膚の下で波打つのが見て取れる。昴はその一つ一つの動きを見極め、次の攻撃の瞬間を狙っていた。
(見えた)
 昴の唇が紙一枚程の薄さで開く。彼の視線はまるでレーザーのように鋭く、志遠の首元に注がれていた。
 緊張感の中で、昴の意識はますます鋭敏になり、周囲のすべての音が消え去ったかのように感じられた。
 ただ、志遠の首元に集中し、その一瞬の動きすらも見逃さないようにしていた。
(これが……、達人同士の立会なのか)
 凛久は思った。
 自分が知っている木刀の試合などではない。
 本物の殺し合いだ。
 そう感じた時、自分の呼吸が乱れていることに気付いた。額から汗が流れ落ちるのを感じたとき、自分が対峙している訳でもないのに恐怖を感じていることを知った。

 怖い

 そう思った時だった。
 志遠の切先が僅かに下る。
 隙が生じた。
 その瞬間、昴が地を蹴り、凄まじい速さで突進した。
 一瞬で距離を詰めると、左薙の一閃を放つ。
 狙うは首。
 頸骨と頸骨の隙間。
 正面からでも相手の首を刎ねる。
 椿華流を極めし者の剣技。
 だが、志遠はその一撃に対して冷静に反応した。
 正眼に構えていた刀を右へと傾ける。
 身体と足捌きによって、昴の刀は志遠の持つ刀の鎬を滑るように流される。その動きはまるで風に揺れる柳の枝のようにしなやかで、無駄のない洗練されたものだった。
 刀は真っ向から打ち合わせてはならない。
 ひとたび打ち合えば、どのような出来であっても欠け、折れる為だ。
 二人の刀が接触した瞬間、金属同士がこすれ合う鋭い音が響き渡り、その摩擦によって小さな火花が散った。
 火花は暗闇の中で一瞬だけ輝き、すぐに消えていったが、その一瞬の閃光は二人の間の緊張感を一層際立たせた。
 昴の鋭い斬撃は、志遠の巧みな剣捌きによって、その動きは軌道を外れて無力化された。
 志遠は、そのまま流れるように踏み込み左へと(はし)る斬撃を放つ。
 昴は、それに対し身を引く。

 避けた

 避けたが、完全に避けきることは出来ず、道着の左胸の一部が裂け刃は肉を撫でていた。
 傷の幅は二寸(約6cm)程あり、血が滲む程度の浅い切り傷ができていた。
 小さい。
 昴は自身の剣が、大の人間の首を刎ねようとしていたことに対し、志遠の斬撃の浅さを見て嘲笑った。
 昴の剣を豪胆とすれば、志遠の剣は脆弱だった。相手の攻撃を受け流し、最小限の力で仕留める技に長けた剣であった。
 周囲に鋼の焼けた臭いが香った。
 昴は唇に笑みを浮かべる。
 志遠の剣理が分かった。
 それが分かったところで、自分には、どうということはない。
 昴は、再び攻勢に転じようと体勢を立て直そうとした。切先を持ち上げ、今度こそ相手を屠らんとした時である。
 ゾクリとした感覚が昴の背中を駆け抜けた。
 それはまるで冷たい手で撫でられたような悪寒であり、全身の毛穴が粟立つような感覚を覚えた。
 昴は自分の意志とは関係なく、その場に片膝を付いた。
 何が起きたのか分からなかった。
 ただ、全身が凍り付くような寒気に襲われたのだ。
 同時に左胸に痛みを感じ、そこに触れるとぬるりとした感触があった。手を見ると 真っ赤な鮮血が付いているのが見えた。
 かすり傷にしては血の色が色鮮やかに思えた。
 大量の酸素を含んだ血の色。
(これは一体なんだ?)
 そう思った瞬間にはもう遅かった。
 意識が朦朧とし始め、全身から力が抜けていくのが分かった。
 視界がかすみ、頭が重くなる感覚を覚える。手足に力が入らず、体が地面に倒れ伏すのを止めることが出来ない。
「バカな。かすり傷のハズだ……」
 絞り出すような声で言い、志遠が答えた。
「いいえ。それは、かすり傷ではありません。僕は三寸(約9cm)だけ斬り込んでいました」
 その言葉に昴は驚愕し、視線を自分の胸に落とす。
 志遠は続けた。
「人を殺すのに切断は不要です。切先三寸(約9cm)入れば頸動脈を絶ち、手首の筋を斬り、胸に入れば心臓を裂く……。剣術は試斬ではありません。切断することだけにこだわれば剣の本質を見失います」
 志遠の剣技は、首を刎ねることを奥義とする昴の剣を否定していた。
 朦朧とする意識の中、昴は必死に顔を上げると、そこにはこちらを見下ろす志遠の姿があった。
 志遠は昴と目が合うと、哀しげに目を伏せた。
 それを見た瞬間、昴はすべてを悟った。
 自分は負けたのだと。
 薄れゆく視界の中で、最後に見たものは月明かりに照らされながら微笑む、妖艶な美しさを持った青年の姿であった。
 そして、彼の意識はそこで途切れたのだった。
 永遠に。
 志遠は刀を振って残心をきめる。静かに息を吐くと、刀を拭って鞘に収めた。
 その行為に凛久は兄が事切れたことを悟っていた。
「兄さん……」
 凛久は兄を自らの手で斬る目的で、ここにやって来たハズだった。
 しかし、兄の命が奪われた場面を迎えると、凛久の心は大きく揺れていた。
 覚悟していたハズなのに、いざ目の前で家族の命が失われると動揺せずにはいられなかった。
 とめどなく涙が溢れてくる。
 悔しかった。
 悲しかった。
 辛かった。
 そんな感情が溢れ出してくると、もう止めることは出来なかった。
 大粒の涙が頬を伝い、地に落ちていった。
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