第1話 糧
文字数 1,882文字
夜の静寂が街を包む中、まるで時間が止まったかのようにすべてが静まり返っていた。
月明かりが薄い霧を通してぼんやりと街を照らし、影を長く引きずる街灯の光が、細い路地を神秘的な銀色に染めている。
風は冷たく、木々の葉をかすかに揺らし、その囁き声が静寂を一層際立たせる。
そんな街を一人の中年を迎えたサラリーマンが仕事帰りの足取りを軽くして歩いていた。
彼の名前は佐藤隆一、どこにでもいる普通の会社員だ。
彼は昇進したばかりで、今日でやっと昇進した手当をもらうことができたのだ。
今夜は祝いにと同僚たちと飲みに行ってきたところだった。
しかし隆一は酔ってはいない。酒には強いほうなのだ。それに今日は酔いたい気分でもなかった。だから二次会の誘いも断って帰ってきたのだ。
ただ単に気分が乗らなかったからというわけではない。もっと重要な理由があった。
それは彼の家で、妻と娘が待っているということだ。
娘はまだ小学三年生になったばかりだというのにとてもしっかりしている子で、母親である妻よりもよっぽど大人びていた。
いつも笑顔で明るく、家事も得意だし勉強もよくできる。
料理だっておいしいし、おまけに美人ときてる。
きっと将来はいいお嫁さんになるだろう。
隆一は妻と娘の為に用意した花束とケーキの入った箱を大事に抱えながら、幸せそうな笑みを浮かべていた。
人気 がないが、街灯が照らす橋へと差し掛かる。
川幅は70m程。暗い水面の上を滑るように風が渡っている。
隆一にとっては日常の帰り道に過ぎなかった。
しかし、この夜は何かが違っていた。
橋の中程で、前方に人影が見えた。
初めはただの通行人かと思ったが、その人影は動かずに彼の方を向いていた。何かが引っかかるような感覚を覚え、隆一は少しだけ警戒心を強めた。
人影が近づくにつれ、その姿がはっきりとしてきた。
若い男だった。
黒いチェスターコートに包まれたその姿は、どこか冷たい印象を与えた。
「いい夜だな」
若い男は空にある月を仰いで言った。
突然話しかけられ、隆一は少し戸惑う。
だが、すぐに異変に気付いた。
若い男はチェスターコートを着ながらも、袖に腕を通しておらず外套のように羽織っただけという格好だったのだ。
若い男の肩からコートが滑り落ちると、袴履きに道着を着た上半身が現れた。
腰には帯刀していた。
「なんだ。あんたは……」
時代劇の出演するかのような、明らかに異様な出で立ちをした男を前に、隆一は一瞬戸惑った。
隆一の声は震えていた。
若い男は一言も返さず、ゆっくりと刀を抜き放った。その刃が月明かりを受けて冷たく輝く様子が、隆一の恐怖を一層際立たせた。
「あんたに、なって欲しいものがある」
若い男は言った。
その言葉はなぜか、直接頭に響いてくるように感じられた。
男の口調には敵意や殺意といったものはなく、むしろ穏やかささえ感じさせた。
しかし、それが逆に不気味さを増長させていた。
男は一歩ずつ、静かに歩み寄ってくる。
隆一の足は動かない。
いや、動けなかった。
「な、なにを……」
律儀に隆一は訊いてしまった。
すると、男がまた口を開いた。
「糧」
瞬間、隆一は首に冷ややかな感触を覚えた。
それはまるで真冬の吹雪が一瞬にして肌を刺すような、凍てつく鋭利な冷たさだった。彼の首筋を撫でるその感覚は、まるで氷の刃が滑り込んだかのように冷たく、鋭かった。
空気すらも凍りつくような寒さが彼の体を一瞬で貫き、血が凍るような恐怖と痛みが一気に襲いかかってきた。
その冷たさは、ただの冷えとは違う。
骨の髄まで染み渡るような、死の冷たさだった。
次第に麻痺し、視界がぼやけていく中で、隆一は家族の顔を思い浮かべた。
妻の笑顔、娘の無邪気な笑い声。
彼はその場で必死に何かを言おうとしたが、声は出なかった。血が喉を塞ぎ、呼吸すらもままならなくなっていた。
隆一は橋の欄干にもたれ掛かると、彼の首は動いた。
下に。
その様子は、凍った湖の上を転がる枯れ枝のよう。
摩擦を感じないままに、首が川面に向かって落ちたのだ。
やがて体も崩れるようにして倒れた後、川に血の噴血が広がり始めた。
それを見届けた後、若者は刀を拭い、静かに刀を鞘に収めた。
それから欄干にもたれ掛かる隆一の脚を持ち上げると、そのまま体を川に向かって突き落とした。
夜の闇に包まれた川に激しい水音共に、しぶきが上がるが、それきり、川は静寂を取り戻した。
「見える。俺には、見えてきている……」
呟くように言うその声は誰に届くでもなく、闇に溶けて消えたのだった。
月明かりが薄い霧を通してぼんやりと街を照らし、影を長く引きずる街灯の光が、細い路地を神秘的な銀色に染めている。
風は冷たく、木々の葉をかすかに揺らし、その囁き声が静寂を一層際立たせる。
そんな街を一人の中年を迎えたサラリーマンが仕事帰りの足取りを軽くして歩いていた。
彼の名前は佐藤隆一、どこにでもいる普通の会社員だ。
彼は昇進したばかりで、今日でやっと昇進した手当をもらうことができたのだ。
今夜は祝いにと同僚たちと飲みに行ってきたところだった。
しかし隆一は酔ってはいない。酒には強いほうなのだ。それに今日は酔いたい気分でもなかった。だから二次会の誘いも断って帰ってきたのだ。
ただ単に気分が乗らなかったからというわけではない。もっと重要な理由があった。
それは彼の家で、妻と娘が待っているということだ。
娘はまだ小学三年生になったばかりだというのにとてもしっかりしている子で、母親である妻よりもよっぽど大人びていた。
いつも笑顔で明るく、家事も得意だし勉強もよくできる。
料理だっておいしいし、おまけに美人ときてる。
きっと将来はいいお嫁さんになるだろう。
隆一は妻と娘の為に用意した花束とケーキの入った箱を大事に抱えながら、幸せそうな笑みを浮かべていた。
川幅は70m程。暗い水面の上を滑るように風が渡っている。
隆一にとっては日常の帰り道に過ぎなかった。
しかし、この夜は何かが違っていた。
橋の中程で、前方に人影が見えた。
初めはただの通行人かと思ったが、その人影は動かずに彼の方を向いていた。何かが引っかかるような感覚を覚え、隆一は少しだけ警戒心を強めた。
人影が近づくにつれ、その姿がはっきりとしてきた。
若い男だった。
黒いチェスターコートに包まれたその姿は、どこか冷たい印象を与えた。
「いい夜だな」
若い男は空にある月を仰いで言った。
突然話しかけられ、隆一は少し戸惑う。
だが、すぐに異変に気付いた。
若い男はチェスターコートを着ながらも、袖に腕を通しておらず外套のように羽織っただけという格好だったのだ。
若い男の肩からコートが滑り落ちると、袴履きに道着を着た上半身が現れた。
腰には帯刀していた。
「なんだ。あんたは……」
時代劇の出演するかのような、明らかに異様な出で立ちをした男を前に、隆一は一瞬戸惑った。
隆一の声は震えていた。
若い男は一言も返さず、ゆっくりと刀を抜き放った。その刃が月明かりを受けて冷たく輝く様子が、隆一の恐怖を一層際立たせた。
「あんたに、なって欲しいものがある」
若い男は言った。
その言葉はなぜか、直接頭に響いてくるように感じられた。
男の口調には敵意や殺意といったものはなく、むしろ穏やかささえ感じさせた。
しかし、それが逆に不気味さを増長させていた。
男は一歩ずつ、静かに歩み寄ってくる。
隆一の足は動かない。
いや、動けなかった。
「な、なにを……」
律儀に隆一は訊いてしまった。
すると、男がまた口を開いた。
「糧」
瞬間、隆一は首に冷ややかな感触を覚えた。
それはまるで真冬の吹雪が一瞬にして肌を刺すような、凍てつく鋭利な冷たさだった。彼の首筋を撫でるその感覚は、まるで氷の刃が滑り込んだかのように冷たく、鋭かった。
空気すらも凍りつくような寒さが彼の体を一瞬で貫き、血が凍るような恐怖と痛みが一気に襲いかかってきた。
その冷たさは、ただの冷えとは違う。
骨の髄まで染み渡るような、死の冷たさだった。
次第に麻痺し、視界がぼやけていく中で、隆一は家族の顔を思い浮かべた。
妻の笑顔、娘の無邪気な笑い声。
彼はその場で必死に何かを言おうとしたが、声は出なかった。血が喉を塞ぎ、呼吸すらもままならなくなっていた。
隆一は橋の欄干にもたれ掛かると、彼の首は動いた。
下に。
その様子は、凍った湖の上を転がる枯れ枝のよう。
摩擦を感じないままに、首が川面に向かって落ちたのだ。
やがて体も崩れるようにして倒れた後、川に血の噴血が広がり始めた。
それを見届けた後、若者は刀を拭い、静かに刀を鞘に収めた。
それから欄干にもたれ掛かる隆一の脚を持ち上げると、そのまま体を川に向かって突き落とした。
夜の闇に包まれた川に激しい水音共に、しぶきが上がるが、それきり、川は静寂を取り戻した。
「見える。俺には、見えてきている……」
呟くように言うその声は誰に届くでもなく、闇に溶けて消えたのだった。