第三節
文字数 2,142文字
午後の講義を終えて自分の部屋へ戻ろうと回廊を歩いていたサンダリオは、向こうから歩いてくる茶色の髪の青年に気付き足を止めた。背中に合金仗 を挿し、中庭の方から吹きつける風に髪をたなびかせながらエドガルドが近づいてくる。棒術の稽古をしてきたのだろう、珍しく額 にうっすらと汗が滲 んでいるのが見え、サンダリオはきゅっと胸が引き絞られるような感覚を覚えた。
エドガルドもサンダリオに気付き、微かな笑みを浮かべる。
以前はエドガルドのこの小さな表情の変化にサンダリオは気付くことが出来なかった。だが今の彼は知っている。一見、無表情に見えるエドガルドの相貌 の中で、榛 色の瞳が常に他者に対し優しい光を宿していることを。
「サンダリオ、なんだか久しぶりの気がする。元気にしているか」
エドガルドが足を止めて話し掛けてきた。横に並ぶと、以前はほんの少しサンダリオの目線より高いところにあった彼の顔が、僅かに下に位置していることに彼は気付いた。
「背が伸びたな」
屈託なく話し掛けてくるエドガルドの目を見るのが苦しく、サンダリオの中で彼を見つめていたい気持ちと目を逸 らしたい気持ちがせめぎ合う。
「はい」
彼はそれだけ答えた。
エドガルドは少しだけ困ったようにサンダリオを見つめた。
サンダリオが三つの箱の問題でエドガルドに挑んでから、半年ほどが経っていた。あの時、エドガルドが戸惑いながら開けた箱の中には榛 の実が二つ、入っていた。
「あなたの、瞳の色だ」
そう言って瞳いっぱいに想いを湛 え自分を見つめてくる年下の少年に対し、エドガルドは可愛いと思いもしたし申し訳なさを覚えもした。少年が自分へ向けている感情を、彼は自分のものとして経験したことがなかった。
「エドガルド」
不意に後ろから声が聞こえサンダリオが振り向くと、上級学師のアダンがそこにいた。
「アダン」
いつものごとく、エドガルドが笑顔を返す。サンダリオには決して引き出すことの出来ない表情だ。
背の高いアダンが大股で歩み寄ってきてエドガルドの隣に立つと、サンダリオには何か大きな壁が自分とエドガルドの間に立ち塞がったように感じられた。アダンはいつものように社交的な笑みを浮かべ、サンダリオにも挨拶を寄越してくる。だがサンダリオがエドガルドに榛 の実の入った箱を渡して以来、アダンが彼に向ける眼差しにはどことなく警戒心が宿っている。
自分なんかを警戒しなくても、エドガルドにとってあなたが特別の存在なのは自明じゃないか。
そんな思いがサンダリオの胸に浮かんでくる。
「そういえば、あの日の問題は面白かった。あれからまた何か作ってないのか」
「いいえ。あれは、あなたのために作った問題でしたから」
彼がそれを口にしてしまったのは、想いが報われる可能性は微塵 もないと改めて思い知らされた鬱屈 ゆえか、あるいはアダンへの対抗心ゆえか。
驚いたように目を見開いたエドガルドを、サンダリオは半ば自棄糞 な気分で睨 むように見つめた。
「なかなか面白い問題を作ったらしいな。俺もエドガルドから教えて貰ったよ」
アダンが穏やかな口振りで割って入る。人当たりの良い笑顔のどこにも不自然なところはないのに、それでも彼の青い双眸 はサンダリオに圧迫感を与えた。
「そろそろ行こう、エドガルド。これ以上、彼を引き留めても悪いだろう」
どことなくサンダリオのことを気遣 うような気配を滲 ませ、エドガルドが立ち去るのを躊躇 っていると、アダンはやや強く彼の肩を引き寄せた。
「アダン」
「行くぞ」
いつになく強引な幼馴染 みの振る舞いに不思議そうな目を向けた後、エドガルドはサンダリオの方を振り返った。
「またな」
そこに小さいがはっきりとした笑顔が浮かんでいるのを認め、サンダリオは溢 れる想いを堪 えて会釈する。アダンが焦 れたようにエドガルドを連れて歩き始め、二人はサンダリオを置いて回廊の向こうへと消えて行く。
視界が霞 み、小さくなっていく二人の背中がよく見えない。歯を食いしばって涙が零れないように堪 えながら、彼は悔しさに駆られ心の中で問い掛けた。
アダン、じゃあ、あなたはこれを知っているか。
あの日、エドガルドは暫 くのあいだ箱に入った榛 の実を見つめていたが、やがて気持ちに応えられないことを申し訳なく思う、何か自分にできることはないかと訊 いてきた。
だから、サンダリオは一つだけ望みを告げたのだ。
エドガルドは躊躇 いながらも彼の望みを叶えてくれた。
サンダリオは震える手をそっと額に当てた。彼の手は冷え切っていて、あの日覚えた、ひんやりとした感触がそこに蘇 る。
これを、アダンはきっと知らない。
エドガルドの唇の冷たさを、アダンはきっと知らない。
アダンの知らない彼の唇の冷たさを、自分は決して忘れないだろう。
サンダリオは、そう、思った。
エドガルドもサンダリオに気付き、微かな笑みを浮かべる。
以前はエドガルドのこの小さな表情の変化にサンダリオは気付くことが出来なかった。だが今の彼は知っている。一見、無表情に見えるエドガルドの
「サンダリオ、なんだか久しぶりの気がする。元気にしているか」
エドガルドが足を止めて話し掛けてきた。横に並ぶと、以前はほんの少しサンダリオの目線より高いところにあった彼の顔が、僅かに下に位置していることに彼は気付いた。
「背が伸びたな」
屈託なく話し掛けてくるエドガルドの目を見るのが苦しく、サンダリオの中で彼を見つめていたい気持ちと目を
「はい」
彼はそれだけ答えた。
エドガルドは少しだけ困ったようにサンダリオを見つめた。
サンダリオが三つの箱の問題でエドガルドに挑んでから、半年ほどが経っていた。あの時、エドガルドが戸惑いながら開けた箱の中には
「あなたの、瞳の色だ」
そう言って瞳いっぱいに想いを
「エドガルド」
不意に後ろから声が聞こえサンダリオが振り向くと、上級学師のアダンがそこにいた。
「アダン」
いつものごとく、エドガルドが笑顔を返す。サンダリオには決して引き出すことの出来ない表情だ。
背の高いアダンが大股で歩み寄ってきてエドガルドの隣に立つと、サンダリオには何か大きな壁が自分とエドガルドの間に立ち塞がったように感じられた。アダンはいつものように社交的な笑みを浮かべ、サンダリオにも挨拶を寄越してくる。だがサンダリオがエドガルドに
自分なんかを警戒しなくても、エドガルドにとってあなたが特別の存在なのは自明じゃないか。
そんな思いがサンダリオの胸に浮かんでくる。
「そういえば、あの日の問題は面白かった。あれからまた何か作ってないのか」
「いいえ。あれは、あなたのために作った問題でしたから」
彼がそれを口にしてしまったのは、想いが報われる可能性は
驚いたように目を見開いたエドガルドを、サンダリオは半ば
「なかなか面白い問題を作ったらしいな。俺もエドガルドから教えて貰ったよ」
アダンが穏やかな口振りで割って入る。人当たりの良い笑顔のどこにも不自然なところはないのに、それでも彼の青い
「そろそろ行こう、エドガルド。これ以上、彼を引き留めても悪いだろう」
どことなくサンダリオのことを
「アダン」
「行くぞ」
いつになく強引な
「またな」
そこに小さいがはっきりとした笑顔が浮かんでいるのを認め、サンダリオは
視界が
アダン、じゃあ、あなたはこれを知っているか。
あの日、エドガルドは
だから、サンダリオは一つだけ望みを告げたのだ。
エドガルドは
サンダリオは震える手をそっと額に当てた。彼の手は冷え切っていて、あの日覚えた、ひんやりとした感触がそこに
これを、アダンはきっと知らない。
エドガルドの唇の冷たさを、アダンはきっと知らない。
アダンの知らない彼の唇の冷たさを、自分は決して忘れないだろう。
サンダリオは、そう、思った。