いまはむかし、プラシドの翁といふものありけり三

文字数 2,743文字

 ここにイーサンという一人の若者がある。黒い髪に濡れたような黒い瞳を持つこの青年は、ナサニエルと名乗り、学徒としてティエラ山に潜入していた。彼の正体と目的を知る者はない。
 プラシドの翁が育てた美しい女人を、学師アダンが山中深くに囲っているという噂を聞きつけたイーサンは、彼の後をつけてエドガルドが監禁されている庵を突き止めた。
 窓の外からそっと中の様子を伺うと、〝美しい女人〟と呼ぶにはずいぶん逞しい青年が、アダンに組み敷かれ犯されているところだった。だが、よくよく見ると、アダンを受け入れている場所はあまりに女性的である。
 信じがたいことだが、あの青年は男性と女性、両方の性を持っているらしい。そのことを理解したイーサンは、エドガルドこそが自分の探し求めていた相手であることを確信した。
 エドガルドの両目にはいっぱいに涙が(たた)えられ、口はひっきりなしにいやだ、やめて、許してという形に動いている。アダンはその声が耳に届かぬかのように、素敵だ、愛してるだのと囁き、頬刷りをしたり口づけをしたりするのだった。
 イーサンは正義感に燃えて立ち上がり、庵へ押し入った。隠し持っていたエナジー銃の照準を狂ったようにエドガルドを犯しているアダンに合わせ、死なない程度の出力で撃ち抜く。
 唐突に身体の上に崩れ落ちてきたアダンを茫然と見つめたまま、何が起こったのか理解できずにいるエドガルドに、イーサンが優しく声を掛ける。
「大丈夫か」
「誰」
 エドガルドはびくりと体を揺らし、泣き腫らした榛色の瞳でイーサンを見上げた。曰く言い難い感情が胸に込み上げ、イーサンは憐れみを超え愛おしさのようなものを覚えた。
「俺の名はナサニエル。本院の学徒だ」
「ナサニエル」
 イーサンの告げた偽名を鸚鵡返しに呟くエドガルドを、イーサンが優しく抱き上げる。
「もう大丈夫だ。俺がここから逃がしてやる」
「本当か。感謝する、ナサニエル」
 会ったばかりの見も知らぬ相手だというのに、エドガルドは信頼しきった様子でイーサンに身を委ねた。
 この信頼を裏切ることは出来ない。
 イーサンは強くそう感じ、意を決して口を開いた。
「俺の本当の名はイーサン。お前のことを探していた」
「どういうことだ」
「俺は月面都市の官吏だ。九年前、〈生命の自由〉を名乗るテロ組織が政府の施設を襲い、冷凍保存胎児を宇宙船に乗せて行き先も指定せず宇宙空間へと放った。その胎児たちを見つけ出し、月面都市に連れ還るのが俺の仕事だ」
「俺がその胎児だというのか」
「ああ。この惑星に不時着するまでの間にカプセルの中で新生児相当まで成長したが、性分化させるためのホルモン投与が上手く行われず、両性具有となったんだろう。そういうことが起こりうるという説明は聞いてはいたが、本物を見るのは初めてだ」
「そんなことが」
 茫然と呟くエドガルドに、イーサンは更に説明を続ける。
「お前は子供時代の成長も早かっただろう。特殊な遺伝子操作を受けているから成人するまでの時間が異常に早いんだ。だが成人してからは普通の人間と同じ速度で歳を取る」
「そうか」
 自分の身体が他の人間と異なっていることには全て科学的な理由があるのだと知り、エドガルドは深い安堵に包まれた。この世界で自分はずっと異端の存在だった。だが今、彼はようやく自分が普通の人間であると確信できたのである。
 イーサンの腕に抱えられたまま、エドガルドはそっと彼の顔を仰ぎ見た。黒い髪、濡れたように光る黒耀の瞳、男らしい顔立ち。突如としてエドガルドの前に現れ、苦境から救い出し、己の起源を教えてくれた男。エドガルドはイーサンのことを非常に慕わしく、心から信頼できる相手だと感じた。彼の腕に包まれていると守られているような気がして安心でき、ずっとこうしていたいと思った。
 二人はイーサンが隠していた宇宙船に乗り込んだ。最新型の宇宙船の航行速度は速く、離陸を終えるとあっという間に成層圏を抜けてしまう。海のない茶色の惑星が遠ざかっていくのを窓から眺めながら、育ての親であるプラシドの翁に想いを馳せ、エドガルドの胸は痛んだ。だがこの惑星に自分の居場所はないのだと自分に言い聞かせ、未来へと目を向ける。
 宇宙船は広く、十分な設備を備えていた。エドガルドはシャワーを浴び、アダンに犯された身を清める。
 部屋へ戻ると、先にシャワーを終えていたイーサンが二つある寝台の一つに寛いだ様子で横たわっていた。
「不自由はしていないか。何か必要なものがあれば言え」
「いや、全て揃っている。ありがとう」
「ゆっくり休め。月面都市まで三日は掛かる」
 深夜、眠りの底に沈んでいだイーサンは、隣の寝台から聞こえてくる呻き声に起こされた。寝台から起き出し、苦悶の表情を浮かべて(うな)されているエドガルドの身体を揺する。
「やめて、アダン。やめて、許して」
「エドガルド、起きろ」
 はっと目を開いたエドガルドは、イーサンの姿を認めてはらはらと涙をこぼした。
「大丈夫か」
「イーサン」
 身体を丸め、声を殺して子供のように泣いているエドガルドの姿を見ていると、同情なのか愛情なのか判然としない感情が込み上げてきて、イーサンは堪らない気持ちになった。
 身を屈め、衝動的に口づける。目を見開いて見上げてくるエドガルドは、驚きの余り涙も止まったようである。
「嫌じゃないか」
「嫌じゃない」
 エドガルドの即答に勇気を得、イーサンはエドガルドをそっと抱き締めた。エドガルドの方もイーサンの背に両腕を回し、意思表示をする。
 イーサンの為す優しく繊細な行いは、自分の身体が作り替えられていくような歓びをエドガルドに(もたら)した。
「辛くないか」
 心配そうに尋ねてくるイーサンに、エドガルドがうっとりと答える。
「気持ちがいい。俺の身体はこういう風に出来ているんだと、初めて知った」
 煽られたイーサンは紳士的な振る舞いを保つことが出来なくなり、烈しさを増してエドガルドを追い詰める。エドガルドは必死にイーサンの情熱を受け止めながら、自分が満たされていくのを感じるのだった。
 地上に在るプラシドの翁は、エドガルドが生涯の伴侶を得て月へ還っていったことなど知る由もない。だが明晰な学師である彼は、愛し子が新たな人生へと旅立って往ったことを直観的に理解し、心の中で祝福した。
 一方、最愛のエドガルドを連れ去られたアダンの嘆きは深い。悲嘆に暮れた彼はティエラ山の山頂へと赴き、泣き濡れながら不死の薬とされる凶獣の子種を火口へ投げ捨てた。
(*作者注・ティエラ山は火山ではありませんが、物語の都合上、本作中では休火山とします。)
 以後、火口からは耐えることなく白き煙が立ち上り、ティエラ山は不死(ふし)山と呼ばれるようになったとか、ならなかったとか。
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