第7話 月の影

文字数 3,615文字

 後巡祭(コウジュンサイ)が始まって三時間――空気中に漂う酒気(しゅき)の濃度が最高潮に達した武道場を抜け出した氷太朗は、神社の境内を歩いていた。
 外の空気は美味しかった。常夜は現世と違い、それほど暑くはなく湿度も低いので、とても心地が良い。風が吹けば尚更だ。これで頭上に月でも浮かんでいれば最高なのだが――曇っているわけでもないのに、どれだけ探しても月が見つからない。どうやら、常夜には月がないらしい。
 頭上に浮かんでいるだけの月でも、いざ無くなれば寂しいものである。

「こんなことならもっと月を拝んどくだったな……」
「大丈夫、月はあるよ」
「え――」

 声がしたので視線を上げてみると、大鳥居の上に座る人影があった。
 天眼通(テンゲンツウ)を凝らすまでもなく、誰かわかった。

「酒月さん? どうしてそんなところに?」

 足を止めて問うと、美夜は優しく微笑んで「抜け出してきた」と答えた。

「抜け出してきたって……大丈夫なの?」
「大丈夫。妖術で作った案山子を座らせてるから。誰も気づかないよ」
「そっか。なら大丈夫……かな」
「うん、大丈夫。それよりも、一緒に月を見よ」

 美夜は手招きをする。
 鳥居の上に乗るなぞバチあたりなような気がした。が、ここの神様は月夜菊須神(ツクヨキクスノカミ)であり、酒月美夜である――彼女が許可しているのだ、バチがあたるようなことはあるまい。
 氷太朗は特大のジャンプをして、鳥居の上に飛び乗る。

「凄い。一発で来れた。流石は坂之上田村麻呂の子孫だね」
「神足通は鈴鹿御前由来の能力だけどね。……あれ? 神足通の話なんてした事あったっけ?」
「あったよ。忘れちゃった?」
「うん、ごめん……」
「いいよ、いいよ。小学生の頃の話だもん。――それよりも、見て」

 美夜は町の方を向く。引っ張られるように氷太朗も視線を移動させ――そして、息を呑んだ。
 鎮守の森の向こうに、煌々と輝く光の数々が点在している。街頭や、建物から漏れた明りだ。白い光。黄色い光。赤い光。橙の光。青い光。大きい光。小さい光……。まるで散りばめた宝石が反射しているようだ。その上には絵に描いたような天の川が架かっている。
 こんなにも美しい夜景は初めて見た。

「ここ、実は、月なんだよ」
「どういう事?」
「昔、私のご先祖様がお月様を捕まえたって言ったの、覚えてる?」

 美夜は視線を氷太朗に戻して問いかける。
 氷太朗は夜景に釘付けになったまま答えた。

「うん。一緒に皆既日蝕を見た時に言ってたよね?」
「その後、蔵に連れて行ったのも覚えてる?」
「覚えてるよ。盃の中に水に映った新月があったのも覚えてる」
「あれが常夜だよ」
「え⁉」

 漸く氷太朗の視線が美夜に戻る。そのリアクションが面白かったのか、美夜は「ふふふ」と控え目に笑った。
「氷太朗くんって、想像通りの反応してくれるね」
「それ褒めてる? ――それよりも、あれが常夜ってどういうこと?」
「大昔、常夜はただの結界に囲まれた隠れ里だったの。住んでいるのも少人数で、人間と妖怪を合わせても三〇人くらいだったらしい。でも、人里で迫害された妖怪達を匿っているうちにどんどん大所帯になっていって、立ち上げて百年も経たない内に手狭になったの。で、引っ越しをしようってなったんだけど、そんな大勢が暮らせる土地、どこにもなくて困り果ててたら――当時の里長が、月に移住しようって言ったんだって」
「ぶっ飛んでるね……」
「でしょ? ネタバレすると、その里長が初代『月夜菊須神(ツクヨキクスノカミ)』なんだけど――勿論、月に移住するなんて無理じゃん? そもそもロケットもない時代に月に行くなんて無理だし。でも、有り余る広大な土地は月しかないって初代様は聞かなくって――みんなで考えた結果、大きな杯にお酒を溜めて、それに映った新月を結界で捕まえて、そこに移住するってプランに決まったの」
「それも十分ぶっ飛んでると思うけど……」
「まぁね。酒に映った新月とは言え、それを結界で捉えて箱庭化するなんて、私には出来ない。でも初代様には出来て、更に色々結界を加えて人が住めるレベルに調整した。――それが常夜の成り立ちなの」

 なるほど、と氷太朗が心の中で頷いた。
 新月とは言ってみれば月の『太陽光に照らされている部分の反対側』が見えている状態だ。つまり月が夜を迎えているのだ。そんな状態を捉えて保持しているから、常夜は常に夜なのだろう。

「月なのに、空気が薄いとか、重力が軽いとかって無いんだね」と氷太朗は訊いた。
「それも結界の力だよ。新月を閉じ込める結界とは別の結界を施して空気を創って、酸素濃度を二一パーセント程度にして、重力加速度を九・八メートル毎秒毎秒にしてるんだ。他にも、快適さを求めて色んな結界を追加してるよ。まぁ、そのせいで維持する方は大変なんだけど……」
「凄いね。そんな凄い結界を創る初代様も、そんな凄い結界を維持している酒月さんも――みんな凄い」
「私は殆ど何もしてないよ。妖力を供給しているだけ」

 まるで誰にでも出来るような言い方だ。
 だが、誰にでも出来るわけではないのは火を見るより明らかである。
 妖力とは魂を駆動させるのに必要なエネルギーであり、魂を持つ者ならば誰でも持っている物だ。もっとも、妖力を貯蔵するタンクは皆同じ物を持っているわけではない。タンクが大きい者もいれば、少ない者もいる。これは天性のものなので、どれだけ鍛錬しても、タンクの容量が増える事はない。
 妖力が駆動させるのは魂だけではない――妖術や結界術も妖力を原動力とする。そう、結界を維持させるには妖力を絶えず供給しつづけないとならないのだ。その供給者はタンクが大きい者でないと務まらない――誰でもは務まらない。
 美夜は一三歳の時に月夜菊須神(ツクヨキクスノカミ)に就いたと言っていた。
 一三歳にして、常夜という一つの世界の命運を担ったのだ。
 影と笑顔を犠牲にして。
 素晴らしい才能。
 素晴らしい責任感。
 素晴らしい自己犠牲。
 対して自分は――

「本当に……ごめんね」氷太朗は矮小な自分の拳を見つめて言う。
「え? 何が?」
「色々と……。忙しいのに肉体探しを頼んだのもそうだし……。お月見も出来なかったし……」
「いいよいいよ。困った時はお互い様だよ。お月見も、残念だけど、氷太朗くんが悪いワケじゃないから。何も気にしてないよ――それどころか、ちょっと、この状況が嬉しかったりするかな」
「う、嬉しいの?」
「うん。氷太朗くんとこうやって話すの、物凄く久しぶりだからさ」
「そうかな?」
「そうだよ。中学生になった瞬間、氷太朗くん、話しかけてくれなくなったから。(わたし)が無くなったから、気持ち悪がられたのかなーとか思った」
「まさか! あ、あれは思春期特有の照れから来るもので――決して、影がないからどうこうってワケじゃないよ!」
「わかってるよ。氷太朗くんはそんな人じゃないもん」

 美夜は柔らかく微笑み、夜景を見る。
 氷太朗はそんな彼女の横顔の美しさに見惚れた。

「ねぇ、氷太朗くん。肉体が見つかって、現世に帰っても、こうやってお喋りしてくれる?」
「勿論だよ」
「じゃあさ……また、昔みたいに『美夜ちゃん』って呼んでくれる?」
「それは……」
「嫌なの?」
「い、嫌じゃないよ。全然、嫌じゃない。うん。でも、酒月さんは、目の前の酒月さんと現世の酒月さんがいるから、美夜ちゃんって呼んだらどっちがどっちだかわからなくならない?」
「じゃあ私が美夜ちゃんで、現世のアイツは酒月さんでいいよ」
「勝手に決めちゃっていいの?」
「いいよ」
「わ、わかった。わかったよ……美夜ちゃん」

 久しぶりに呼んだ名前。
 ただ呼ぶだけなのに、手汗が滲む。
 その後、沈黙が二人を包み込んだ。美夜は依然として夜景を眺めており、氷太朗は、ずっと横顔を眺めていたら変だと思われそうだったので、同じく夜景を眺めた。
 氷太朗はあまり沈黙が好きではない。どうも居心地が悪く感じてしまうから。しかし、今日この時の沈黙だけは、とても愛おしく感じた。
 そんな沈黙を破ったのは――ナルだった。

「おーい、氷太朗やーい! そんな所で何してるのー?」

 参道から鳥居の上の氷太朗を見上げてナルは言う。その背中には、熟睡する魅流があった。

「今から天戸温泉に帰るけど、一緒に来ない?」
「え、あ、えーっと……僕は……」

 氷太朗はチラッと美夜の方を見ると、彼女はいつの間にか姿を消していた。周囲を見渡しても、彼女の影も形も見当たらない。流石に氷太朗と二人の所を見られるのは拙いと判断し、逃げたのだろう――流石は神様である。

「どうするのー?」
「うーん」

 いつもならば、断っていただろう。先刻会ったばかりの少女に世話になるなんて以ての外だから――例え野宿をすることになろうとも、丁重に辞退していたはずだ。けれども、不思議にも、氷太朗は首を縦に振っていた。

「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「よしきた! 帰って吞みなおすわよ!」

 驚く事に、ナルはまだ呑む気でいるらしい。
 氷太朗は苦笑した。
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