第3話 常夜

文字数 5,902文字

 神社に向かって歩みを進めていると、いつの間にか、アスファルトの道路が車道と歩道に分かれていた。歩道は車道と比べて一段高くなっており、ちらほらと街路樹も植えられている。点字ブロックも敷かれている。車道には白線が引かれていた。上下線を分断するセンターラインや、四角形や矢印などの記号や、『止まれ』や『徐行』などの文字が引かれている――道路だけ見ていれば、氷太朗が住んでいた現世と大きく差は無い。車道を行き交う車も同様である。現世のものに比べて少し野暮ったく重量感もある印象だが、見慣れたそれからは大きく乖離していない。
 街並みも、歩を進めるにつれ、どんどん見慣れたものに変わっていった。建物は赤いレンガの壁に灰色の屋根というレトロなものから鉄筋コンクリート造の近代的なものまで多種多様だ。電気も通っているらしく、軒先や玄関ポーチには蛍光灯が掲げられている。服屋と思わしき建物にはネオンの看板が設置されている。出入り口が自動ドアになっている商店もいくつか見た。
 ナルが「妖怪と人間が生きる常夜の世界」と言っていたので、勝手に古風な風景を思い浮かべていたが――テクノロジーのレベルは平成初期くらいにまで達している様子だ。
 勿論、見慣れた光景ばかりが広がっているわけではない。見慣れないものも多くある。
 例えば、道を歩く一般市民――氷太朗のように腕があり、足があり、胴があり、頭があり、髪がある『人間』ばかりが行き交っているわけではない。ナルのように頭からツノを生やした老人もいるし、チョウチンアンコウのような触覚が生えた少年もいるし、緑の肌に頭の上には皿を乗せた女性もいるし、背中から大きな翼を生やす異様に鼻の高い子供もいる。要するに、妖怪の類が平然と何食わぬ顔で歩いているのだ。それも、大勢。流石は妖怪と人間が生きる世界である。
 もしも神社に願いを聞き入れて貰えなかったら、ここで暮らしていることになる。果たしてやっていけるだろうか――歩いていると、そんな不安が込み上げてくる。
 不安の量に比例して、視線がどんどん下がっていく。
 気が付けば、視界は真下を向いており、自分の裸足だけしか映っていなかった――前へ前へと進むちっぽけな裸足だけが。その裸足も、暫くして、ピタリと止まった。目的地に着いたわけではない。身動きがとれないくらい密集した人込みの中に迷い込んでいたのだ。

「あれ? なんだ、これ⁉」

 顔を上げ、背伸びをしても――時すでに遅し。氷太朗は人の波に飲み込まれ、自分の所在すら把握できなくなっていた。
 一時的な混雑ならば良い。収まるまで待っているだけだ。だが、周囲の人々は皆同じ方向を向いている。手ぶらで、ではない。綿アメやたこ焼きやビールやタピオカドリンクを持ちながら。しかも、よく見ると、綺麗な浴衣に身を包んだ人も多い。
 この雰囲気に覚えがあった――夏祭りや花火大会の類だ。

「ま、拙い……! 前に進まない……!」

 それだけならばまだ良い。
 人の波は寄せ波のように、定期的に後ろから押される。そして、氷太朗の前には石のような肌をした初老の男性がおり、寄せ波の度に、その男性にぶつかる。ぶつかるたびに、爪先や、肘や、胸や、顎に痛みが走る。砂利道で転んだような痛みだ。痛い。痛すぎる。

「もう……無理……」

 我慢が出来なくなった氷太朗は、脚に渾身の力を込め――思い切りジャンプした。目指すはすぐ傍に経っている街灯だ。街頭に飛び移ることが出来れば、この地獄のような人混みから逃れられると考えた。
 けれども、ジャンプは氷太朗の予想を遥かに超える結果を齎した。風に巻き上げられた木の葉のように浮かんだ身体は一五メートル以上飛び、気付けば民家の屋根の上に立っていた。現世に居た時は出来なかった芸当だ。明らかに六神通の一つ『神足通』が強化されている。原因は、常夜の霊的パワーかはたまた、肉体という足枷(あしかせ)を失ったからか――恐らく原因は後者だろう。もしかしたら、今までどれだけ努力しても見えなかった妖怪が見えるようになったのも、そのせいかもしれない。
 この進化した跳躍力を以てすれば、忍者にように屋根から屋根へと飛び移りながら移動する事も容易いだろう。人込みなど無視できる。だが氷太朗は少し考え、その場にしゃがみこんだ。臆してしまったからだ――もし神社の手を借りれなかったら、十中八九、氷太朗は常夜で生きていくことになる。そうなれば、姉や友人には二度と会えない。愛している人に『愛している』と言う機会は永遠に失われる。しかし、神社が助力してくれるなら? また現世で生活が出来る。姉や友人と再び食卓を囲む事が出来る。愛する人に『愛している』と言うチャンスがある。
 神社に行けば運命は決まる――その事実が酷く恐ろしくて、足が竦んでしまったのだ。

「はぁ……」

 いつだって、一歩踏み出す勇気は無くて立ち往生してしまう。
 世界が変わっても、生霊になっても、それは変わらない。
 どんどん自分の事が嫌いになる。

「はぁ……」

 もう一つ、溜息をつく。すると、今度はどこからともなく「美人に溜息は似合わないよ」という声が聞こえた。
 氷太朗は最初、足元の人込みの誰かが人込みの誰かに放った言葉だと思った。けれども、それにしては鮮明過ぎる事に気が付き、恐る恐る振り返ると――屋根の上だというのに青年がこちらに流し目をしながら立っているではないか。軍人だろうか。詰襟に軍刀を携えている。年齢は二〇代前半と言ったところで、長い睫毛とキリッとした二重まぶたの男前だ。

「可憐な花は物憂げな眼差しもまた艶めかしい」
「……もしかして、僕のことを言っているんですか?」
「ここには君と僕以外に居ないよ」

 大きな勘違いをしている青年は流れるように氷太朗の隣に座った。

「俺の名前は弥七(ヤシチ)。きみの名前は?」
「坂之上氷太朗……です」
「氷か……良い名前だね。美しい君にぴったりの名前だ」

 『太朗』という単語に全く違和感の覚えない青年――もとい、弥七は少しだけ距離をつめてくる。氷太朗はすかさず横に移動し、距離を取る。

「ここは風が気持ちいいね。人もいない。祭りの見物には丁度いいね」青年は意に介さず、飄々としたまま言った。
「あ、やっぱり今日はお祭りなんですね」
「知らずに来たのかい?」
「ええ、まぁ、はい。来たというか、なんと言うか……」

 どこから訂正したものか。
 戸惑っていると、遠くから歓声が上がった。反射的にそちらの方向を見ると――モーゼが海を割ったように、人込みが真っ二つに割れ、道が出来た。その道を、派手な和服に身を包んだ人々が二列になって行く。右の列は男性だけで構成されており、左側は女性だけで構成されている。特に人間だけで構成されているわけではないようで、腰から下が蜘蛛の女性や顔が馬になっている男性といった妖怪も数多く居る。
 華やかな行列は長く続いている。
 ここに集まった人々のお目当てがコレか――そう思った直後、「いや違う」と覚った。列の中腹に牛車が見えたからだ。
 牛車は黒地に金箔をあしらった神輿のようなものだが、一般的な神輿よりも一回りも二回りも大きい。まるで小さな茶室だ。それを引く牛も八頭とかなり多い。人々の目的はこの大きな神輿なのは、火を見るよりも明らかである。

「凄い神輿ですね……」
「へぇ、この距離から見えるのか。千里眼も持っているのか」

 またも大きな誤解を抱きながら、青年は言った。「あれは勧請神籠(カンジョウミカゴ)って言うんだ。ツクヨ祭りは普段神社に閉じ籠っている神様をあれに乗せて、町を観光しても貰うお祭りなんだ。神籠(ミカゴ)から前の列は公務員や武官が、後ろの列は一般公募から選ばれた市民が歩いているんだよ」

「へぇ。京都の賀茂祭みたいですね」

 言ってから、しまったと思った。ここは現世とは違う世界だ。京都や賀茂祭なんて言っても通じるはずがないからだ。
 だが、青年は氷太朗の心配を他所に「よく知っているね」と言った。

「現世にある京の都の賀茂祭を真似たのが始まりと言われている」
「賀茂祭をご存じなんですか?」
「まさか。僕は現世のことはこれっぽっちも知らないよ。でも、この世界を創った賢者は現世出身が多かったらしくてね――その現世出身の賢者が現世を真似という伝承は知っている」
「この世界は『賢者』によって創られたんですか?」
「そうだよ? 遥か昔、人間と妖怪は仲良く暮らしていた。いや、助け合って生きていたというべきかな? しかし、歴史が進むにつれて人間達は妖怪達を畏れ、迫害するようになっていった。妖怪達はこのままでは人間に滅ぼされると危惧し、一柱の神と四人の賢者が妖怪の避難所としてこの『常夜』を創ったんだ。君の地元じゃ習わないのかい?」
「な、習わなかったですね……」
「ちなみに、その一柱が月夜菊須神(ツクヨキクスノカミ)と言うんだけど、その子孫が今、神籠に乗っている」
「神様もいるんですね、この世界は……」

 まるで神話の世界だ。
 スケールの大きな話に飲まれかける氷太朗。その隙に、青年は少しだけ距離をつめた。

「氷太朗ちゃん、他にも色々教えてあげたいけど――ここじゃ少し野暮だ。あそこの茶屋に行かないか? 凄く雰囲気がいい店なんだ。美味い酒もある。きっと気に入るよ」
「折角のところ申し訳ないんですけど、僕は未成年なんでお酒は飲めないし、そもしも僕は男です。ごめんなさい」
「ふふふ。可愛い逃げ口上だが、男だなんて、嘘が丸見えだよ」
「いや、マジです。ほら」

 百聞は一見に如かず。氷太朗は着物の衿を広げ、平べったい胸筋を見せた。
 青年は雷を打たれたかのような顔になった。

「君は……狐で……男に化けているんだよね……?」
「正真正銘、人間の男です」
「いや、だって、僕の股間ダウジングが……」
「たぶん壊れてますよ、それ」

 トドメの一撃。
 青年は衝撃のあまり前に倒れてしまいそうになった。が、寸前の所で踏みとどまり――懐から手錠をだして、それを氷太朗の両手にかけた。
 突然の展開に、氷太朗は目を丸くする。

「はい、一九時四二分。個人飛行法違反と公務執行妨害で逮捕します」
「個人飛行法⁉ 公務執行妨害⁉」
「屋根の上に乗った罪と、お巡りさんの心を踏み(にじ)った罪ね」
「前者は百歩譲ってわかるけど、後者はアンタが勝手に勘違いだけじゃないですか! 完全に言い掛かりですよ! ていうか、お巡りさんなんですか⁉」
「そうだよ? どう見たってお巡りさんでしょ? ほら」

 青年が掲げた手帳には、顔写真と、『常夜治安維持司法事務局 交通安全課 三等警務官 春川弥七(ハルカワヤシチ)』っという文字が載っていた。
 どうやらお巡りさんということは事実であるらしい。

「ちょっと待ってください! 屋根に乗ったのも不可抗力って言うか、知らなかったというか――」
「言い訳は署で聞くよ」
「そんな……!」

 そんな言い掛かりは到底受け入れられるわけがないし、そんなアホな理由で逮捕されるわけにもいかないし、そんな事をしている暇はない。
 どうにかしてこの狂った状況を打開しなければならない――氷太朗は考えていると、天から女性が音もなく降ってきた。派手な女性だ。花魁のように雅な着物に身を包み、花魁のように肩を開けさせ、花魁のように絢爛に髪を結っている。
 とても派手な存在なのに、女性は見事に気配を消している。その証拠に、背後をとられた弥七は彼女に気付いていない。

「あー……えーっと……」

 氷太朗が女性の存在を指摘する前に、女性は素早い動きで弥七に歩み寄ると、長く綺麗な腕を彼の胴に回した。

「だ、誰だ⁉」
「誰だ、ですって? 私が誰かわからないの?」鬼の形相で女性は問う。

 すぐに察したのか、弥七は大量の冷や汗を流しながら「どうしてアシがここに……?」と尋ねた。

「貴方がこのエリアで交通整備をしているって聞いたから見に来たのに……貴方、またナンパをしていたの?」
「か、彼は男だよ。屋根の上で見物を決め込もうとしていたから取り締まろうかと――」
「いえ、嘘です」

 千載一遇のチャンスに氷太朗は、すかさず口を挟んだ。

「僕を女だと思い込んでナンパしてきたから、男だと打ち明けたら、逆上して手錠掛けてきたんです」
「このド腐れポリ公がッ!」

 女性は鬼の形相どころか、本当に額からツノを生やしたかと思うと――そのまま弥七を持ち上げ、海老反りにしがら地面に叩きつけた。綺麗なジャーマンスープレックスである。
 弁明をする暇もなく瓦に上半身を埋め込まれた弥七。
 その姿に、自然と同情の気持ちは湧かなかった。
 寧ろ、この上なく情けない。

「ごめんなさいね、坊や」女性はツノを引っ込めながら此方を振り返ると、手錠を摘み、そのまま握りつぶした。

 ガタンと地面に落ちる手錠――氷太朗が恐怖を抱くには十分であった。

「ああああああああああありがとうございます!」
「ごめんなさいね、ウチの人が」
「めめめめめめめめめめ滅相もございません!」
「そんなビビらないでよ。……いや、無理か」

 先程の憤怒の表情が嘘かのような柔らかい苦笑をする女性――しかし、すぐにまた表情が変わった。
「あら? 貴方、以前どこかで会った?」
「ま、まさか。気のせいだと思いますよ。僕はここの人間じゃありませんから」
「あら、現世の方なの? それは珍しい。また狐憑きかしら?」

 狐憑き――氷太朗はすぐに、それが八〇年前に常夜に迷い込み、今は総菜屋をしている人物を指していることに気付いた。

「いえ、狐に憑かれたのかはわかりませんが……僕も何らかの原因で肉体を失った生霊らしくって……」
「そう。それは可哀想に。神社には行った?」
「行こうとしていたのですが、弥七さんに絡まれて……」
「それは悪い事をしたわね。ごめんなさい。この人、美人には目がなくて――あぁ、そう言えば自己紹介がまだだったわね。私の名前はアシ。種族は橋姫よ」

 橋姫――橋の女神であり、同時に、嫉妬深い鬼女だ。どの妖怪図鑑にも載っている有名人である。
 なるほど、先の綺麗なジャーマンスープレックスは橋姫の嫉妬の琴線に触れてしまった結果か。

「僕は坂之上氷太朗です」
「氷太朗くん、ね――お詫びの印と言ってはナンだけど、神社に着いたら私の名前を出すと良いわ。橋姫のアシの知人と言えば、神社も太三郎(タサブロウ)のジジイを出してくるわ」
「太三郎さんですね」
「変態狸だけど、一応ソイツが神社のトップだから――ソイツに言えば、たぶんスムーズに行くわ」
「それは……!」

 怪我の功名と言うべきか、雨降って地固まると言うべきか、災い転じて福となすと言うべきか。
 氷太朗は反射的に深々と頭を下げた。

「ありがとうございます!」
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