第9話 遠呂智

文字数 3,055文字

 翌日、早夜と速風は、洗濯がてら温泉に向かった。
 そのついでに獣を捕る為の罠も用意しておく。
 やはり夜明けとともに起きだして、日がまだ低いうちに村をたった。
 歩いて暫くたつと、山の麓にでる。
 海から近いが、すぐに山もあり、この漁村はその山に囲まれていた。
 天然の要塞のような作りである。

 温泉は、山の中腹に流れる川の近くにあった。
 嵐で木々が倒れている場所もあり、早夜たちは木々に気を付けながら温泉までたどりついた。
 河原の温泉は、大きな岩や石に囲まれて、もくもくと湯気がたって心なしか鼻がつんとする匂いがする。
 湯船は石を組み固めてあり、そこに湯がこんこんと湧いていた。わりと大きい。敷地は早夜の小屋よりも大きかった。
 晴天の朝、青い空に森の木々の緑、川のごうごうという音を聞いて温泉に入るのは、なんだかとても贅沢な感じがする。

「ここだ。速風、ついたよ」
「ああ、ここか、あったまりそうだ」

 濛々と立ち上る湯気に、速風も期待で笑顔になる。

「隣の川で洗濯して、身体を洗って、ここであったまるんだ。気持ちがいいよ」
「先に洗濯をしてしまおう。今の時期ならばすぐに乾く」
「ああ」

 二人は手早く着物と下ばきを脱ぎ、それを川でごしごしと洗った。
 速風は首にかけている真珠と珊瑚の首飾りを外し、岩場へと置いた。
 洗濯が終わると、開いて岩場に干して、温泉につかる。
 速風の白髪も、早夜の長い黒髪も、川で洗い温泉の熱で乾いている。 

「気持ちが良い~」
「ああ、そうだな」

 丁度いい湯加減で、二人とも満足気に身体を温めた。
 湯気の向こうに見える、速風の身体。
 引き締まっていて、胸板が厚く、逞しかった。
 早夜は自分の身体を見てみる。
 ひょろっと長くて、必要最低限の筋肉しかついていない。
 よく動く方だとは思うのだけど、速風の身体の造りとは、根本的に違う気がする。

「どうした?」
「い、いや、なんでもない」
「早夜は身体の造りが小さいな」
「ち、小さいとか言うな!」

 的確に今感じている劣等感を刺激され、過剰に反応してしまう。

「実際にわたしの腕の中にすっぽりと入ってしまう」
「言うな……」

 今度は揶揄されて、それでも本当のことなので言い返せない。
 早夜は自分の貧弱な身体を速風から隠すように温泉の中で膝を抱えた。

「かわいいな、早夜は」

 くすりと笑う速風の目が細められる。
 急に裸で一緒に湯につかっているのが、恥ずかしくなった。
 温泉から出ようかと考えて、そうすると直に裸をさらすことになるので、それも恥ずかしい。
 どうしようか考えていると、何か温泉とは違う良い香りが漂ってきた。風向きが変わったのだ。

「ああ、何か良い香りがするな」

 速風が温まりながら言った。
 早夜もその香りに気を取られた。

「何か甘い匂いがする。なんだろう」
「行ってみるか? 早夜。なんだか気になる」
「あ、ああ」

 赤くなっている顔は、温泉の熱のせいにしよう。
 そう思い、温泉から出て身体を拭くと、すでに乾いている薄い紺色の着物にそでを通す。そして長い黒髪を後ろでひとつに組み紐で結んだ。
 速風も濃緑色の着物にそでを通し、首飾りを付ける。良い香りのする方へ早夜を伴って歩いて行く。
 速風の髪は縛れる長さではないので、風に吹くままにしてあった。

 川から少し山の奥に入ったところに、広い場所があった。
 そこは早夜も知っていた場所で、森の中にあるちょっとした広場になっている。
 そこに――色とりどりの花が群生して生えていたのだ。

「うわ、綺麗……」

 風に吹かれて頭をゆらゆらとふる花達は、すでに昼になっている太陽の光を受けてまっすぐに上を向いていた。
 立ちのぼる芳香に、とても気分が良くなる。

「こんなところに花がこんなに咲いていたのか。早夜は人が悪いな。教えてくれればよかったのに」
「俺だって知らなかったよ……。ここには花なんてなかった。ただの広場だったんだ」
「初夏になって花が咲いたのではないか」
「でも……いままでだって見たこと無いよ」

 早夜と速風は感嘆の息をもらしながら、そう会話する。
 そこに頭上から声が掛かった。

「やあやあ、とうとう(あま)つ神がお出ましになったか」

 それはこの山に住む謎の青年、遠呂智(おろち)の声だ。
 幼い頃から知っている、聞きなれた声。

「遠呂智か! 姿を見せろよ。こんなところに花なんてあったっけ」

 早夜がそう叫ぶと、ざっと頭上から目の前に遠呂智が降り立った。

「その花は、そこの天つ神の髪の毛から生まれた花じゃ」

 獣のように猛々しい。赤毛で早夜と同じくらいの年格好の遠呂智が言った。

「天つ神?」
「それは……」

 天つ神。それは天上界、高天原(たかまがはら)に住む神のことだ。高天原に住む神を『(あま)つ神』、豊芦原中つ国に住む神を『(くに)つ神』と言い、天と地の神がみに守られているのが、この国だ。

「速風が『天つ神』? それは本当のことなのか?」

 茫然とそう尋ねた早夜に遠呂智は答えた。

「国つ神のわしがそう感じるんじゃ。間違いない。その証拠に、早夜にもらったそこの天つ神の髪の毛で、無数の花が生まれた」

 そう、遠呂智は国つ神だった。川の神だという。それはこの山にながれている小さな川ではなく、山のふもとを流れている大きな川の神らしい。それを早夜は昔、遠呂智から聞いた。
 髪から花が生まれた……。ついこの前切った速風の白髪。それを早夜は遠呂智に渡した。その髪で生まれたというのか。

「わたしが天つ神? 神だというのか?」

 目を見開いて遠呂智に尋ねた速風は、あっさりと彼に肯定される。

「ああ、お主は神じゃ。それも風の神じゃろう。最近は風の嵐がひどいからな。神の不在で風たちの制御がきかんのじゃろう」

 遠呂智は腰に手をあてて高々とものを言った。

「わたしが風の天つ神?」

――風の神と言えども、天照(あまてらす)様の宮でこの狼藉(ろうぜき)、許せるものではない

――追放されるのがよろしいかと

――この者の記憶をすべて奪いさり、小舟に乗せて地上界へくだせ

 とたんに、速風の頭に言葉が流れてきた。
 あまりの不快感に白い頭を抱えてうなる。

「うっ……ああっ……!」
「速風! どうした、しっかりしろ」

 早夜が速風を気遣い、顔を仰ぎ見た。
 速風は辛そうに顔をしかめている。

「大丈夫か? 風の天つ神。これを飲んで少し休むといい」

 遠呂智が竹筒を速風に差しだす。
 それを早夜が受け取ると、速風が飲みやすいように竹筒の蓋をあけ、彼をその場で座らせた。

「ただの水じゃ。飲めば少しは楽になるじゃろう」
「すまないな……」

 遠呂智がそう言うと、速風は辛そうに竹筒から水を飲んで、大きく息をつく。

「大分よくなった。心配をかけてすまない、早夜」
「いいんだよ、そんなこと。それよりも本当に大丈夫か?」
「ああ」

 速風を見て、遠呂智が不思議そうに首をかしげた。

「でもなんで高天原にいるはずの天つ神が豊芦原中つ国にいるんじゃろうか」
「……わからない……なにも覚えてないんだ」

 辛そうに速風は顔をゆがめる。

「しかし、今何か思い出しかけた……」
「何を? 速風、何か故郷のことを思い出したのか?」
「いや、何か少し……誰かの言葉を。天照さまの宮でどうとか言っていた」

 天照大神(あまてらすおおみかみ)。それは高天原を統べる太陽神の名だった。
 やはり速風は天つ神なのだ、と早夜は理解した。
 豪族なのではなく、天に住まう神だったのだ。
 早夜のような人間には、手の届かない人。いや、神。
 速風はいずれ天にある高天原に帰ってしまうのだろうか。
 速風の背を撫でながら、それはなんだかとても悲しくて嫌だと早夜は考えていた。
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