第18話 最終話 

文字数 2,948文字

 速風が行ってしまってから、季節が一つ、めぐっていた。
 今はもう秋も深い時期になっている。
 早夜は相変わらず海へ釣りに出たり、山へ獣を捕りに出かけたりしている。
 やはり、速風は帰ってこなかった。
 夜になると、途端に寂しくなる。
 クロウがいると言っても、それまで速風がいたときに感じた幸福にはかなわず、胸にあいた大きな穴は埋まらない。

「クロウ、飯だよ」
「わんっ」

 クロウに飯をだし、自分のものも用意して、早夜は一人で板の間に座った。

 寂しくて泣いた日もあった。
 しかし、泣いても何も変わらなかった。
 そして、早夜は生きて行かなくてはいけなかった。
 速風がいなくても、勝手に腹は減るし、眠くなる。
 そう自然のままに任せて、一つ季節がめぐった。

 今も早夜の胸には、速風がくれた珊瑚と真珠の首飾りがかけてある。
 今日は、またあの常世の国の商人、麗宝に逢い、「売ってくれ」と迫られた。
 麗宝は臣たちがくることを知って、さっさと隣村へと避難していたらしい。
 日雫村(ひだむら)でことが終わり、まだ速風の持っていたこの首飾りが諦めきれなくて、戻ってきたのだ。

『なあ、それ売ってくれよ、早夜』
『駄目だってば。これは速風との思い出の品なんだから』
『速風ってあの背の高いお兄さんでしょ? そういえば何処に行ったんだ? いつも一緒にいたのに』

 クスリと麗宝は笑んだ。一時しか村にいなかった麗宝に揶揄されるほど、自分たちは一緒にいたのか、と改めて切なくなる。

『遠くに帰ったんだ。そこが速風の居場所だから』
『ふーん、良く分かんないけど、元気だしなよ』
『ありがとう。だから、この首飾りは売らないよ』
『ちぇっ、せっかく戻ってきたのに。でもそういう理由じゃ、しょうがないねえ。売ってくれれば大儲けなのにな』 

 残念そうな顔で早夜を可愛らしく睨んだ。あまりにも正直な麗宝に、早夜も笑顔になる。

『残念だったな』
『本当さ、まったく』 

 昼間に麗宝とこんなやり取りがあり、彼女はこの首飾りを諦めてくれた。
 そして、早夜はいつも首からかけているこの首飾りを、もうそろそろ外そうと思っていた。
 人目について欲しがられるのも困るからだ。これは早夜と速風の思い出の品だ。
 速風の教えてくれた『言霊』を思い出し、首飾りに向けて「早く帰ってきて」と願いを込めて呟いたりもしたが、速風は帰ってはこなかった。

 もう潮時だ。
 忘れるんだ。
 速風は神であって、人間ではない。
 住む世界が違うのだ。

 早夜はそう自分にいいきかせ、一人の食事を終え、クロウと自分の使った器を片付けて、今日は寝ることにした。
 速風との思い出の品であるこの首飾りを外すのは、身を切るようにこころが痛いが、それもけじめだ。
 でもせめて明日一日だけは待ってみよう。
 最後の悪あがきのように早夜は願いを込めた。

「帰ってきて、速風」

 言霊。想いが宿るんだろ。
 心のなかでそう呟いて、首飾りに口づけをした。



 翌日の早朝、まだ暗い時刻。水が無くて山の井戸に水を汲みに行こうとした早夜は、海の方が淡く光っているのを見た。
 目を細めてそれを凝視する。
 するとそれが、速風が行ってしまったときに掛かっていた『天浮橋(あめのうきはし)』であることが分かった。きらきらと金の粉をふいたように光り輝いている。

 そしてそこを通ってくる、群青色の着物を着た、小さな人影を早夜は見た。
 目を疑う。
 あれは、速風ではないのか?
 そう思うと同時に早夜は海岸へ走った。
 がむしゃらに。足がもつれそうになる。
 海岸へつくころには、その群青色の着物を着た人物は、波打ち際に立っていた。

「速風!」

 早夜は声の限りに叫んだ。
 叫んで、彼の胸に飛び込んで、彼を掻き抱いた。

「速風……! 本当に速風だよな! 夢じゃないよな!」
「夢じゃない、早夜。わたしはそなたを迎えに来たんだ」

 寂しくて仕方がなかった夏の間。
 速風が戻ってきてくれるなら、なんでもすると思った。

「俺、速風が教えてくれた『言霊』で、速風に逢いたいって何度も願った」
「ああ。待たせて悪かった」
「本当に、願いは叶うんだな!」

 早夜の頬に幾筋もの涙が流れて行く。
 速風は優しく両手で早夜の頬を包み込むと、しっとりと唇を重ねた。

 ☆☆☆

 少し前のこと。
 高天原では、意気消沈した速風に、須佐が困っていた。
 何も手につかず、ひがな一日ぼうっと自分の宮の庭をみている。
 そんな主を見ていられず、ミウとタウが須佐に相談したのだ。
 それを須佐は天照に報告した。
 天照は速風をまた宮に召喚すると、一つ、打開策を打ち出した。

「速風。そんなに地上界に残してきた者が恋しいなら、この高天原に呼びよせてはどうだ」

 と。

「天照さま。そんなことが許されるのですか? 彼は人間です」
「人間であっても、彼はすでに神であるお主の精を受けていると聞いた」

 言ったのは須佐だな、と速風は少し赤くなった。

「神の精を受けていれば、人間でも天浮橋を渡れるであろう。そして高天原に順応できる」

 天照は氷のような美貌に笑みをはき、静かに速風を見た。  

「あとは好きにすれば良いよ」

 ☆☆☆

 波が打ち寄せる海岸で、早夜と速風は堅く抱き合っていた。
 長い口づけをし、唇を離しても、また速風は早夜の唇を追いかける。

「んっ……」

 艶のある声が早夜から漏れる。
 二人は何度も何度も口づけを繰り返した。
 陽がだんだんと昇って行く。
 想いが落ち着くまで口づけをし合った二人は、唇を離して見つめ合う。
 速風は手の平で早夜の顔を優しく撫でた。

「天照さまの許可が出たんだ。早夜を高天原へ連れてきてもいいと」
「ちょっ……ちょっと待って、俺、高天原に行くの?」
「ああ、来てほしい。早夜には未知の世界だろうが、悪い所じゃない。そこで早夜の好きにすればいい。そしてわたしと一緒に暮そう。朝は共に起きて、夜には愛し合い、共に寝て、食事をし、共に生きて行こう」
「はやかぜ……」

 速風はまだ早夜の胸に掛かっている首飾りを見て、彼の耳に囁いた。

「早夜、まだ首飾りをしていてくれたんだな」
「うん、速風が帰ってこないから、もう外そうと思ってたんだけどね」
「その前に帰ってきた」
「うん」

 速風の優しい瞳が早夜のこころを絡め取る。

「速風、高天原に行くのに、一つだけ条件がある」
「なんだ?」
「クロウもつれてっていいか?」

 速風はあごに手をあてて考え込み、そして微笑む。

「クロウか……まあ、大丈夫だろう」

 早夜は指笛を吹いた。ピーと天高く響く音に、クロウが早夜の元に走ってくる。

 天浮橋が沖へ向かってきらりと光った。
 速風が橋へ登ると、早夜に手を伸ばす。

「わたしと来てくれ」
「うん。行くよ、速風とならどこまでも。だって俺、ずっと速風が帰ってきてくれるの待ってたんだから」

 そう、速風が戻ってきてくれるなら、なんでもすると早夜は思ったのだ。

 早夜は差し伸ばされた速風の手をとる。
 まだ、誰も起きだしていない薄暗い早朝の海。
 そこにかかる金色の橋を超えて、早夜と速風は高天原へと歩いて行く。
 その後ろには、茶色い犬がトコトコと二人のあとをついていった。

 人間に魅せられた神と、神に魅せられた人間が、再会を喜び楽しそうに話しながら歩いて行く。天浮橋をゆっくりと高天原へ向かって渡って行った。


 おわり
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