第1話 盛夏、アーシャ湖にて(1)

文字数 1,039文字

 降り注ぐ夏の日差しに、湖上の(もや)が揺れる。

 山道ではうるさいほどに聞こえていた小鳥のさえずりも今は遠く感じられた。凍りついたアーシャ湖の上にはひやりとした風が流れ、野生の獣たちはその異様さに数か月前から近寄ることもない。代わりに辺りから聞こえるのはぴしり、ぴしりと何かがきしむような物音だった。

「……この音、氷が溶けかかってる音か」

 肌にべたりとからみつく空気の中で、青年が呟いた。
 短い金髪と、夏空のようにくっきりとした青い瞳。アーシャ湖周辺の地図を手に進むのは招来術師(しょうらいじゅつし)のエミリオだった。
 足元を歩いていた黒猫が短く鳴く。丸い薄紫(はくし)の瞳を見下ろしたエミリオは湿気と汗にべたつく顔を腕で拭いながら息を吐いた。
「フィルも、何も見つけられないみたいです。サリエートが湖を去ったというのは本当のようですね」

 すぐ側で小さな舌打ちの音が響く。エミリオの視線が黒猫から隣を歩く男へと向いた。
「……誰の仕業か知らないが、俺たちの標的(えもの)を横取りしやがってな」
 そう言って癖の強い黒髪をかき上げた男の襟には、エミリオと同じく金のバッチが留められている。花の形は金蓮花(きんれんか)だ。隣に連れているのは雄獅子(おじし)の体に(わし)の頭を乗せた大型の招来獣(しょうらいじゅう)で、一足ごとに鋭い視線を周囲に向けている。

「血の気が多いことを言うなあ、サザミ殿は」
 エミリオは苦笑しながら男に声をかけた。
「俺としては、サリエートと真っ向から闘わずに済んで良かったなって思いますけど。せっかくの命なんですから、もっと大切にしないと」

 ぎり、と歯を噛んだサザミは横目でエミリオを睨んだ。
 二人の年齢(とし)は同じく二十一、金の花を得た時期も招来獣討伐に駆り出された時期もそう変わらない同期と呼べる間柄だ。フィリエル工房内で顔を合わせることは(まれ)だったが、一人また一人と術師が減ってゆく混迷期を共に抜け、有望な若手として周囲からは一括りに見られることも多かった。……それはサザミにとって、絶妙に気に入らない評価でもあったのだが。

 鷲頭の招来獣が主人を気遣うようにそっと(くちばし)を肩口に寄せる。それを見たエミリオはへらりと笑って言った。
「グリミアは主人想いだなあ。強くて頼もしい、良い招来獣ですね」
「ああそうだなあ、お前のところは弱っちそうな黒猫一匹だもんなあ……!」
 サザミの言葉には隠すことのない苛立ちが含まれている。赤茶の瞳に睨まれた黒猫は、心底迷惑そうな顔でサザミから距離をとった。


イラスト・管澤捻
(https://twitter.com/KansawaNejiri)

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登場人物紹介

名前 : トレンスキー・エル・デア・ルートポート

誕生日: 10月8日

誕生花: 金木犀(花言葉は謙遜、真実、陶酔)

好物 : 酒類、特に赤ワイン


 クーウェルコルトの若き女四精術師。お人好しで少しうっかり者。弟子の前ではやや格好つけていたが、最近では肩の力が抜けて素の状態を出すようになったらしい。

 普段は彼女の決定で行く先が決まることが多いが、今回は飛びだしていったラウエルを追ってアルニア領カジャの町へと向かう。

名前 :アンティ・アレット

誕生日:2月23日

誕生花:ポピー(花言葉は忘却、想像力、恋の予感)

好物 :干した苺


 トレンスキーの弟子。ようやく師匠の誤解も解けて安心したらしい。大人しい性格は変わらないが、最近は周りの大人たち(?)に積極的に質問をしたりする好奇心旺盛な一面も見られる。

名前 :ハヴィク・ラウエル・イル・メルイーシャ

誕生日:7月2日

誕生花:クレマチス(花言葉は精神の美、旅人の喜び、策略)

好物 :アップルパイ


 招来術師シウル・フィーリス・イル・メルイーシャの創った招来獣。一行の荷物持ちや話を聞く係になりがち。今回は亡き主の名を騙る人物がいるとのことで単身アルニア領へと向かった。基本的に温厚で清廉なのは、亡き主の意向を汲んでいるかららしい。

名前 :ゲルディーク・イアン・リレッダ

誕生日:9月18日

誕生花:アザミ(花言葉は独立、報復、人間嫌い)

好物 :ハーブティー


 カルア・マグダから来た隻眼の四精術師。気になる人間に対しては何だかんだ言って世話を焼きがち。情報収集から薬の調合などのサポートが得意。今回も一行と共にアルニア領へと旅することになる。

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