第9話 思索と痕跡

文字数 1,291文字

 ようやく天幕(てんまく)から出たエミリオが息を吐くと、昼の熱気を散らすような風がさわりと頬をかすめた。
 月は太く、足元は危なげない程度に見渡せる。白く映し出されたアーシャ湖の薄靄(うすもや)を遠目に眺めたエミリオは、やがて野営用の天幕から遠ざかるように歩き出した。

 思ったよりも(とが)めは少なかったな、とエミリオは思い返す。
 フィリエル工房では素行よりも年齢よりも、成果を第一に重視される。やや横柄なサザミの態度も、他工房から来たエミリオへの信用も、討伐数一位と二位という実績の上に成り立つものだ。
 先ほどのトビアの言動を見るに、自分はまだ工房にとって有用と判断されているようだった。切り捨てたくとも切り捨てることができない程に人材が不足しているだけかもしれないが。

 考えながら足を進めていると、聞き慣れた鳴き声が耳に届いた。辺りを見回し、木立の根元に黒猫の姿を見つけたエミリオが表情をふわりと緩める。
「フィル、お疲れ」
 近づいたエミリオは幹に背を預けるようにして座った。寄ってきた黒猫の額を撫でようと手を伸ばしたが、その口元を見て不思議そうな顔になる。
「どうしたんだ、それ?」
 黒猫はくわえていた包みを地面に置くと、すいと首を伸ばしてアーシャ湖を眺めた。
「湖で拾ってきたのか、ずいぶん冒険してきたんだなぁ」
 感心したように言ってエミリオが包みを手に取る。やや湿った青い布を広げると、その面持ちがふと真剣なものに変わった。
「……四精石(しせいせき)、か」
 布に包まれていたのは丁寧に()()けられた水精石(すいせいせき)のかけらだった。
 アーシャ湖を訪れたのが四精術師(しせいじゅつし)だったという確かな証拠だ。しかし、サリエートと対峙するにしては心もとない量に見える。せいぜい目くらましか護身用といったところだろう。

 包みを凝視するエミリオの隣で、不意に黒猫が立ち上がって小さく鳴いた。
 エミリオがぱっと顔を上げる。天幕の灯りが漏れる道の上に、昼間からすっかり見慣れた一人と一頭の影が見えた。

「こんな所で、何してんだよ」
 木立の前まで来たサザミが、座るエミリオを見下ろして短く言った。
「その、フィルを迎えに。サザミ殿こそどうしたんです?」
 エミリオが尋ねると、サザミは眉を寄せたまま無言で右腕を突き出した。見ればその手には煮込みの入った大椀がある。
 エミリオはきょとんと目を見張ってサザミを見上げた。
「もしかして、俺の分ですか?」
「片づけがはかどらないって当番の奴にぼやかれたんだ。……飯抜きで、さっきみたいな知恵が回らなくなっても困るだろうし」
 サザミの仏頂面(ぶっちょうづら)をまじまじと眺めたエミリオは、やがて破顔して言った。
「ありがとうございます」
「ちゃんと洗って返せってさ。トビア様、そういうのうるさいから」
「ああ。それ、分かる気がします」
 頷いたエミリオは手元の布を素早く包み直した。見ていたサザミが片眉を上げる。
「何だよ、それ?」
「いえ、何でも」

 言った瞬間、隣にいる黒猫の尾がぱたりと強くエミリオを叩いた。横目で見た薄紫の瞳には呆れたような表情が浮かんでいる。
 包みを懐にしまったエミリオは、椀を受け取りながらサザミに言った。

「何でもありませんよ、サザミ殿」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

名前 : トレンスキー・エル・デア・ルートポート

誕生日: 10月8日

誕生花: 金木犀(花言葉は謙遜、真実、陶酔)

好物 : 酒類、特に赤ワイン


 クーウェルコルトの若き女四精術師。お人好しで少しうっかり者。弟子の前ではやや格好つけていたが、最近では肩の力が抜けて素の状態を出すようになったらしい。

 普段は彼女の決定で行く先が決まることが多いが、今回は飛びだしていったラウエルを追ってアルニア領カジャの町へと向かう。

名前 :アンティ・アレット

誕生日:2月23日

誕生花:ポピー(花言葉は忘却、想像力、恋の予感)

好物 :干した苺


 トレンスキーの弟子。ようやく師匠の誤解も解けて安心したらしい。大人しい性格は変わらないが、最近は周りの大人たち(?)に積極的に質問をしたりする好奇心旺盛な一面も見られる。

名前 :ハヴィク・ラウエル・イル・メルイーシャ

誕生日:7月2日

誕生花:クレマチス(花言葉は精神の美、旅人の喜び、策略)

好物 :アップルパイ


 招来術師シウル・フィーリス・イル・メルイーシャの創った招来獣。一行の荷物持ちや話を聞く係になりがち。今回は亡き主の名を騙る人物がいるとのことで単身アルニア領へと向かった。基本的に温厚で清廉なのは、亡き主の意向を汲んでいるかららしい。

名前 :ゲルディーク・イアン・リレッダ

誕生日:9月18日

誕生花:アザミ(花言葉は独立、報復、人間嫌い)

好物 :ハーブティー


 カルア・マグダから来た隻眼の四精術師。気になる人間に対しては何だかんだ言って世話を焼きがち。情報収集から薬の調合などのサポートが得意。今回も一行と共にアルニア領へと旅することになる。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み