傘を持つ女

文字数 1,649文字




 漆黒の闇の中に降りしきる雨は、やむことを忘れたように激しく、そして突き刺さるように冷たかった。
 今でも時々思い出す。あの女は雨の中にひとり佇んでいた。
 女の手にしたあの傘が、ぼんやりとかすむ街灯の下でただただ妖しく、そして鮮やかに浮かび上がっていたのを、私は今でもはっきりと思い出す。深紅の小さな傘だった。

 運が悪かっただけだ。当時の私はとても疲れていた。正直何がどうなっても、よかったのだ。
 間が悪かっただけだ。あの日、あの雨の中、たまたま鉢合わせてしまったのだ。きっと誰でもよかったのだ。

 死ぬのは誰でも、よかったのだ。

 当時の私はとても疲れていた。
 何年も連れ添った恋人と別れた。些細なすれ違いだった。結婚するものとばかり思っていた相手だった。このまま死ぬまで、寄り添う相手だとばかり思っていた。結局私ひとりが、身一つで同居していた家を出た。
 私はとても疲れていた。出会うことは簡単なのに、どうして別れはこれほどまでに人を疲弊させるのだろうか。
 ここ半年は、終電で帰ればむしろ早い方だった。寝静まった住宅街でタクシーを降りる時、常に近所の目が気になり後ろめたい思いをした。
 私はとても疲れていた。朝出会う人々の目が、昨夜の車の音のせいで寝不足なのだ、と私を詰っていた。
 もしも明日、私がこれまで積み重ねてきた世界が崩壊するとしても、それでも別にかまわない。と、そう思っていた。

 一体何の悪戯だったのだろう。
 夕日を眺めながら帰路を急ぐ私。
 夕食の食材を買っている私。 
 ……刃物を、買っている私。
 一体何の悪戯だったのだろう。
 突然雨が降り出した。激しい雨だった。私は傘を持っていなかった。女がふらりと目の前に現れた。
 私は何かを感じた。鋭く激しい、何かだった。

 死体はその夜のうちに見つかった。雨はとうにやみ、街灯の光がその死体を静かに照らしていた。深夜の住宅街が一気に喧噪へと飲みこまれていく様を、私はまるで他人事のように眺めていたのを覚えている。
 無数の車。無数の赤いランプ。無数の野次馬。そしてざわめき。
 それは、常日頃テレビを通して見る光景そのものだった。これまでずっとテレビの向こう側の世界の話と思っていた、その光景だった。
 翌日には死体の名前を誰もが知ることになった。そう、死体にもきちんとした名前があり、家族がいた。働く職場があった。彼らはみな涙をこらえ、誰にともなく憤りをぶつけていた。どんな人間にでも、その死を悲しむ者はいるのだ。社会の中で誰かと関わり合い、生きていたのだ。たくさんのカメラとマイクを前に、錯乱した肉親が錯乱したことを言っている。それさえもが、愛おしく見えた。「あの子はまだ越してきたばかりだったのに。部屋には本当に何もなくて。この数日一体何を食べて暮らしていたのかと思うと、それが悔しくて……」
 数日のうちに、死体が見つかった場所は花であふれた。見ず知らずの者ですらその死を悲しみ、恐れた。
 本当に孤独な人間などいないのかもしれない。私はそんなことをふと思った。
 そしてひと月が経つと、もう誰も死体のことを振り返らなくなった。
 人は呼吸を止めた時に死ぬのではない。

 忘れ去られた時に、死ぬのだ。
 
 漆黒の闇の中に降りしきる雨は、やむことを忘れたように激しく、そして突き刺さるように冷たかった 。傘を忘れた哀れな私は、哀れ……そのように見えるのだろうか。……いや、そう願っても虚しいだけだ。もう、遅い。遅すぎた。
 私は空を見上げた。
 今でも時々思い出す。女は雨の中にひとり佇んでいた。
 女の手にしたあの傘が、ぼんやりとかすむ街灯の下でただただ妖しく、鮮やかに浮かび上がっていたのを思い出す。結局、あの女は何者だったのだろうか。
 あの白い日傘を、私の血で鮮やかに染めた、あの女は……。
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