お父さんは労わりたい!

文字数 2,025文字

 長年子宝に恵まれなかった同僚に待望の長男が生まれ、そいつが飲みの席で「先日の母の日にようやく妻への感謝ができた!」と、嬉しそうに報告したもんだから俺は怪訝な顔して「妻は妻であって母ではないぞ」と嘯いてやった。そしたらそいつは驚いたように、「どこかの角度から見て母なら、母でいい」と真面目くさった顔をした。冗談のつもりだったんだが。
「そっちはもう高校生だっけ?」
 赤ん坊の写真を愛おしげに眺めながら呟く同僚は、続けて「ちゃんと奥さんへの感謝してるのか?」と俺に問うてきた。「順当にいけば親は先に死ぬし子供は独立する。最後に残るのは奥さんなんだ。愛想尽かされハイサヨウナラにならん程度に日頃の感謝はするべきだ」
「しかし母の日は先月だったしな」
 ちょいとメンドクサイことになったぞと逃げ腰になる俺に、やつはそれでも生真面目だった。「イベントの時だけ感謝したって仕方ないだろ。こういうのは日々積み重ねてこそなんぼだぞ」
 ……まあ確かに、一理ある。
 俺も新婚の頃は誕生日にクリスマスに記念日にとそこそこ頑張ってきたはずだが、娘が生まれてからは家庭の中心は子供に移ってしまったし、クリスマスも誕生日も子供のためのイベントになり果てた。今や結婚記念日に妻は娘と出かける有様で、半身であるはずの俺なんて影の薄きこと空気のごとし。先日も脱サラを目論んだ友人が妻ブロックの果てに三行半を突きつけられていたし案外俺も他人事じゃない。
 とはいえ、感謝と言っても何をすりゃ?
 こういうのはイベントにかこつけるのが手っ取り早いが、母の日は過ぎたばかり、クリスマスはまだ先、結婚記念日と誕生日は1月だ。
「できるところからでいいんだって」
 同僚のアドバイスを受けて「そうだよな」と俺も思い、早速翌朝から実践してみることにした。
 今までは起き抜けに出された朝食を黙々と口に運んでいた俺が、その日わずかばかりの勇気と恥じらいでもって言ってみたのだ。
「いつもありがとう」
「は?」
「え?」
 反応に驚いて顔を上げると、少しくらい喜ぶかと思った妻が目を真ん丸に見開いている。「やだ、どうしたの?」
「……いや」
「熱でもある?」
「ない」
「そう。気がふれたかと思った」
 そりゃ言いすぎだ。
 結局気まずい空気になってしまった。
 家を出る時にふと思い、「今日は商談で遠出するから遅くなる。夕食は要らない」と伝えたら、これまた妻は宇宙人でも見るような顔をした。娘に至っては学生鞄を抱えて凍り付いている。
「いや、そのさ」と、しどろもどろに俺は言い繕った。「そういうことは早く言えっていつも」
「言ってるけど言った(ためし)がないじゃない」
「だから今日くらいはと思っ」
「あなた誰なの?」
 どうしてそうなる!
 ついカっとなって「俺は俺だ!」と怒鳴ってしまった。いや、これじゃ感謝どころか俺がキレてるだけだ。
 うまくいかないものだなと昼休みに社内で愚痴をこぼしたら、「まあ、そういうときはおみやげ作戦ですよ」と後輩からのアドバイス。
「おみやげ?」
「ケーキの一つでも買って帰ったら喜びます。女の人は甘いものが好きですから」
「ああ、うちの奥さんも確かにな」
 というわけで、商談が終わったあと閉店ギリギリでなんとか店に飛び込み唯一残っていたシフォンケーキを買った。これでいいだろうとその時は満足だった。しかし、だ。
 ケーキの箱を見た妻は驚きも喜びもせず、そわそわと不安そうに顔を曇らせた。
「何だ、嬉しくないのか?」
 さすがに憮然となりそう言うと、妻は「ケーキは嬉しい」と呟いた。「でも、どういう風の吹きまわし?」
「どうって?」
「だって今まで飴玉の一つも買ってくれたことがなかったじゃない」
「そんなことはないだろう。指輪だってバッグだって、それにたまの食事だって」
「全部子供が生まれる前の話じゃない」
「…………」
「やだわあなた、頭でも打ったんじゃないの?」と言った妻は、すぐにへらっと笑いながらこう言った。「気持ち悪いわ」
 お、俺の、感謝が気持ち悪いだと?
 これだけ

、気持ち悪いだと?
「どうしてわからないんだ!」思わず俺は、憤然と叫んでいた。「もう、いい!」
 言ってからしまったと思ったが遅かった。
 翌日は土曜日だったが、不機嫌な俺を置いて妻たちはそそくさと買い物に出かけて行った。特に予定も入れていなかった俺はテレビを見ながら無聊を慰めて、考えてみれば形ばかりで感謝の気持ちがそっちのけだったと反省の気持ちにもなっていた。
 だから驚いた。
 豪華な夕飯に、プレゼントの財布。何が起きたのかわからなかった。
「一日早いけど」と妻は言った。「父の日よ」
 今まで祝ってあげなくて悪かったわよ。「でも、あんな催促もないと思わない?」
 そういえば明日は父の日だったか。そんなつもりではなかったのだが。
 俺は新しい財布に破顔しながら頭を掻いた。まあいいか、結果良しってことで。


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初稿:2021年4月29日
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