紙芝居屋と少女
文字数 2,000文字
話の前にはねっとりとした水飴を。
話の後にはポンと弾けたポン菓子を。
もう何年も買い手が現れない。私は公園の隅で、空気を相手に声を張り上げる。
これも時代だよ、と、同業者が一人辞め二人辞め。彼らは今頃どうしているのか、家族との団欒を楽しんでいるのか。そうであって欲しい、と、年季の入った紙芝居に目を落とす。
お気に入りの『黄金バット』。子供たちにも人気があった。
骸骨の主人公は少し不気味な正義の味方で、子供たちは私の出す声音に目を輝かせ、食い入るように話に夢中になってくれた。黄金丸を繰り出せば黄色い声が弾け飛ぶ。
この骸骨の顔をまるで別人の顔に描き換えた時は本当に悲しかったと、あれを言ったのは源さんだったか。私も横でうんうんと頷いて彼の話を聞いたものだが、あの時代のことを思い出そうとするとまるで実感が湧いてこない。私のは、今も昔も変わらず当時の骸骨だ。
さて、と、今日も一息。私は手に馴染んだ風呂敷を掴み、ゆっくりと公園のベンチに座り込んだ。
紙芝居を置いていた台はどこにやってしまったものか。
水飴もないし、ポン菓子も、材料もなければ機械もない。あれらはいつから用意しなく、いや、用意できなくなったのか。記憶はまるで、雲のようだ。
「綺麗な風呂敷ね」と、突然声が聞こえて驚き顔を上げると、そこには忘却の靄を揺する少女が一人立っていた。誰だろうか。かつてのお客さんにいただろうか。かつてのお客さんの子供だろうか。
ふわりと浮かんだ疑問を振り切って、「これかい?」と、私は言った。「綺麗だろう? 娘が選んでくれたんだ」
「お花?」
「そう、桔梗」
「桔梗……」と、少女は目を輝かせて風呂敷に見入り、それからすぐに顔を上げて私を見た。「中には何が入っているの?」
私は紙芝居を取り出した。
「わあ、怖い絵! 骸骨だ!」と、少女が叫ぶ。
「これは怖い絵だけど、この骸骨は正義の味方なんだ」私は笑った。「黄金バットというんだよ」
「おじさん、幼稚園の先生なの?」
その問いかけに私は少し面食らって、「それは何だい?」と、問い返してしまった。少女は「だって」と小さく呟き、「紙芝居を読んでくれるのは幼稚園の先生でしょ」と、答える。
「先生か」と、私は言った。「近頃は先生も紙芝居を読んでくれるのかい?」
「そうだよ。ご本を読んでくれることもあるよ、ママみたいに。でも紙芝居を読んでくれるのは先生だけだよ」
少女は溌溂とした笑顔で頷いた。
「そうかい」と、私も微笑む。「でも私は先生ではないんだよ。紙芝居屋さんなんだ」
「紙芝居屋さん?」
「そうだよ。紙芝居を読んだり、水飴やポン菓子を売ったりしているんだよ」
「ポン菓子?」
「おや、ポン菓子を知らないか?」
「うん、知らない」
「美味しいよ」
「買う!」
「ああ、今日は用意していないんだ、ごめんなあ」
「それなら今度売ってくれる?」
「ああ、そうしよう。次に来るときは必ず用意するよ」私はなんだか胸が熱くなった。「どうだい、紙芝居を聞いていかないかい?」
「うん」と頷いた少女は、私の手にした紙芝居を見て言った。「その紙芝居どうしたの?」
「どうしたって?」
「だって、骸骨の周りにいっぱいチョウチョが飛んでるよ」
「ああ」と、私は笑った。「娘が落書きしてしまったんだよ」
黄金バットは正義の味方だから、蝶が寄ってくるんだ、なんて言った娘の顔を懐かしく……思い出せないことに気付いて私は愕然とした。
目の前の少女が言う。「そうか、正義の味方だからチョウチョも嬉しいんだね」と。
私は驚いた。その驚きに答えが出るより先に少女は言った。
「あ、ママが呼んでる。ごめんねおじさん」
「ああ、帰るのかい?」
「うん、紙芝居、今度聞かせてくれる?」
「もちろん」
「ポン菓子もだよ」
「ああ」
少女は駆け出していく。「おじさん、体に気を付けてね!」
──気を付けてね!
それを聞いた瞬間に私の記憶の霧が晴れた。気を付けてと私を送り出した娘。空襲警報。燃える町。ああ、と私は呻いた。面影があるはずだ。あの子は……。
私の頬を涙が伝い、落ちていった。
私はこれだけが、ずっと気がかりでこの仕事が辞められなかったのだ。
「サチコ、どうしたの?」
「随分前に、ここでおじさんに紙芝居を見せてもらったの」
「おじさん?」
「そう、ポン菓子今度作ってくれるって、そう言ったのに、結局あれから見かけなくて。顔色が悪かったから心配してるんだけど……」
「へえ」
「黄金バットの紙芝居でね、綺麗な桔梗の風呂敷に包んであって、黄金バットの周りにはチョウチョが飛んでて、子供が落書きしちゃったんだって……おばあちゃん、どうしたの?」
「なんでもないの」
「泣いてるのに?」
「そうね。懐かしくてね」
「どうして?」
「いつか教えてあげるわ、紙芝居屋さんのお話。物の無い中せめて紙芝居はと出かけていって、子供たちを火の海から守って死んだ、正義のヒーローのお話をね」