第2話 東京の桜

文字数 1,689文字

 東京には「花のお江戸」と言われるように数々の桜の名所がある。
 花のお江戸づくりは、家康、秀忠、家光の三代にわたって将軍に仕えた天台宗・天海僧正(慈眼大師)と儒学者・林羅山に始まるという。
 天海は家光に江戸城の鬼門にあたる場所を守護するため、上野に寛永寺を築くことを進言し、これを実現した。この寛永寺の修景にと松やかえでとともに、桜も植えていった。
 林羅山は同じく家光の時世に、尾張徳川家初代藩主義直の援助により、上野の邸内に孔子廟を創建する(のちに湯島に移転)。その垣根に沿って名のある桜を百余種植えた。現在、桜ヶ岡と呼んでいる西郷隆盛像のある一帯だ。
 同じ頃、上野に建ち並ぶ堂塔伽藍の間に、大和の吉野山から寄せられた山桜が植えられ、彩りを増やし、花の名所が形成されていった。
 しかし、なんと言っても、花のお江戸づくりの第一人者は八代将軍吉宗だ。
 江戸が百万都市となり、市民の行楽の欲求も高まってきた享保年間、時代のニーズに応える。
 就任してすぐに行うのが鷹狩の復活だ。鷹場の再整備が急ピッチで進められる。この鷹場内に庶民のための桜の園地をつくっていく。
 1717(享保2)年、隅田川の土手への桜の植樹(のちに「墨堤(ぼくてい)の桜」となる)に始まり、品川・御殿山、飛鳥山、中野と江戸の東西南北にバランスよく配置していく。
 特に、飛鳥山では全山に桜を植樹し、野芝の植え付けなどの植栽整備も行われた。周辺に水茶屋の営業が許可され、行楽地としての体制を整えた上で庶民に開放した。
 1737(元文2)年3月11日には、将軍自らが側近の家臣を連れて、終日、大規模な無礼講の花見を行った。衆人環視の中で数人に仮装させて町を歩かせたりして、飛鳥山が万人にとって、気兼ねなく遊べる地であることを強烈に印象付けるような、効果的なプロモーションも行っている。
 落語「長屋の花見」で庶民に浸透した様子が語られている。

 「おう、きのう飛鳥山へ行ったが、たいへんな人だぜ、仮装やなんか出ておもしろかった」

 「民と楽をともにせらるヽ」という吉宗の理想が、桜という自然の恵みを通じて実現された。
 花見の季節には江戸市民が集中し、混雑を極めていた上野だが、将軍家由来の寺社のある浄域で制限も厳しかったため人出は次第に減り、夜桜まで楽しめる飛鳥山へと移っていったという。
 渋沢栄一がこの地に邸を構えたのも、この庶民性を好んでのことではないだろうか。

 明治維新にタイミングを合わせたかのようにして登場する桜が「ソメイヨシノ」だ。
 染井村(現在の豊島区駒込)に集落を作っていた造園師や植木職人たちによって育成され、「吉野桜」として売り出されていた。1900年に地名を入れて「染井吉野」を正式名称とした。
 そういえば、山手線の駒込駅の発車メロディは「さくらさくら」になっている。
 染井村から出た桜は「パッと咲く」花としてたちまち全国に広まり、桜の中では8、9割を占めるまでになっている。
 ソメイヨシノは種子では増えず、すべては人の手によって接木されて増えている。
 すべてのソメイヨシノが、元をたどれば数本の原木にたどり着くクローンということになる。これが気候などが同じ条件のところで一斉に咲き、一斉に散る要因となっている。
 その見事な咲きぶりや華麗さと成長の早さが人気となって、街路樹として利用されたり、千鳥ヶ淵、荒川、江戸川、中川、神田川、石神井川の河畔、公園・庭園などに植栽されたりするなどして、花見の名所を形成していった。

 1873(明治6)年、太政官布達によって日本で初めて公園と呼ばれる場所が生まれる。この布達で指定されたのは、東京では上野(寛永寺)、芝(増上寺)、深川(富岡八幡宮)、浅草(浅草寺)、飛鳥山(金輪寺)の5境内地で、いずれも桜の名所として引き継がれていったものだ。
 その後、麹町公園、愛宕公園、坂本公園が指定されているが、いずれも桜の景勝地として名を馳せた場所だ。
 1903(明治36)年には日比谷公園がわが国初の洋風近代式公園として開園する。当時は桜が数多く植えられ、花見の名所でもあったという。
 
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