第3話 よみがえる東京の桜

文字数 1,826文字

 1923(大正12)年9月1日発生の関東大地震が、こうして育んできた都市の風景を一変させる。
 地震による地盤の亀裂や建築物の倒壊もあるが、最も甚大な被害をもたらしたのは地震発生後130か所から出た火災によるものだった。
 当時の東京市域の約5割、戸数では約7割が焼失し、死者は全体で99,331人にものぼっている((財)東京都慰霊教会発行資料による)。
 震災後に公園・広場に避難した市民はおよそ157万人、当時の東京全市民の約7割を占めた。
 東京市が開園していた公園数は27、42万4,400余坪の面積だった。
 上野公園には50万人、芝公園に20万人、日比谷公園には15万人が避難した。元陸軍被服廠跡地には5万人が避難したが、その後の猛火で約4万4千人が焼死した。被服廠跡地は、現在、都立横網町公園となり、震災犠牲者の霊を祀るための東京都慰霊堂と復興記念館が建設されている。

  被服廠跡地のような不幸な場合もあったが、多くの公園や広場は火災の焼け止まりの役割を果たした。公園などの公共空地の重要性が改めて認識され、その後の帝都復興事業(1924~1930年)において、三大公園(隅田公園、錦糸公園、浜町公園)と52の小公園が新設された。

 隅田公園は三つのうち最大のものだ。
 隅田川をさし挟んで両岸相対する日本初のリバーサイドパークで、同じ帝都復興事業で新設された横浜の山下公園とともにウォーターフロントの市民利用を初めて実現した公園だった。
 1923年11月の帝都復興院理事会で決定された原案では、隅田公園の設置理由を次のように述べている。

 「是れ平時に在りては四時行楽の地となり一朝非常時に際しては群衆の避難地たらしめんとす。殊に此処は古来史跡に富めるが故に此等旧跡を保存すると同時に東京唯一の臨川公園たらしむを得べし」(越澤明著『東京都市計画物語』ちくま学芸文庫2001年、から引用)。

 この設計思想のもとで、「墨堤の桜」の復活として、墨田区側に延長約600間(1,100メートル)の並木道路にソメイヨシノ約400本が植栽された。
 並木道路は、車道(幅6間)が1本、歩道(幅2間半)が2本、そして河岸沿いの幅2間の遊歩道から成り、その間は幅1間半の芝生帯とし、そこにソメイヨシノが植樹された。
 越澤氏によれば、遊歩道を主体として道路と公園が一体となった道路公園は、日本で初めてのもので、「近代都市計画の手法により江戸の堤、河川沿いの桜並木を復活させたという点で日本の伝統的なランドスケープ(風景)と西洋の近代的都市計画技術の合体が見事に成功した有意義な事業」と評価されている。

 まちを新しいものへと創造していく復興事業の中で、隅田川という場所の持つ歴史性や人々の生活との関わりに着目し、「変わらないもの」あるいは「変えてはならないもの」を整理し、道路公園や臨川公園という新しい事業のあり方として実現していったところに、復興院の復興事業全体に対する姿勢が読み取れる。
 植栽された桜について、当初はかなり多くの人がその成育に危惧を抱いていたようだが、その後、桜は順調に成育し、東京の桜の名所として見事に復活していった。

 太平洋戦争の最中にあっても、幸いに公園の桜は戦災による焼失をまぬがれ、自らの生命の営みの一幕として咲き続けてきたようだ。
 戦後、昭和27年の状況が次のように記されている。

 「最盛期を迎えた桜樹が見事な花のトンネルを作り、茶店が軒を連ね、堤上の道路は通行止め。平和の訪れとともに“桜の名所”隅田公園でのお花見は、地元の人々の肩入れもあって、年ごとにはなやかさを増していった」(川本昭雄著『隅田公園』(東京公園文庫40、1981年)から)

 昭和36年になると、伊勢湾台風級の高潮にも耐えられるようにと、防潮堤のかさ上げ工事が始まり、桜は撤去された。防潮堤裏の盛土終了後に一時桜の植栽が行われたが、昭和41年、今度は首都高速道路6号線の建設工事が開始され、再び桜が撤去されている。
 昭和45年には復旧工事として、堤防側に2列の桜並木の植栽が行われ、その後、植栽本数を増やしていき、現在は、台東区側が680本、墨田区側が335本とされている(本数は、資料によっては異なる数値もある)。
 昭和60年には、隅田川唯一の歩行者専用橋「桜橋」が完成し、隅田川の両岸の桜並木を結び、一体感を出して、古い時代にはなかった新しい花見の魅力が加わっている。


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