第5章 散文詩

文字数 2,863文字

5 散文詩
 近代以前が欠乏の社会だったのに対し、近代資本主義は過剰をもたらしている。豊かさとは過剰さであり、群衆は過剰さの現われである。詩人は群衆の中で癇癪を破裂させる。と同時に、彼の癇癪はもう一つの過剰さによっても引き起こされる。保守的なブルジョアは表現へ過度な規制を当然視する彼にはそれに我慢がならない。癇癪は過剰の感情にほかならない。この散文詩集のタイトルはパリに満ち溢れる過剰さを意味している。

 こうした群衆の時代を従来からの韻律詩で表現することはできない。新たな表現形式が不可欠だ。フランスにおける伝統的な詩の定型は八音綴もしくは一二音綴の脚韻を踏む。ロマン主義以降、この制約は崩れていく。しかし、ロマン派の頃以上に過剰さや不調和が溢れる世界を節度ある調和的な形式で描写することは背理である。

 しかも、近代は神の死であり、それは詩の死を意味する。近代以前、世界各地で、詩は文学の頂点に君臨し、神の文学である。詩によって近代を捉えるのは、そもそも奇妙な試みである。貴族政から民主政へと文学も移行する必要がある。神の死により、民主政の為政者は超越的な神ではなく、自らを憲法という散文によって律しなければならない。近代は散文精神の時代である。

 彼は、そこで、散文による詩、すなわち「散文詩(poème en prose)」を書き始める。

 人間はひょっとすると不幸なものだ、幸いなるかな、欲望に身に虐まれる芸術家こそ!
 私の前にかくも稀にのみ姿を現したあの女、そして、あたかも夜の中を運ばれてゆく旅行者の背後へと遁れ去る、名残り惜しくも美しい物のように、かくも速やかに遁れ去ったあの女を描きたい思いに、私身を焦がす。あの女が姿を消してからすでになんと久しいことだろう!
 彼女は美しい、いや、美しいという以上だ。彼女は人を面食らわせる。彼女の中には黒い色が溢れている。そして彼女の喚びさます思いはすべて夜に似て奥深い。彼女の眼は神秘の漠と煌めく二つの洞窟、そして彼女の眼差は稲妻のように照す。それは暗闇の中の爆発だ。
 私は彼女を、黒い太陽に譬えよう、もしも光と幸せとを注ぐ黒い天体というものが考えられ得るのならば。だがそれよりも、彼女を見て月を思う方がいっそう自然だ、疑いもなく、その怖るべき影響の刻印を彼女の上に残した月を。と言っても、冷やかな花嫁に似た、牧歌の白い月ではなく、雷雨をはらんだ夜の底に吊るされて、走りゆく雲に小突きまわされる、不吉な、心酔わせる月だ。清らかな人々の眠りを訪れる穏やかでつつましい月ではなく、空からもぎ取られて、おびえ戦く草の上でテッサリアの〈魔女たち〉に手荒く踊りを強いられる、打ちひしがれ苛立った月だ!
 彼女の小さな額には、頑強な意志と、餌食をつよく求める心が宿っている。ところが、この不気味な顔、うごめく鼻孔が未知なるものと不可能なるものを吸いこんでいるこの顔の下の方には、火山地に奇蹟さながら咲き出た壮麗な一輪の花を思わせる、赤と白との、甘美な大きな口の笑みが筆舌に尽くしがたい優雅さを見せながらほころびている。
 彼女たちを征服したい、享受したいという欲求を喚びさます女たちもある。だがこの女は、その眼差しの下でゆっくりと死んでゆきたい欲望をいだかせる。
(「描きたい欲望」)

 散文詩を通じて、散文とは何かあるいは詩とは何か、詩と散文の境界は何かと問うのは歴史性が十分とは言えない。散文詩は近代という過剰さがもたらしたものだからだ。散文詩は過剰な言葉によって詩を不況に追いこむ。詩人にはありとあらゆることを描きたいという過剰な欲望がある。そのため、散文詩は寓話に接近する。彼は、「野蛮な女と伊達女」のように、ラ・フォンテーヌの寓話をモチーフとした散文詩を書いている。フランツ・カフカの短編小説が彼の散文詩の継承である。

 彼は、「どっちが本当の彼女か?」ではエドガー・アラン・ポーの詩をパロディ化しているように、既存の作品を巧みに用いている。同様に、散文詩という形式自身は彼の発明ではない。ただ、韻文に散文をさしはさむことはヴィクトル・ユゴーやテオフル・ゴーチェが試みているし、彼も試行している。意識的な散文詩はアロイジウス・ベルトラン(Louis Aloysius Bertrand)が『夜のガスパール(Gaspard de la nuit)』(一八四二)を発表している。この六四編の散文詩集は彼に影響を与えている。

 しかし、両者は異なっている。ベルトランが幽霊や悪魔などを扱いながらも、色彩豊かな描写に徹しているのに対し、彼は爆発音を響かせている。それはモンゴメリー・クリフトとマーロン・ブランドの演技ほどの違いがある。

 従来、『パリの憂愁』は『悪の華』の補完的書物と見なされることが多かったが、彼にとって、散文詩こそ最も表現としてふさわしい形式である。『悪の華』の作品群を発展させたのが散文詩にほかならない。過剰さを表現するには散文詩が最も適している。群衆は都市の中でさまざまに交錯する。それを描くには散文詩しかない。

 この詩集に収録された散文詩は書下ろしではない。すでに文芸誌に発表された作品をまとめたものである。これは新しい詩集の出版形式であり、現在でも主流となっている。雑誌はさまざまな作品や記事が入り混じる群れの媒体であり、単行本から雑誌へと発表の中心が移るのは時代の流れに沿っている。

 一九五〇年代のアメリカの若者がマーロン・ブランドを求めたのも、第二帝政同様、過剰さに支配されていたからである。未曾有の「ゆたかな社会(The Affluent Society)」(ジョン・K・ガルブレイス)である一方で、マッカーシズムの嵐が吹き荒れ、表現は著しく制限される。極端な物質主義と極端なジンゴイズムが共存する。パックス・アメリカーナは過剰さに覆われている。デイヴィッド・リースマンはそんな社会の人々を「孤独な群衆(The Lonely Crowd)」と呼んでいるが、それは彼の散文詩「群衆」で描かれた群衆そのものである。若者は、鬱憤を晴らすように、癇の強いマーロン・ブランドの真似をする。

 彼は、マ-ロン・ブランドが一九五〇年代以降の演技においてそうであったように、近代詩の源泉となる。ステファヌ・マルラメはボードレールの意義を最も踏まえた詩人の一人である。彼は散文詩を発展させ、文学そのものの根拠を問う批評精神に基づき、「批評詩(le Poème critique)」、ないしは「批評詩編(les poèmes critiques)」を考案する。こうした詩と批評を一体化させる試みは卓見である。

 ただ、マラルメは過剰さではなく、余白によって散文詩を生かそうとしている。それは、確かに、散文詩のその後を暗示している試みである。

 ボードレールの死後、一八八〇年代以降、定型詩の脚韻や音綴の規則を放棄した自由詩が主流になっていく。過剰による不況を手なずけるため、自由詩が選ばれる。
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