囚われたユミ

文字数 1,383文字

 ゲリラ豪雨が降った後、僕を乗せたバスは目的の停留所に着いた。
 冷房の効いた車内から降りて外に出ると、太陽の熱で温められた地面の雨水が一気に温められ、上昇気流となって足元から立ち上るのを感じる。物凄い熱気と湿気だったが、太陽の日差しに身体を焼かれるような感覚に比べれば楽だった。
 停留所から五〇メートルほど歩き、住宅街に入る。未舗装の駐車場とその向こう側に手入れの行き届いていない木々の間に二階建ての家の屋根が見える。その屋根の見える家が、僕が行く目的地だった。
 生い茂った木々の間にある未舗装の道を歩きながら、家に向かう。木々や植え込みは剪定や手入れがされておらず、葉や雑草が伸び放題だった。だが先程の雨が草木には心地よい物だったのだろうか、熱に焼かれていた時よりも生き生きとした空気が辺りに満ちている。
 僕は家の玄関前に行き、ドアノブに手を書ける。軽くノブをひねるとドアには鍵が掛かっていなかった。不用心だなと僕は思ったが、住んでいる人間を呼び出さずに済むのだから僕には好都合だった。
 家の中は空調が非常によく効いてうすら寒い位に涼しかった。炎天下の中を彷徨って急にここに飛び込んだら、温度変化に驚いて体調を崩してしまうかも知れない。しかし建物の中に収蔵されている、様々な油彩画や水彩画、銅版画などを保護する為の温度設定だと思えば驚きは少ない。家の中は無造作な外観とは異なり、白やクリーム色を基調とした内装で奇妙なアンバランスさがあった。
 僕は玄関のドアを閉めておくに進んだ、冷たく澱んだ空気が重苦しく蠢く。
「ユミ、いるのか?」
 僕は家の中に居る住人の下の名前を呼んだ。
「いるよ、左手の風景画の部屋に居る」
 左手の部屋からユミの返事が聞こえて来た。僕はそっちの方に進み、ユミがいる部屋に入った。ユミは四方に風景画が置かれた手屋の中心に椅子を置き、山の中の湖を描いた油彩画を眺めていた。今の季節ならば住宅街を離れて、本物の山の中の湖を目にする事が出来るが、ユミはそう言う事をしない人間だった。人間が恋しくなれば人物画の部屋に引きこもり、自分の乱れた心を整えたい時は抽象画の部屋にこもる。あるのは心の変化と場所の移動。時間によって何かの変化があるという事は無かった。
「今日は風景画を眺めていたのか」
「そう。一日で様々な季節や時間を味わえるから」
 ユミの呟きに合わせて、僕は周囲を見回した。風景画の部屋に飾られた風景画たちは、夜の街角を描いた銅版画に、春の池を描いた水彩画に、冬山に海を描いた油彩画など、場所や時間、季節を様々に描いた画で埋め尽くされている。いずれの作品も描いた人間の技法や視点、主観などが確かに表れていたが、本物の自然ではない。
「外に出たいとは思わないのか」
「思わない。風景画で十分」
 小さく漏れた僕の言葉にユミはすぐに答えた。
「自然は常に変化して、そこに住む人間も変化するけれど、私はそれが嫌なの。だからこうして変化の無い空間に引きこもっている」
 ユミの持論に僕は返す理論を持っていなかった。
「変化せずに、半ば永久的にその姿のままでいたいという願望があるの?君には」
 僕の質問にユミは答えない。だが自分の存在も魂も永遠に額縁の中に納めれば、死者として埋葬されるより幸福かもしれない。
「あるわよ。誰だってそうでしょ。だから何か足跡を残そうとするのよ」
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