本性のキャンバス

文字数 2,732文字

 Oに会うのは今年の初めに、彼が初めて個展を開いた時以来だから、約半年ぶりになる。彼とは学生時代に同じサークルに入り、共に作品作りを楽しみ、芸術や様々な分野の事について語り合った仲だから、Oの作品が出品されると聞いた時は、年甲斐もなく胸を弾ませたものだ。今の私は美術品の売買に携わり、それなりの収入を得ている身ではあるが、これでも志半ばで画家になる夢を諦めた立場上、陰ながら彼を応援する事を決め、ほぼ勢いで彼の作品を相場より高く買い付けてしまった。お陰で上司には渋い顔をされてしまったが、私には友人の絵に高い値札を付けたというある種の高揚感が、それを上回っていた。
 そうして暫くしたある日、私はOが栃木県の佐野に別邸兼アトリエを構えたと言うので、私は陣中見舞いと激励のつもりで、Oの元に行くことにした。
 東北自動車道を降りて下道に入ると、私はOのアトリエの住所をナビに入力して、国道から脇を通る小さな県道に入った。道を進むにつれモダンな建物の数は少なくなり、変わりに寒々とした山々や収穫を終えた畑たち、古ぼけた農家と小さな小学校などが私を出迎えた。
 こんな寂しいところで、Oは一体どのような絵を描いているのだろう。と言う小さな疑問が私の頭の中を掠めた。過疎化が進み、古きよき原風景が風化した石造のようになりかけているこの土地で、一体どのような作品が生み出されるのだろうか。私はそんな事を考えながら、車を走らせた。
 Oの別荘は、道路と川が並行に走る地区の、一番山奥に近い場所にあった。建物は周囲の風景からすれば幾らか近代的で、元々は普通の家だったものを、売りに出されたときにOが買った。と言う感じだった。
 私は車を通行の妨げにならないところに留めると、車から降りて玄関脇のインターホンを押した。都会的で安っぽい電子音が響くと、ややあってから家の中で人が動く気配がした。
 暫くすると、ベニヤのドアがガチャリという音を立てて開き、中からトレーナー姿のOが姿を現した。
「やあ、暫くぶり」
「よう。Xか」 
 私が再会の挨拶を呟くと、玄関から顔を覗かせたOは静かにそう呟いた。様子を見るなりOはどうやら自堕落な一日を過ごしていたらしい。
「突然訪ねて悪いな。ちょっと陣中見舞いに来たよ」
 私は訪問の理由を告げると、手土産のブランデーを見せた。Oは考え込むような表情をした後、「まあ、入れよ」玄関のドアを大きく開けて、私に部屋の中に入るよう促した。
「おじゃまします」
 私は小さくそう呟くと、玄関に入って靴を脱ぎ、Oの別邸に上がった。
 部屋の中は男の一人暮らしにしては珍しく、様々なものがきちんと整理されいた。恐らく週に二回は部屋の掃除をしているのだろう。本棚の本もきちんと整理され、一人暮らしなのに規則正しい生活を送っているのが想像できた。
「いいところに居を構えたな」
 私はリビングの椅子に座りながら、部屋全体を眺め回した感想を呟いた。
「そうでもないよ。時々都会の喧騒が恋しくなる」
 キッチンでお茶の用意をしていたOが、謙遜するように答えた。
「都会に住んでいると見えないものが、ここでは見える訳か」
 私がそう相槌を打つと、Oは少し表情を曇らせたような表情で、紅茶の入ったカップを私に手渡した。
「そういうことだな。ここに居るとゴッホの気持ちがよくわかるよ」
 Oがそう漏らすと、私は小さく頷いた。表には出さなくとも、心に何か傷を負っている人間には、都会の喧騒よりも、郊外の何の変哲もない日常が、一番の特効薬なのだ。交響曲も無ければ、美的意識も哲学も無い、何でもない世界。それが今のOには、必要不可欠なのだ。
「製作の方は、順調かい」
「まあ多少は。何もしたくない日は酒を飲んだり本を読んだりして過ごしているよ」
 私の質問に、Oは小さく答えた。
「ここに居を移して書いた作品は、今までどのくらいだ?」
 私が立て続けに尋ねると、Oは少し驚いたような表情で私を見つめた後、紅茶を一口飲んで、やつれた眼差しになってこう答えた。
「何かに取り付かれたみたいに描きまくったよ・・・見たいか?」
 Oの言葉に私は頷くと、彼はアトリエに来るよう私を促した。私は椅子から立ち上がり、アトリエに向かうOの後に着いて行った。
 アトリエは家の一番奥にあり、近づくたびに重苦しい空気が私の神経に触った。Oに促されるまま中に入ると、画材道具の空き箱や様々な品物で散らかり放題のアトリエに、Oが描いた様々な絵が並んでいた。地元の風景を水性の絵の具で書いた物や、野鳥や草花を描いたスケッチなど。どれもOが練習として描いたものらしかったが、額に入れて飾れば鑑賞に堪えうるものばかりだった。私はてっきり描きかけの大作がそのままで置いてあるのかと期待していたので、このように可愛らしい作品に遭遇するとは思っても居なかった。
「細かい作品が多いな」
「気分がいまいちの時は、こういう小さな物を描いているんだ」
「もっと大きい作品は無いのか?」
 私が何気なく尋ねると、Oは探るような眼差しで私を見つめ返した後、見たいのか?と念を送ってきた。私はOのその眼差しに少し引け目を感じたが、表に出さずじっとしていた。
「ここには無い。別の場所にある」
「もし良ければ、見せてくれないか?」
 私の言葉にOは黙って頷くと、私を連れて別の部屋に向かった。彼の足取り肉から搾り出した脂肪の塊のように粘々としていて、肉感的な感触とは裏腹に生気が無かった。
 二階に上がり、廊下をさらに進む。Oは一番奥の寝室に私を招き入れ、薄暗い部屋の明かりを点けた。
「あそこにあるのが、そうだよ」
 Oが指差した方向の絵を見て、私は息を飲んだ。
 その絵は、青白い肌をした女の身体を突き破って、中から真っ黒な赤ん坊らしき生き物が這い出ている作品だった。
 裸の女は横になっているのか、それとも宙に浮かんでいるのか分からなかったが、首をかしげて虚ろな目をして、絵の中には無い何かを見つめている、そしてそのまま視線を下げると、女の下腹部から這い出た真っ黒な赤ん坊は、射抜くような、あるいは人を殺す時のような眼差しで、私を見つめている。
「この作品は自分の中にある喜怒哀楽をすべて表現したようなものだ。あまりにも内的な麺の強い作品だから外には出さない。女のモデルは、元同級生のMだ」
「これは、何を表しているんだ?」
 私が喉を詰まらせながら尋ねると、Oは静かにこう答えた。
「俺が求めて止まない物だよ」

                          (了)
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