赤い空間

文字数 9,464文字




 町で買い物を終えて家路に着くと、車の窓から西の方角に沈んでゆく太陽が見えた。車の中の時計を見ると、時間はすでに午後五時を過ぎている。一ヶ月前まではまだ明るかったはずの太陽がもう沈んでいるなんて思うと、時間が経ってしまうのは早いものなのだ思った。ほんの十年前、小学校の高学年から中学にかけては、まだ日が高いからもう少し遊べると思ったものだが、今となっては何も感じない。というか、十八歳を過ぎたころから時間が流れるのが早くなった気がする。高校を卒業したら大学受験やら何やらであっという間に時間が過ぎて、気がつけば「社会人」のレッテルを貼られる瀬戸際まで来ている。
 どうして昔のままの感性でいられないのだろうと私は思った。体の成長が十代半ばでほぼ完了するのなら、心の方もそのままであって欲しいと思うのは私だけだろうか。そうすれば人の心は何時までも清らかなままで、純粋でいられるのに。なのに体の成長が止まると急に色々なものが劣化してきて、悪臭を放ちながら醜い姿に変貌してしまう。人間は醜く劣化してしまうから礼儀や学問を収め、日ごろの行いを常に省みなければならない。と言っていた人が居たが、今の人間にそんな事が出来るだろうか?この世には世間だの社会の何だのという邪悪なもので満たされているのに、その中で自分の行いを省みても本当に意味があるのだろうか。ましてや過去を省みてそれに回帰しようとするとやれ幼稚だの駄々を捏ねるだの、あれこれ文句を言われる世の中でそんな事をしても意味があるのだろうか?
 そんなことを考えながら車を走らせていると、家に向かう交差点が見えてきた。私は左にウィンカーを出して車を左折させると、家へと続く山坂道に車を走らせた。私が住む家は海沿いの小高い山の頂上付近にあり、海を背にして建つ二階建ての、ヨーロッパのゴシック様式を真似た家だ。そんな家に私は十六歳の弟と二人で住んでいる。二階のバルコニーから季節や時間によって、様々な表情を見せる太平洋が一望できる。そしてその下には芝生の庭。古美術商をを営む父が土地を買って建てた家だが、もう父は母と共にこの世には居なかった。千葉の犬吠崎に近い場所に土地を買って、そこで家族と暮らし、友達や仲間を呼んで楽しく過ごす―古美術商をやっていた父らしい、貴族的な生活のために建てた家だったが、それを満喫する前に父は出張先のスペインで倒れ、そのまま帰らぬ人となった。そしてその一報を聞いた母は、外に作った男と一緒に九州のほうに逃げてしまった。幸いにも私達の元には父の遺産と、父の友人達からの見舞金のお陰で十分な貯蓄があったが、父が経営していた古美術の会社は他人の手に渡り、残ったのは私と弟と家だけになってしまった。おまけに父に好いていた弟は、父の死をきっかけに家に引きこもりがちになり、高校受験をあきらめて、ひたすら絵を描くことに没頭してしまった。収入といえば私が大学の合間に行う、アルバイトの雀の涙ほどの給料しかないと言うのに。姉としてそんな弟を叱りつけようと思いはするのだが、優柔不断な私はその思い切りがつかないままでいる。
 そんな憂鬱な気分に毒されていると、目の前に私の家が見えてきた。私はグローブボックスに入れたリモコンでガレージのシャッターを開けて、ガレージにバックで車を停めた。買い物袋を提げて家の玄関のドアをあけると、薄暗く重く沈んだ空気が、私の足元からするすると外へ逃げ出してゆく。
「ただいま」
 私は中に向かってそう叫んだが、弟からの返事は無かった。私は履いていたスニーカーを脱いで家に上がり、買ってきた品物をリビングダイニングのテーブルに置くと、二階の部屋にいる弟の下へと向かう事にした。階段を上り終えると、天窓から差し込んでくる夕日が白い壁紙に反射して、辺りを柔らかいオレンジ色に染めている。私の気分がさっきから浮かばないのは、もしかしてこの色のせいなのだろうか、辺りを様々な色彩でで彩られると、人間の心はその色と同じような状態になってしまうのだろうか?
 私は廊下を進み、奥にある父の部屋へと向かった。ここは父が死んで以来もぬけの殻になっていたが、絵を描くことに興味を覚え始めた弟が、家具を引っ張り出して絵を描くアトリエとして使っていた。
「涼、入るよ」
 私はドアの前に立ってそう告げると、ノブを回して扉を開けた。中に入ると、開け放たれた窓から潮の香りと、絵の具と弟の臭いが鼻元に漂ってくる。弟の涼は画板で止めたケント紙をイーゼルに立て掛け、その前に置いた事務椅子に座っていた。画板に止められたケント紙には、真っ赤な背景に浮かぶ黒っぽい人影が見えた。
「お帰り」
 弟は気だるそうな声でそう答えると、淀んだこの部屋の空気みたいな感じの瞳で、私の方に振り向いた。迷彩ズボンに黒いTシャツ、赤いパーカーという格好は、世間一般が想像する引きこもり少年と言うよりは、不健全で反抗的な態度をとる捻くれた少年の格好そのものだった。家に引きこもっているのだから服装に特別気を使う必要は無いのに、どうして余所行きのような格好を彼はするのだろうか。
「どんな絵を描いていたの?」
 私が質問すると、弟は私のほうに一瞥をくれて、「こっちに来なよ」と目で合図した。私は弟に言われるまま絵に近づき、画板にとめられた絵を覗き込んだ。
 絵の中に描かれていたのは、赤い世界に浮かぶ一人の男の姿だった。背景の赤は絶妙なグラデーションで彩られていて、赤い壁を背にしているのか、赤い世界に佇んでいるのか区別が付かない。その中に佇む男は黒いパーカーに青いジーンズと言う格好で、左手だけポケットに突っ込んで不貞腐れた様な態度をとっている。恐らく弟がモデルなのだろう。彼は何も考えていないときに、左手をポケットに突っ込む癖がある。絵の具がまだ完全に乾き切っていないせいで、絵の中の彼には生命の息遣いが少しだけ感じられた。
「変わった構図ね」
「頭の中にある漠然としたイメージを形にしただけだからね」
 弟は眠たげな声でそう答えた。私は絵から少し離れ、絵の全体図を見ると、ケント紙の下部分。約三分の一ほどが余白のままである事に気付いた。
「絵がずいぶん上に寄っていない?下のほうに余白があるわよ」
「下にはこれから、もう一人の人物が描かれるんだ」
「どんな人物?」
 私が訪ねると、弟は木の枝に佇む両生類のような目で私を見た後、また絵に視線を落としてこう続けた。
「裸の女がね、ここに横たわるんだよ」
「モデルはいるの?」
 私が何気なく呟くと、弟は私に向かって、さらにこう続けた。
「いないからさ、姉さんやってよ」

 弟の言葉が、さっきから頭について離れない。
 親しい女性が私以外にいないという理由もあるのだろうが、実の肉親である弟からそんな言葉が出るとは思わなかった。本来なら友達と遊び耽って、一緒に楽しい時期を謳歌している筈なのに、そんな世界とは決して交わる事のない、破滅的で光の差し込まない身を置いている弟は、そんな世界と無縁の人生を送っているのだろうか。そんな人生を送っている人間だからこそ、実の肉親に自らの欲望を、表現したいものを投影したのだろうか。とにかく今の私にとっては、あまりにも突然で、驚くしかない言葉だ。弟は近いうちに返事をくれと言っていたが、それまでに私はどんな言葉を用意すればよいのだろう?私は目を瞑りベッドの中で何度目かの寝返りを打つと、布団に染み付いた自分の匂いに鼻腔が反応して、せっかく眠りについている私の心を混乱させる。体と思考が薄い膜で分け隔たれたように、身体はリラックスして、睡眠の快楽を貪っているのに、どうして頭だけその時の驚きで一杯なのだろうか。私は弟の言葉に動揺するほどの弱い人間なのか、あるいは弟に対して何も感じなかったから、今混乱しているだけなのだろうか。とにかく早く終わって欲しい。私の思考はあの赤々とした空間に引き込まれてしまったのだろうか?あそこにいるのは私と弟なのだろうか。
 そのような事を考えていると、何時しか思考の回路がふっと途切れて、頭の中が空っぽになった。そしてそれに気付いてみると、目の中の網膜が光に反応して、何かの薬品を化学反応させたような青白い世界が、私の中に飛び込んでくる。
 夜が明けたのか。私は心の中でそう呟くと、また寝返りを打って、体温が染込んでいない部分の布団に身体を乗せて、鼻から大きく息を吸った。
 そうして意識が途切れたと思うと、窓の外で雀たちがさえずる声が聞こえた。目を開けると、柔らかな青色に照らされた部屋の窓が見えた。暫くすると、下の方ででリビングのサッシが開く音がして、弟が外の庭に出る気配がした。庭の芝生の上で、弟は一体なにを考えているのだろうか。遠くから聞こえてくる波のはじける音に耳をすまして、己の孤独に悲しみ、傷ついた魂の慰めを、木々や鳥達に求めているのだろうか。私は中国の陶磁器に描かれたような、青い風景に佇む弟の姿を想像して、私は再び目を閉じた。
 午前十時前になると、私は弟に出かけてくると言い残して家を出た。つづら折になっている坂を下って交差点まで来ると。恋人の信二がハーレーダビッドソンのスポーツスターの傍らで、煙草を吸いながら私を待っていた。
「よう、待ってたぜ」
 信二は私に気づくと、年上の男性らしい落ち着いた声で私を呼んだ。私は小さく彼に答えると、小走りで彼の元に駆け寄った。
「ごめん。待たせちゃった?」
「三分くらいかな、まあ、乗りなよ」
 信二はそう言ってバイクの後ろに乗るよう促した。私はシートの背もたれに括り付いた自分用のヘルメットを外して被ると、後ろのタンデムシートに跨った。
 私がいいよと合図すると、信二は後方確認をしてギアを入れ、そのままゆっくりと走り出した。バイクに跨っているときの信二の背中は、何時見ても凛々しく、余裕に満ちているような感じがする。私よりも六歳年上で、すでに働いているせいもあるのだろう。彼の背中からは、汗や煙草の臭いに混じって、色々な事を一通り経験してきた深みみたいなものが滲み出ているような気がする。例えるなら父が生前に古美術品と並んで集めていたアンティークの品々のような感じの、新品の輝きとはまた違った美しさが、彼にはあるのだ。
 弟も信二と会って、彼の人生に生で触れれば良いのに。といつも思うのだが、弟は私と信二が育んでいるありふれた異性の関係よりも、常に自分の理想を追い求めて、それで得られた世界観に他人を押し込もうとする。調度今書いている、赤い空間に佇む一人の男と、いずれ描かれる横たわった女のように。自分がもっとも描きたい世界、自分の居たい世界にい居ないと駄目な人間なのだ。
 信二と私を乗せたハーレーは海岸通りを過ぎて、家電量販店やホームセンターなどが立ち並ぶ大通りに入ろうとしていた。私の黒髪をなでる風は次第に潮気が抜けて、代わりに排ガスと都会の偽善ぶった気配を含んでくる。
「このまま高速に乗って、東京辺りに出ようか?」
 交差点の信号待ちで、信二が私に尋ねた。
「いいわ、お金掛かるでしょ」
「高速代くらい何てことはないよ」
「今日は地元で遊びたいの」
 私がそう言い放つと、信二は少しつまらなそうに「そう」頷いた。その瞬間、私は彼の提案を拒否した事を後悔した。弟の事を考えたのがいけなかった。あの赤い世界の光景が頭に染み付いて、ついそんなことを口走ってしまったのだ。
 結局、私と信二は地元に新しく出来たショッピングモールに足を運んで、中に入っている店を冷やかしながら一日を過ごす事になった。店に並んでいる食器や衣類などは、普段なら花壇の花のように光り輝いているはずだが、今日の私には市場に並ぶ死んだ魚達のように見えた。空が曇っているからそう見えるのかも知れない考えたが、楽しげな会話を交わす他のカップルや家族連れをみて、それが間違いである事に気づいた。
 ウィンドウショッピングに飽きた私達は中央の広場に行き、コーヒーショップでカフェラテを二つ頼んだ。私と信二は近くのベンチに座り、ショッピングモールの様子を眺めながらラテを飲んでいると、信二がこう口を開いた。
「今日は何だか、気分が乗らないみたいだね」
 その言葉に不意を付かれた私は彼の横顔を覗き見たあと、一人で買いものに来たであろう哀れな男に視線を移して、こう否定した。
「そんなこと無いわよ」
「いや、何か悩みを抱えている感じがする」
 信二はそう呟いた後、ラテを一口飲んで探るように私の横顔を覗き込んだ。
「何か悩みがあったら言ってくれ、力になるから」
 信二が神妙そうな口調で私にに訪ねてくると、私は観念して胸のうちをあける事にした。
「弟がね、絵のモデルになってくれって言うの」
「何だ。そんな事か」
 信二は拍子抜けしたように、そう答えた。
「なら、引き受ければいいじゃないか。優しいお姉さんとして」
 私は弟の絵の内容について信二に言おうとしたが、あの病んだ様な目でイーゼルを見つめる弟の姿が頭の中をよぎって、言い出せなかった。
「まさか、ヌードの絵なの?」
 信二が立て続けに質問すると、私は声を押し殺したまま頷いた。
「じゃあ、断ればいい」
「私がモデルにならないとその絵は完成しないの」
「いくら弟が相手でも、嫌なら自分の肌を見せる事はないよ」
 信二の言葉に私はそうじゃないと反論しようとした。私が躊躇っているのは弟に肌を見せる事ではなく、あの絵が完成したときに、自分がその絵の中に吸い込まれそうな気がするからなのだ。あの絵が完成すれば、私は永遠にあの絵の中に閉じ込められて、幽霊のように浮かび上がったあの男に見つめ続けられなければならない。それがとてつもなく恐ろしくて、自分が何かに捕らわれて生きていかなければならない気がするのだ。そう思うと私は背筋が寒くなって、思わず身体を屈めて小さく震えた。
「まあ、最終的な判断は君が下してくれ。君と弟の問題に俺がかかわっても悪いと思うからさ」
 信二はそう呟くと、またラテを一口飲んだ。

 信二にバイクで家まで送ってもらうと、私は別れ際に今日のデートがあまり意味の無いものになってしまった事を詫びた。信二は気にする事は無いよと笑っていたが、私のせいで折角の時間を無駄にしてしまったのだ。謝るのは当然のことだ。
 部屋に入ると、リビングからテレビの音と安っぽいの臭いが漂ってきた。リビングに入ると、弟がNHKのニュースを見ながらコンビニ弁当を食べているところだった。一人だけの、わびしい食卓。弟はこれからもこんな食卓を毎日続けるのだろうか。
「お帰り」
 弟は弁当を食べながらそう言った。私は弟の傍によって、ソファに腰を下ろした。
「出かけなかったの?」
「姉さんみたいに付き合っている人が居ないからね」
 私は弟の言葉を無視しようとして、視線を明後日の方に向けようとしたが、どういう訳だか弟から意識が外れなかった。心に刺さった小さな棘が皮膚の固まりに覆われて、常に弟のほうに意識を向かせようとする。弟と二人っきりの生活を続けているせいで、私の意識が狂い始めているのだろうか。
「どうかした?」
 弟は私に変化に気づいたのか、私に声をかけてきた。頭蓋骨の中にある脳梁がギイギイ悲鳴を立てるような感覚に襲われた私はソファから立ち上がり、弟の前を横切って立ち去ろうとする。
「この前のこと、考えてくれた?」
 部屋から出ようとした時、弟が声をかけた。私は立ち止まって振り向きざまにこういい捨てた。
「あたし以外にモデルが居なければ、引き受けるわよ」
「なら、後でお願い」
 弟がそう吐き捨てるように言うと、私はドアを閉めて自分の部屋へ戻った。


 かつて父の部屋だったアトリエに入ると、弟は私が寝転ぶための布団と羽織るための白い掛け布団を用意し終えて、いつでも描ける準備を整えていた。部屋の中は昨日と違って無味乾燥で、まるで卵の殻の内側みたいに白けている。この何もない部屋で作品が作られているのだと思うと、私はそれまで胸につかえていた蟠りが消えて、心が溶け出した脂のように透明になる気分がした。
「それじゃ、服脱いでそこに寝て」
 弟が部屋の雰囲気に合わせるようにそう呟くと、私はきていた服をすべて脱いで言われるがままに全裸になった。服を脱ぐ途中、自分の身体を見つめる弟の視線が気になったが、弟の視線は遠い水平線を見つめるような目で、私の身体をこれっぽちも意識していない様子だった。
「そしたら布団の中に入って、身体を屈めて横になって。顔はこっちに」
 私は弟に言われるまま、弟が用意した布団に入って白い掛け布団を羽織った。そうして胎児のように身体を丸くして、弟が座っているほうに顔を向けた。
「きれいに描いてよ」
 私はそう呟いたが、弟は私などこの世に存在しない存在であるかのように、私の言葉を無視した。弟は絵筆を取ると、何も言わずに筆を走らせて私の姿を描き始めた。私は黙って弟の手元と表情を交互に見ながら、この時間が過ぎるのを待った。時折弟が私のほうを見てくるが、その表情に恥ずかしさや畏れといった物は無く、逆に私の身体だけ出なく心まで描き出そうとする思考の断片を感じて、私のほうが畏まってしまった程だ。
 私は弟を見つめるのを止めて、目を瞑った。弟の前で一糸まとわぬ姿になったのは何年ぶりの事だろう。小さかった頃は何も感じずに無邪気にじゃれ合っていた筈なのに、私が中学に上がった頃から子供同士の関係では無くなってしまったような気がする。そうして時が経つにつれ、私は男と言うものを知り、女として一通りの事をしてきた。なのに弟は他人と触れ合う事さえままならない内に、自分の世界に心も思考も押し込めてしまった。そのような弟に対して姉である私ができる事は、こうやって彼の思考の中に登場する事なのだろうか。
 そんなことをぼんやり考えていると、砕けたガラスの断面のような視界から、白い光が一筋差し込んできた。光は私の中に入って弾けると、そのまま明るさと言うなの現象に姿を変えて広がり、私の中にある赤く柔らかなな世界を浮かび上がらせた。赤で彩られた世界は印象派の画家達が描いたように、輪郭があいまいで私と世界の境界が何処にあるのかはっきりしない。私は居ないのだろうかと、心のざわめきを覚えたその瞬間、私は自分の居た世界に引き戻された。
「終わったよ。今日はここまで」
 イーゼルの向こうで弟が呟くと、私は寝転がったまま、セックスを終えたときのような声でこう返した。
「きれいに描けた?」
 私の質問に、弟は黙ったままだった。私は虚ろなまま身をよじり、布団から抜け出して弟のほうに歩み寄った。
 イーゼルに掛けられた画板を覗き込むと、この間下半分抱け空いていた空白には私をモデルにした女が一人、素肌に掛け布団をまとっただけの姿で寝転がっている。女の目は半開きで、悲しんでいるのか笑っているのか、あるいは生きているのか死んでいるのかさえ判らない。判る事は、ただそこに女がいるという事実だけだ。そしてその女を見つめる弟を模した男の姿は、絵の世界に異性が現れたせいかせいか、女が居なかったときに比べて生気が増したように思える。
「これから彼女の周囲を赤く塗る。それで完成だよ」
 弟は静かにそう答えて、道具を片付け始めた。



 夕食が終わり、風呂に入って寝支度を整えると、父の戸棚からウィスキーとグラスをくすねて、ウィスキーを軽く飲んだ。久しぶりに飲むウィスキーは山小屋の地下に作った倉庫のような香りがして、飲んで暫くすると万力で頭を締め付けられるような痛みが走った。弟もこうやって酒を煽ればいいのにと思ったが、一旦彼が酒に嵌ると生活が破綻するまでのめりこみそうな気がして、その思考をすぐに止めた。
 暫くすると顔中の血管が膨らんで、頬や唇の辺りが熱を発しながら厚ぼったく膨れている。今鏡を見れば私は刺身される鯛のように赤くなっているだろうと想像すると、私は何だか自分が可笑しくなった。やがて酒が全身に回って体がだるくなると、私は安らぎを求めてベッドに潜った。
 やっと眠りの底に付いたかと思うと、私は意識が硬いものに弾かれるようにして目が覚めた。頭の中にまどろんでいたアルコールが切れて、元の世界に引き戻されたのだろうかと思うと、右脳と左脳の間が膠か何かで固められたような感触が走って、思考回路がうまく作動しなかった。私はその感触から逃れたくて、取り止めも無い事をあれこれと考えた。だがそれでも頭の嫌な感触は消えず、私は悲鳴を上げて頭を床に叩きつけたい衝動に駆られた。そうしてその衝動がやってくると、観念した脳はその緊張の糸を解きほぐして、まどろむような感覚を睡魔と共に運んできた。
 再び目が覚めると、部屋の中は差し込んだ光によって青白くなっていた。私は身をよじり、布団の冷えたところに身体を乗せると、布団の冷たさと共に、昨日の出来事が蘇ってきた。弟はあれから何をしているだろう。夜通し絵に向かって筆を走らせていたのだろうか、それともそそくさと寝てしまったのだろうか。
 私は布団から起き上がり、サイドテーブルに置いた時計の針を見た。午前六時二十分。少し早いが、目覚めてももう良い時間だ。
 私はベッドから這い出て、部屋を抜けると、そのまま廊下を歩いてアトリエに向かった。あの赤い空間に描かれた二人は、絵画の中の人物として生きているだろうか、それともまだその姿を成していないだろうか。
 私は弟に気付かれないようにゆっくりと扉を開けて、アトリエの中に入った。締め切った薄暗い空間には水彩絵の具の香りが充満していて、アルコールに浸った鼻の神経が軋むように痛んだ。
 明かりのついたままの部屋に入ると、私はカーペットの上に寝転がっている弟の姿に驚いて、私は小さく悲鳴を上げた。すると、私の悲鳴にワンテンポ遅れるようにして弟が目を覚まし、ゆっくり上体を起こした。
「そんなところで寝てたら、風邪ひくよ」
 私がそう呟くと、弟は少し間を置いてこう答えた」
「書いてるうちにテンションが上がってきてね、一晩で仕上げたんだ」
 弟は眠たそうな声で、そう答えた。
「絵は、仕上がったの?」
 私が訪ねると、弟はイーゼルに立てかけた画板を指差した。画板に留められた絵を見ると、そこに描かれていた筈の私と弟の姿は無く、代わりに周囲より少し重い赤色で塗りつぶされたような人影があるだけだった。
「人の姿は赤で塗りつぶした、姿形なんてないほうが幸せだって気付いたから」
 弟がそう呟くのを尻目に私は絵に近づいて、自分が横たわっていた筈の部分を眺めた。私の姿は周囲の赤い空間と完全に同化してはいたが、弟と共にこの赤い空間にある事だけは分かった。その瞬間、私の中を流れる赤い血が目に見えない細い糸を出して弟に伸びてゆくような、奇妙な感触を胸に覚えた。
「でも私たち、この絵の中に居るんでしょ」
「ああ、いるよ」
 弟がそう呟くと、窓の外に居た雀が怯えたような泣き声を上げて、どこかの空へと消えていった。

(了)
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