彼はそうして偉大になった

文字数 11,301文字

          1

 「偉大なことが常に大きいとは限らない」
 ゾンダーリング博士は、背広についた糸くずを指先に摘む。皮の薄い額に浮かんだ血管が、彼の神経質さを顕している。彼は今年で四十五になる。厭世的な皮肉屋。街の嫌われ者。彼と一度でも話した人々は、彼のことをあまり良くは言わなかった。一部の変わり者たちを除いては。
 「人々は頻繁に視覚に騙される。美しい妻に保険金目当てに殺されようと、富裕層の愚かしさをどれだけ目にしようと。我々は美しさは優しさの象徴であり、大きさは偉大さの象徴なのだと疑わない」
 少年はゾンダーリング博士の偉大でありがたい演説を聞きながら、何着もある彼の背広をクローゼットに整理していく。全く同じ型、同じ色の背広たち。彼はゾンダーリングの生徒兼、助手で名前をミッターナハトという。そう、皆さんご存知、あのミッターナハトの若かりし頃である。
 「『どんな偉業もちっぽけな一歩から始まったのだ』でしょ? もう聞き飽きましたって」
 生意気な助手の憎まれ口に、ゾンダーリングは口角をあげる。彼はひねくれ者すぎて、厭味、皮肉、悪口雑言の類いを分け隔てなく好いている。そういった意味では、ミッターナハトは彼の最適な助手と言って良かっただろう。ねじれた二つの輪は、共にくっつきあい、お互いのねじれ具合を愛した。
 「宣伝広告は、現代人の聖典だ。皆それの通りに生きようとしている。不自然な白い歯、栄養失調かと思うほど細い身体、飢餓に苦しむ人を何千人も養えるほどの財産の独り占め……それが現代のイエス・キリストの姿さ。企業たちが作った量産型の偉人たちがオススメする、添加物だらけの奴隷専用フード。それを食ってぶくぶく肥らされて、自分は劣っているのだという認識を植え付けられる民衆。それが三次元の人々だ」
 ゾンダーリングはにやにやと笑い、現代社会の闇を切開していく。サイエンスフィクション作家のように。中からは膿みがどぶどぶと溢れ出し、それを見たミッターナハトは顔を背ける。ゾンダーリングは珈琲に手を伸ばす。それはミッターナハトが背広の整理に着手する前に淹れたものだ。
 「人々は癌になるほど煙草を吸い、肝臓を壊すほど酒を飲み、成人病になるほど肥りまくる。自ら不幸に向かっていきながら、幸福になりたいと叫んでいるのだ。眠っているとしか思えんね」
 「居眠り運転は、事故を引き起こしますもんね」
 ミッターナハトがまだ眠りたくないと暴れる背広たちを押さえつけて、クローゼットに押し込みながら言う。博士はその光景を見て、にっこりと笑った。
 「助手よ。偉そうな口を叩く前に、もう少しマシな珈琲は淹れられんのか? 冷めきっとるぞ」
 「博士こそ偉そうな口を叩く前に、とっととお飲みになれば良かったんです」
 ゾンダーリングは助手の反撃におおいに笑った。

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 ゾンダーリング博士が酷く悲観的な社会学を述べている頃、三次元の世界では一人の男が溜め息をついていた。それは博士の皮肉を聞いてしまったが為ではなく、彼自身の個人的な悩みからくる憂鬱の為だ。
 彼の名前はフェリスィテ。二十を少し過ぎた若者で、ゾンダーリングと違い、彼は誰からも好かれる男だった。いつも笑顔を絶やさず、不平不満は言わず、冗談のセンスもある。年下にも偉ぶることがなく、断定的な物の言い方は決してしない。彼の暮らす街の人々は、皆フェリスィテのことが大好きだった。彼の憂鬱に関しては、誰も知らなかったし、知ったところで理解は出来なかっただろう。それはとても個人的で秘密めいた悩み事だった。だから、彼はその悩みを引き出しの奥にいれて厳重に鍵をかけてしまったのだ。
 そんなわけで誰も知らなかったが、フェリスィテの頭の中には、小さな悪魔が棲んでいた。悪魔はとても気分屋で、皮肉が大好き、態度は尊大で、いつも眉間に皺を寄せている。その悪魔がフェリスィテの左脳の上の方に住み着いており、小さなキーキー声でフェリスィテに話しかけてくるのだった。
 例えば今朝、大家のおばあさんに話しかけられた時も酷かった。
 「おはよう、フェリスィテ。あなた、煮物は好き?」
 「おはようございます、大家さん。ええ、煮物、大好きですよ!」
 「良かった。昨日作り過ぎてしまって……夜におうちにお届けするわ」
 「それは嬉しい! なんと素晴らしいサプライズだろう! 一日の楽しみが出来ましたよ」
 大家さんはそんな大したものじゃないのよ、と笑った。フェリスィテは、夜ご飯を食べずに帰りますねと笑顔で返辞をし、職場へ向かった。これが彼なのだ。彼は物心がついてからずっと、こんな調子で生きてきたし、何を取り繕っているわけでもない。これは彼の本心であり、彼の真実なのだ。だが、小さな悪魔には、どうやらこれが気に入らないらしい。
 「あのばあさん、料理の前に手を洗っているかな? 田舎臭い味付けじゃないといいけどな」
 「黙れ。静かにしていろ。くだらないことを口にするな」とフェリスィテは反撃をする。
 「一日の楽しみか……。近所のばあさんの作った老人臭い煮物が? 随分つまらない人生じゃないか、フェリスィテよ」
 悪魔はにやにやと笑いながら、前頭葉の近くまで歩いてきて、彼の眼球を裏側から覗き込む。そして悪魔は、彼の脳一杯の大きな幻覚を生み出して、彼を惑わせた。酒池肉林の中で笑う人々、生き血をすする人々、淫らで猥雑な映像と、積み上げられている大金。
 「正直者は莫迦を見る。こんなに凄い世界を生きている人間もいれば、金もなく煎餅布団に眠り、老婆のおこぼれの煮物を楽しみにしているお前みたいなのもいる。惨めだな。惨めな人生だ」
 黙れ! 思わず叫んだフェリスィテを、街行く人々が眺める。彼は手をあげて、なんでもないと周囲に示した。彼は路地に隠れる。手足の震えが収まるまで。震えが収まるまで数分かかった。震えはなんとか止まったが安心はできない。悪魔はまたいつ話し始めるか、わかったものではないから。
 「お困りのようですな」
 溜め息をつくフェリスィテの後ろから、厭らしい声が伸びてくる。女の身体を撫で回す淫らな男の手のように。フェリスィテは不快の波に襲われて振り返った。細い路地の入り口には、真っ黒な影が立っている。
 「いえ、なんでもないんです。少し立ちくらみがしただけで……」
 フェリスィテがそう言うと、黒い影は笑った。
 「頭の中から、声が聞こえるのでは?」
 影の男はフェリスィテの秘密を口にした。彼が驚くのを見ると、男は厭らしい声を架け橋に更に距離を縮めてきた。
 「私の持っている薬が、あなたのお役に立てると思うのですがね」

          3

 ふうん。ゾンダーリングは液晶の中の男を見て、鼻から声を漏らす。小馬鹿にしたような音色の声を。液晶の中の男は高級時計を身につけて、高価なブランデーを美味そうに啜っている。隣には美女がいて、彼女は目は潤んでいる。だがそれは好意からではなく、彼の指の間に挟まった太巻きの葉巻からあがる紫煙の所為かもしれないとは誰も指摘しない。彼は金持ちだからだ。金持ちに真実を告げるものなど、この世界にはいない。例えそんな大莫迦者がいたとして、彼らは『なぜか』皆が早死にしてしまう。
 「何を見てらっしゃるんですか?」
 若きミッターナハトが、ゾンダーリングに訊ねる。博士は振り返って、ミッターナハトを興味深そうに見つめた。
 「これを見てご覧。億万長者だ。この男はついこの間まで、そんなに裕福ではなかった。誠実で優しい男だと言われていたんだ。だが今では億万長者になり、そして人々から嫌われている」
 「へえ、そんなことが? 誠実で優しい男が、博士みたいに? 一体何があったんです?」
 ゾンダーリングはミッターナハトのリップサービスに、思わず顔を綻ばせる。なんてこの子は頭の回転が早いのだろう。どんな会話にも必ず、厭味を含ませてくれる。皮肉屋という点に於いては、自分よりも大物になるかもしれない、とゾンダーリングは思った。そしてその予言はきちんと当たった。
 「ある男に言われて、薬を飲んだんだ。悩みを解消する為にね」
 「悩み? 気弱で嘘をつけない自分を消したいとか?」
 「いや、そうじゃない。頭の中から聞こえてくる悪魔の囁きに悩まされずに済むようにしたい、というのが彼の願望だった」
 「頭の中というか……、彼自身が悪魔そのものになってしまってるじゃないですか」
 「彼が悪魔になれば、頭の中の声と彼の思考が一致する。問題は無くなるわけさ」
 それは詭弁じゃないですかねえ、とミッターナハトは呆れる。ゾンダーリングはほくそ笑み頷いた。そりゃそうだ。人々は詭弁が大好きなのさ。
 「病気の原因を取り除くのではなく、病気になることを前提として薬を開発する。科学をこねくりまわして環境を破壊してから、環境を良くする為にまた科学をこねくり回す。曲を書けないディレクターが曲を書けるソングライターにわざわざ曲を依頼して、出来上がった曲をあれやこれやと弄り回す。そういったわけのわからないことが、三次元の人類は大好きなのさ」
 「理解しかねますね。そんな莫迦どもも、それを見て喜んでる博士も」
 「そういうものなのさ。ほら、見てご覧。この男も莫迦を見て喜んでいるよ。とはいえ、この男のそれは少し特殊なようだが」
 僕は興味ありませんよ。そうミッターナハトが言うのとタイミングを同じくして、クローゼットから博士の背広たちが飛び出してきた。
 「やれやれ、また暴動だ。僕はまるで警察の特殊部隊ですよ」
 「すると今は九十二年か? それとも六十八年かな? 背広たちを抑えつけるお前が悪いよ」
 「そういうなら、博士が説得してください」
 「彼らには不満があるから、暴動が起きるのだ。説得や暴力での制圧ではなく、背広たちの意見を聞き、彼らの地位や生活の向上の為に歩み寄るべきだ。お前も国家権力も、いつまで経っても学ばないんだからなぁ」
 博士は肩をすくめて、画面へ視線を戻す。ミッターナハトは略奪と暴力の跋扈するウォークインクローゼットまで、とぼとぼと歩き出した。

          4

 変わってしまった。フロイントは、フェリスィテのことを考えている。あんなに誠実で美しかった彼は、今では強欲と皮肉に包まれた嫌われ者の富裕層へと姿を変えてしまったのだ。異変はあの日から始まった。彼が遅刻してきた日だ。あの日、彼は少し具合が悪そうに見えた。勿論、職場の皆が彼の心配をした。皆、彼のことが大好きだったから。しかし彼の顔にいつもの微笑みは無く、代わりに深く刻まれた眉間の皺が強い拒絶を顕していた。
 その日から彼は変わった。性格はどんどんと悪くなり、その代わりに彼の財布は膨らみ始めた。まるで天は人に二物を与えず、という言葉を体現しているかのように。人々は今まで彼にしてもらった全ての善行を忘れて、とっとと彼から離れた。いつだって議題にあがるのは、今のことだ。過去でも未来でもなく、今がどうかだけなのだ。
 そうして今フロイントは、フェリスィテの家の前に立っている。そこは以前に彼が暮らしていたアパートではない。古く小さかったが人情に溢れた、老婆の経営するアパートメントは彼にとっては遠い過去だ。フェリスィテはプール付きの大豪邸に暮らしている。そこには煮物をくれる大家も、彼に親しげな挨拶をくれる貧しくも美しい住人もいないが、金と権力と快適な暮らしといつでも服を脱いでくれる女たちがいる。
 チャイムを鳴らすと、中から黒服の執事が出てきた。老年の執事は抜かりない目つきをして、穏やかな物腰でフロイントをフェリスィテの部屋まで誘う。彼への侮蔑や嘲笑をしまった胸ポケットから、それらを少しだけしか覗かせずに。
 「こちらで御座います」執事に案内された部屋の前に立つと、中からフェリスィテの笑い声が聞こえてきた。彼はげらげらと笑い、愉快そうだ。もしかしたら機嫌がいいのかもしれない。それはフロイントにとって、希望になりうる出来事であった。彼は思い切ってドアを開けた。部屋の中には、二人の水着の女たちと、大型テレビ。そしてテレビを見る自分を映した鏡を見て、げらげらと笑うフェリスィテがいた。
 「やあ、フェリスィテ。覚えているかい? フロイントだ」
 フェリスィテはまだげらげらと笑っていたが、フロイントがそう声をかけると彼の方を向いた。
 「いらっしゃい。勿論覚えているとも! 君みたいな貧乏臭い顔、忘れたくとも忘れられない! もさもさの眉毛、汚らしい顎のライン、僕と同じ人種だとは到底思えないほどに愚鈍な瞳!」
 「はは、そうかな……。それにしても何をそんなに笑っていたんだい?」
 フェリスィテの酷い悪罵に気分を害しながらも、フロイントは話題を変える為にそう聞いた。部屋の中の淫らな女たちがくすくすと笑う笑い声も、彼の劣等感を刺激するには最高の舞台装置だった。しかし、彼は我慢した。今、フェリスィテの機嫌を損ねるわけにはいかない。
 「これかい? 見てご覧よ、これ!」
 フェリスィテが指差したテレビの画面には、流行りの恋愛リアリティショーが映し出されている。フロイントはあまり見たことがないが、とても面白いのだと職場の若い男の子が言っていたのを思い出した。
 「ああ、噂のテレビか。これって、そんなに面白いの?」
 「番組自体は大したことないんだ。お金を出したら人を操れると思っている莫迦と、その莫迦のお金に群がる愚かな人々の作るものだからね。しかしそれを見ながら鏡を見れば、その番組を見て喜んでいる莫迦が見れる。こんなに面白いコメディなんて、他にあるかい?」
 「悪趣味だな。お金を出したら人を操れると思っている莫迦って、じゃあその水着の女性たちは一体なんなんだ? 君にお金で雇われているんじゃないのか?」
 彼の醜い喜びに流石に胸焼けを隠しきれず、フロイントは女たちを指差す。フェリスィテはまたげらげらと笑った。
 「そうだよ。彼女たちも同じさ。愚かな僕に雇われた愚かな女たち。しかし愚かしさは大金を運んでくる。彼女たちはそのメタファーだ。メタファーに人格はない。そこにあるソファやベッドと同じさ。シルクの肌、羽毛のつまった頭、高級なおっぱいとお尻」
 女たちは身体をくねらせる。もしフェリスィテに財産が無ければ、彼女たちはさっさと服を着て出ていっただろう。もしくは更に悪く、彼女たちの帰りを家で待つ仕事はしないがタフな男たちに、フェリスィテは大怪我させられているかもしれない。だが彼女たちはそんなことはしない。そんなことをするよりも、身体をくねらせる方が金になるからだ。なるほど。確かにこの部屋の中は愚かしさで溢れていて、愚かしさは金を運んでくるようだ。
 「それで? 今日のご用事はなんだったんだい?」
 フロイントは胸焼けを抑えて、フェリスィテに事情を説明した。母が難病になったこと、この不況で仕事もかなり減ったこと、かなり高い額だが治療費を払えれば母の命が助かること。そして最後に彼は深々と頭をさげて、こう言った。
 「突然のことだし君には関係ないのもわかってる。だが、どうか母を助けて欲しい。何年かかっても必ず返す。だから、お金を貸してもらえないだろうか」
 「設定も科白も、メロドラマみたいだね。別にお金貸してあげてもいいけど、いいの?」
 「すまん、そうだよな……。え? 今なんていった? いいのか? 本当に貸してくれるのか?」
 フロイントは自分が聞き間違いをしたんじゃないことを、しつこく彼に確認した。現在の彼の態度からして、とても人助けをするタイプには思えなかったのだ。フロイントはもしかしたら、彼は昔のままの彼なのではないかと期待する。ついさっきまでの一連の出来事も忘れて。そう、いつだって議題にあがるのは、今のことだ。過去でも未来でもなく、今がどうかだけなのだ。
 「いいよ、別に。でも僕からお金をもらうというのは、この愚かしさの輪の中に入るということだ。君に出来るかな?」
 フロイントの希望は脆くも打ち砕かれ、ついでに選択肢も破壊された。彼の目の前にはピエロへの道と、にやにや笑いをするかつての同僚の姿だけが見えていた。

          5

 自家用ジェットの中、フェリスィテは葉巻を指に挟んで物思いに耽っている。目の前のテーブルにはシャンパンと、軽食が置いてある。革張りのソファが彼らの背中を支えていた。ジェット機の奥には女たち。
 「僕らは愚かだ。大金を手にしても、こんなことくらいしか出来ない。最高級の葉巻、自家用ジェット、女たち、死んだ牛の皮の上に座り込むこと」
 フェリスィテは呟く。酷く退屈そうに。
 「ならやめればいいだろう。愚かしい行動だと思うなら」とフロイント。
 「僕が愚かだったから、君の母親は助かったんじゃなかったか?」
 フロイントは黙る。確かに彼が昔のフェリスィテのままだったら、フロイントの母親の治療費は出なかっただろう。フェリスィテは笑う。とても寂しそうに。僕は良い人間と悪い人間、どっちなんだろうな。
 自家用ジェットはある街のエアポートに着陸した。エアポートには高級リムジンが待っていて、一行はそれに乗り込んだ。この街にはフェリスィテの別邸があるらしい。リムジンに乗り込むとフェリスィテは急に元気を取り戻し、どんちゃん騒ぎを始めた。アルコール、女たちの嬌声、猥雑な言葉、薬物。旅路を彩る愚かしさの嵐。
 別邸は本邸に負けず劣らず、驚くほど豪奢な建物だった。正に白亜の豪邸という言葉にぴったりの家。リムジンは門を抜け、建物の前まで彼らを送り届けた。別邸の前に広がる庭は広大で玄関から見て右側には小さな森も見える。彼らが車を降りると、大勢の使用人たちがフェリスィテたちを出迎えた。
 夕食には最高級のフレンチが出た。
 「俺たちも食べていいのか?」とフロインド。
 「勿論だ、友よ。女たちも、君もこれを食べるんだよ」
 そう言って、フェリスィテは長く豪華なダイニングテーブルを前に、にっこりと笑う。彼の後ろには微動だにしない使用人たち。女たちは早速食べ始め、フロインドも席につき、肉をナイフで切り始めた。すると使用人たちがダイニングテーブルの横に、一台の大きなモニターを運んできた。
 「折角の食事だ。楽しい映像でも見よう」
 フェリスィテが目線をやると、使用人の一人がモニターの電源を入れた。そこに映し出されたのはがりがりに痩せて、腹部だけが膨れた子供たちだった。フロインドは思わず肉を切る手を止める。少しの間、貧しい子供たちが食事も出来ず、泥水をすすって死んでいく映像が流れ続けた。その次に流れた映像は屠殺場の映像だった。吊るされた牛、狭いところで鳴く豚、嘴を切られた鶏。動物たちが不潔な場所にいれられ、首を切られて殺される映像。
 フロインドは気分が悪くなって、食べ物には口をつけずにフォークとナイフを置いた。女たちは映像を見ながら、ばくばくと目の前の食べ物を食べ続けている。それら全てを微笑みながら見る、フェリスィテ。フロインドは徐々に腹が立ってきた。幾ら母を助けてもらったからといって、こんな仕打ちは有り得ない。それにあの女たちもなんだ。こんな映像が流れているのに、目の前の肉をがつがつと食べたりして。善意や良心といったものがないのか。
 「フェリスィテ、流石に悪趣味すぎやしないか。それにそこの女性ふたりも。こんな映像を見ながら、よく食べられるな」
 「フロインド。彼女たちはどんな映像が流れても、気にしたりしないよ。なぜなら、彼女たちはロボットだからね」
 フェリスィテが合図をすると、数人の使用人が女たちに近づいた。そして首筋を少し弄ると、女たちはがくんと俯いて手もだらんと下に落ちた。机の下に落ちた銀食器は使用人たちが拾い、そして女たちはもう二度と動かなかった。
 驚愕がフロイントの背筋に走る。さっきまで確かに人間だと思っていた彼女たちは、ロボットだった? フロイントはフェリスィテの方を振り向く。彼は静かに目の前の肉を小さく切って、自分の口に運んでいる。
 「なぜ、こんなことを?」
 「なぜ? 君はそんなことは知らないでも良いんだ」
 「フェリスィテ。君はそんな奴じゃなかった。もっと良い奴だったよ。自分を取り戻せよ。一体、なぜそんな風になってしまったんだ」
 「君は僕のことなんて、何ひとつわかっちゃいないさ」
 そのフェリスィテの言葉に、フロイントは激昂した。
 「確かに君に何が起きたか、僕はわかっていないかもしれない! けれど、僕はずっと君と働いてきたんだ! 君がどんな人間だったか、わかっているつもりでいる! 僕には君との大切で暖かい記憶がある!」
 フェリスィテは悲しそうに笑った。それはフロイントが知る限り、今までで一番悲しそうなフェリスィテの表情だった。
 「君は僕のことなんて、何ひとつ知らない。なぜなら」
 「なぜなら?」
 フロイントがその続きを訊くことはなかった。フロイントの背後に回った使用人が、すばやく彼のスイッチをオフにしたからだ。
 「君も僕が開発させたロボットなんだ。だからその記憶は嘘だ。病気のお母さんの記憶もね。僕らが君に植え付けた、単なるプログラムさ」
 フェリスィテがそう言うと、フロイントの手がテーブルの上からずるりと落ちた。まるでその指先にくくりつけられた小人が、意を決してバンジージャンプをしたかのように。

          6

 ぐったりと椅子に座る操り人形たちの前で、悲惨な映像と食器の鳴る音だけが部屋の中に響いていた。フェリスィテは静かに目の前の食事を片付けていく。パンを千切り、肉を噛み潰し、ワインを啜る。フロイントも、女たちも、とても静かにしている。育ちがいいのだろう。食事中は静かにするのがマナーだとわかっているようだ。フェリスィテは心の中に浮かび上がってきた自分の悪趣味な冗談に、小さく笑う。そしてゆっくりあがる口角の奥で、その笑いを静かに噛み殺した。
 その時、夜の闇の中から一匹の黄金虫が、彼の食堂へと迷い込んできた。小さな来訪者は固い甲殻をかんかんと様々な場所にぶつける。そして時間をかけて、戸惑いながらフェリスィテの食事の目の前、白いテーブルクロスの上にその身を落ち着けた。使用人たちは蟲を排除しようと動いたが、すぐにフェリスィテがそれを制する。
 「いいよ。毒のある蟲じゃないし。それにロボットたちの電源をオフしてしまったから、退屈していたところだしね」
 フェリスィテは、黄金虫をじっと見つめる。蟲も彼を見返しているかのようだった。静かな時間が流れて、おもむろにフェリスィテは語り始めた。
 「僕はね、善人だと言われていたんだ。自分でもそう思ってた。ずーっとね。莫迦がつくほどの善人。お人好し。でもある日、頭の中に悪魔の声が聞こえてきてね。それを解決する為に、ある男から薬を貰ったんだ。それを飲んで以来、僕自身が悪魔になってしまった」
 そこで言葉を切り、彼はワインで唇を湿らせる。切った言葉を繋ぐまでの間で、一口分だけ食べ物を口に投げ入れた。モニターの中では相変わらず、食に関する残酷な現実が映し出されている。この世界で起きている現実は、直視してみると、悪夢の方が可愛く思えるようなことばかりだ。
 「悪魔になれば、頭の中の声はなんでもなくなった。金は稼げたけど、人には嫌われた。そして気付いたんだ。僕は確かに好かれていたけれど、それはただ相手にとって都合がいいってだけだったんだ。その証拠に僕が彼らの思い通りにならなくなったら、全員があっという間に離れていった。世界は残酷で、冷たく、誰も信用するに価しない。寄って来る奴は全員が金や他の何か目当てだ。生きることは実に虚しいよ」
 彼はフロイントの電源を切る前に見せた、悲しい笑顔を顔の上に浮かべる。それを見ていたのは、一匹の黄金虫だけだったが。
 「誰も信用出来ないから、ロボットを開発して一人でおままごとしてるってわけさ。愚かな金持ちごっこと、そこから善人になれるハッピーエンドごっこ。使用人たちも皆ロボットだし、僕の周りに生きている生物は一匹たりとも居ない。……君以外はね。本当はあそこでフロイントの電源を落とさずに、人間のしていることの醜さを彼に語り、僕は世界を救うことを彼と約束するって筋書きだったんだけれど。なんだか急に莫迦莫迦しくなって、辞めてしまったんだ」
 黄金虫は何も言わずに、じっとフェリスィテの言葉に耳を傾けている。フェリスィテはおもむろに立ち上がり、小さな客人の前に人差し指を差し出した。
 「お乗り。草木のあるところへお連れするよ」
 フェリスィテの小さな客人は、少し躊躇してから彼の指先におずおずと乗った。悪魔であり、富裕層である彼は、今では黄金虫専用のジェット機となった。かつかつと靴音を響かせて、大きな扉を幾つかくぐり、彼らは黄金の月明かりの下へ飛び出す。玄関戸の向こうには、彼の所有する広大な庭。その一角にある小さな森の入り口の前に立って、フェリスィテは指を空に高く掲げた。
 「さぁ、もうお行き。僕の退屈な一人語りに付き合ってくれてありがとう。幸福に暮らすんだよ。幸福にね」
 黄金虫は黄金の月明かりの下、翅を広げて飛んだ。彼はそれを見届けて、静かに食堂へと戻る。食堂には呼吸音すら立てない精密で忠実な使用人たちと、未だに食事のマナーを守っている友人たちが彼を待っていた。皿の上ですっかり冷めきってしまった食事も。
 「なあ、フロイント。聞いてくれよ。僕は今日、黄金虫を殺さずに逃がしてやったんだ。自分の生きる意味なんて皆目見当もつかないが、それでも僕は黄金虫を殺さなかったんだ。僕は彼の命の恩人だよな? 僕は今日、命を大切に出来たし、自分以外の存在に親切に出来たんだよな? 例え、それが直径二十ミリ程度の小さな命だったとしてもさ」
 フロイントは何も言わない。女たちも。使用人も。冷めた料理でさえも。命を持った客人はもう帰ってしまった。灰色で冷たい無機質な世界で、フェリスィテだけが色を持っている。彼にとっては自家用ジェットよりも、高級リムジンよりも、いくつも持っている大豪邸よりも、黄金虫を逃がしたことの方が誇らしかった。小さな命を潰さなかった自分が、何億も稼いだ自分よりも偉大に思えた。
 「食事が冷めてしまった。煮物が食べたいな。大家のばあさんが作った、あの老人臭い味の煮物……」
 使用人たちは、彼の言葉を理解出来ず、『もう一度仰ってください』という科白を繰り返す。フェリスィテはそれに返辞をしなかった。そして食堂にはもう誰の声もしなくなった。

          7

 ゾンダーリングは液晶を閉じた。神妙な顔つきで、静かに物思いに耽る。その彼の後ろをばたばたと駆け回る背広とミッターナハトの足音。
 「博士、手伝ってください! こいつら、全然言うこと聞きませんよぉ」
 情けない声を出すミッターナハトを見て、ゾンダーリングはにやにや笑いを取り戻す。背広の管理もできないだと? 全く、なんと素晴らしい弟子だろう。
 「残念ながら、一度に袖を通せる背広は一着だけだ。どんな金持ちにも、どんな貧乏人にも、平等にね」
 背広とミッターナハトの足音。ゾンダーリングの笑い声。全てを、真っ青な夏の青空が見つめている。その空を直径二十ミリ程度の、小さな生命が通り過ぎる。美しい透明の翅をはためかせて、神の中をそれはそれは幸せそうに。
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