最終話
文字数 2,685文字
郊外にある尖塔 の頂上にスーリヤはいた。手すりに腕を置き、背を向けている。屋根の下にはぬるい夕風が吹いていた。
ここまで来たものの、どうしていいかわからない。話しかけられずにいると、やがて彼女が口を開いた。
「……さっきの聞いた?」
その背中に「ああ」と答えると、やがてスーリヤは話しはじめた。
何年か前マハリに越してきて、最初は幸せだった。少ないながらも時々雨は降っていたし、周りの人とも打ち解けていた。
ところがいつからか、スーリヤが来ると雨が止むと噂が立った。久しぶりの雨に沸く人たちと一緒に喜びたくて外へ出たのに、いつも途端に雨が止むのだ。噂に呼応するように雨は降らなくなり、恵みを奪う悪魔の子だとすら囁 かれだした。
もう外に出るなと両親に言われた。町の人の冷たい視線に耐えられないからと。仕打ちには納得できなかったが、憔悴 した両親の姿を見て、彼女は了承した。
それから、ひたすら家で藁 を編む仕事をして過ごした。日に当たらなくなった肌は白くなり、ますます周囲との差異が浮き彫りになった。
外で笑い声がするたび、心の底から自由がうらやましく、我が身の境遇を呪った。ぎらぎらと照らし続ける太陽が憎くて仕方なかった。しかし人の声は外界との唯一の繋がりでもあり、嫌いにはなりきれない。それがまたもどかしくて仕方なかった。
そして数日前のことだ。
聞こえてきたのは老人たちの愚痴だった。連れ立って歩きながら、生活への不満をぶちまけている。その中でおかしな男が話にあがった。曰 く、この町に雨を降らせに来たと――。
その時の心境は察するに余りある。気がつけば外へ出ていたらしい。閉じこもっていることへの限界も来ていたんだろう。見咎 められないようにフードを被り、変わった町の様子を数年ぶりに眺めた時、後ろめたさもあったというが、解放感が上回っていたんだと思う。おそらく生来の明るさを取り戻しつつあったところで俺と出会ったようだ。ここで暮らしているのにあちこち行きたがるのは、何年も外へ出ていないからだった。
話を聞いて、俺は俯 いたまま何も言えなかった。こんなにも自分と似た境遇の人間を見たことがない。でも紛れもない事実なんだろう。努めて普通に話そうとする彼女の声から、強がりでは隠しきれない心情が窺 い知れた。
「ごめんね」
「え?」
「ヒュエトスのこと知ってたのに、知らないフリしてごめん。どうしても言い出せなくてさ」
違う。そんなことはどうでもいい。
「楽しかったのは本当だよ。わたしのことを聞いてなかったとはいえ、ヒュエトスはわたしを否定しないから」
渇いた声で笑う。俺の生返事は、なるべく関わるまいとしてだったのに、彼女にとってはそうじゃなかった。胸の中がきゅっと絞られたように痛い。
「でもこうなっちゃったら、もうこの時間も終わりだね。なんでこんなにうまくいかないのかな……」
希望が潰 えようとしている。そんなことはあっていいはずがない。そうだ、俺が今やるべきは、一人で苦しむことじゃないはずだ。
「わたしってほんと、駄目なやつだなあ」
俺は顔を上げた。
「お前は駄目なんかじゃない」
驚いた様子でスーリヤが振り向いた。しかしすぐさま目を伏せて反転する。
「わたしを否定しないからって言ったけど、そんな言葉が欲しくて言ったんじゃないよ」
「違う! お前は何も悪いことはしていないし誰に何を言われる筋合いもない。後ろ指さされることなく、堂々と生きていいはずなんだ。隠れなくていい。人と関わってもいい。自分の好きなように生きていいんだよ」
背を向けたままの彼女へ、なおも俺は言葉を繋ぐ。
「それに……本当に不甲斐ないのは俺の方だ」
俺はこれまでの経緯を語った。
生まれのこと、忌み子として蔑まれてきたこと、大豪雨とニビのこと。
母のこと以外は思い出したくない記憶ばかりで、何度も言葉に詰まり、声も掠 れていたが、洗いざらい話さなければと思った。
「マハリに来たのは、誰からも必要とされない自分の生きる意味が知りたかったからだ」
言っていて辛い。でも、どうしても彼女に対しては誠実でいたかった。傷の舐め合いがしたいわけじゃない。問題を解決できるわけでもない。それでもだ。
いつしか日は完全に沈み、紺色の空に浮かんだ大きな月が、静かに光をたたえている。やがてぽつりと彼女が言った。
「もういいよ」
それを聞いて、俺はまた間違えたのかと思った。しかし振り返ったスーリヤの目には涙が浮かんでいた。
「……ありがとう」
それから「でも」と続けた。
「そんなことないよ。誰からも必要とされないなんて言わないで。そんな人いないよ。だってそんな悲しいこと、あるわけないじゃない。そうでしょう」
その優しい声を聞いて、瞳の奥が熱くなるのを感じた。これはきっと悔しさのせいだ。
なぜ降らない。
いつも降ってほしくない時にだけ降り、肝心な時には何も起こらない。もういい加減にしてほしかった。罪のない者からささやかな幸せさえ奪ってそれが何になるんだ。この世のどこにも寄る辺なく、孤独に死んでいく定めだとでも言うのか。違う、違う、違う。
溢 れ出た涙が流れ落ち、顎 から床に垂れた。望みは何も叶えられずただ泣くだけ。惨 め極まりない。これを生き恥と呼ぶのだろうか。
「……あ」
見ると、スーリヤが目を見開いている。
それから外へ手を伸ばした。
「あ、ああ、あ」
言葉にならない声を漏らす彼女。その時ふと俺の頬に触れるものがあった。
俺は最初それが何なのかわからなかったが、涙を拭 い、彼女の横に立って外を見ると、柔らかな光が降り注いできた。
月はただそこにあって、静謐 な煌 めきを抱いている。等しく光を纏った無数の水の粒が、眼前に広がっていた。
俺はこんなにも穏やかな雨を見たことがない。俺にとって雨とは、暗く冷たく、疎ましいものでしかなかったからだ。
ぽかんと口を開けていると、同じく口を開けているスーリヤと目が合った。
「……降ってるね」
「……降ってるな」
しばし呆然とした後、俺の手を掴んでスーリヤが言った。
「ありがとう。あなたは私にとって必要な人だよ」
くしゃくしゃの泣き笑いが俺に向けられていた。
塔の下では、人々が往来に出て沸き立っている。全身に恵みを受けながら、抱き合い、歓喜に打ち震えている。
だが、俺は神になんてならない。
もっとも幸せを与えたい人が目の前にいるからだ。
「こちらこそ、ありがとう」
数年ぶりに笑うと、母さんも笑ってくれている気がした。
俺は微笑むスーリヤと共に、空を眺めた。
月の雨は、しばらく止みそうになかった。
ここまで来たものの、どうしていいかわからない。話しかけられずにいると、やがて彼女が口を開いた。
「……さっきの聞いた?」
その背中に「ああ」と答えると、やがてスーリヤは話しはじめた。
何年か前マハリに越してきて、最初は幸せだった。少ないながらも時々雨は降っていたし、周りの人とも打ち解けていた。
ところがいつからか、スーリヤが来ると雨が止むと噂が立った。久しぶりの雨に沸く人たちと一緒に喜びたくて外へ出たのに、いつも途端に雨が止むのだ。噂に呼応するように雨は降らなくなり、恵みを奪う悪魔の子だとすら
もう外に出るなと両親に言われた。町の人の冷たい視線に耐えられないからと。仕打ちには納得できなかったが、
それから、ひたすら家で
外で笑い声がするたび、心の底から自由がうらやましく、我が身の境遇を呪った。ぎらぎらと照らし続ける太陽が憎くて仕方なかった。しかし人の声は外界との唯一の繋がりでもあり、嫌いにはなりきれない。それがまたもどかしくて仕方なかった。
そして数日前のことだ。
聞こえてきたのは老人たちの愚痴だった。連れ立って歩きながら、生活への不満をぶちまけている。その中でおかしな男が話にあがった。
その時の心境は察するに余りある。気がつけば外へ出ていたらしい。閉じこもっていることへの限界も来ていたんだろう。
話を聞いて、俺は
「ごめんね」
「え?」
「ヒュエトスのこと知ってたのに、知らないフリしてごめん。どうしても言い出せなくてさ」
違う。そんなことはどうでもいい。
「楽しかったのは本当だよ。わたしのことを聞いてなかったとはいえ、ヒュエトスはわたしを否定しないから」
渇いた声で笑う。俺の生返事は、なるべく関わるまいとしてだったのに、彼女にとってはそうじゃなかった。胸の中がきゅっと絞られたように痛い。
「でもこうなっちゃったら、もうこの時間も終わりだね。なんでこんなにうまくいかないのかな……」
希望が
「わたしってほんと、駄目なやつだなあ」
俺は顔を上げた。
「お前は駄目なんかじゃない」
驚いた様子でスーリヤが振り向いた。しかしすぐさま目を伏せて反転する。
「わたしを否定しないからって言ったけど、そんな言葉が欲しくて言ったんじゃないよ」
「違う! お前は何も悪いことはしていないし誰に何を言われる筋合いもない。後ろ指さされることなく、堂々と生きていいはずなんだ。隠れなくていい。人と関わってもいい。自分の好きなように生きていいんだよ」
背を向けたままの彼女へ、なおも俺は言葉を繋ぐ。
「それに……本当に不甲斐ないのは俺の方だ」
俺はこれまでの経緯を語った。
生まれのこと、忌み子として蔑まれてきたこと、大豪雨とニビのこと。
母のこと以外は思い出したくない記憶ばかりで、何度も言葉に詰まり、声も
「マハリに来たのは、誰からも必要とされない自分の生きる意味が知りたかったからだ」
言っていて辛い。でも、どうしても彼女に対しては誠実でいたかった。傷の舐め合いがしたいわけじゃない。問題を解決できるわけでもない。それでもだ。
いつしか日は完全に沈み、紺色の空に浮かんだ大きな月が、静かに光をたたえている。やがてぽつりと彼女が言った。
「もういいよ」
それを聞いて、俺はまた間違えたのかと思った。しかし振り返ったスーリヤの目には涙が浮かんでいた。
「……ありがとう」
それから「でも」と続けた。
「そんなことないよ。誰からも必要とされないなんて言わないで。そんな人いないよ。だってそんな悲しいこと、あるわけないじゃない。そうでしょう」
その優しい声を聞いて、瞳の奥が熱くなるのを感じた。これはきっと悔しさのせいだ。
なぜ降らない。
いつも降ってほしくない時にだけ降り、肝心な時には何も起こらない。もういい加減にしてほしかった。罪のない者からささやかな幸せさえ奪ってそれが何になるんだ。この世のどこにも寄る辺なく、孤独に死んでいく定めだとでも言うのか。違う、違う、違う。
「……あ」
見ると、スーリヤが目を見開いている。
それから外へ手を伸ばした。
「あ、ああ、あ」
言葉にならない声を漏らす彼女。その時ふと俺の頬に触れるものがあった。
俺は最初それが何なのかわからなかったが、涙を
月はただそこにあって、
俺はこんなにも穏やかな雨を見たことがない。俺にとって雨とは、暗く冷たく、疎ましいものでしかなかったからだ。
ぽかんと口を開けていると、同じく口を開けているスーリヤと目が合った。
「……降ってるね」
「……降ってるな」
しばし呆然とした後、俺の手を掴んでスーリヤが言った。
「ありがとう。あなたは私にとって必要な人だよ」
くしゃくしゃの泣き笑いが俺に向けられていた。
塔の下では、人々が往来に出て沸き立っている。全身に恵みを受けながら、抱き合い、歓喜に打ち震えている。
だが、俺は神になんてならない。
もっとも幸せを与えたい人が目の前にいるからだ。
「こちらこそ、ありがとう」
数年ぶりに笑うと、母さんも笑ってくれている気がした。
俺は微笑むスーリヤと共に、空を眺めた。
月の雨は、しばらく止みそうになかった。