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文字数 1,781文字

 次々と繰り出されてくる獣の攻撃を、よたよたと何とかかわしていった。何の神様が気まぐれを起こして、薫を助けてくれたのか。
 そのうちに、怪物の動きは大きな体に似あわず俊敏だが、もしかしたら頭のほうはそんなに良くないかもしれない、ということに気がついた。
 動きが単純なのだ。前肢を振り上げ、炎を撒き散らしながら鋭い爪を薫の顔に叩きこもうとするか、大きな口を開けて牙で頭を噛もうとするか、のどちらかなのだ。その順番とタイミングさえつかめば、何とかかわすことができる。
だがそれが精一杯だった。攻撃する余裕がない。したくても、どうやったらいいかわからない。
 獣はただ、薫が疲労して動けなくなるのを待てばいいのだ。
 もしかしたら、薫が攻撃をかわしているのではなく、獣が薫をいたぶって遊んでいるのかもしれない。猫が鼠を、追い詰めてすぐには殺さないように。
 戦局が変った。獣の振りかざした肢を棍棒で振り払ったとき、炎がとうとう燃え移った。棒の先がめらめらと燃え出す。慌てて棒を振って火を消そうとしたが、風を受けてますます強く燃えさかり、熱さのあまり棍棒を落としてしまった。獣が、瞳と唇の端を吊り上げる。これほど熱いのに、全身が氷に包まれたようになった。
 獣が炎の舌で唇を舐めた。急がず、ゆっくりと、おもむろに口を開けて飛びかかろうとしている。いっそ意識を失いたいと思った。体を焼き尽くすほどの炎は、きっとすごく痛いんだろう。
 薫の意識の中で、すっと怪物の姿が遠ざかっていった。熱風もゴウゴウいう音も、急速に引いていく。すべてが遠くなろうとしている中で、ぽちゃと何かの音がした。薫に向かって自己主張している何かがある。
 この音って何だっけ。炎に不釣り合いな、そう、あれは水の音……。
 薫の目がかっと開いた。世界が駆け足で戻ってくる。
 棍棒のほかに唯一ナキが持たせてくれたもの、それを腰から引き剥がし、手を、伸ばさなくとも届く距離に迫っている赤い獣の大きな顔に、思いっきりぶちまけた。

ぐぎゃぁぁぁあああああ

 暗い悲鳴が響き渡る。至近距離で聞いた薫は、頭の奥で銅鑼を叩かれたように脳みそがぐぁんぐぁんと揺れた。
 じんじんと痺れる耳を両手で塞ぎながら見ると、獣は地面を転げ回っている。顔から真っ黒な煙が立ち昇り、じゅうじゅうという音が聞こえた。
炎の獣が焼かれるというのも妙だが、その音と匂いは、確かにものが焼けるときのそれだった。
「効いたんだ……」
 ナキにもらった、風呂の水。
 
 呆然と座り込んで、獣の、じたばたもがき苦しむ様を見ていた。
「すごいじゃないか」
 張りのある声が、あいかわらずどこか他人事のように聞こえてきた。薫は疲れ切って声も出ない。
 獣はどうやら反撃してくることはなさそうだった。黒い煙を顔から立ち昇らせながら、うぎゃあうぎゃあと火の粉を撒き散らしてもがいている。
 もう大丈夫だと思った。ナキが、現れたまま消えないことがその証拠だ。でも勝ったという興奮や高揚感は感じなかった。
 もうちょっとで、あの熱そうな火で焼かれ、大きな獣に噛み砕かれて死ぬところだったんだ……。
「あれは火之迦具土(ひのかぐつち)だ。ああやってこの世界を徘徊していて、獲物を襲う」
 ヒノカグツチ……その言葉の音に、どこかで聞き覚えがあるような気がした。
 あれぇ、どこだっけ……。
「あれにやられるものも多いんだ。なかなかやるじゃないか」
 ……どうやら誉めてくれたらしい。
「私も個人的に、あれには思い含むことがある。おまえが勝ってくれてうれしいよ」
 声のトーンがほんのわずか落ちた。薫はナキを見た。黒く長い睫毛が、瞳に暗い影を落としている。続きを話してくれるのを待ったが、ナキはそれきり口を噤んでしまった。仕方がないので、別のことを口にした。
「あの水が効くとは思わなかった。あの、風呂の水……」
「禊の水は聖なる水。聖水だ」
 ああ、そうか。だから風呂の水を汲んできたのか……。

 ぐぎゅるるるるという、低い呻き声が聞こえた。見ると、炎の獣はいつの間にか転げ回るのをやめて座っている。聖水で焼かれた顔の一部は真っ黒に焦げているが、煙はもう出ていない。
 薫がさっと緊張する。ナキが落ち着いた声で言った。
「大丈夫だ。もうやつは襲ってこない」
 それを聞いて薫はあらためて獣を見た。体を包む炎が一回り小さくなっている。
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