17
文字数 1,871文字
半分以上焼けたスーツの袖は、脱いで捨てた。ズボンの方も膝から下が焼け焦げ、下着サイズになってしまった。
「動きやすくなってちょうどいいや……」
爪に巻いた草の応急処置はとっくに剥がれてしまったが、痛みはもう感じなかった。
再び歩き始めた。
「奈美里ぃー」
呼ぶ声に力がこもる。それは薫がこの闇に来て初めてのことだった。醜女と火之迦具土に勝ったこと、この闇の中くじけずに奈美里を探して歩き続けていることが、薫に力を与えてくれた。
少し離れて、火之迦具土が後ろをついてきていた。もうさっきまでのように、炎を轟々と燃え盛らせてはいない。炎は風のようにさやさやと揺れながら、火之迦具土の体を覆っている。まるで獅子のたてがみのように。」
「奈美里ぃーー俺だよぉー、薫だよーー。迎えに来たよーー」
返事はない。ぬば玉の闇は沈んでいる。だけど最初ほどの敵意とよそよそしさはないように思うのは、気のせいだろうか。
「気のせいだ」
思考を読んでいたかのように、ナキの声がした。が、姿は見えない。
「……やっぱり、近くにいるんじゃないか」
ため息が洩れた。次は何が来るんだろう。まだ、奈美里ちゃんには会えないんだろうか。自分の呼び声は届いているんだろうか。届いていて無視しているんだろうか……。
歩きながら、後ろにいる火之迦具土を見た。柴犬くらいの大きさになって、炎の尾をぱたんぱたんと振っている。さっきまでの獰猛さの微塵もない。
「おまえ……俺になついたの?」
炎の獣は、薫の言葉に小首を傾げたように見えた。それから、ごろごろと喉を鳴らした。
「俺についてきたって、何もないよ……。それともまさか、俺が弱ったら食おうとしてるとか?」
火之迦具土はきょとんとした。
「火か……たしかギリシャ神話に火の神さまがいたな。火の神、ペレ。もしかして、おまえそれ?」
獣は、ぐぎゅると喉を鳴らした。
「それってイエス? ノー?」
「ぐぎゅる」
「わかんないよ。ああでもペレは、確か牛の姿だったなあ」
獣は、ふんっと鼻を鳴らした。
「今のノーってこと? おまえ、牛には見えないもんね」
「ふんっ」
「ははは。おまえは立派な獅子に見えるよ。ちょっと変わってるけど……」
「ぐぎゅる」
「ははは。だけど火之迦具土って何だろうなあ。火と関係があるのは、見ればわかるけど。あとは家具と関係があるってこと?」
「ふわ~あぁ」
獣はあくびをした。大きな口から、炎がボワッと吐き出される。
「なんだよ、そう露骨な反応するなよ。言っとくけど、わかってて言ったんだからな。でもヒノカグツチって、どっかで聞いたことあるんだよなあ……」
どこでだったか、いつだったか。誰からだったか。
「あーあ」
投げたボールがすぐそこに落ちたときのような力のない声を出して、薫は上を仰いだ。
上には永遠の黒が広がっている。
「ほんの少しの爽快感もない……」
見上げているこの空が青空で、歩いているこの地面が草原だったら。そう考えて、そんな景色はもう何年も見ていないことに気がついた。そういう場所を一緒に散歩したいな……。
火之迦具土が炎の尻尾をぱたぱた振った。こうしていると犬みたいにかわいい。案外人なつこいのかもしれないな。
「撫でてもいい?」
と薫が言ったそのとき。火之迦具土がびくんと奮えた。さっと顔を振り上げ、闇の向こうを凝視する。体を包む炎が一回り大きくなり、火之迦具土の体が緊張するのが薫にもわかった。
薫もそちらに目を凝らす。が、何も見えない。吸い込まれそうな闇が広がっているだけだ。だが火之迦具土は、その何もない闇の向こうを睨みつけている。一瞬でも闇から目を逸らしたら、その瞬間首をすぱんと切られてしまうかのように。獣の毛が逆立つように、火之迦具土の炎がそそり立ち燃え上がった。
と。次の瞬間、音もなく、全ての黒は全ての白となった。一瞬、世界が明滅する。そしてすぐに、再び闇の衣を纏った。
「え?」
何が何だかわからない。すると今度は、大地を揺るがすようなどーんという轟音と、激しい振動が薫を襲った。
転びそうになったが両脚を開いて踏ん張り、かろうじて地面に倒れることを防いだ。
たった今まで静だった世界は、動へと一挙にその座を譲った。
間髪入れずに、バチバチバチッという何かが爆ぜるような音がした。続いて地面が、低い地響きの音とともに細かな振動で揺れ出した。まるで何か大量に移動しているみたいに。
「何かが、来る!」
それも一人や二人、一匹や二匹ではない。もしかしたら、醜女よりも多くの何かが。闇の向こうから。暗黒の世界の更なる深奥から。
「動きやすくなってちょうどいいや……」
爪に巻いた草の応急処置はとっくに剥がれてしまったが、痛みはもう感じなかった。
再び歩き始めた。
「奈美里ぃー」
呼ぶ声に力がこもる。それは薫がこの闇に来て初めてのことだった。醜女と火之迦具土に勝ったこと、この闇の中くじけずに奈美里を探して歩き続けていることが、薫に力を与えてくれた。
少し離れて、火之迦具土が後ろをついてきていた。もうさっきまでのように、炎を轟々と燃え盛らせてはいない。炎は風のようにさやさやと揺れながら、火之迦具土の体を覆っている。まるで獅子のたてがみのように。」
「奈美里ぃーー俺だよぉー、薫だよーー。迎えに来たよーー」
返事はない。ぬば玉の闇は沈んでいる。だけど最初ほどの敵意とよそよそしさはないように思うのは、気のせいだろうか。
「気のせいだ」
思考を読んでいたかのように、ナキの声がした。が、姿は見えない。
「……やっぱり、近くにいるんじゃないか」
ため息が洩れた。次は何が来るんだろう。まだ、奈美里ちゃんには会えないんだろうか。自分の呼び声は届いているんだろうか。届いていて無視しているんだろうか……。
歩きながら、後ろにいる火之迦具土を見た。柴犬くらいの大きさになって、炎の尾をぱたんぱたんと振っている。さっきまでの獰猛さの微塵もない。
「おまえ……俺になついたの?」
炎の獣は、薫の言葉に小首を傾げたように見えた。それから、ごろごろと喉を鳴らした。
「俺についてきたって、何もないよ……。それともまさか、俺が弱ったら食おうとしてるとか?」
火之迦具土はきょとんとした。
「火か……たしかギリシャ神話に火の神さまがいたな。火の神、ペレ。もしかして、おまえそれ?」
獣は、ぐぎゅると喉を鳴らした。
「それってイエス? ノー?」
「ぐぎゅる」
「わかんないよ。ああでもペレは、確か牛の姿だったなあ」
獣は、ふんっと鼻を鳴らした。
「今のノーってこと? おまえ、牛には見えないもんね」
「ふんっ」
「ははは。おまえは立派な獅子に見えるよ。ちょっと変わってるけど……」
「ぐぎゅる」
「ははは。だけど火之迦具土って何だろうなあ。火と関係があるのは、見ればわかるけど。あとは家具と関係があるってこと?」
「ふわ~あぁ」
獣はあくびをした。大きな口から、炎がボワッと吐き出される。
「なんだよ、そう露骨な反応するなよ。言っとくけど、わかってて言ったんだからな。でもヒノカグツチって、どっかで聞いたことあるんだよなあ……」
どこでだったか、いつだったか。誰からだったか。
「あーあ」
投げたボールがすぐそこに落ちたときのような力のない声を出して、薫は上を仰いだ。
上には永遠の黒が広がっている。
「ほんの少しの爽快感もない……」
見上げているこの空が青空で、歩いているこの地面が草原だったら。そう考えて、そんな景色はもう何年も見ていないことに気がついた。そういう場所を一緒に散歩したいな……。
火之迦具土が炎の尻尾をぱたぱた振った。こうしていると犬みたいにかわいい。案外人なつこいのかもしれないな。
「撫でてもいい?」
と薫が言ったそのとき。火之迦具土がびくんと奮えた。さっと顔を振り上げ、闇の向こうを凝視する。体を包む炎が一回り大きくなり、火之迦具土の体が緊張するのが薫にもわかった。
薫もそちらに目を凝らす。が、何も見えない。吸い込まれそうな闇が広がっているだけだ。だが火之迦具土は、その何もない闇の向こうを睨みつけている。一瞬でも闇から目を逸らしたら、その瞬間首をすぱんと切られてしまうかのように。獣の毛が逆立つように、火之迦具土の炎がそそり立ち燃え上がった。
と。次の瞬間、音もなく、全ての黒は全ての白となった。一瞬、世界が明滅する。そしてすぐに、再び闇の衣を纏った。
「え?」
何が何だかわからない。すると今度は、大地を揺るがすようなどーんという轟音と、激しい振動が薫を襲った。
転びそうになったが両脚を開いて踏ん張り、かろうじて地面に倒れることを防いだ。
たった今まで静だった世界は、動へと一挙にその座を譲った。
間髪入れずに、バチバチバチッという何かが爆ぜるような音がした。続いて地面が、低い地響きの音とともに細かな振動で揺れ出した。まるで何か大量に移動しているみたいに。
「何かが、来る!」
それも一人や二人、一匹や二匹ではない。もしかしたら、醜女よりも多くの何かが。闇の向こうから。暗黒の世界の更なる深奥から。