第3話 未成年と成年
文字数 2,171文字
アヤがカリヨンを飛び出したのは案外早く、入所してわずか数週間ほどだったように思う。
その後まもなく元のマンションに戻り、またキャバで働き始めたとももから聞いた。おそらく、ヤスもそばにいるだろう、と。
腹が立ったかと言われれば、実は立たなかった。ああ、やっぱりねと思っただけだ。男と女のことはそう簡単ではないし、私自身が「救うアタシ」物語に酔うことが、どれほど危ういことかも知っていたからだ。
そして実は私は、アヤの気持ちを半ば無視して、せっかちに事を進めていたことにも薄々気づいていた。親や男から逃げ出したいのか、やり直したいのか。そのどちらでもないのか。
何度か尋ねてはみたが、あの頃のアヤに、どうしたいかと聞くのは無駄だった。今にして思えば、そんな難しい判断ができるような状態ではなかったように思う。アヤは、とにかくただひたすら疲れていたのだ。
では、安らげる場所を探せばいいのかと言われれば、ことはそう単純ではないと返したい。
アヤたちが中学時代のことだ。
ももは案外真面目に学校に通ったが、アヤとケイはまともに通わなかった。たまに学校に顔を出すと、早速教師たちに目の敵にされた。それに辟易としてアヤたちはまたサボる。そんな悪循環が続いていた。中でもKという中年の女性教師がひどかった。
二学期の始業式に珍しく出席しようとしたアヤは、その日、朝一で我が家に来て、服装がおかしくないか見てくれと玄関先で大騒ぎしていた。もちろんおかしい。スカートは短すぎるし、髪の色は赤いし、なんてったってキティちゃんのサンダルで登校しようなんて、どうかしているとしか思えない。学校に行かなすぎてまともな判断力すらなくなっている。
うちの娘たちを交えてわあわあ言いながら、アヤの服装をなるべくまともに見えるよう調整し、やっとの事で送り出した。ところが、すぐにアヤが一人でうちに戻ってきた。
「なに、どうしたの?」
「行ったらいきなり、Kから保健室に閉じ込められた」
「なんで?」
「知らない。お前なんか来たって、死体が生き返って来たようなもんでみんなびっくりするから、始業式なんか出させない。保健室で反省文書いてろって……」
窓から逃げ出したというアヤは、上履きのままだった。
この教師は、一体何がしたいのだ。言うこともアヤに課した罰も、何もかもとても歪で危うい。
「……わかった」
しっかり化粧して着替えた。戦闘準備だ。
徒歩五分の学校について、K先生を呼び出してもらったが、始業式の真っ最中で今は無理だと言われた。今にして思えば、学校側が匿ったのかもしれない。
結局、その日K先生と話すことはできなかったが、後にK先生がポロリと私に漏らしたことがある。
「私ほど、あの子達を思ってる教師はいない」
あぁ、もう、お前もかと思った。
なぜならこの教師の言ったことこそ、DV加害者の典型的なメンタリティに他ならないからだ。
——こんなにもお前を思っているのに、お前はなぜ私のいうことを聞かない? 私は、お前を愛しているからこそ縛りつけ、殴るのだ。だから、殴られるお前が悪い——
DV加害者の胸の内は、まぁ、大体こんなところだ。暴力のあるなし、男女に関係なく、モラハラも大体こんな心理状態の中行われる。もちろん、幼児虐待もしかりで、大人と子供の圧倒的な力差のために、悲惨な悲劇がいまもまだ量産され続けている。
この状態に長年晒される被害者は、まんまとこの理屈を真に受け、殴らせる私も悪いのだと思い込む。こんなにも私を思ってくれるこの人しかいないと洗脳された挙句、ほとぼりが冷めるとまた元の鞘に戻ってゆく。あるいは、似たタイプの救済者にまた縋り付く。
実にやりきれない。
実際、この教師はアヤや娘が廊下ですれ違っただけで、いきなり胸を殴ったり首にチョップをかましたりしたらしい。
この教師の1番の間違いは「善意は報われる」と思い込んでいることだ。
誰かを本気で救おうと思うなら、真っ先にこの考えそのものを捨てるべきだ。
あなたの善意は踏みにじられ裏切られる。そういうものだしそれでいい。
だから、そうされても腹が立たない範囲で手伝うぐらいがちょうどいい。
つまり、助けてと懐に飛び込んで来た人間が、そこから逃げ出すなら深追いしてはいけないということだ。カリヨンはそれをよくわかっていた。来るものは拒まず、去る者は追わない。
カリヨンと行政の大きな違いはそこにある。カリヨンは何度でも裏切らせる。行政はそれを嫌がり、救済を求める人間に、相手と必ず手を切るという断固たる決意を求める。安易で薄弱な意思は、施設の安全を脅かすからだ。
それはそうかもしれない。でも命からがら逃げてきた被害者は、まだそこまでの覚悟ができていない場合も多い。何しろ日々を乗り切るだけで精一杯なのだ。だがその敷居の高さが、被害者の命に関わるのだ。
私もそれを知っていた。だから好きにさせた。そもそも、アヤ自身が、与えてもらうべき人々から、何度も裏切られ続けている。アヤに必要なのは、
なんとなく、風の噂でアヤの近況を聞きかじっていただけのある日、アヤが突然ひょっこり訪ねて来た。19歳になっていた。
あろうことか腹ぼてだった。ヤスの子だという。
ははぁ、今度はそう来たかー。
その後まもなく元のマンションに戻り、またキャバで働き始めたとももから聞いた。おそらく、ヤスもそばにいるだろう、と。
腹が立ったかと言われれば、実は立たなかった。ああ、やっぱりねと思っただけだ。男と女のことはそう簡単ではないし、私自身が「救うアタシ」物語に酔うことが、どれほど危ういことかも知っていたからだ。
そして実は私は、アヤの気持ちを半ば無視して、せっかちに事を進めていたことにも薄々気づいていた。親や男から逃げ出したいのか、やり直したいのか。そのどちらでもないのか。
何度か尋ねてはみたが、あの頃のアヤに、どうしたいかと聞くのは無駄だった。今にして思えば、そんな難しい判断ができるような状態ではなかったように思う。アヤは、とにかくただひたすら疲れていたのだ。
では、安らげる場所を探せばいいのかと言われれば、ことはそう単純ではないと返したい。
アヤたちが中学時代のことだ。
ももは案外真面目に学校に通ったが、アヤとケイはまともに通わなかった。たまに学校に顔を出すと、早速教師たちに目の敵にされた。それに辟易としてアヤたちはまたサボる。そんな悪循環が続いていた。中でもKという中年の女性教師がひどかった。
二学期の始業式に珍しく出席しようとしたアヤは、その日、朝一で我が家に来て、服装がおかしくないか見てくれと玄関先で大騒ぎしていた。もちろんおかしい。スカートは短すぎるし、髪の色は赤いし、なんてったってキティちゃんのサンダルで登校しようなんて、どうかしているとしか思えない。学校に行かなすぎてまともな判断力すらなくなっている。
うちの娘たちを交えてわあわあ言いながら、アヤの服装をなるべくまともに見えるよう調整し、やっとの事で送り出した。ところが、すぐにアヤが一人でうちに戻ってきた。
「なに、どうしたの?」
「行ったらいきなり、Kから保健室に閉じ込められた」
「なんで?」
「知らない。お前なんか来たって、死体が生き返って来たようなもんでみんなびっくりするから、始業式なんか出させない。保健室で反省文書いてろって……」
窓から逃げ出したというアヤは、上履きのままだった。
この教師は、一体何がしたいのだ。言うこともアヤに課した罰も、何もかもとても歪で危うい。
「……わかった」
しっかり化粧して着替えた。戦闘準備だ。
徒歩五分の学校について、K先生を呼び出してもらったが、始業式の真っ最中で今は無理だと言われた。今にして思えば、学校側が匿ったのかもしれない。
結局、その日K先生と話すことはできなかったが、後にK先生がポロリと私に漏らしたことがある。
「私ほど、あの子達を思ってる教師はいない」
あぁ、もう、お前もかと思った。
なぜならこの教師の言ったことこそ、DV加害者の典型的なメンタリティに他ならないからだ。
——こんなにもお前を思っているのに、お前はなぜ私のいうことを聞かない? 私は、お前を愛しているからこそ縛りつけ、殴るのだ。だから、殴られるお前が悪い——
DV加害者の胸の内は、まぁ、大体こんなところだ。暴力のあるなし、男女に関係なく、モラハラも大体こんな心理状態の中行われる。もちろん、幼児虐待もしかりで、大人と子供の圧倒的な力差のために、悲惨な悲劇がいまもまだ量産され続けている。
この状態に長年晒される被害者は、まんまとこの理屈を真に受け、殴らせる私も悪いのだと思い込む。こんなにも私を思ってくれるこの人しかいないと洗脳された挙句、ほとぼりが冷めるとまた元の鞘に戻ってゆく。あるいは、似たタイプの救済者にまた縋り付く。
実にやりきれない。
実際、この教師はアヤや娘が廊下ですれ違っただけで、いきなり胸を殴ったり首にチョップをかましたりしたらしい。
この教師の1番の間違いは「善意は報われる」と思い込んでいることだ。
誰かを本気で救おうと思うなら、真っ先にこの考えそのものを捨てるべきだ。
あなたの善意は踏みにじられ裏切られる。そういうものだしそれでいい。
だから、そうされても腹が立たない範囲で手伝うぐらいがちょうどいい。
つまり、助けてと懐に飛び込んで来た人間が、そこから逃げ出すなら深追いしてはいけないということだ。カリヨンはそれをよくわかっていた。来るものは拒まず、去る者は追わない。
カリヨンと行政の大きな違いはそこにある。カリヨンは何度でも裏切らせる。行政はそれを嫌がり、救済を求める人間に、相手と必ず手を切るという断固たる決意を求める。安易で薄弱な意思は、施設の安全を脅かすからだ。
それはそうかもしれない。でも命からがら逃げてきた被害者は、まだそこまでの覚悟ができていない場合も多い。何しろ日々を乗り切るだけで精一杯なのだ。だがその敷居の高さが、被害者の命に関わるのだ。
私もそれを知っていた。だから好きにさせた。そもそも、アヤ自身が、与えてもらうべき人々から、何度も裏切られ続けている。アヤに必要なのは、
裏切ってもいい大人
の存在だ。なんとなく、風の噂でアヤの近況を聞きかじっていただけのある日、アヤが突然ひょっこり訪ねて来た。19歳になっていた。
あろうことか腹ぼてだった。ヤスの子だという。
ははぁ、今度はそう来たかー。