第5話 キタ———!!

文字数 2,919文字

 職場のアルバイトの女子大生が言った。

「あのぉ、いい感じの男子がぁ、私だけに優しくしてくれる気がするんですけどぉ、ワンチャンあると思いますぅ?」

 平和だ。そして実にどうでもいい。

「知るか。そんなことは本人にしかわからん。この場合、行動は二択しかない。このまま黙って見守るか、本人に聞いてみるかのどちらかだ。どうするかは自分で決めな。以上、これでおばちゃんのアドバイス終わり。以降、そのうっとうしい恋バナを私に振るな」
「えー、ひっどぉーい!」

 女子大生のゆるふわな恋バナはどうでもいいが、私が気を揉んでやまないアヤはと言えば、この頃すでに、私の反対を押し切ってヤスと結婚し、二人の連れ子と養子縁組まで済ませ、育児とパートの両方をこなしながら、相変わらず馬車馬のように働いていた。
 ヤスは1年でアヤの父親の僅かばかりの保険金を食い潰し、アヤにしつこく結婚を迫り、まんまと入籍を済ませ、アヤの姓を名乗ることで、不良債権者のブラックリストからもまんまとすり抜けた。そしてその途端、クレジットカードをいくつも作って借金を重ねた。限度額がくればアヤ名義のカードで更に借金を重ねた。借金癖のある人々に多いが、こういうタイプは金の価値観が根本的にズレている。
 手のかかる血の繋がらない息子二人に、まだ幼いアヤの娘ユイの世話。めまぐるしい先が見えない借金返済の日々——。
 アヤがそんな生活に嫌気がさして、発作的に家を飛び出すと、ヤスはわざと子どもたちを泣かせ、その動画を撮ってアヤに送りつけた。

「ほら、子どもたちがママ、ママって泣いてるぞ。いいのか?」

 こいつはとことん、性根が腐っている。
 アヤは、滅多にヤスや子ども達のことを私に話さなかった。なぜなら私は、徹頭徹尾・首尾一貫して「さっさと手を切れ」としか言わなかったからだ。いくらヤスの人でなしぶりを私に訴えたところで無駄だ。そんなことはとっくにわかっている。共感と慰めが欲しいなら他へ行くしかない。
 私が至らないこの手のパートを受け持ったのは、もっぱらももだった。
 それでも、アヤは次第に追い詰められて行った。
 それを横目で見ながら私は知らん顔を決め込んだ。助けてと言われるまではなにもしない。それだけは自分に決めていた。
 アヤの疲れが、いよいよこの10年で臨界点を越えた。
 発作的にヤスに別れをほのめかしたのだ。
 その途端、ヤスがストーカー化した。
 携帯は残らずチェックし、アヤの職場を巡って監視した。ドライブレコーダーで盗聴し、日に何度も電話やメールを入れ、少しでもリアクションが遅れればしつこく責めた。職場の男性とランチを食べに行くことすらできなくなった。
 その異常性に恐れをなしたアヤは、ますます身動きが取れなくなった。自宅は全く安らぐ場所ではなくなった。
 アヤは見る間にやせ細り、顔に憔悴を滲ませた。
 そして、ある日とうとう私のところへやってきて言った。
 
「一緒に弁護士さんのところへ行って欲しい」

 キタ———!! である。
 すぐにB先生に連絡を取って、翌週二人で会いに出かけた。
 瑞々しい若手弁護士だった色白ぽっちゃりのB先生は、離婚専門の弁護士としてキャリアを積み、この10年でしっかり貫禄をつけていた。まぁ、女性に『貫禄』は褒め言葉にならないが。
 これからの戦略を含む打ち合わせをした。
 とりあえず、一旦はヤスと離れなければアヤの身も心も持たないだろうということになった。アヤはこの数日、ストレスからくる不眠と胃痛と吐き気で全く食べられなくなって点滴を受けていた。

「まぁ、まだ8歳のユイちゃんのこともあるし、アヤちゃんはどうしたい? なんだったら民間のシェルターもあるよ?」

 かつてカリヨンで、あまりいい思いをしなかったアヤは、極端にシェルターを嫌がった。どうやら、一緒に保護されていた少女たちにべったりと粘着されたらしい。愛に飢えた少女たちは、濡れティッシュが肌に張りついたようだったとアヤは言った。
 同じことが起きるとは限らないが、どうしてもうんと言わない。

「お母さんのそばに行きたい。お母さんならユイも慣れてるし、今回はきっとヤスから守ってくれると思う」

 幼い子どものような口調でそう繰り返すアヤを見て、私と先生は思わず目を合わせた。

「えーと、アヤちゃん、お母さんはヤスとの間にしっかり立ってくれるかな?」
「うん、今なら立ってくれると思う。義父も交えてちゃんと言ってくれると思う」

 私も先生も、アヤの母親を全く信用していない。一抹の不安はあったものの、幼い子どものようなアヤのその様子に胸を打たれてしまった。10年前と同じように、アヤは疲れ切り、何かを考える体力を失っていた。実際、アヤの状態はあの最悪の頃に近かった。
 一旦ユイを連れて母親のところへ逃げ、改めて第三者を交えてヤスと話し合おうということなった。その際、もしヤスが極端にゴネたり暴れたりした時のために、警察や市の福祉課にあらかじめ相談を持ちかけておく。何も知らないユイが、父親に誘拐されないためにもこの措置は必要だろう。とにかく、慎重な準備と根回しが必要だという計画だ。
 
「何かあったらすぐ連絡してね」

 そういう先生に手を振って別れた後、駅から家に向かう車中、ヤスから何度も着信が入っていることに気づいた。どうやら、ヤスの方が先に帰宅してしまったらしい。

「あ、あの、今いつものスーパーで買い物してる」

 アヤはとっさに嘘をついた。一旦電話を切って先を急いだが、五分もしないうちにまた電話がかかってきて、スーパーにいないじゃないかと言われた。アヤは再び嘘を重ねた。

「あ、サヨコさんに頼まれて駅まで迎えにいったから、これから行くところだよ」

 果たして、うちからも近所のスーパーに一緒に行くと、ヤスがニコニコと待っていた。
 全身に鳥肌がたった。
 私は必死にヤスに気づかないふりをした。
 怖かったからではない。ぶん殴りたくなるからだ。
 私は身長が167センチある。私とそれほど背丈も歳も変わらない、この貧弱なドクズの胸ぐらを掴んでエイっと思いっきり投げ飛ばしたい。正直、負ける気がしない。いや、絶対に勝てる。
 でもそれを必死に耐えたのは、アヤ母娘を逃す準備がこれからだからだ。
 アヤは私に、ヤスの愚痴をほとんど零さなかったが、ヤスにもまた私のことを話していない。だからヤスは、私のことをアヤの友達のお母さんという認識しかない。
 ヤスが視界に入らないよう、不自然に姿勢を変えていた私の目の端で、ヤスが私にぺこっと頭を下げたのが見えた。わずかに目線が合ったと思ったのだろう。私は、ほとんど面識のない妻の友達のお母さんなんだから、それが自然だとわかっているが、ヤスのこの、人当たりのよさそうな普通さに吐き気がした。
 私の胸の内をガバッとさらけ出し、どれほど真っ赤な激しい怒りを渦巻かせているか、こいつに見せてやりたい。
 ……が、実際は、アヤにじゃあねと手を振って、私は大人しく家路に着いた。だから私は、未だにヤスの容姿がよくわからない。
 そして、翌朝、アヤから泣きながら電話がかかってきた。
 またしても、アヤの母親にやらかされた。


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