第1話

文字数 710文字

「あら、せっかく取ったんだから、行ってきたらいいじゃない」

 いまにも懐かしい声が耳元で聞こえるようだった。死に装束をまとって横たわる妻を前に、五十嵐省は、頭をかきむしった。
俺が、妻が、いったい何か悪いことをしたか――。
手元には、夫婦揃って応援してきたプロ野球チームの観戦チケットが2枚。優勝争いがかかった時期を見計らってとったのに、それは妻の火葬日と重なった。「運命の皮肉」などと洒落た受け止め方をする力は、いまの五十嵐には残っていない。三十歳にして、人生が牙をむいてくるなんて、想像だにしていなかった。

試合など見る気がない。見るわけがない。
最愛の妻を亡くし、野球なんか見に行く人間はいない。
運命を恨む術を、五十嵐は知らない。妻は、欠点などない人だったのに。欠けた部分すら美しく、五十嵐の心を満たしてくれた人だったのに。

五十嵐は携帯で「チケット 払い戻し」と検索をした。
すぐに、その手を止めた。
何が払い戻しだ。人生で最も大切なものを失ったいま、何にこだわる必要がある。「払い戻しは3日前まで」と表示されたスマートフォンを放り出して、妻の傍らに横たわる。
自らの人生そのものが、四肢から漏れ出てゆくようだった。
抜けていく。
大事なものが、感性、愛情、理性、生きていく上で必要なあらゆるものが。妻の死によって、栓の抜けた風呂のように、もう流れ出てゆく。
止めることはできない。止める必要も感じない。
五十嵐は体を起こし、妻の顔に被せられた布をとった。ふすまの間から差し込んだ光の線が、彼を魅了してやまなかった鼻梁の上を走ってゆく。

なぁ、どうすればいいんだよ。このチケット。
もう、払い戻しできないんだぞ。
五十嵐は声を押し殺して泣いた。
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