第5話

文字数 421文字


前田は二塁を回りながら、打席の自分を振り返っていた。
会心の当たりは、かえって手応えがない。
球種もコースも覚えておらず、ただ本能的にバットを振り抜いた。いままでに経験したことのない、不思議なホームランだ。

ナインがベンチから飛び出して、こちらに駆けてくる。
これが最後の仕事だ。妻よ、俺は成し遂げたぞ。
それなのに、どうしてこんなに空虚なんだ?

喜びに沸くスタンドを見やる。万歳をするファンの中に、1人、女性の写真を抱いてしゃくり上げている男が一瞬、見えた。
そうか。
前田は悟ったような気がして、三塁ベースを踏む。
あのホームランは、お前が打たせたんだな。
かつての俺たちと同じ境遇の夫婦を救うために。
バッターボックスは、選手以外の誰も触れられない聖域なんだと、ずっと思っていたのに。

ホームベースが近づく。
選手として踏むのはこれが最後になるだろう。
その先で、後輩たちが満面の笑みで待ち受けている。
妻と死別してから初めて、前田の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み