第2話

文字数 856文字

雌雄を決する試合が間近に迫っている。
前田勲雄は自室でバットを振っていた。スピーカーから流れるロックバンドの激しいナンバーが、部屋中にあふれ、壁を、床を、前田の肉体を叩いて暴れ回る。
薄暗い部屋。
数秒に一度、木製のバットが空気を裂く音が規則正しく鳴る。

見ていてくれ。
前田は壁に掛けた妻の写真を見上げた。
彼女が数年前に他界してから、前田は毎日、写真の前に供え物をしている。遠征の時はともに持ち運び、宿泊先のホテルで2人分の食事を頼む。半分は、妻の分だ。前田は一食してから妻の写真を眺め、しばらくしてから妻の前に供えた食事も平らげる。

極限まで心技体を磨き上げたアスリートたちが戦い続けるプロの世界。前田はその第一線を二十年近く走り続けてきた。
あのときは、引退後のセカンドキャリアも視野に入り、子どもも大学に進学しようとしていた。今まで苦労をかけた分、これからは一緒にゆっくり過ごせそうだ――。そう思っていたところで先立たれた。
看取れなかった。
球団職員が妻の突然の訃報を告げに試合中のベンチに駆け込んだとき、前田は打席にいた。何も知らない前田はフルカウントから直球をはじき返し、レフトスタンドに美しい放物線を描いた。

妻を亡くしても引退しなかった理由は、よく分からない。
生きるために食い扶持が必要なのは確かだ。
でも、それだけではなかったと前田は思っている。
つまるところ、理不尽に抗う方法が、前田にはこれしか思いつかなかった。身体は悲鳴をあげ、現役で戦える力はなくなろうとしている。それでも前田は、その後も三年しがみついた。

天国にいる妻に、優勝する姿を見せる。
それで俺の野球人生は終わりだ。
生きる人間の自己満足だ。だが、祈りにしろ願掛けにしろ、納得しなければ人は生きていけない。現実が踏みつぶそうとしてくる時、人間は日々職務を遂行することでしか戦えない。
そのチャンスが、明日。きっと最初で最後になる。
見ていてくれ。俺はお前に、何かを証明してみせる――。
スピーカーから流れるエレキギターの悲鳴が、またスイングの音で断ち切られる。
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