第4話

文字数 23,452文字

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 小夜は学校ではぼくに話しかけず、クラスメイトの誰よりも意識的にぼくを避けていた。恥ずかしい、そうだ。ぼくも以前と変わらず休み時間は本を読み、できるだけ小夜を見ないようにした。携帯を持たないぼくのために小夜はよく手紙をくれた。下足箱の中やロッカー、机の中……、ぼくは毎日宝探しに没頭する小学生のように胸躍らせ彼女の手紙を探した。
 放課後のわずかな時間を人目がつかない場所を選んで会い、休日は二人で水際公園を歩き、近くの山へサイクリングをした。ぼくはともかく、彼女は受験生だから市立図書館で一緒に勉強もした。二人きりの時は、小夜はよく話し、「誕生日はいつ? 血液型は?」「星座は?」「身長は? 体重は?」「好きな食べ物はなに?」「甘い物は好き?」「寮にいる時は何してるの?」とぼくにいろんなことを聞く。教室でいつも一緒にいるキハラさんにはぼくと付き合っていることを話したそうで、キハラさんは廊下ですれ違うとぼくに笑いかけてくれる。照れくさいけれど小夜と付き合っていることを認めてくれているようで、嬉しい。
 ぼくはベランダの手すりに両腕を載せ、新鮮な空気を吸い込む。山の葉が色づき始めている。見頃になったら小夜を誘ってみよう。受験で忙しいかな。一日のほんの数時間だけならきっと許してくれる。
 小夜と肩を寄せ合い、彩られた木々に囲まれながら、水の流れる音に耳をすませ、風を感じよう。紅い葉が舞い散り、鳥が高く遠くさえずるのを眺めていよう。彼女ならきっと喜んでくれる。
 空は澄んでいる。放課後、学校から少し離れた小さな公園で落ち合う約束だ。このぶんなら雨の心配はいらないな。
 教室からばか笑いが聞こえる。ユカリとタカシのグループだ。休み時間でも教科書やノートを開く生徒が増える中、ユカリたちの騒がしさは閉口するしかない。勉強しなくていいのか、ずいぶんな余裕だ。ユカリは勘が鋭いから気をつけないとぼくと小夜が付き合っていることがばれてしまう。いや、本を読んでいてもつい小夜を見てしまうから、もうばれているかもしれない。その時はどう言い訳しよう。小夜は怒るだろうか。考えることすら楽しい。
 なんでもない日常が輝いて見える。誇張じゃない。光の粒子が大気に溶けあい煌めいている。小夜の周りは一際明るく輝いているんだ。こんな日が来るなんて思いもしなかった。ユカリに感謝しないと。小夜と付き合うきっかけを作ってくれたんだから。今まで散々けなしてしまった。一言「ごめん」と謝りたい。……ぼくは案外単純にできている。
 自然と頬の筋肉が緩む。誰にも見られないように、ぼくは組んだ両腕に顔を埋め口元を隠した。

「飲んでみる? おいしいよ」
 人通りが少なく住宅地に囲まれ人目が付きにくい公園で、小夜とぼくはジュースを片手に隣り合ってベンチに座る。
 小夜はいつもミルクティーを選ぶ。見るからに甘そうで、少し迷い、受け取る。強い香料と練乳を水で薄めたような甘ったるい匂いに我慢し少しだけ口をつけたけど、やっぱりぼくには甘すぎる。ウーロン茶を口直しに飲む。
「それ、どんな味?」
「飲む?」
「うん」
 ぼくのウーロン茶は小夜には「苦い」と不評で「体に良さそう」と返してくれた。
 体にいいから飲んでいるわけじゃないんだけど。虚弱と思われているのかな。二の腕や肩の筋肉を見る。他の男子と比べて特に細い、とは思わないけど、っていうか思いたくないけど、……体、鍛えようかな。
 小夜はミルクティーで手を温めながら、昨夜はこんなドラマを見たとか、友達とこんなおしゃべりをしたとか、あの店のケーキが安くておいしいとか、いろんな話題を提供してくれる。それに比べぼくが話すことといったら、今読んでいる本の内容やあの本はぼくのベスト三に入るとか、十二巻まで読んだ本が夢オチで最低だったとか、自分でも呆れるくらいつまらない。けれど小夜は微笑みさえ浮かべ相槌を打ってくれる。
「シノザキさんとイイヅカ君、婚約したんだって。すごいよね、まだ高校生なのに。いつ結婚するのかな?」
「……さあ……」
 小夜は必ずタカシとユカリの話を口にする。何度も聞くうちに分かったのは『タカシとユカリがいつ結婚するか』は小夜だけでなくクラスの女子全員の関心事らしい。そういえば寮監にも「あなたと同じクラスのシノザキさんとイイヅカ君、いつ結婚するの?」と聞かれた。夕食後トレイを返却していたら食堂のおばさんもその話を持ち出してきた。
 はっきり言って、興味ない。今晩のメニューの方が気になる。
「ああっ、なんかどうでもいいって感じ。すごいと思わない? 一生に一度の相手をもう決めちゃうんだよ。私だったらすっごく悩んじゃう。クミだって『私には真似できないわ』って言ってた」
 彼女の一言がひっかかる。
「……小夜は、迷うの?」
「えっ」
「ぼくは迷わない。小夜がいい」
 彼女のきょとんとした顔を見つめ、もう一度告げる。
「小夜がいい」
 小夜は真っ赤になって鼻の頭に汗をかきながら言う。
「……うん……。私もキリヤ君が、いい」
 小夜の手を握る。
 しなやかな髪も、内側から光るような白い肌も、桜色の唇も、光に透ける薄茶色の瞳も、ぼくにはかけがえのないものだ。純粋で、誠実で、およそ人を騙すなんて思いつきもしない。小夜がぼくのそばにいてくれる、――まさに奇跡だ。
「なんで、ぼくと付き合おうと思ったの?」
「えっ?」
 小夜が顔をあげるから鼻と鼻がくっつきそうになる、とっさにぼくは上体を反らした。鼓動が早くなる。小夜から手を離し、空になったボトルを両手で弄る。
「ぼくの、どこがよかったんだろうって、思って……」
 小夜はすぐに答えない。ミルクティーのボトルを頬に当て「……うーんっと……」と考えている。悩んでいるようにも見える。
「……最初は、暗い、って思った。なんか、いつも本読んで、ぼーっとしているから変わってるなって。シノザキさんたちにからかわれても言い返さないから気も弱そう、って……」
 小夜はボトルで顏を隠し、怒ってないか確かめるように目だけを出しぼくを見る。
 そんなふうに、思っていたのか……。正直に答えてくれているんだろうけど、あんまりだ……。
 ぼくの落胆ぶりを察してか、小夜が慌てて言い訳する。
「初めは、よ。でも、話してみたら、自分の意見をちゃんと持っているんだって見直した。私は一人でいると『あの子、友達いないんだ』って思われないかなとか、いつも相手の顔色見て話しちゃうし、強く言われたら言い返せないし、あの時ああ言えばよかったとか、あんないい方じゃあ気を悪くしてないかなって、いろいろ考えちゃう……。キリヤ君は一人でいても平気そうだし、言いたいことははっきり言うから、強いなって……」
 ぼくはボトルの黒いラベルに視線を落とした。
 ……誰の話をしているんだ? 自分の意見を持ってる? 憎しみなら、余りある。自分以外は全て敵だ。関わりたいとも思わない。それが強さと映るなら彼女が見ているぼくはまやかしだ。
 誤りを訂正する気にはなれない。彼女のとんでもない勘違いのおかげでぼくは小夜という存在を手にすることができた。一度手に入れたものを今さら手離せない。
「キリヤ君は、私のこと、どう思った? どこがよくて好きになったの」
 小夜がぼくを覗き込む。笑顔なのに目が真剣だ。ぼくは少し気圧されてしまった。
「……虫が嫌いなのに助けたところ、かな」
「虫?」
「カマキリ、助けてあげただろ。可哀そうって」
「あれ? あれでなの? 他にない? ほら、もっとこういうところがよかったとか、あんなところにひかれたとか、なにかあるでしょ?」
 小夜がぼくの肩をしきりに揺する。
「……なにかって、言われても……」
 小夜のこだわりようにぼくは困惑する。
「……ぼくの体調を心配して保健室に行こうって誘ってくれた時かな。ああ、好きだなって自覚したのは……」
 小夜の手が止まる、顔がみるみる赤くなる。ぼくは笑った。小夜は分かりやすい。
「他人の目をやたら気にする小夜が皆の前でぼくの腕をひっぱってくれただろう? 本気で心配してくれているんだって、嬉しかった」
 彼女はおでこまで赤くなった顔のまま言い訳するみたいに小さな声で言った。
「……だって、すごく具合悪そうだった……」
「ありがとう」
 小夜は「うん」と言った。
 小夜の肩に腕を回す。彼女はぼくに体を預けてくれた。重なる部分から彼女の体温が伝わる。髪がぼくの頬をくすぐり、ぼくは首を傾け、柔らかな髪に頬を埋める。腕に力を込める。
 彼女となら、ぼくは幸せになれる。願望じゃない、確信だった。

 晩秋は日没が早い。楽しい時間ならあっという間だ。門限までまだ時間があっても辺りは既に薄暗く、東の空には月が出ている。
 ぼくは小夜を家の前まで送った。小夜の家は学校から十分くらいの距離にあり、白い外壁と茶褐色の屋根が特徴の二階建ての一戸建てだ。門扉から手入れが行き届いた花壇と青い芝生が見え、玄関左にある車庫は車二台分の広さで、今は青のHV車が一台停まっている。この地域で一軒家はさほど珍しくないがぼくが住んでいたアパートと比べると大違いだ。
 遊園地に黒塗りのセダンで現れた小夜を思いだす。この家で小夜は家族に愛され大切に育てられたんだ。だからこんなにも純粋に育ったんだ。ぼくとは違う。
「キリヤ君、また家に来て。暗くなるの早くなったし、寒いと外で会うの大変だから。家なら雨とか気にしないで会えるでしょ。お母さんはいるけど、お父さんは仕事でいないし、弟も部活で忙しいから。キリヤ君は寮だから無理でしょう?」
 小夜は明るく言う。
 あの家に、ぼくが? 思いがけない誘いに小夜をしげしげと見る。
「……迷惑、じゃない?」
「お母さんと弟は知っているの。いつもキリヤ君に家の前まで送ってもらってるって言ったら『それなら家に上がってもらいなさい』ってお母さんが。お父さんには、まだ秘密……。もう少ししてから話すつもり」
 素性が知れぬ者を家にあげていいとは、……寛大な母親だ。それとも娘が付き合っている男を品定めしたいのか。
「キリヤ君?」
 すぐに返事をしないぼくを不思議に思ったのか、小夜が首を傾け覗き込み、不審がるぼくと目が合う。
 小夜が大きな目をさらに大きくし、ぼくを突き飛ばした。
「わっ」ぼくは危うく転倒しそうになった。
「そういう意味じゃないのよ。挨拶してとか、そんなんじゃ全然ないから。もうやだ! 考えすぎ、キリヤ君って」
 小夜は真っ赤な顔で泡でも吹きそうなくらい慌てふためく。
「……なにも、言ってないけど……」
「うそっ、じゃあどうして黙ってたの? さっきあんな話してたからちょっとは思ったんじゃないの?」
「さっき、って。 ……一生に一度の相手がどうのってやつ?」
「言わないでよ。恥ずかしいじゃない、もうー」
 小夜が首まで真っ赤になってぼくを何度も押す。
「ちょっ、危ないって……」
 女の力は侮れない。
 ……付き合いだして分かった、小夜は乱暴だ。

 朝から雨が降っていた。
 机に入れられた手紙に「今日は一日雨なんだって。天気予報で言ってた。いつもの公園で待ち合わせて私の家に行こう」と書かれていた。
 気が進まなかったけれど、小夜の誘いを無下に断れず、近くの公園で待ち合わせた後、小夜について行った。
 傘を差すと顔が隠れるからか、小夜は人目を気にすることなくぼくの隣を歩き、時々嬉しそうに傘をくるくる回す。
 小夜の家の前に立つ。いつもならここで別れていた。門扉をくぐり、レンガ調に設えた階段を歩く。階段両側にある花壇は雑草の一本も見当たらず、黒い土に等間隔で紫や黄色の花が植えられ、大きな花弁に小さな水滴が粒となり落ちる。敷き詰められた芝は青く、大窓から張り出したウッドデッキが細かい雨に濡れ、寂しげに見えた。
 小夜は暗褐色の玄関扉を開け、家の中に向かって大きな声を出す。
「ただいまー。キリヤ君もいるよ」
 ぼくは傘をたたみ、唐草模様の傘立てに立てた。
「いつも娘がお世話になっています。どうぞ、上がって下さい」
 小夜の母親は襟元にレースがついた紺色のブラウスに足首まである白いフレアスカートという装いで、物腰が柔らかく、いかにも上品そうな、おばさんというより、おばさまと呼ぶ方がふさわしい。
 静物画が飾られた玄関をあがり、ワックスでもかけてあるのか足が映りそうなほど磨かれた廊下を進み、ダイニングキッチンとリビングルームがひと続きになった部屋に通される。
 観葉植物が置かれたリビングのソファに小夜と隣り合って座ると、おばさんは手作りだというティラミスとコーヒーでもてなしてくれた。
 ほろ苦く、すこし洋酒がきいたケーキを口に運ぶ傍らで、小夜とおばさんが談笑する。
 弟や父親の話、小夜の家での過ごし方、家族旅行での失敗談……。ぼくに情報を提供しているつもりなのか、至極プライベートな内容が飛び交う。おばさんがぼくに話をふる。
「キリヤ君、小夜に勉強を教えてあげて。小夜は最近成績が伸び悩んでいるの」
「言わないでよ」と小夜が怒る。
「あら、成績のことはキリヤ君には内緒だった?」とおばさんが微笑む。
 テレビの中でしか見たことのない光景が目の前で繰り広げられる。会話が弾む二人に胸苦しさを覚え、味も分からなくなったケーキをコーヒーで流し込んだ。
 おばさんの言葉の端々にぼくに対するイメージが見て取れる。
 『休み時間中でも本を読んでいる勉強熱心な子で、厳しいと噂される寮生活にも順応できる、娘にはもったいないくらいの真面目な彼氏』といったところか。
 おばさんは「私もキリヤ君みたいな真面目な子どもがほしいわ」と繰り返し言う。
 あんたが思っているような人間じゃない、信用したら痛い目にあうぞ。
 空虚な信頼をぶち壊し、和やかな雰囲気を凍りつかせてやりたくなる。安心しきったように笑うその顔が失望に変わるのを見てみたい。本性を知ったら嫌悪と不信を露わにぼくから小夜を引き離すだろう。扉を固く閉ざし二度とぼくをこの家に入れるまい。
「……学校に、忘れ物をしたので帰ります」
 不確かな平穏が微妙なバランスで保たれている緊張感にいたたまれず、ぼくは逃げるように退席した。

 五時半を過ぎれば辺りは暗くなり始める。放課後、二人が会う場所に小夜の家が加わり、週二回の頻度で小夜の部屋で勉強するようになった。
 小夜の部屋は南向きで、窓から手入れされた庭や道路が見える。ぼくには家を行き来するような友達はいなかったから誰かの部屋に入るのは緊張したけれど、意外と寛げた。丸テーブルに座り、二人で教科書を開く。
 小夜の部屋はいい匂いがする。香水や芳香剤のようなきつい香りではなく、なんというか、陽だまりに咲く花のような、甘く優しい匂いだ。十二畳ほどのフローリングに毛足の長いベージュのカーペットが敷かれ、セミダブルのベッドにヌイグルミやクッションが五つ並べてある。ふわふわして可愛い物、小夜はこういう物が好きらしい。
「小夜の部屋、広いね」
「この部屋が二階にある中で一番広いの。引っ越してきた時、弟と取り合ったんだけど、お父さんが『年上のお姉さんに譲りなさい』って言ってくれて私の部屋になったんだ。弟もお父さんには逆らえないから」
「……お父さん、厳しいの?」
「うーん、厳しいけど、優しいよ。……でも、やっぱり厳しいかな」
 参考書をめくりながら言う小夜の表情に陰りはない。虐待というほどのものではなさそうだ。どうしても自分の家庭環境を基準に考えてしまう。違いを思い知る度に胸苦しさを覚えるというのに、小夜の子ども時代や家族との関係はどうなのか、知りたい。知りたいけれど、こんな個人的なことを本人からならともかく、部外者のぼくが聞き出していいものか……。
 おばさんは喜んでくれているみたいだけれど、小夜のお父さんと弟さんはぼくと小夜が付き合っていることをどう思っているんだろう。お父さんは付き合っていることを知っているんだろうか。弟さんにもまだ一度も会っていないのは、避けられているからか。
「キリヤ君、私の話聞いてる?」
 我に返る。小夜が恨めしそうに上目遣いで見ている。
「ぼっとしてたでしょ? 考え事?」
「……小夜のお母さん、優しいなって思って……」
 意外だったのか、小夜は二度瞬きをした。
「お母さん? ……そうね、私もお母さんはすごいなって思う。料理も掃除も完璧だし、洋裁もピアノもできるし。私の理想かな……」
 小夜は曖昧に笑う。
「友達にはよく羨ましがられるけど、できすぎる母親を持つと私はなんでできないんだろうって、落ち込んじゃう。やればできるようになるのかもしれないけど、そこまでやりたくないっていうか……。なにもしていないから、劣等感っていうのかな、そればっかり大きくなって……」
「家事ができるかどうかが、そんなに大事?」
「……だって、やっぱり、女の子ならできて当たり前って思うし……。キリヤ君だって家事が上手い人の方がいいでしょう?」
 小夜はシャーペンをカチカチさせて言う。
 理想の家族の下で暮らしてきた小夜にも悩みがあるらしい。ぼくにすれば取るに足りないことでも女子である小夜にとっては重大事項なのかもしれない。
 小夜という人間をこの世に産み出してくれた、育ててくれたあなた方に感謝する。けれど、ぼくは別れるつもりはない。小夜はぼくが貰う。誰にも渡さない。やっと見つけた、ただ一つのものだ。小夜の肩をつかみ、こちらを向かせる。
「ぼくなら、他は望まない。そばにいてくれるだけでいい」
「……きりや、くん」
 小夜の目が潤む。黄緑色に透き通り、きれいだ、小夜の頬を両手で包み、そっと唇を重ねる。やわらかな感触に我を失い、わずかに開いた隙間に舌を忍び込ませる。熱く濡れたものに触れ、――おぞましさが脳髄を貫いた。ぬめりが口腔内に広がり、苦味が舌を刺す。生臭さが鼻を突き、汗ばんだ指が、酒の臭いが、男の笑い顔が、荒い息が襲う、――明かりが消えた。
 ……どこだ……、……ここは……。
 あの家か、寮か、どこにいる。
 ……音……。……いや、……声が、聞こえる。遠くで、途切れ途切れに……。
 誰だ。女か、小夜か。
 ……ぼくは、……ぼくは、今、……どうなっている……。
「キリヤ君、しっかりしてっ」
 はっとした。女が、切羽詰まった表情でぼくの腕をつかんでいる。怯えたように見開いた目が赤くなっていた。
 規則正しい音が耳を打つ。丸テーブルの上に置いた時計だ。ベージュのカーペット、ベッドに置かれたぬいぐるみ、明るい照明……、カーテンが開いた窓の外は真っ暗だった。
 不安げに見つめる女を凝視する。目も鼻も、頬も唇も間違いなく小夜のそれなのに、別人に見えた。
「真っ青よ。具合悪いの? 病院に行く?」
 女の頬は血の気を失い、紫色になった唇が震えている。
 もう一度、辺りを窺う。今いる場所を、時間を、状況を確かめるために。
「……かえら、ないと……。……はやく……」
 きりやくん、だいじょうぶなの? 
 空耳か。小夜の声が遠くでこだまする。神経が逆立っているのか、こめかみが、頬が、耳の後ろが引きつる。背中と腰の辺りがぞわぞわする。ふらつきながら、帰路についた。

 気持ち悪い。
 寮に帰るなり、洗面所で口をすすいだ。いくらすすいでも感触は消えず、いったん水を止めた手でまた蛇口を開く。
「水がもったいないわよ」
 寮監に注意され、仕方なく蛇口を絞る。口の中の違和感は、まだ残っていた。
 小夜がいれば救われる。小夜は特別だと、思っていた。清らかに輝いていた、清浄な雰囲気さえ纏っていた彼女に動物的なものを感じた。小夜といれば救われる、そう思っていたのに……。彼女とのキスは忌まわしい記憶を呼び起こした。
 感触と記憶が混ざりあう、感覚を伴って。
 強い吐き気を催し、トイレに籠った。

 *

 次の日から、ぼくは小夜を避けた。正確に言えば二人きりになることを避けた。
 学校では彼女は人目を気にしてぼくに近寄らないと知っているから、安心して彼女を見ていられた。髪を耳にかける仕草に見とれ、友人と語り合う姿にときめく。彼女に触れたい、抱きしめたい気持ちは変わらずあるのに、放課後が近づくにつれ塞ぎこんだ。小夜と二人で会うのが怖い。二人きりになっても明るい話題を探し、沈黙を避けた。休日はできるだけ人込みに彼女を連れ出し、日が高いうちに別れた。
 彼女の温もりを感じていたい、離れたくない想いと、触れるのが怖い、深く関わりたくない感情に苦しんだ。
 小夜が手紙をくれても返事を出さなくなった。「次はいつ会える?」と誘われても「分からない」と答えた。「昨日は何をしていたの?」と聞かれても「本を読んでいただけ」と返した。自分でも困惑するくらいあからさまに小夜を遠ざけた。
 彼女はぼくの変化を感じ取っていたのかもしれない。以前のようにわずかな時間を割いて会おうとはしなくなり、ぼくもそれに乗じ、一週間、十日、二週間と間を置くようになった。
 自分を守るのに必死だった。傷つくのが怖くて、ぼくは意識的に彼女への気持ちにブレーキをかけた。感情を押し殺すのは慣れている。寂しさを紛らわす方法はいくらでもある。何も考えず、思わず、ただ淡々と毎日を過ごせばいい。彼女に会いたい衝動も、彼女を失うかもしれない不安や焦りも感じなくなるまでやりすごせばいい。
 だからぼくは本を読んだ。四六時中、学校の図書室や市立図書館に入り浸り、窓際の席で時折外の景色を眺め、読み耽る。余計な感情に囚われないよう、現実離れした単純明快な作品を選んだ。今手にしている本も世界を牛耳る魔王に敢然と立ち向かう勇者の話だ。ありきたりな内容がいい。一つ長所をあげるとすれば、仲間を見捨てて逃げ出すほど非力で臆病な少年が仲間に支えられ一つ一つ難問に立ち向かい、成長していくところか。最後には勇者の称号を得て魔王を倒すくらい強くなるのだからたいしたものだ。
 ……強く、なりたかった。強ければ、自責の念に駆られることも、憎むことも孤独に苛まれることもなかった。誰も傷つけず、頼りにせず、恨まずに、ただ前を向いて生きられた。小夜にすがりつきもしなかっただろう。一人で生きて行く強さがほしかった。
 願望は願望のまま、物語の中にしかない。

 小夜と距離を置く間にぼくは採用試験を受け、一週間後、採用通知を受け取った。ヤマサキは残念がり、ぼくが採用試験を落ちたら大学受験を勧める気だったらしく、縁起でもないことを考える、「働きながらでも勉強はしろよ」と未練がましかった。
 クラスの中にも入試を受けるために欠席する者がちらほらと出てきた。小夜も二日休んでいたからどこかの大学を受けたのかもしれない。結果はどうだったのか、聞けないまま時間は過ぎた。
 ぼく宛に小夜から手紙が届いた。差出人は苗字だけ。学校で噂になるのを恐れたのかもしれない、小夜らしいと思った。
 コスモスをあしらった便箋に、
 『一度、ゆっくり話がしたいです。土曜日の午後二時、いつもの公園で待っています』と書かれていた。
 挨拶文も、近況報告もない簡潔な文章に、小夜の決意が伝わってきた。

 週末の午後二時、ぼくは以前二人でよく会っていた公園のベンチに腰かけ、来る人を待った。人影はなく、昼間でも薄暗く、遊具は取り外され、公園前の狭い通路をたまに自転車や人が通るくらいで、ひっそりしている。季節が変わろうとしているからか、足元の冷気が堪える。二人でいた時は気にならなかった景色も、今はくすんで寒々しく、風が強く感じる。
 人の気配がした。小夜だ。彼女は硬い表情でぼくの隣に座る。小夜はすぐに話さず、深く俯き、膝に置いた手を白くなるほど握りしめている。
「……なんで、なにも言ってくれないの。どうして、黙ってるの」
 辻褄が合わない。話がしたいと呼び出したのは小夜だ。
「……私、なにかした? 嫌いになったの? 気に障るようなこと、した? なにが気に入らないの? 別れたいなら、そう言って。……言ってくれなきゃ、分かんないよ」
 いつもの控えめな物言いではなく、責める口調だった。小夜を傷つけていたと、ようやく知った。すすり泣きが聞こえても、怖くて彼女の方を向けなかった。
 嫌い、なわけじゃない。小夜だけがぼくにとって特別だ。ただ一人、ぼくを愛してくれた、必要としてくれた。小夜が好きだ。離れたくない、ずっとそばにいたい、別れたいなんて思えない。けれど、二人でいると不安になる。怖くなる、逃げ出したくなる。
 言える訳がない。近寄らないでくれ、触らないでくれ。小夜といたら気分が悪くなるんだ。嫌なことを思い出してしまうんだ。違う。本当は触れたい、抱きしめたい、大切にしたい、優しい言葉をかけたい。
 罵りの言葉ならいくらでも知っているのに気持ちを伝えようとすればするほど自分の気持ちが分からなくなる。
 彼女を引き止める口実を必死に探し、錯綜する記憶の断片を一つずつ拾い集める。ようやく出た言葉は要領を得ず、どこか他人事で、発作も起きなかった。
 彼女は黙っていた。表情は、……確かめる勇気はない。
 懺悔のようだ。傷つけた言い訳を、遠ざけようとした原因を全て過去のせいにして、彼女に許しを乞うている。
 どこの家でもあることだ。大げさなんだよ、お前は。
 そう言ったのは、あの女だ。
 怪我は治った。育児放棄も餓死するほどじゃない。犯されたわけでもない。言葉の暴力? あいつらに罪の意識はない、なにを言ったかさえ忘れている。それなのに、なぜぼくはこんなに苦しんでいる。やり直せない過去を引きずり、どうにもならない傷を抱えいつまで生きればいい。いらないならなぜ産んだ。なぜ連れ出した。殺してくれればよかった、ほっといてくれればよかったんだ。そうすればなにも望まず、絶望もしなかった。
「キリヤ君」
 肩に触れられ、ドキリとした。あいつらかと、思った。
 小夜が、ぼくの前に立っていた。涙に濡れた目でぼくを見ている。小夜は両腕でぼくを包んでくれた。
「大丈夫。もう、大丈夫だから……」
 柔らかさに驚いた。規則正しい音が耳を打つ。……心臓の音、か……?
 彼女の温もりに、鼓動にぼくは身を委ねた。

 *

「だから、四次方程式をこの二次方程式で割ると、商が二次方程式、余りが一次方程式で出てくるだろ。余りの式はx+二でもあるからこのxの前の(а+b)は一だってわかる。定数項のa三乗+b三乗は(a+b)の三乗になるように変形して……、それが四であるから、……abも出てくる。……解が二つあっても条件に合うのはこれしかない。だから、答えはa=二だ。できたっ。……って、聞いてる?」
 小夜が強張った表情でぼくを見る。
「なに言ってるか、全然わからない」
 ……と言われても。
「どこが、分からないの?」
 解いた式を一行ずつペンでチェックしながら、もっとわかりやすく説明するにはどう言えばいいか考える。
 小夜は小声で「全部」と言ってぼくの手元を見つめる。
 小夜は隣県の公立大学推薦入試を受けたものの不合格だったらしく、今はセンター入試に向けて猛勉強中だ。週一回だった塾を週二回に増やし、早朝と放課後は教室でキハラさんと一緒に勉強している。今日はキハラさんが私用で帰ったから代わりにぼくが小夜の家にお邪魔して勉強をみている。
 どうやら小夜は数学が大の苦手らしい。数学だけじゃなく、計算自体が苦手なようで、生物でも公式を使って解くような質問が出てくると問題文を最後まで読まずに諦めてしまう。
「ちゃんと考えなきゃ解けないよ」
「……私、数学無理。因数分解なんて社会に出ても使わないよ」
 小夜は疲れたとばかりに机から離れ、ベッドに腰かける。小さなくまのぬいぐるみを膝に置き、心ここにあらずといった様子でくまの腕を持ち上げては下ろす。
 試験に落ちたからか、勉強がはかどらないからか、小夜は元気がない。
「……キリヤ君は、いつも学校でなにしているの? 読書?」
「六階のPC室でパソコンの練習。それと簿記かな」
「上達した?」
「文書作成と表の作成くらいなら。手元を見ずにタイピングできるようになった」
「へえ、すごーい。器用なんだね」
「そんなことないよ。コツさえつかめばできるようになるよ。表計算だってキーボードを押せば全部パソコンがしてくれるし、分からなかったら情報処理の先生がいるしね」
 恨めしそうにじっと見る小夜が、ちょっと怖い。
「キリヤ君、進学すればよかったのに……」
 頬をはたかれた気がした。小夜も、ヤマサキと同じように進学してほしいと思っているんだろうか。高卒の彼氏はかっこ悪いと。
「……進学、してほしかった?」
 小夜はふてくされたようにそっぽを向く。
「だって、私より頭いいから。数学とか、すらすら解いているし……」
 穿ちすぎだ。小夜は弱音を吐いているだけで学歴にこだわる人じゃない。
「……ぼくも数学は苦手だけど、小夜が駄目すぎるんだよ」
「ひっどー。受験生に言う言葉?」
 小夜がぬいぐるみを投げつける。かわすと、枕やクッションまで飛んでくる。ぼくは笑って謝った。
 こんなふうに話すのは久しぶりだ。

「門限があるから、帰るよ」
 手早く鞄に教科書と参考書を詰め、立ち上がる。
「じゃあ、また明日」
「キリヤ君」
 部屋を出ようとするぼくを小夜が呼び止める。
「私、キリヤ君のこと、……好きだよ」
 小夜はパペットサイズのくまのぬいぐるみで顔を隠したまま、「ちゃんと、言ってなかったな、と思って……」と言う。
「悩み事でもなんでも、ちゃんと話してね。一人で苦しまないで、私に言ってね」
「……ありがとう……」
 信頼できる人がいる。愛すべき女性がいる。温もりを、優しさを与えてくれる、包み込んでくれる存在がある。
 小夜はぬいぐるみに額をこすりつけてから、「あー、恥ずかしかった」と赤くなった顔をあげ「下まで送っていく」と立ち上がった。

 小夜と門の外で別れ、ぼくは寮への道を歩く。
 小夜は優しい。試験で頭がいっぱいのはずなのにぼくを気遣ってくれる。小夜といると心が満たされる。優しい気持ちになれる。抱きしめたいと思う。ずっとそばにいて、離れたくない。けれど、募る想いと同じくらい迷いも大きくなっていく。以前のように小夜と話せるようになっても問題は何一つ解決していない。いや、前より深く、複雑になっていく。自分でもどうすればいいのか、堂々巡りに力尽きてしまう。

 十二月になり冬休みが近づいても受験生には関係がないらしく、休み時間は皆、教科書や参考書を開き、暗記シートを使って問題を出し合う。毎週土日にある模試を小夜も受けているそうで、ぼくたちが会う時間はめっきり減った。ぼくは寂しさを感じつつ、ほっとしていた。
「二十四日から補習が始まるから、二十三日に一足早く二人でクリスマスを祝おうよ」と小夜が言い出した。
「勉強で忙しいなら無理に会わなくてもいいよ」と遠慮したら、小夜から笑みが消えた。
 気遣っているつもりで言った言葉に彼女が黙り込む、最近こんなことが増えた。
 他意はないのに勝手に誤解して勝手に傷ついている。好きにすればいい。敢えて弁解しない自分がいた。なにもかも面倒くさかった。
「……二十三日、私の家に来て。待ってるから……」
「……わかった……」
 小夜の誘いに折れる形で、二十三日、ぼくは彼女の家を訪れた。インターフォンを押すと、エプロン姿の小夜が出迎えてくれた。
「キリヤ君はソファでゆっくりしていて」
 ぼくをリビングに通し、小夜はキッチンに行く。なにやら甘い匂いが漂う。
 大きな窓のそばに人の背丈くらいあるツリーが置かれていた。ツリーのてっぺんに金色の星を飾り、枝に白い綿毛を被せ、揺らすと音が鳴る丸い鈴が何個も掛けられていた。
 いつもいる人が見当たらずぼくは聞いた。
「今日はおばさんいないの?」
 小夜はそれどころじゃないといったふうに冷蔵庫を開け、ナイフを持って右に左に移動し、言いかけては途中でやめ、思い出したように突然話の続きを始める。
「お母さんは、バザーの手伝いに行ってる。今まで作った作品をバザーに出して売上金を養護施設に寄付するんだって。毎年二十三日はそうしてる。弟は部活の試合。お父さんは出張で明日帰ってくるの」
「……みんな、忙しいんだね。……小夜はさっきから、何しているの?」
「うん、……ちょっと待ってね。もうすぐ終わるから……」
 水が流れる音と食器が擦れる音がする。
 壁にかけられた木彫りの時計を見る。小夜といる時間を逆算する癖がついた。いつもは放課後の限られた時間、勉強をみるという目的があった。おばさんも別の階とはいえ同じ家にいるからなんとなく安心できた。今は誰もいない。小夜とぼくの二人きりだ。勉強をみるのではなく、二人で会うためにここにいる。それがぼくを不安にさせる。……用事があると言って早めに引き上げようかな。
「お待たせー」
 エプロンを外した小夜は顔をほころばせ銀のボールを被せたお皿をテーブルに置き、リズミカルにティーカップやフォークを並べていく。小夜は明らかにはしゃいでいた。
「じゃ、じゃーん」と小夜が蓋を開ける。長さ三十センチくらいのパウンドケーキにツリーをかたどった飾りを載せ、生クリームが添えられている。
「私が作ったの」
「小夜が?」
 小夜ははにかみながら頷く。ナイフで切り分け、ぼくの前に出されたパウンドケーキは切り口からナッツやレーズンが見え、ほんのり洋酒の香りがする。
「おいしそうだね」
「そうじゃなくて、本当においしいの」
「はいはい」フォークを入れようとしたら、「ちょっと待って」と小夜がカーテンを引く。「この方が雰囲気出るから」と赤い蝋燭をテーブルに立て、火を灯す。
 薄暗い部屋に橙色に染まる小夜の姿が浮かび、前髪のせいで影ができた目元はどこか儚げで、大人びて見えた。
「メリークリスマス」
 二人でジュースを手に乾杯し、ケーキを味わう。
 しっとりした生地に歯応えのあるナッツが混じり、酸味のあるフルーツと洋酒が口の中に広がる。
「うん、本当においしいよ」
「でしょう? 頑張って作ったんだから。練習用は家族に食べてもらったの。それは本番用」
 笑ってしまった。練習用じゃなく本番用をぼくに食べさせてくれたことが、ぼくに食べてもらうために受験勉強の合間をぬってケーキを作ってくれたことが嬉しかった。嬉しい以外の言葉でどう表現したらいいか。あれだけ本を読んでいても適確な言葉が思いつかない。蝋燭の火が胸に灯ったように温かく、明るくなった気がした。
 小夜はぼくの感想が聞けて安心したのか、ケーキを口に入れる。
「まさか、小夜の手作りを食べられるとは思わなかったよ」
 小夜は上目遣いで、なぜか不満そうにぼくを見る。
「本当は苺がたくさん載ったデコレーションケーキが作りたかったんだ。でも私、ケーキ自体作ったことがなくて。クミに相談したら『パウンドケーキなら簡単だよ』って教えてくれたから……」
「おばさんには聞かないんだ」
 小夜は考えるように首を少し傾ける。
「お母さんには、聞きにくいっていうか。口出しされたくないっていうか。見られているみたいで緊張しちゃう。出来上がっても、お母さんが作っている物と比べちゃうんだよね。見た目もいまいちだし、味もなんかなーって。……でも、キリヤ君が喜んでくれたんなら作ってよかった」
 小夜は安心したようにケーキにぱくつく。
 ぼくが思う以上に小夜は母親に劣等感を持っているのか。あの女は問題外として、完璧すぎる母親を持っても苦労は絶えないのかもしれない。
「キリヤ君、これクリスマスプレゼント」
 小夜がぼくに包みを差し出す。青色の包装紙でラッピングされ金色のリボンがかけられていた。柔らかい物が入っているらしく、手で受け取るだけでへこむ。
 ぼくはプレゼントを膝に置いた。
「……ごめん、……ぼくは、なにも持って来てない」
 小夜は笑って「気にしないで。私もたいした物じゃないから」と言ってくれたけれど。二人で祝うためにケーキやプレゼントを用意してくれた小夜に、ぼくは花もプレゼントも持って来なかった。手持ちはあるのに。
 小学校の思い出がよぎる。担任の計らいでクリスマス会が開かれた。折り紙で作った輪っかを壁や黒板に飾りつけ、机や椅子を教室の両端に寄せ、ゲームをし、歌やダンスをした。プレゼント交換の時間になり、三百円のプレゼントが用意できなかったぼくは、みんなが輪になって歌に合わせプレゼントを回すのを教室の端で見ていた。ドラマでクリスマスを祝う家族のシーンがあっても別世界の話にしか思わなかった。
「……ごめん……」
「いいから、開けてみて」
 小夜に促され、ぼくは包装紙を開けた。深緑色のマフラーだった。小夜が手に取り、ぼくの首に巻いてくれた。
「どう? つけた感じ。チクチクしない?」
 小夜がぼくの目を覗きこむ。
「もしかして、これも、小夜が……?」
 小夜が頷く。
「初めて編んだから、網目がおかしくなっちゃって。クミに直してもらったの。……どう、暖かい?」
 小夜がぼくの隣に座り網目を直してもらったという個所をぼくに見せてくれたけれど、よく分からなかった。
「……ありがとう……」
 小夜がぼくを見つめ、表情を曇らせる。
「……あんまり、嬉しそうじゃない」
「そんなことないよ。嬉しいよ」
「……だって、顔が引きつってる」
「本当に嬉しいよ。ただ、ちょっと驚いた」
「なんで?」
「プレゼントを、それも手編みのマフラーをもらったのは初めてだから……」
 小夜は困ったような、安心したような複雑な表情をして、ぼくの隣に座り直す。
「本当は、手袋を作りたかったんだけど、難しいからマフラーになっちゃった。来年はもっとすごいのを作るからね」
 小夜は照れたように笑った。
 小夜の顔が蝋燭に照らされているからだけでなく、眩しかった。ぼくは小夜の両肩を引き寄せ、唇を押しつけた。唇と唇を合わせるだけのキスだ。華奢な体をかき抱く。小夜の背骨が両腕に当たり、二つの膨らみが胸にあたっても、強く抱きしめた。小夜が苦しげに身をよじる。ぼくは両腕に力を込めた、小夜が身動きできないように。顔を見られたくなかった。
 ……胸が震える、目の奥が熱くなる。ひくつく喉に力を入れ、固く目をつぶり、溢れようとするものを押し止める。
 彼女との時間は、安らぎと癒しを与えてくれた。清水で洗い流すようにぼくの内側に溜まった膿を消し去ってくれた。このまま彼女と生きられたらぼくは幸せになれるのかもしれない。けれど、小夜と会う度に自分が弱くなる。
 ずっと、一人で生きてきた。一人で立っていられるように、なにも信じず、期待せず、頼らず、全てを憎み、自分の足元だけ見て生きてきた。
 今の自分はどうだ。もし、小夜がいなくなったら、小夜と別れたら立っていられるのか。元の自分に戻れるのか。
 自分だけの世界に他人が加わる、一人で生きると決めた未来に他者が入り込む、それが怖かった。
 いつの間にか、ぼくは両腕を解き彼女にくずおれていた。ぼくの重さに負けるように彼女がソファに横たわり、両腕でぼくを包み、優しく髪を撫でてくれた。
 胸の膨らみに耳をあてる。鼓動が聴こえる。
 このまま、彼女の中へ溶けていけたら。二度と離れないように、ぼくの意識も肉体も溶けて肌を通り抜け、彼女を形づくる全てのものに同化したい。肉体関係を持ちたいわけじゃない。ぼくには無理だ。ぼくは女性を抱けない。
 彼女の体温を全身で感じる。長い間、ぼくと小夜は体を重ねた。

 *

 年が明け、三学期が始まり、クラスの雰囲気が一段と張りつめる。小夜は休み時間も参考書を開き、キハラさんと問題を出し合う。あのタカシでさえ単語帳と顔を突き合わせぶつぶつ言っている。相方のユカリは真剣な表情で結婚情報雑誌をめくっていた。
 小夜の家で一足早いクリスマスを祝ってから、ぼくと小夜は会うのを控えた。小夜は「センターまでまだ時間があるから何度か会おうよ。初詣だって行きたい」と言ってくれたけれど、ぼくは「入試が終わったら好きなだけ会えるよ」とやんわり断った。
 センターが終わるまでは会わなくていいと思うと安心した。ぼくは相変わらずだった。
 センターが終わり、住宅地の一画にあるいつもの公園で久しぶりにぼくと小夜は会った。
 小夜は青ざめ、表情も硬い。どこか虚ろで、口数も少なかった。
「……私ね、進路指導の先生に県内の大学は難しいって、言われちゃった。ここって公立と、私立大学は一つしかないでしょ。公立落ちた人が私立大学受けるから、倍率高いうえに成績がいい人が多いから、……受かる保証はないって……。私、県外の大学をいくつか受けようと思う。……でも、受かっても、どうしようかなって。県外の大学に行ったら、私たち前みたいに会えなくなる……」
 そう言って小夜は涙ぐむ。
「……小夜が行きたい大学を目指せばいいよ。将来何になりたいかを考えて進学するもんだろう? ぼくのことは切り離して考えるもんじゃないかな。大丈夫だよ、会おうと思えばいつでも会える」
「……キリヤ君は、会いに来てくれるの?」
 鋭い口調にはっとした。
「私といて、楽しい? これからも付き合おうと思ってる?」
 小夜の唇が震えていた。
「キリヤ君、私のこと、どう思ってる? 私といても時間ばかり気にして、早く帰りたがっているように見える。……私は今、正論が聞きたいんじゃないんだよ。キリヤ君の気持ちが聞きたいの。四月になったら離れ離れになっちゃうかもしれないんだよ? お金や時間のこと考えたら今よりずっと会えなくなっちゃうんだよ。キリヤ君はそれで平気なの?」
 ……返す言葉がなかった。それでもいいと、思っていたから。
 小夜の声が激しく震え、湿り気を帯びていく。
「私、キリヤ君のことちっともわからない。なに考えてるのか、全然分からない。私、キリヤ君をもっと知りたいし、いろんなことしてあげたいし、もっと会いたいと思ってる。なのにっ、二言目には『勉強で忙しいならいいよ』って。私と会わなくたって平気なんでしょ? 勉強が大事だって、しなきゃいけないって分かってるよ。でも冷たくされたら素っ気なくされたら気になってそれどころじゃなくなっちゃうんだよ」
 最後は悲鳴に近かった。小夜はぼくを睨んだ。透明の滴が頬を濡らし顎を伝い落ちる。いつも穏やかに澄んでいた目が強く光っていた。小夜は頬を素早く手で拭い、強い口調で言った。
「……もう、いい。……しばらく、距離を置こう。このままじゃ私、なにも手に付かない。勉強しなくちゃ」
 小夜は鞄をつかみ、背を向けて去って行く。一度も、振り返らなかった。

 ……しばらく、何も考えられず、白い頭で丸裸になった木を見ていた。
 小夜から別れを切り出されるとは、思わなかった。決めるのはぼくだと。別れを告げるのはぼくからだと。小夜に甘えていたのか。
 ぼくの行動はばれていた。気持ちは、十分の一も届いていない。
 ぼくは深く息を吐いた。
 胸が、痛い。錐で抉られているようだ。自分で原因を作っておいて小夜に怒りをぶつけられ傷ついたか。ぼくはどこまでも身勝手にできている。
 どっちつかずのまま小夜と付き合うことに疲れていた。小夜を信じたいのに疑ってしまう。安らぎを感じながら不安がつきまとう。愛しているのに突き放そうとする。相反する感情がいつもぼくという器の中でせめぎ合っていた。
 ……これでやっと、楽になれる。
 また前の生活に戻るだけだ。今までそうだったように、淡々と毎日をやり過ごせばいい。この痛みも、いずれ消えてなくなる。
 ぼくは解放されたんだ。

 受験も一段落し、大半の生徒がリラックスした様子で談笑するようになっても、ぼくと小夜がよりを戻すことはなかった。
 小夜は県外の私立大学に受かったと、キハラさんがそっと教えてくれた。
 タカシは休み時間もユカリの指導の下、勉学に励んでいた。ユカリは卒業後大学生になったタカシと結婚しタカシの実家が営む店を手伝いながら新婚生活を楽しむつもりだったそうで、自分でそう言っていた、「タカシが試験落ちたから予定が狂った。こうなったら浪人させて来年県内の大学受けさせる。もちろん受かるまで結婚はお預けよ」と息巻いていた。
 他人事ながらタカシが気の毒になる。まあ、ユカリぐらいたくましければ家が傾いてもやっていけるだろう。
 小夜はいつもと変わらない感じで、窓際の席でキハラさんと話をしていた。そしてぼくも、相変わらず本を読んでいた。
「サカモトさん、告白されたんだって」「えー、誰に?」「隣のクラスのフジ君」「付き合ってるの?」「このまえ一緒に帰るところ見たよ」「サカモトさん、可愛いもんねー。フジ君もかっこいいし、お似合いじゃない?」
 そんな噂が聞こえてくる度にぼくは滑稽なほど動揺した。
「キリヤ、サカモトさんとは駄目だったん?」
 追い討ちをかけるようにこっそり聞いてくるユカリに「元からなにもなかったよ」とはぐらかした。
「押しが弱すぎたんじゃない? サカモトさん大人しいからキリヤからガンガン行かないと他の男子に先越されちゃうよ」
 何も言わないぼくにユカリが話を膨らます。
「ほら、初恋は実らないって言うから。私は実ったけど。元気だしなよ。他にも女の子はいっぱいいるって。なんだったら私の友達に紹介してもらおうか? サカモトさんみたいなのがタイプなんだよね?」
 慰めているつもりで実は止めを刺していることに気づかないのか。悪気なくやっているなら、大物だ。
 卒業まで二週間足らず。三月が終われば小夜と会えなくなる。学校にも、家の前にも、町中にも、彼女の姿は見えなくなる。
 それでいいのか、二度と会えなくなってもいいのか。仕方ないだろう。諦められるのか、それなら小夜に本心を打ち明けたらどうだ。本心って何だ、自分の気持ちさえ分からないのに。突っぱねられてもこのまま別れるよりはいいんじゃないか。
 迷いと焦りは増幅し、時間は過ぎていった。

 *

「三月末日までは我が高の生徒ですから、節度ある行動を心がけ、決して飲酒喫煙等はしないように――」
 校長が壇上で檄を飛ばす。卒業式が終わり、高校生最後の春休みに入った。結局、ぼくと小夜は一言も交わすことなく卒業した。
「仕事を早く覚えてほしいので入社を待たず、都合がつく日は会社に来て下さい」と会社の事務から連絡を受け、ぼくは卒業してすぐ通勤した。会社からその間の給料と交通費を日割りで受け取り、四月からの引っ越し費用に頭を悩ませていたぼくは助かった。
「トラック一台と社員を一人、引っ越しの手伝いに手配します」と言ってくれたが、大した荷物はないからと辞退した。会社の配慮に驚いた。会社が契約しているアパートがあるそうなので空き次第移ることにした。
 三月もあと少しとなった頃、ぼくは仕事を終え、小夜の家の前に立った。既に日は沈み、星が瞬いている。雲の切れ間から白い月が顔を出す。カーテンが開いた小夜の部屋は真っ暗だった。まだ帰っていないのか、それともリビングで家族とのひと時を楽しんでいるのか。
 足早に通り過ぎる人がぼくを一瞥する。ぼくは四つ角の塀にもたれ、電信柱の陰に隠れ、彼女の部屋の明かりが点くのを待った。
 ……まるで、ストーカーだ。
 インターフォンを押して小夜を出してもらえばいいのに、冷たく断わられたらと思うと、できなかった。
 新しく誰かと付き合い始めたという。失うくらいなら傷ついてもいい。もう一度やり直せるなら、今度こそ過去を乗り越えてみせる。
 四月まで後十日しかない。やり直す、ぎりぎりのタイミングだった。これを逃したら二度と彼女とよりを戻せなくなる。会えなくなる。
 気温がぐんと下がる。空気が澄んでいるせいか、空高く浮かんだ月が妙に明るい。ぼくは白い息を吐きながら、小夜の部屋の明かりが点くのを待った。

 小夜は男と肩を並べ帰ってきた。門扉の前で話をし、立ち去る男の背中に軽く手を振る。
 動悸に襲われ、体中の血管が脈打つ。
「……きりや、くん……」
 小夜がぼくに気づいた。逃げようと思っても、足が動かない。彼氏がいる小夜になにを言えばいい。考えがまとまらず、ここにいる訳さえ思い出せない。動揺していた。小夜がぼくの前に立つ。なにも言わずに見上げる小夜に、ぼくは声を絞り出した。
「……はなし、をしたい。……じかん、あるかな」
 鳩尾に力を入れてみたけれど、無理だった。全身がふやけたように力が入らず、足元も頼りなかった。
「……いいよ。どこで話す?」
「……こう、えん……いつもの……」
 小夜は頷き、ぼくの前を歩き出した。

 久しぶりに来た公園は木々の葉が落ちているせいか、月明りが園内の隅々まで行き渡っていた。
 小夜は二人で会っていた時と同じベンチに座り、遅れてぼくも隣に腰かける。
「話って、なに?」
 あっさりした口調に突き放されている気がした。
「……さっきの人、……付き合ってるの……?」
「ううん、塾の友達。私、三月まで塾入れていたから。今日で終わり。お別れ会をしていたの。遅くなったから送ってもらったんだ。……ずっと、待ってたの? 寒くなかった?」
「……ううん……」ぼくは冷えた手をジャンパーのポケットにそっと入れた。
「私、来週土曜日に引っ越すんだ。さっきの人に付き合ってほしいって言われたけど……、断った。私、県外の大学行くから遠距離になるでしょ。だから……」
「……もう一度、やり直したい。今度は、傷つけない。小夜と付き合いたい」
 唐突だと、分かっている。情けない男だと笑われてもいい。けなされてもいい。もう一度小夜とやり直したい。今度は逃げない。絶対に。死ぬ気で努力する。過去を乗り越えてみせる。恐怖に打ち勝ってみせる。小夜と生きて行くために。だから……。
 思いは言葉にならず、小夜の言葉を待った。
「……私、向こうに行ったら、手紙書こうと思ってたんだ。自然消滅みたいな感じになってたから。私、キリヤ君に出会えてよかったと思ってる。恨んだ時もあったけど、受験生なのに、それもおんなじクラスの人となんで付き合ったんだろうって後悔もしたけれど、それってキリヤ君がとても好きだったからって、……今なら思える」
 ぼくは黙った。
「責めてるんじゃないのよ。……付き合っていた時は私いつも不安だった。やっと近づけたと思っても、手のひら返すみたいに離れていくから……。嫌われているんじゃないかって、うっとうしがられているんじゃないかって、不安でしようがなかった。私、しょっちゅうクミに相談に乗ってもらっていたんだよ。クミだって受験で大変なのに勉強そっちのけで悩みを聞いてくれた。私が泣いて鼻水垂らしても、黙って聞いてくれてた」
 小夜は恥ずかしさをごまかすように笑った。
 ショックだった。そこまで傷つけていたのかと。小夜はそこまで悲しんでいたのかと知って。苦しみを打ち明ける相手が付き合っているぼくではなく友達だったことがショックで、寂しかった。
「……しばらく距離置こうって言った時、ほんとは止めてほしかった。キリヤ君の気持ちが聞きたかった。もっと待てば話してくれたのかなって……。……でも、次の日学校に行ったら、キリヤ君、何もなかったように本読んでいるんだもん、腹立って。本を床に叩きつけて怒鳴ってやろうかって思った。『キリヤなんか死んじゃえ』って」
 冷や汗がどっと噴きだし、頭の芯が凍りつく。
「わたし、……最低だよね……。自分でもわけわかんないくらいひどい子になってた。なんでもっと優しくしてくれないのかな、なんでもっといろんなこと打ち明けてくれないのかな、私ってそんなに信用ないのかなって。受験が上手くいかないのも全部キリヤ君のせいにしてた」
 小夜は涙を浮かべていた。
「私たち、ここで終わりにしよう。また付き合って嫌な気持ちになるより、このままさよならした方がきれいな思い出のまま出発できると思う」
 ……いやだ、とは言えなかった。彼女を苦しめたのは、傷つけたのはぼくだから。
「私、次に誰かと付き合ったらもっと言いたいこと言い合って、笑い合って、お互いの夢を語り合いたいなって」
「……その相手は、……ぼくじゃだめなの……」
 そう問う一方で、ありのままを語り合う自分が想像できなかった。
 小夜は目元を指で拭い、はっきり頷いた。
「……私、新しい環境で一から頑張る。キリヤ君は私よりずっといい人を見つけて幸せになって。応援してる」
 迷いのないまっすぐな目で微笑むから、ぼくはなにも言えなくなった。
 それからしばらく、二人で月を見ていた。丸みを帯びた半月が白い光を降り注ぐ。
「……手を、つないでいい?」
 最後のお願いだった。
 小夜が頷いた、と思った。
 彼女の手を握り、抱き寄せる。温もりも、柔らかさも、優しい香りも、なにも変わらない。変わったのはぼくたちの関係。大事なものが離れていく。ぼくをすり抜けて手の届かないところへ行ってしまう。
「……ごめん……。……ごめん……」
 小夜の背中に回した腕が濡れる。
 ぼくは泣いていた。

 *

「おーい、切谷。切谷護、これ配達に行ってくれ」
「はい」
 荷物を積んだ軽ワゴンに乗り、川沿いを走る。
 あれから二年が過ぎ、夏が訪れようとしている。
 ぼくは社宅に住み、毎朝七時三十分に出勤し夜八時に帰宅する。仕事は家具の組み立て、配達、来客の応対、営業も幅広くこなさなければならず、人付き合いを絶ってきたぼくには慣れないことだらけで入社当初は給料泥棒と罵られても仕方ないくらい役に立たなかった。そんなぼくを社員たちは根気強く、熱心に指導してくれた。「だいぶ慣れてきたな」と社長に言ってもらえるようになったのは入社して一年が経とうかという頃だった。とはいえ、今でもぼくは歩き出した赤子のように社会のルールを一から学んでいる。
 十五歳下の異父弟は養育里親に預けられることになった。男は職場の同僚と浮気をし、女は腹いせに育児放棄をするようになり、あげく新たに男を作り、新しい男のマンションで暮らし始めたそうで、弟は公園のごみ箱を漁っているところを近隣住民に見つけられ警察に保護された。児童相談所から「弟さんを引き取ってくれませんか」と職場に電話があった。「引き取り手がなければ児童養護施設で暮らすか、養育里親に預けます」と言う。
 ぼくは「金銭的な援助はできますが一緒に暮らすことはできません」と断った。
 女と幸せに暮らしていた弟の姿が忘れられない。幸せになってほしいと思う。愛され、大事にされ、健やかに育ってほしい。
 ぼくでは荷が重すぎる。子どもを育てたことがない、愛情の注ぎ方を知らない、温かい家庭なんて知らない。もしかしたら男やあの女のように自分と同じ苦しみを弟に背負わせてしまうかもしれない。それくらいなら里親と一緒に暮らした方が幸せになれる。……そう、あってほしい。

 人込みに、彼女の姿を探す。
 彼女と同じ背格好の人を目にすると胸に痛みを覚え、見えなくなるまで目で追った。どれほど望んでも彼女がぼくの前に現れることはなかった。夢の中にさえ。
 彼女の笑顔が、温もりがよぎる度、膝を抱えうずくまる。
 傷つけた奴らを、なにごともなく通り過ぎる世間を、離れていった彼女を、あらゆるものを憎もうとした。ぼくを理解せず、勝手なことを言ってぼくを独りにしたと、彼女を悪者に仕立て上げようとした。……できなかった。彼女がぼくに注いでくれた愛情は本物だから。自分の心を守ることに必死で傷つけてばかりいたぼくを彼女は優しい腕で包んでくれた。
 振り向いてほしかった。触れてほしかった。抱きしめてほしかった。愛してほしかった。叶えられなかった想いを丸ごと受け止めてくれたのは、彼女だ。
 ペンを手に白紙の便箋を日付が変わるまで眺め、彼女の家に電話をかけた。車に飛び乗り彼女の家まで走った。彼女の自転車は使われた痕跡もなくガレージに置き去りにされ、部屋のカーテンはベージュの花柄から青色に変わっていた。
 彼女がいなくなってから、あいつらに植えつけられた憎悪は消えた。悶えた夜はもう来ない、憎しみに震えた日々も。残ったのは彼女の元へ帰りたいと望む自分だけ。
 憎悪も怒りも、心の拠り所さえ失い、これからどう生きて行けばいいのか。

 車内のデジタル時計を見る。ちょうど会社では休憩に入る時間だ。配達の帰りにぼくは少しだけ寄り道をした。
 新緑が眩しい山道を走り、森林公園の敷地内に入る。以前、配達の途中で見つけた場所だ。
 ぼくは車を降りた。
 山頂に造られた森林公園は高い木々が四方を取り囲み、広大な草原が広がる。休日は一日の大半をこの場所で過ごす。
 丸太を滑り止め代わりにした階段を上がり、なだらかな坂を上り、小高い丘に立つ。背の高い木々が揺れ、梢がしなり、葉が擦れあう。風が走り、草原が波打つ。鳥のさえずりが高い空に吸い込まれていく。
 深く息を吸う。冷たい空気が喉を通り、胸を満たす。持て余していた激情は消え失せ、代わりに風がぼくの内部を吹き渡る。ぼくはとても静かな気持ちでここにいる。
 ぼくは祈る。彼女の幸せを。ぼくを愛してくれた、温もりをくれた彼女に幸せが降り続くようにと。彼女に繋がる人たちが、この世に生きる全ての人々が幸せであるようにと、願う。
 次誰かに巡り会えたら、絶対に傷つけない。この身をかけて愛そう。彼女がぼくにしてくれたように、傷ついてもいい、愛しぬこう。彼女にできなかった分、悲しませない、全力で守り抜く。
 ……だけど、ぼくは気づいている、
 ――彼女以上に愛せる人はどこにもいないと――。

 (了)

 〈参考著書〉
 『ルポ子どもの無縁社会』石川結貴 中央公論新社(二〇一一)
 『虐待される子どもたち』丸田桂子 幻冬舎ルネッサンス新書(二〇〇九)
 『凍りついた瞳が見つめるもの You特別編集――被虐待児からのメッセージ』椎名篤子・編 集英社(一九九五)
 『一六二ひきのカマキリたち』作・絵得田之久 福音館書店 
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