第2話

文字数 20,356文字


 *

 どこに行くの? ぼくも連れてって。
 仕事なのよ。子どもを連れて行けるわけないじゃない。すぐ帰ってくるわよ。
 女はいつも笑ってごまかした。
 朝から髪を洗い、身体中にクリームをのばす。腰まである髪は一本一本まで艶やかに流れ落ち、きめが細かい肌は肩から手足の先まで照明の光を反射していた。下着姿のまま鏡の前に座り、ホクロ一つない顔に幾度も白い粉を塗り重ね、深紅の紅をさし上唇と下唇をすり合わせなじませる。器具で引き上げたまつ毛に墨を塗りつけ、アイラインを引き、瞼に色を重ねる。胸が開いた水色のスーツに香水をふり、銀色の腕時計をはめ、ハイヒールを履く女は、別人だった。
 誰かが訪ねて来てもドアを開けちゃだめよ。返事もしちゃダメ。子どもしかいないって分かったら泥棒が来るわよ。
 そう言って、家の鍵を付けた銀色のストラップを鳴らし軽やかに出て行く。
 ぼくは女の姿が見えなくなるまでベランダの窓から見送った。一人きりの部屋は薄暗く、天井や壁が迫ってくる、歩く度に足音がついてくる。ぼくは追い立てられるように学校へ行った。放課後は河原や公園、土手をうろつき、お腹が空けば公園で水を飲んだ。家に菓子パンやカップ麺があるけれど帰りたくなかった。
 日が暮れ、民家に灯りが点いても二階の部屋は暗いままで、ぼくはアパートの前で縁石に腰かけ、女が帰ってくるのを待った。一階窓から笑い声やテレビの音が聞こえる。寒さと空腹に耐えかね家に戻り、電気をつけ、お湯を沸かす。後ろに何かいないかと、タンスやテレビの陰に得体の知れない物が潜んでいないかと、何度も振り返り確かめる。カップ麺をすする音がやけに大きく、頭を低くし体を縮めた。
 壁に囲まれたトイレが嫌で素早く扉を閉め水が流れる音を遮る。
 お前風呂入ってんのか? くっせえぞ。
 黒カビが生えた壁や濡れたタイルが怖くて風呂場は使わず、洗面所で髪を洗い、タオルを水に浸し体を拭く。パジャマに着替え、毛布を頭から被り、女が帰るのを待った。
 夜九時を過ぎても女は帰らず、事故に遭ったんだろうか、どこかで倒れているのかも、帰ってこなかったらどうしよう、と不安でたまらなかった。
 仕事中に電話なんかかけてこられたら迷惑よ。こっちは忙しいの。一人で留守番くらいできるでしょ。
 と言って、女は会社の番号も、携帯の番号も教えてくれなかった。家に電話はない、電話をかける勇気もない。顔が見えない、声しか聞こえない電話は暗闇から聞こえてくる声に思えて怖かった。それでも、番号さえ知っていれば何かあっても女に助けを呼べると安心できるのに、女は番号が書かれた紙きれ一枚渡してくれなかった。
 物音に気づき起き上がる。
 まだ起きてたの? 早く寝なさい。
 テーブルでビール片手に惣菜をほおばる女を確認してから再び眠りに入る、毎日がこれの繰り返しだった。

 ぼくのお母さんは忙しいんだ。朝はぼくより早く家を出るし、ぼくが寝てから帰ってくるんだ。どんな仕事かって? 知らない。あんまり話してくれないんだ。……うん、そうなんだよ。だから留守番くらいは一人でしなくちゃ、と思って。でも、たまには早く帰ってきてほしいな。……うん、ありがとう。君がいてくれるから寂しくない。これからもずっと一緒にいてね。
 明るくて活発で、喧嘩も強く、いつもぼくに優しい、ただ一人の友達に、ぼくは学校であった嫌なことや愚痴を言いまくった。友達はぼくの頭を撫で、慰めてくれる。ぼくが甘えても嫌な顔一つせず、それどころか優しく抱きしめてくれる。ぼくと変わらないくらいの年恰好なのに、ぼくのお母さんみたいだった。
 会話が途切れ、静けさが戻る。友達は消え、残ったのは柱の傷だった。
 毛布を体に巻きつけ己を抱きしめる。見るまいとすればするほど、柱のひび割れに引き寄せられる。歪な裂け目の奥にある黒の、更に奥へ意識を向ける。暗く深い世界へ繋がっている、暗闇から裂け目を通してこちらを覗いている。ぼくを見ているんだ、と思うと孤独が和らいだ。行きたい、あっちの世界へ。もう一人の臆病な自分が引き止める、真っ暗な場所は嫌だ、怖い、と。
 ……でも、一人よりましだ。
 女は頻繁に外泊するようになった。
 私がいない間、誰も家に入れないでよ。あんた一人で留守番しているってばれたら一緒に暮らせなくなるわよ。それでいいなら別に構わないけど。
 菓子パンやインスタントラーメンが入った袋をテーブルに置き、時にはお金をぼくに渡し、何日も帰ってこない。
 ぼくはいつ帰って来るとも分からない女をパンの数を数えながら待った。
 仕事じゃない、誰かと会っているんだ。ようやく、子どものぼくにも分かった。
 インターフォンが鳴り扉を叩く音に跳び上がる。
 お母さんじゃない。お母さんなら鍵を開けて入ってくるもの。
 呼びかけには答えず、声が止み、足音が聞こえなくなるまで、息を潜めた。

 五年生の頃、女は男を連れてきた。背が高く、体もがっしりし、なにより女に優しかった。夜になれば帰るかと思っていた男はそのまま居ついた。
 これからはずっと家にいるんだ、一人で留守番しなくていいんだ、と喜んだのも束の間、三人の生活になってから女は一層ぼくに構わなくなった。いや、元からぼくの存在など気にしていなかったのかもしれない。ぼくがいようといまいと、二人で酒に酔ってはいちゃついていた。男はぼくの存在そのものが目障りらしく、夜の七時がくるまで家に入ることを許さなかった。少しでも早く帰ると暴力を振るい、ベランダに放り出した。
 コンビニや店の前でうろついていたぼくは店の人に呼び止められ、家まで送り届けられた。
「あてつけのつもりか。虐待していると思われるだろう」
 男はぼくを木刀で殴り、女はただ見ていた。
 後で知ったが男は妻子持ちで女は不倫をしていた。男が自分で言うことだからどこまで信用していいか分からないが、男は会社の幹部だったそうで、それにしては若すぎないか?、女は男が勤める会社でアルバイトとして働き、そこで男と深い仲になり、男は単身赴任していたマンションに女を招き入れた。女が身につけていた腕時計やネックレス、派手な下着は男が買ってやった物らしい。浮気がばれ、揉めにもめて離婚され、会社の信用を失い職も失った男は、当たり前のように女のアパートに転がり込んだ。女も同じ理由で解雇されたらしい。
 男は新しい職に就いても長続きせず、気が向いた時に短期の仕事を見つけては小銭を稼ぎ、後は女のバイト代と生活保護費で気ままに暮らしていた。
 ぼくは日が暮れると公園のトイレに隠れた。ここなら雨風をしのげるし、人目にも付きにくい。人影がなくなるとブランコに座り月を見上げた。
 葉擦れが聞こえる夜に一人、穏やかに光る月を見ていると辛さや寂しさが薄れていった。地上が苦しみに満ちていても月は変わらず美しく、清浄な光を降り注ぐ。思えばこの頃からぼくは月夜が好きだった。
 人は避けられても虫はどうしようもない。蚊の襲来に耐えかね家の前に立ったぼくは音をさせないようにドアノブを回した。鍵は開いていた。ぼくは気づかれないようにそっと中に入った。
 襖一枚隔てた向こうで女の呻き声がする。泣いているような、苦しみに耐えているような声と男の荒い息遣いが混じり、ぼくは男が女を殴っていると思い込んだ。
 助けなきゃ、今度こそ。ぼくが守らなきゃ。
 すくみそうになる足を踏みだし、震える指で襖を開けた。湿った空気が体中にはりつく。
 女は全裸だった。裸体を隠そうともせず、仰向けに裸で横たわる男の下腹部に跨り腰を動かしていた。こちらに向けた目は熱に浮かされたように潤み、だらしなく開けた唇の奥が濡れて光る。女は目を閉じ、また腰を動かす。白い豊かな胸が上気し、乳房の先にある突起が赤く隆起する。長い髪が生き物のように女の胸元でざわめいていた。男の太い指が女の乳房を弄び、女は男の腕をつかみ前のめりになる。腰を激しく動かし、熱にうなされたような声を漏らす。
 立ちすくむぼくに男が笑う、「お前も来るか?」と。
 むせるほどの熱気に、ひときわ高く放たれた喘ぎ声に耐え切れずぼくは家を飛び出した。
 街灯もない道をひたすら走った。脇腹が、太股の筋肉が悲鳴をあげ草むらに倒れる。動悸が止まず腹部が激しく痛む。
 汚い、醜い、おぞましい。汚らわしい。
 守ろうと誓った母はどこにもいない。二人で生きていくと信じていた母はぼくが創りだした幻だった。
 震えが止まらず両腕で己をかき抱く。目の奥から熱いものが溢れる。頬を流れ腕を濡らしても、ぼくはごみが浮く黒い川を睨んだ。

 ……リヤ、……キリヤ……。
「おい、キリヤマモル」
 バンッという音でビクッとした。顔をあげたら、数学のキシが険しい表情で立っていた。こめかみに青筋が浮き、手にした教科書で机を叩く。さっきの音はこれか。
「聞いていたのか? 例題三を答えろ。……なんだ、これは。何も書いていないじゃないか」
 丸めた教科書でぼくの腕をどけ、片頬を引きつらせる。クラスの生徒がぼくとキシを注視する。
「もう授業が始まって二十分も過ぎている。黒板を写していないとはどういうつもりだ。やる気があるのか」
 黒板はびっしりと小さめの字で埋め尽くされていた。キシは授業が始まると板書をしながら説明を済ませ、その後類題を解かせる。クラスの生徒たちは思い出したように机に向かい手を動かす。ぼくが怒られているうちに問題を解こうという腹だろう。
「昨日も古典の時間寝ていたそうだな。ナカイ先生が職員室でぼやいていたぞ」
 寝ていたわけじゃない。
「センター試験なんてすぐだぞ。ぼっとしている暇はない。ここはよく出るんだ。しっかり勉強しておけ。問題はいい、黒板を写せ。……次、ヤスダ答えろ」
「うぇっ」
 ヤスダと呼ばれた生徒が悲鳴をあげると四方から笑いが漏れる。
 ぼくは黒板の字をノートに写した。

 借りていた本は全て返却し、参考書や買って読まなくなった本は紐で束ね一か所にまとめた。「お世話になりました」とごく短く、遺書も書いた。本を片付けたからすることが何もなくなってしまった。一日中ぼんやりしているのもなんだから自分にノルマを課した、――一日一回、過去の記憶を辿ると。
 その時に迷わないように、間違っても止めておこうなんて思わないように。この世界がどんなに汚れていて腐りきっているか。あいつらへの憎悪と怒りを、どれだけ苦しんできたか、死ななければこの苦しみはずっと続くのだと思い知るために、底に沈んだ記憶を拾い集めた。……それが、まずかった。一つ、二つと記憶を手繰り寄せた途端、抑えていたものが一気に噴き出した。抗う間もなく呑みこまれ制御できなくなった。
 両腕で頭を抱え倒れ込む。床に額を押しつけ、うずくまる。記憶の断片が次々と襲いかかり、痛みを呼び覚ます。胸が軋み、急速に内部が黒いモノで埋め尽くされていく。怒りも憎しみも思考も光も全てが息苦しさにとってかわり、少しでも息をしようと手で喉元を強く握る。寒い。寒いのに、汗が滲む。歯が鳴る振動が頭に響き、息を殺し耐えた。
 背中を何かが、這う。皮膚と服の間を蠢く。一点で感じた違和感が背中一面に広がっていく。太股を伝い、ふくらはぎを下りる。うなじをのぼり、髪の中に潜り込む。
 蟲だ。無数の蟲が這い回っているんだ。構わない、皮膚を噛み千切れ、内臓を食い破れ。ぼくを構成する細胞の一つ一つまでを分解し土へ換えてくれればいい。
 床に突っ伏したまま目を閉じる。しばらく、じっとしていた。いくら待ってもなにも起こらない。羽音の一つしない。目を開き、体を起こす。服をめくり、腹をさすり、ふくらはぎを確かめても、異物感はない、……幻覚だった。
 話し声が、足音が、壁の向こうから聞こえる。天井や床からも笑い声がする。扉のすりガラスに映る人影が怖くて部屋から出られなかった。
 それは昼夜も場所も関係なく襲い、不眠症の気があるぼくは更に眠れなくなった。

 沈む。……沈んでいく……、……ゆっくり……、……深く……、……ふかく……。……とろとろ溶け……、……ふわふわ浮遊し……、……ゆらゆら揺れ……、……すっと落ちていく……。
 コツン。固い音が響き、……ふーと……浮き上がる。周りの喧騒が蘇り、離れかけた意識が現実に引き戻される。
 机に触れた指がゆっくりと持ち上がり、静止し、落ちる、固い音に耳をすませ、しかし、辺りを漂い、視界がぼやけ、音が遠ざかっていく。苦しくも、辛くもない、痛みもだるさも感じない。暗く、静かで、安らかな世界へ落ちていく。音が引き戻す。この繰り返し。深みにはまり指が止まった時は浮上できるまで諦めるしかない。
 ぼくは目を閉じ、指先が奏でる音と振動に身を任せる。
「キリヤ君、具合悪いの? 保健室、行く?」
 指を止め、耳を机につけたまま、目だけを声のする方へ向けた。ぼんやりした輪郭が次第に形を成す。サカモトさんだった。
 ずいぶん会っていなかった、気がする。……相変わらず、サカモトさんはきれいだった。
「保健室に、行く?」
「……ねているだけ……」
「でも」
 ぼくは視線を指先に戻す。目を動かしたから、疲れた。
 サカモトさんが教室でぼくに声をかけるのは初めて。いや、二度目か。廊下にいる時、教室の移動中にこっそり話しかけてくるのがサカモトさんだった。周りの目を気にしているんだろう。男子と話していたら冷やかされると思っているのか。それとも『いじられキャラ』のぼくに話しかけたら自分も『いじられキャラ』に落ちてしまうと心配しているのかもしれない。サカモトさんに言ってあげたい。そんな心配はいらないよ。もうすぐぼくはいなくなるからと。
 ぼくは机から耳を引き剥がし、口の両端を上げる、笑って見えるように。
「ほんとうに、心配いらないから。寝ていただけ」
 サカモトさんは笑わなかった。気のせいか、ぼくを睨んでいる。
「やっぱり行こう。連れて行ってあげる」とぼくの腕をつかんだ。思いがけない行動にすぐに反応できなかった、引っぱられるままに体が宙を泳ぎ、転ぶ寸前に片手で机の端をつかむ。
 サカモトさんはぼくがよっぽど体調が悪いと思ったのか、
「ほら、やっぱり具合悪いんじゃない。先生に診てもらった方がいいよ、行こう」と強く引っぱる。
「いい、いいよ。本当に大丈夫なんだって」
「よくない」
 サカモトさんはむきになっているようだ。眉間に力を入れ両手でぼくの腕を引っぱる。
「おー、おー、サカモトがキリヤを拉致ってるぞ」
 男子が口々に囃し立てる。手を止めるかと思ったサカモトさんは聞こえていないのか、両手でぼくの腕を引っぱる。
「本当にいいって」サカモトさんの手首をつかむ。
「ちょっと、どうしたん。なにもめてんの?」
 ユカリだ、お前は関係ない。
 サカモトさんが気まずそうにぼくから手を離す。
「キリヤ君、具合悪そうだから保健室に行った方がいいと思って……」
 ユカリがぼくを品定めするように前屈みになりぼくの顔を下から覗き込む。一声「うーん」と唸り、体を起こし大きく頷く。
「キリヤ、顔色悪い。そうね、保健室に行った方がいいわ」
 サカモトさんが同志を得たように勢いづく。
「でしょう? シノザキさんもああ言っているよ。行こう」
 ユカリと話が合うなんて何かの間違いだ。
 サカモトさんがぼくの腕を両手でがっちりつかみ連れて行こうとする。虫が怖いと言いながらごみ袋に手を突っ込んでカマキリを助けた彼女と重なる。
 ……そうか、これがサカモトさんなんだ。カマキリとぼくが同じかは別として……。彼女はこうやって誰かを、なにかを助けずにはいられない人なんだ。目の前で苦しんでいるものには限りなく誠実でいられるのがサカモトさんなんだ。
 温かいものが胸に溢れる。湧き水のように絶え間なく溢れ出し、硬く強張った筋肉を一つ一つ解きながら細胞の隅々にまで沁み渡っていく。体が軽くなっていくような、柔らかくなっていくような、不思議な、けれど決して不快ではない感覚だった。
 サカモトさんが、好きだ。そばにいてほしい。男女の関係じゃなくていい。そんなものは要らない、ただそばにいてほしい。
 冷静な自分が打ち消す。
 ……誰が好きになる。母親さえ顧みなかったお前を。惨めったらしく、うずくまって恨むしか、憎むしか能がないお前を。そんな奴はいない。もうすぐ死ぬんだ。欲しがるな。
 ぼくはサカモトさんの手をそっと押さえ、腕を抜いた。
「……いいよ……。ぼく一人で行くから」
「……でも……、一人じゃ、倒れるかも……」
「私もついて行ってあげるよ」ユカリが言う。
 サカモトさんが不安そうにぼくをじっと見る。
 本気でぼくを心配してくれている。気恥かしいけれど、嬉しかった。ぼくは笑った。
「大丈夫だよ。ありがとう」
 サカモトさんの大きな目がまん丸になり、眉毛がハの字に下がる。悪いけど、面白い顔だった。
「わ、……わらった。キリヤが笑った」
 ユカリが騒ぐ。
「笑った、みんなー、キリヤが笑ったよー」
 うるさい女だ。いつも笑ってやっているじゃないか。騒がしいお前に付き合って、仕方なく。本当に不愉快な女だ。
 ぼくは力任せに扉を開けて教室を出た。

「三十六度六分。熱は、ないわね。学校では薬出せないから、寝ていく?」
 養護教諭が二つ並んだ空のベッドを勧めてくれた。
「いえ、いいです。体調は悪くないんで……」
 養護教諭の肩が右に二回、傾く。
「えっ、それならどうして来たの?」と聞かれても、「……さぁ……」としか答えられない。体温計を片手に動かなくなった養護教諭に一礼し、保健室を後にした。
「おっ、キリヤ。ちょうどお前に用があったんだ。……なんだ、調子悪いのか?」
 保健室から出てきたぼくにヤマサキが声をかけた。
「いえ、ちょっと、寄ってみただけです」
 ヤマサキは納得したようなしていないような感じで顎を突き出す。
「これを渡しておこうと思ってな」
 ヤマサキがスーツの内ポケットから封筒を取り出す。
「電車の切符だ。先生が持っていると無くしそうでな。先に渡しておく。領収書にサインだけくれるか?」
 手を出そうとしないぼくにヤマサキが聞く。
「どうした? 忘れたのか。月曜日に先生とキリヤの家に行く話」
「……覚えています」
「そうか、ならいい」
 ヤマサキはそそくさと封筒から切符と領収書を取り出す。
「当日は駅に八時三十分集合でどうだ。先生は前日遠征で帰りが深夜になりそうなんだ。寮まで迎えに行くと遠回りでな」
「高校生ですから一人で駅くらい行けますよ」
「そうか? 悪いなあ」
 ヤマサキは能天気に笑う。
 買わなくてよかったのに……。もったいない。
 ぼくは柱を下敷き代わりにして領収書にサインをし、切符を受け取った。
「月曜日、八時三十分に駅で会おう」
 ヤマサキは軽く手をあげ、職員室に入って行った。
 切符の乗車区間を見る。コマキから出発しオオガで降りる。
 オオガ駅。受付窓口はいつもカーテンがひかれ、薄暗い構内にカビが生えた木製ベンチが二つ並んだ小さな無人駅だ。駅を出てもシャッターが下りた店が二つ、三つあるくらいで、スーパーもコンビニもない。下水臭い小道を歩けば耕作放棄地が目立つ田畑が広がる。
 一戸建てとアパートが入り組む住宅地の一画にある古びたアパート、……それが奴らの家だ。
 手に持った切符が消える。手が、腕が、床が……、暗幕を少しずつ垂らすように欠けていく。……目は、開いている。目の上部が、痛い。眼球が上へ引っ張られているんだ。強く目を閉じ眼球を引き戻す。力を抜けばすぐに引っぱりあげられる眼を眉間と目頭に力を入れ引き寄せる。唇が震え、歯の隙間から息が漏れる。空気は喉の入り口で跳ね返され口腔外へ出て行く。……まずい、発作だ。落ち着け、落ち着け、落ち着け……。胸を押さえ、深く息を吸い込む。気管が塞がったように通らない、息がどんどん漏れていく、苦しくなっていく。発作は治まらない。ここは、まずい。人がいないところへ……。
 手を伸ばし、壁を探り当て、指に伝わるざらざらした冷たい感触を頼りに、階段のある方へ移動した。

 チャイムが聞こえる。
 腕時計を見る。四時限目の授業が始まる時間だ。教室に戻らないとさぼったと思われる。クラスで騒ぎになる、ことはないか。ぼくが一人いなくなったくらいで誰も気にしない。……サカモトさんの顔が浮かんだけれど、すぐ消える。
 校舎の壁にもたれ足を投げ出し、目隠しのように植えられた常緑樹を眺める。鱗のような木片が幹を覆い蟻が列をなし登っていく。深緑の葉は校舎屋上からこぼれる日の光を受け光彩を放つ。校舎と樹木で区切られた小さな空はかすんでいた。
 ……あの場所じゃなくていい。今なら飛べる。迷わず、夢見るように軽く踏み出せる。
 誰もいない。みんな授業中だ。非常階段を駆け上がり屋上から飛び降りよう。翼のように両手を広げ、胸いっぱいに風を受け、浮き上がるように体を宙へ躍らせよう。
 写真のような輝く海じゃなくていい。澄んだ青空でなくていい、純白の雲もいらない、今、逝きたい。
 足が重い。体が動かない。大きな砂袋を載せられているようだ。心は羽ばたこうとしているのに体がついて行かない。このまま融けてコンクリートに浸み込みそうだ。それでもいい。消えてなくなりたい。
 ……サカモトさんの名前、……知らない。……遊園地はいつだっけ。……どうでもいいか、すぐいなくなる。
 次生まれる時は木になりたい。草でもいい、羽虫でも構わない。なにも感じず考えず、ただ生きて死んでいく。
 人間はもう、たくさんだ。

 *

 ぼくはつくづく生真面目な性格らしい。いや、馬鹿なのか。死ぬ間際までこうやって行きたくもない学校に行くのだから。風邪だろうが、寝不足だろうが、頭がおかしくなっていようが、朝が来たら着替えて、学校に行く。救いようがない。
 窮屈な教室で聞きたくもない声や音を聞き、大勢の人間に囲まれ過ごす。拷問だ。
 ……明日は土曜。学校は休みだ。明日くらいは一人で静かに過ごしたい。カーテンを引き、暗闇に沈んで、ルームメイトが置いていったCDをぎりぎりまでボリュームを下げ、小さなデッキが紡ぎだす旋律を聞く。語りかけるような歌詞はいらない、なにも届きやしない。声はいらない、うるさいだけだ。かすかな音色に浸り、暗闇で静かに眠りたい。
 ぼくは頬杖をつき国語の教科書をめくった。本は全部片付けたから教科書くらいしか読む物がない。難い評論文が三分の一を占め、現代文も読み飽きた。古文の本を開き、紫式部の『源氏物語』は飛ばす。見目麗しい男が次々と女を手籠めにする話のどこがいい。己を辱め、陥れた男を恨みもせず待ち続ける女たちが愚かで卑屈で、無価値に思えた。八つ裂きにすればいい。ずたずたに切り裂いて肉片を犬にでも食わせてやれ。
「キリヤ君、昨日大丈夫だった」
 サカモトさんだ。昨日といい、どういう風の吹き回しだ。また冷やかされてもいいのか。……できれば今一番話したくない人だった。あのユカリより。あいつはほっとけばいい。
「早退したでしょ? ちゃんと帰れた? 今日はもういいの?」
 答える代わりに聞く。
「先生、なにか言ってた?」
「……ううん。シノザキさんが『キリヤ君は体調が悪いから保健室に行きました』って言ってくれたから、先生も『そうか』って」
 ユカリでも役に立つことがあるとは、びっくりだ。
 本に目を落としたまま話す。
「ちょっと眠かっただけだから。帰って寝たらすっきりしたよ」
 だからぼくに話しかけないでくれ。
「遊園地、行けそう?」
 今日のサカモトさんはしつこい。
「どうして気にするの?」
「……どうして、って」
 サカモトさんはうろたえたように口をつぐむ。
「他人が休もうが病気になろうが関係ないのに、どうしてそんなに気になるの?」
 やっかみやひがみ抜きで不思議だ。
 サカモトさんの緑色に透けた茶色い瞳が暗く沈んでいく。泣くのを堪えるように桃色の唇を引き結ぶ。……失言だった。
「……他人って。クラスメイトが気分悪そうにしていたら心配するよ、普通」
 ぼくは黙った。
 普通? 他の人間はそういう考え方をするのか。それともサカモトさんだけか。あんたはお優しいからな。人間は全て敵と思っているぼくには到底理解できない。ぼくなら誰かが倒れていても死ぬかなと思うくらいで石ころに目を遣るようにそのまま通り過ぎる。やっぱり、ぼくとサカモトさんは違う。違い過ぎる。胸苦しさは敗北感からか。
「……あり、がとう……」
 ぼくは本の字を睨み、舌の先で言葉を転がした。

 ようやく、この日が来た。待ちに待ったぼくの命日だ。
 あの後は散々だった。ユカリにつかまり、「昨日はなぜ戻ってこなかったの?」「さぼり?」「病院行った?」「どっかで倒れてたの?」「黙って帰っていいと思ってんの?」と質問攻めにされた。黙っていたらいつまでも終わらない、取り調べの刑事のようだった。
 リュックを背負い、余計な物は残っていないか、ごみは落ちていないか、引き出しやベッドの下をチェックする。漫画は捨てた、CDやデッキはこっそり不燃物としてゴミ置き場に出し、教科書や参考書も残らず紐でくくった。
 寮監室は正面玄関のすぐ横にあるから駐輪場や寮のごみ置き場は寮監室の窓から丸見えだ。寮監の目の前で教科書なんかごみに出したら即疑われる。そうなれば計画が台無しだ。手間をかけるけれどこれはぼくがいなくなった後に寮の誰かに片づけてもらおう。手間賃としてお金を入れた封筒を机の上に置いておく。
 壁のシミが目につく。
 いつもぼくを監視し、揶揄し、悦んでいた。のたうつぼくを嘲笑い、深みへ誘っていた。お前もこっちへこいと。
 満足だろう。お前の思い通りだ。ずっとそうやって壁に染みついていればいい。ぼくはさっさとこの世界から退散する。
 寮を出た途端、強い日射しを浴びる。……まあ、陰気な雨よりずっといい。今日は人生最後の日だ。どうせなら晴れやかな気持ちで逝こう。忌々しい太陽も抱きしめてやれ。
 深く息を吸い込み、冷やりとした空気を胸いっぱいに味わった。

 電車に乗り六つ目の駅で降りる。赤い回収箱に切符を入れ、駅を出、掲示板の地図で遊園地までの道順を確認する。帰りはこの駅から高校方面とは反対方向へ走る電車に乗ればいい。八つ目の駅で降り、二十分歩けば目的地に着く予定だ。
 できれば日が沈む前に決行したい。一足先に帰らせてもらおう。
 ……このまま、遊園地に行かず電車に乗ろうかとも考えたけれど、まだサカモトさんの名前を聞いていなかった。彼女の笑顔を最期に一目見たい気持ちもある。話し相手がいないと不安そうにしていた彼女が心配でもあった。ぼくでいいなら慣れるまでついていてあげようか、なんて、……未練かもしれない。
 リュックを背負い直し、遊園地へ向かう。
 坂道を上り、脇道を抜け、ポプラの木が立ち並ぶ広い道に出ると遊園地の看板が目に入る。車の長い列が園の入口へ伸びる。皆考えることは同じだ。テーマパークや大型施設が少ない田舎で休日に子ども連れで遊びに行く場所といったらこの自然公園を併設する遊園地か隣町にある動物園くらいだ。
 入園ゲートの前は人だかりができ、二台あるチケット販売機は長蛇の列だった。
 ゲート前の広場ではもう何人か集まっていた。私服だと教室にいる時と印象が変わるから余計分かりづらい。一人が手を上げて呼んでくれなかったら危うく通り過ぎるところだった。
 皆、チケットを片手に思い思いに雑談している。
 ぼくは自販機の列に並びチケットを購入した後、一人輪から離れ広い駐車場を見渡す。遊園地は山の上にある。駐車場の向こう、山が連なり、鳶が滑空している。
 サカモトさんはいない。腕時計を見る。集合時間は過ぎている。ゲート前や歩行者通路に彼女らしき人影はない。
 ……もしかしたら、来ないのか。行きたくないと悩んでいた。でも、最後だから行くと言っていた。気が変わったのか。ぼくは来たのに。最期に一目会いたいと、苦痛でしかない人込みも我慢してどうでもいい集まりに参加したのに。残り少ない時間を費やして足を運んだのに。君に会いたくて。……それなのに、来ないのか。
 胃の辺りが炎の先で炙られるように痛む。
 ……文句は、言えない。勝手に期待してのこのこ出てきたぼくがどうかしている。まだ分からないのか。散々裏切られてまだ懲りないのか。期待するな、信じるな。いいじゃないか、これで安心して旅立てる。思い残すことはない。これで分かった。清楚なふりをしてサカモトも他の奴らと同じだ、腐りきっている。
 胸糞が悪い。手に力を込めチケットを握り潰した。

 乗降専用スペースに黒の車が停まり、ドアが開く。
「ありがとう、お父さん」
 現れたのは、サカモトさんだった。襟元がゆったりした通気性がよさそうなベージュのニットに、ピンクの薄い生地が二重になったスカート姿で、清楚なサカモトさんによく似合っている。
 車の中からサカモトさんのお父さんがお辞儀でもしたのだろう、皆が一斉に頭を下げる。車は走り去った。
「みんな、ごめん。遅刻だよね? 自転車で行くと遠いからお父さんに乗せてきてもらったの。でも車が渋滞で動かなくて。ごめんね」
 サカモトさんが謝る度に柔らかそうな髪が肩にかかり、淡いピンクのスカートが風を纏ったように揺れる。花と戯れる妖精みたいだ。……可愛い、と思ってしまった。
 さっきあれだけ怒っていたのにサカモトさんが現れた途端これか。我ながら苦笑するしかない。
「ううん、セーフだよ。ユカリたちまだ来てないんだよ。言いだしっぺなのに」
「かっこいいお父さんね」「優しそう」「背ぇ、高そう」「仕事なにしてるの?」
 しばらくサカモトさんのお父さんで盛り上がっていた。
「ごっめーん、遅れたー」
 集合時間を十二分過ぎて、やっとユカリが現れた。タカシも白いシャツの前をはだけ走ってくる。
「おっそーい。なにしてたんよ。あんたが企画したんでしょ」
「ごめんごめん。だって、タカシが全然起きなくってさー。目覚まし三つもセットしてたのによー」
 ユカリはふり返り「あんたも謝りなさいよ」と両膝に手をつき肩で息をするタカシの頭を平手で叩く。
「ちょ、ちょっと、ええっ。あんたたち一緒に住んでるの?」
「えええー」皆が叫ぶ。
「ちがうって。タカシん家に一泊しただけよ」
 ユカリが軽い調子で手をひらひらさせる。
「タカシくん家って親もいるんでしょ? 親公認ってこと?」
「ええっと、……まあ、ね。おばさんもおじさんも結構可愛がってくれる」
 一人が割り込んで聞く。
「ユカリの親は? 怒らないの?」
「うん、それもオッケーよ」
「もしかしてもしかしてもしかして、……結婚するの?」
「まだそこまでは話してないけどー。……そのうち、そうなるかも」
「ええー」また皆がどよめく。
 今度はユカリとタカシの話で盛り上がる。
 くだらない。誰が誰と結婚しようが関係ないじゃないか。一体いつになったら中に入るんだ。話が終わるまでぼくはサカモトさんを見ていた。

「観覧車で園内を見渡してから次どれにするか決めない?」
 ユカリの提案で観覧車に乗ることになった。参加者は全員で十三人。観覧車は四人乗り。自然と三、四人のグループができあがり、ぼくとサカモトさんが残る。
「サカモトさん、こっちにおいでよ」
 女子ばかりのグループがサカモトさんを手招きする。サカモトさんは迷っているのか、動かない。
「呼んでるよ。行ってきなよ」
「……でも、……キリヤ君は……?」
「ぼくは一人で乗る」と言ったらサカモトさんは下を向き黙ってしまった。どうやら一人残るぼくを気にしているらしい。すぐ帰るから気を遣わなくていいよ、と言ってあげようか。
 ユカリが駆けてくる。サカモトさんを連れに来たのかと思ったら、
「っ……」
 ぼくに腕を絡め、不意打ちを食らい転びそうになるぼくに構わず、どんどん歩く。
「お、おいっ」
 ユカリがぼくの腕を脇で強く締めるからぼくはユカリに寄りかかる格好になる。腕に押しつけられた胸の感触に焦り「離せよっ」、ユカリの腕を振りほどく。
 ユカリが細い眉をあげ、狡猾に笑う。
「キリヤ、チャンスよ。告白しちゃいなよ。好きなんでしょ? サカモトさんのこと」
 ユカリを凝視する。ユカリはニッと笑い、固まるぼくをさしおき、大きく手をふる。
「サカモトさん、キリヤと乗ってやって。みんなー、サカモトさんはキリヤと乗るからあー」
 動けないぼくの肩を軽く叩き、「頑張りなね」と走って行った。
 言い返せ、なかった。
 ユカリたちは観覧車に向かって歩きだし、サカモトさんが一人、明らかに当惑した表情で佇んでいる。
 ……なんで、知っているんだ。誰にも言っていないのに。
 動悸が止まらない。汗ばむ手をジーパンで拭った。

 ぼくとサカモトさんは最後に乗った。車内は生ぬるい空気が立ち込め、上部にある小さな通気口が開き、そこから涼しい風が吹き込む。狭い空間に真向いに座る。お互い、共通の話題がないから無言だ。サカモトさんは居心地悪そうにバッグの中を探り、しきりに座る位置をずらす。ぼくは気付かないふりをし、窓の外を眺める。
 高度が次第に上がって行く。四方を囲む山のてっぺんが眼下に広がり、人が豆粒のように小さい。広大な駐車場に並んだ車が光をはね返し、まだらに生えた緑や黄緑の木々が枝葉を伸ばす。眩しさに目の奥がしみ、頭がしめつけられる。
 空は高くはるか彼方まで澄み、羊雲が水色の空に爽やかに映る。上空は風が強いらしく、窓が鳴り、雲が流れる。連なる山の向こうに海が見える。おそらく目的地はあの海の近くだ。町の中心を蛇行する川は碧く静かで、寂れた町が光に照らされ白く浮かび、園外にある人工池では白鷺が水浴びをし、羽ばたく度に水飛沫が舞い上がる。
「……きれいだ」
 この町は美しかった。三年近くいたのに下ばかり見ていたから気づかなかった。
「……うん、きれいね」
 少し遅れてサカモトさんが同調してくれた。
「……名前、なんていうの?」
 窓の外を見たまま聞いたから彼女がどんな表情をしているのか分からない。なんの物音もしない、彼女の息遣いも。通気口から吹き込む風の音だけが聞こえる。
 ぼくは弁解するように付け足した。
「どんな字を書くのかな、と思って……」
「さよ。小さい夜と書いて、小夜」
「……小夜……」
 ぼくは呆然と呟いた。
 ……なんで、夜なんだ。名前なんて他にいくらでもあるだろ。やっと聞き出した名前が、夜って……。黄泉路へのはなむけってやつか。質が悪い。サカモトさんにまでからかわれた気分だ。……少し前ならサカモトさんにぴったりだと喜んでいる。ぼくが好きな夜を名前に持つなんてやっぱりサカモトさんは特別な人なんだと有頂天になっているかもしれない。今は、……皮肉にしか聞こえない。
「……いい、名前だね」
 お世辞が言えた自分に拍手を送りたい。
「そう、かな? なんで小さい夜なんだろうって思ってた。もっと明るい感じの名前だったら性格も変わっていたのかな、なんて……」
 ぼくは彼女に視線を移した。サカモトさんは窓の外を見ている。サカモトさんにも悩みがあるらしい。
「シノザキさんって、いいよね」
 サカモトさんがぽつりと言う。
「あれだけはっきり言えたら、きっと悩むことなんてないよね。私もあんなふうになれたらうじうじ考えたり、ちょっとした一言に傷ついたりしなくてすむのに……」
 少しの沈黙の後、サカモトさんは振り向き、小さく手をふる。
「ごめん、なんか愚痴っちゃったね。今のなし」
「……いいんじゃない。サカモトさんはサカモトさんで。皆がみんなユカリみたいにうるさかったら、ぼくなら人生やめたくなるな」
「……ひどい。キリヤ君、言い過ぎ……」
 本気で怒っているようだ、サカモトさんは嫌悪の表情を向ける。
「……冗談だよ。でも、ぼくは夜が好きだな。明るいのは苦手だ。暗い方が落ち着く」
 山の中腹くらいまで高度は下りていた。海も、町を横たわる川も見えなくなる。あっという間だった。
「……キリヤ君、消えてしまいそう」
 光が弾けた。均衡を崩し、溶けていく。色を失い、音が消え、――声がした。
 だまらせろ。
 前後も分からなくなった灰色の世界に一際白く浮かぶそれに手を伸ばす、指が届く瞬間、体が傾き手が逸れる。爪に痛みが走り、冷たく硬い物が腕を打ち、脇腹を殴る、――はっと我に返る。ぼくはサカモトさんの後ろにある鉄柵に体ごと突っ込んでいた。観覧車が大きく揺れている。サカモトさんの胸元がやけに白く、首筋の血管が透けて見えた。指が大きく痙攣しとっさに鉄柵をつかむ。汗がこめかみを伝う。サカモトさんは青ざめ目を見開き、叫び声をあげる寸前みたいに口を開けていた。
「ご、ごめんなさい。わたし。今、すっごく失礼なこと言ったよね。ごめ、ごめんね」
「…………」
 鉄柵から手がずり落ち、後ろに大きく倒れ、尻をついた。ちょうど座席があったから倒れずにすんだ。どっと汗が噴き出す。揺れがまだおさまっていないのか、体が揺れ続ける。強張った両手を背中に隠し押しつける。心臓が喉から飛び出そうだった。
「ご、ごめんね。本当にごめんなさい」
 ぼくは唾を飲み込もうと喉を鳴らした。唾液の一滴も出ず、喉が引きつる。
「……ょう、……ようじがあるから……、……はやめに、かえるよ……」声がしわがれていた。
「ごめん、怒ったよね。ごめんね、ごめん」
 サカモトさんは何度も謝っていた。
 ぼくは無理に笑みを浮かべ、否定した。
「……ちがうよ。ほんとうに、用事があるんだ。……気にしていないよ、……ぜんぜん……」
 汗が頬を流れる。浅い呼吸を繰り返し、己の太腿をじっと見た。

 喉がカラカラだ。ぼくは自販機で水を買った。冷たい液体が食道を通り胃にたまるのを感じる。半分以上飲んでも喉の渇きは癒えない。
 ぼくは、彼女の口を塞ごうとしたのか……。まさか、ありえない。なら、あの時なにをしようとした。観覧車が揺れなかったら、なにをするつもりだったんだ、その手で……。
 手からペットボトルが滑り落ちる。水がこぼれ、アスファルトが黒く変色していく。ぽっかりと口を開け足元を呑みこんでいく。
 ……ち、がう。ちがう、ちがう、ちがう、ちがうんだ。
 ぐちゃぐちゃになった頭で同じ言葉を繰り返した、――ちがう、と。

 連休中の遊園地はイベントが目白押しだった。広場では戦隊物のヒーローショーに歓声があがり、鯉に餌やりができる池の周辺ではバルーンアートが配られ、園内を周遊できるボート乗り場は三十分待ちの看板が立てられていた。
 サカモトさんは他のグループとも打ち解けたようで、鯉に餌をあげながら笑っていた。
 ぼくはグループから、いやサカモトさんから一定の距離を保ち歩いた。サカモトさんを警戒していた、自分自身を恐れていた。
 サカモトさんは時折こちらを見ていたけれどぼくは気づかないふりをした。
「そろそろ、ランチにしない?」「どこで食べる?」何人かが言い出した。
 ユカリが周辺をぐるりと見渡してから、案を出す。
「天幕がある休憩スペースはいっぱいだから、木陰で食べようか」
 人が多いからいくつかのグループに別れて食べることになった。それぞれ木陰を探して芝生の上にシートを広げ、ぼくもどこか適当な場所はないかと探す。家族連れとカップルに挟まれた空きスペースにシート代わりに持ってきた大きめのごみ袋を広げ、腰を下ろす。サカモトさんは他のグループに交じればいいのに、実際向こうで女子二人がサカモトさんに手を振っている、一人でいるぼくを気にしてかぼくの隣に座る。
 ……くるな。さっき怖がっていただろ。性懲りもなくなんで近づくんだ。一人で寂しそうか? 可哀そうか? お人よしもいい加減にしろ。いつか酷い目に遭うぞ。……一人にさせてくれ。話す気分じゃない。
 サカモトさんは黙って黄緑色のお弁当箱を広げる。一口サイズのおにぎりが詰め込まれ、タコの形をしたウインナーや卵焼きが顔を出す。サカモトさんは小さなおにぎりをお箸で更に小さく割り、口に持って行く。
 沈黙がこれほど辛いのは初めてだ。呼吸を一つするごとに針で刺されているような痛みを覚える。
 もう、限界だ。食べ終わったら帰ろう。その方がサカモトさんもぼくに気を遣わず皆と行動できるし、ぼくも時間にゆとりをもって目的地に行ける。
「私たちも入れて」
 また、ユカリだ。「いい」と言っていないのに勝手にシートを広げ始める。サカモトさんは快諾していた。隣の家族連れが空けなくていいのに場所を空け、ユカリとタカシのグループが加わる。
 ……しかたない、サカモトさんと二人よりましか。
 ぼくは菓子パンを一つリュックから出し、かぶりついた。食堂のおばさんが「ピクニックに行くならタッパーにおにぎりとおかずを詰めてあげるわよ」と言ってくれたけれど、それだと後で返せないから断った。食堂のおばさんは口癖のように「寮にいる子はみんな我が子みたいなもんだよ。特にあんたは長いからね。遠慮しなくていいんだよ」と言ってくれた。実際、世話になった。ほとんどの寮生が帰省する中、ぼくを含め残ったわずかな寮生のために食事を作ってくれた。「お土産よ。一個持ってお行き」と和菓子をくれた。……この高校に通えたのもソトムラのおかげだ。家庭事情が複雑なぼくに寮付きの高校を探し奨学金で払う方法を教えてくれた、書類の作成を手伝ってくれたのもソトムラだった。
 悪い人間ばかりじゃない。打算抜きで手を差し伸べてくれる人たちはいた。どうせ今だけだと、ここを去ればそれっきりの付き合いだと決めつけ手を取らなかったのはぼくだ。
 人は死ぬ間際になると謙虚になるのかもしれない。食堂のおばさんやソトムラ宛に一言お礼を書いておけばよかったと、悔やんだ。
 ユカリが言い出す。
「ねえ、今からしりとりゲームしよう。遊園地にある物だけで。つまった人は罰ゲームとしてみんなの前で歌うこと」
「ええー、恥ずかしいよ」「絶対いやー」「無理無理」
「一発芸でもいいよ」
「えー、もっと無理ー」
「いいからやろうよ。食べるだけじゃつまんないじゃん」
 ユカリの命令に近い提案でしばらくしりとりゲームに付き合った。罰ゲームにタカシがアイドルグループの歌を振りつきで歌った時は大いに盛り上がった。近くにいる子どもがタカシを指さしアイドルグループの名前を口にしたら横にいる大人が慌てた様子で座らせていた。
 しりとりゲームも、歌もばか騒ぎもまっぴらだけど、はっきり言って助かった。隣にいるサカモトさんを気にしながら黙々と食べるなんて考えただけでも寒気がする。この時ばかりはユカリとタカシに感謝した。
 ユカリがカメラを向け、サカモトさんに指図する。
「写真撮ったげるよ。サカモトさん、キリヤに近寄って」
「……う、……うん……」
 サカモトさんがお弁当を置き、ぼくの方におずおずといった感じでにじり寄る。
「写真嫌いだからぼくはいい。サカモトさんだけ撮ってあげて」と横に避けた。
 自殺した奴と二人で写った写真なんか残っても気味が悪いだろう。ぼくなりに気を遣った。
 サカモトさんはうつむき、動かなくなる。なにかが落ちた。ぼくはサカモトさんをちらりと見る。また、落ちた。サカモトさんの手の甲を濡らし、太股を伝い、シートに滑る透明の滴を目で追う。
 ユカリが怒鳴る。
「キリヤっ、あんたなに泣かしてんのよっ」
「なっ」
 タカシがおにぎりをくわえたまま、他の奴らもぽかんとしてぼくを見る。
 ぼくは何もしていない。泣いてる? なんで泣いているんだ。怪我をしたのか? 袖から出た腕に、手首に、スカートから出た足に目を走らせる、傷はない。体調の変化か? さっきまで普通だったのに? 
「……違うの……。……私が、ひどいこと言ったから……。……すごく、ひどいことを言ったから、……それでキリヤ君、怒ってるの。キリヤ君は、悪くない……」
 意味がわからない、わかりやすく説明してくれ。
 ユカリが目を吊り上げる、ぼくは力なく睨み返した。
「……ごめん。……ちょっと、顔洗ってくる」
 サカモトさんは手の甲で目元を拭い、席を立った。
 ぼくはサカモトさんの後ろ姿を呆然と見送った。
「ちゃんとフォローしときなさいよ」
 ユカリがぼくを突き飛ばす。
 ……な、なんなんだ、いったい。女は訳が分からない。

 サカモトさんが戻ってきても、気まずくて話しかけられなかった。サカモトさんもよそよそしく、ぼくが近づくと離れて行ってしまう。冷静になってから涙の訳をあれこれ考えた。
 要するに、観覧車でサカモトさんが言った言葉にぼくが怒っていてそれで写真を一緒に撮るのを拒否したと、サカモトさんは思っているらしい。
 この結論に至るまで時間がかかった。そこまで考えてない。どっと疲れが出る。
 今日別れたらもう会えない。帰る前にサカモトさんの誤解を解かないと、と思っているうちに、時間は刻一刻と過ぎ、「ぼくは怒ってないから」と伝えられたのは、解散するために全員が園の入口の外に集合した時だった。
 サカモトさんは耳まで赤くなって「うん」と頷いた。

「いったん解散するけど、この後カラオケに行きたい人」
 ユカリが手を上げ、他の奴らも当然のように手を上げる。ぼくは手を上げなかった。
 空を見る。太陽は山の頂上にかかろうとしている。あと一時間もすれば日は山の陰に隠れ、空は赤く染まるだろう。
 遅くなった、早く行かないと。今から行っても夕暮れに間に合うかどうか。海は恐ろしい。輝く海面も夜になれば漆黒と化し、一切の光を拒絶する。身を投じれば、体ばかりか魂までも重油のような海水に混ざり、月明りも届かない虚無の淵を漂い続けるだろう。死んだ後まで彷徨いたくない。
「キリヤ、あんたはどうするの?」
「用事があるから帰るよ」
 ユカリがなぜか、したり顔で笑う。
「じゃあ、サカモトさんを送ってあげてよ。サカモトさんも門限があるから帰るんだって」
「用事があるって言ってるだろっ」
 ユカリが怯み、すぐに言い返す。
「なによっ、キリヤのくせにっ。口ごたえする気っ? 女の子を一人で帰すってどうなのよ。サカモトさん一人で電車に乗ったことないんだから一緒に帰るぐらいしたって罰は当たらないでしょっ」
 ユカリを睨みつける。この女はどこまでぼくの邪魔をするんだ。
「……いいよ、私、一人で帰れるから……」
 サカモトさんが消え入りそうな声で口を挟む。ユカリが憎たらしげに胸を張る。
「用事があっても駅まで一緒に行くぐらいできるでしょ? 夕暮れ時が一番危ないのよ。サカモトさんが変質者に襲われたらキリヤ、あんた責任取れるの?」 
 ……こいつ、殺す。拳を握り、奥歯を噛む。
「ほんとに大丈夫だから。キリヤ君、気にしないで」
 サカモトさんの手がぼくの腕にそっと触れる。
「サカモトさん方向音痴なんでしょ? 迷ったらどうするの」
「……近くの人に聞くから。……スマホもあるし……」
「人が通らなかったら? 駅までの道、民家ばかりで目印なんかないよ」
 畳みかけるユカリに、サカモトさんが自信なさ気に答える。
「……多分、……大丈夫……と思う……」
「いいよ、送って行くよ。行こう、サカモトさん」
 予定がめちゃくちゃだ。
 ぼくは押し黙り、先を歩いた。

 二人で高校方面に行く電車に乗る。目的地とは逆の方向へ走る電車に揺られながらぼくは窓の外を眺めた。
 夕陽が眩しい。太陽は山の頂上に半分近くかかっていた。今から乗り換えても、間に合わない。……光を反射するレールを、ススキがゆれる野原を見続けた。
「ごめん、どこか行く用があったんでしょ?」
 車両の出入口付近に立っているサカモトさんが申し訳なさそうに謝る。小柄な体が余計小さく見える。ぼくが虐めているみたいだ。
「……いいよ、……もう終わったから……」
「ごめん」
「座ったら? まだ着かないよ」
 電車は一時間に一本あればいい方だ。駅から遊園地まで歩いて十五分、坂道が続くことを考えれば、荷物が多い家族連れや自家用車を持っている人はまず電車を使わない。だから遊園地の混雑ぶりとは対照的に座席はがら空きだった。
 サカモトさんはぼくから少し離れて座った。
 話をした方がいいのだろうけれど、……疲れた。ぼくは首にあたる夕陽を感じながら目をつぶった。
 土の匂いか陽光の匂いか、光に匂いがあったっけ、妙に心地いい。体が温まる。目を閉じたまま、夢見心地で呟く。
「サカモトさん、火曜日の夜、空いてる? 嫌じゃなかったら、会ってくれない?」
 返事がない。ぼくは続けた。
「明日、絶対会いたくない奴らに会わなきゃいけないんだ。その前に死のうと思ったけど、……できなくなった。約束してくれたら、明日頑張ってみようかって、思える。付き合ってなんて言わない。友達として会ってほしい」
 沈黙が続く。
 散々素っ気なくしてきたから無理ないか。嫌いな虫にも優しいサカモトさんだからもしかしたらと、甘えてしまった。
 ぼくは目を開け、座り直した。
「やっぱり、いいや。忘れて」
「わたし、わたし、待ってる。だから帰ってきて。ちゃんと、待ってるから」
 聞き間違い、と思った。死に損ねた自分が都合よく作りだした幻聴かと。
 サカモトさんは膝に置いた両手を握りしめ、深くうつむいていた。髪の隙間から覗く耳が赤く染まっているのは、夕陽のせいか。
「火曜日の夜、会おう。だから、帰ってきて」
 サカモトさんはうつむいたまま、けれど、はっきりと言った。
「……あり、がとう」
 ぼくはぽつりと礼を言った。
 ……美しいものが好きだった。見せかけじゃなく、純粋なもの、一途なもの、誠実なものを求めた。
 ただ一人、ぼくを理解し、受け入れ、そばにいてくれる。絶対に裏切ったりしない。男でも女でもいい、そんな人が一人いれば、ぼくは救われる。そう信じていた。
 ぼくにとって彼女がそうなのか。
 ぼくは手を伸ばし、彼女の手に触れた。一瞬、彼女は身を固くしたけれど、ふりほどかなかった。手を重ね、強引につなぐ。
 初めて触れる手の柔らかさにたじろぎ、無理やり繋いだ後ろめたさに力を緩める。けれど手は離さなかった。離せなかった。
 それからずっと、お互い黙っていた。
 車内が薄暗くなり、長い二つの影が消えていく。
 ぼくは目を閉じ、手の温もりに全神経を傾けた。

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