第1話

文字数 33,608文字

 腕をつかむ手の温もりを覚えている。
 あれは五歳くらいの時だったか。二階の寝室で寝ていたぼくは瞼の裏に光を感じ、目を開けた。眩しさでうまく開かない目を手で庇い、隣の布団を見る。眠っているはずの女がおらず、目元を手でかざしたまま視線を動かす。
 女は赤いコートを羽織り、衣装ケースから衣類を取り出し鞄に詰めていた。ぼくと目が合っても無言で服や化粧品を詰める女の普段とは違う雰囲気に、何をしているの、どこに行くのとは聞けず、女の赤いコートのボタンを頭の中で数え、短いスカートの裾を目でなぞった。
 女は立ち上がり、赤いロングコートと短いタイトスカートには不釣合いなほど大きなバッグを肩にかけ、布団を踏んでぼくの前を横切る。扉に手をかけそのまま出て行くかと思われた女はしかし、振り返り、言った。
 あんたもくる?
 ぼくは頷き、眠りから覚めきらない体を無理やり起こした。もたつく手で青のジャンパーのファスナーをしめ、はやくしないと置いていくよ、とすごむ女について行った。いびきが聞こえる一階寝室の前を女は「行ってきます」とも言わず足早に通り過ぎ、手早く膝下まであるブーツを履く。扉にかかったチェーンを外す細い手が震えていた。
 冷たい外気が顔や首を切りつけ、ぼくはジャンパーのファスナーを限界まで上げ身震いした。月明かりのない夜、街灯を頼りに舗装されていない道を急いだ。砂利道だったのか、足の裏にごつごつした堅い物が当たりよろけるぼくを、女は前を向いたままぼくが倒れる以上の力で手首を引っ張り、駆け足のような速さで歩く。ぼくも黙って、引きずられるようにして女について行った。
 あの時、女はぼくがいると知っていたのか、自分がつかんでいるものが息子の腕だと気づいていたのか、今思えば疑わしい。けれど、暗闇をひた歩く女の姿がぼくをがんじがらめにする、――ぼくが犯した罪の結果だから。
 父親の顔は覚えていない。家中に響く怒鳴り声、固く握った拳、血管が浮き出た赤い首筋は目に焼きついている。うずくまり、すすり泣く女の声も耳について離れない。顔を覆った手の隙間から血が流れていた。ぼくは蹴り倒され殴られる女をかばいもせず、ただ見ていた。怖かった、なんてのは言い訳にならない、ぼくは臆病者だ。
 女とぼくはファミリーレストランに入り、店内一番奥のボックス席に座った。女はコーヒーとオレンジジュースを頼み、ソファにもたれしきりにどこかへ電話をかけていた。ぼくはオレンジジュースには手をつけず、横になった。
 はやくおきな。
 乱暴に揺り起こされ目を開けると険しい顔つきの女の後ろに知らない女性が立っていた。白髪が目立つ短めの髪を軽くまとめ、小豆色の上着を着た女性は膝を折り、柔らかな口調でぼくに話しかける。
 起こしてごめんね。今からおばさん家に行こうか。
 笑うと目尻のシワが強調され、優しそうに見えた。
 ぼくと女はおばさんが運転する車に乗り、麓にある一軒家に辿り着いた。白い塀の上を椿が咲き乱れ、中の様子は全然見えず、表札の漢字も子どものぼくには難しくて読めなかった。柔和な笑顔で案内してくれるおばさんにつき従い、ぼくは女とともに門扉をくぐった。
 通された広間は大きな仏壇が祀られ、二つ繋げた大きなテーブルにおにぎりや卵焼きが載った大皿が四枚並べられ、女性や子供が窮屈そうに食卓を取り囲み一斉にぼくを見る。無表情に、糸が切れた操り人形のように首を前に倒す女性たちに立ちすくんだ。挨拶をしてくれていたんだと分かったのは何年も経ってからだった。
 ちょうど朝ご飯の時間だから一緒に食べましょう。
 おばさんに座布団を勧められ、女性たちが空けてくれたスペースにぼくは仕方なく座った。お腹は空いていたけれど、隣の女性の腕や腰が当たって落ち着かず、終始俯いていた。
 おばさんは一階の和室をぼくと女にくれた。窓のない、布団を二枚引けばいっぱいになるような狭い部屋だったけれど疲れ切っていたぼくは横になった途端、おばさんが昼食に起こしに来るまで、ぐっすり眠った。
 ぼくたちの他に五組の家族が部屋をあてがわれ暮らしていた。容姿や服装、年齢もまちまちで、子ども連れもいれば一人の人もおり、どの人もおばさんと血が繋がっているふうには見えず、他にも不思議だったのは男の人は一人もおらず、女の人と赤ちゃんや子どもばかりだった。
 女たちは俯きがちで口数が少なく、子ども達もお母さんの傍から離れず、表情も乏しかった。とても大人数が住んでいる家とは思えないほど静かで、常に重苦しい空気が漂っていた。
 子どもだけで外に行かないようにね。
 おばさんと女が話をしている間、ぼくは縁側に座り、池に浮かぶ蓮の葉を数え、花ごと落ちる椿を観察した。
 家の間取りを覚えて間もなく次の住居へ引っ越したから、滞在したのはほんの短い期間だったと思う。
 アパートを借り、二人で暮らし始めても、女は一日中酒を飲みテーブルに伏していた。何日も着替えず、風呂に入らず、体から異臭を放ち、幼かったぼくは女が生きたまま腐っているのではないかと気が気じゃなかった。脂ぎった髪は海苔のように頭皮にはりつき、女が触れた窓やドアノブは皮脂や汚れで白い手形が付いた。時折酒が入った瓶を片手に家中をふらふらと歩き回り、立ち止まっては酒をあおる。ぼくは椅子の上で膝を抱え、空腹に耐えていた。
 床には菓子パンの袋やカップ麺の容器が散乱し、流しはコップやお椀が食べ残した状態で蛇口に届くほど積み上げられ、溜まった水は茶色く濁り、そこから異様な臭いが部屋中に立ち込めていた。足の踏み場がないほど散らかったごみの下からカサカサと音がする。臭いと残飯にひかれゴキブリでも寄ってきているんだろう。
 テーブルに無造作に置かれた財布をポケットに突っ込み近所のスーパーでパンを二つとビールを買う、それがぼくの仕事だった。ぼくは家中のごみをビニール袋に突っ込み、閉め切った窓を開け放した。アパートの前を通る人がこちらを見上げ、足早に通り過ぎる。スーパーで買い物をしていてもすれ違う人が振り向き眉をひそめるからきっとぼくの体からも異臭がしていたんだろう。
 近隣住民が通報でもしたのか、民生委員を名乗るおばさんに説得され、女は通院し薬をもらうようになった。
 風呂に入り、着替えをし、汚れた衣服を洗濯し、ベランダに干す。酒瓶の代わりに携帯をいじり、雑誌をめくる。食事は相変わらずカップ麺や菓子パンが多かったけれど食べ終えたカップは水洗いし、ごみ袋に捨てるようになった。
 脂ぎっていた髪は一本一本毛先に至るまで光沢を帯び、くすんで強く臭っていた肢体は白く輝き花の匂いに変わった。そしてなにより、女に表情が戻った。しかし、シミも皺もない整った顔には刃物で切られたという白い傷が額に残り、腕や太股にもタバコを押しつけられた痕が白い斑点となって浮いていた。
 女は鏡の前に立つ度に怒り狂った。
 お前の父親が私にどんなことをしたか知っているかっ。
 傷跡をつきつけられ呪いのように聞かされる度に逃げた罪の深さに怯え、泣いた。
 ごめん。ごめんなさい。これからはぼくが守るから、ぜったい守るから。
 お前の言うことなんか信用できるかっ。また逃げるに決まってる。卑怯者がっ。
 髪をつかまれ振り回されても約束した、「お母さんを守るから」と。

 *

 『おかあさんがわたしをころした』

 おかあさんが わたしをころした
 おとうさんが わたしをたべている
 にいさんねえさんおとうといもうとは 
 テーブルのしたで しろいほねをひろって 
 つめたいだいりせきの おはかにうめる

                 ―マザーグースより―

 ぼくの好きな詩だ。
 初めて『マザーグース』を手に取った時は埃まみれで紙も変色し印字も所々かすれていたから、幼児向けの本ということもあり、すぐに棚に戻すつもりだった。一頁、二頁とめくるうちにこの本が醸し出す匂いにひきつけられた。嗅覚で感じる物体としての匂いではなく、雰囲気というか、一種のオーラのようなものだ。他愛ない言葉遊びみたいな詩やブラックジョークのような詩もあるけれど、小さな子どもに読み聞かせるために集められた伝承童謡とは思えない、心の奥に響く何かがあった。
 一番のお気に入りはこれだ。ぼくはこの詩を声に出して読み、書き写し、暗唱した。学校の売店で色紙とサインペンを買い清書し部屋に飾ったりした。これ以上本が傷まないように文房具屋で道具を揃え、作業に当たる。柔らかいブラシで埃を払い、汚れた表紙は水を浸し、固く絞った布で優しく撫でるように拭き、よく乾かしてからタイトルが見えるように透明のブックカバーをかける。
 栞代わりに折り目をつけた奴はどこのどいつだ。
 幾つもできた折りジワを伸ばし、破れた個所は補修テープを貼り、かすれた印字は濃淡が変わらないようにペンの種類を選び、字体が崩れないよう息を止め慎重に塗り直した。マザーグースを手に取る時は必ず手を洗い、手の甲に滴が残っていないか確かめる。そしていつもこの本を手元に置きちょっとした空き時間や思いついた時に読み耽っている。
 本を開くだけで胸が高鳴り、周囲の煩わしさから逃れ本の世界に吸い込まれる。次の授業が始まっているのに気づかず読み続けてしまい先生に取り上げられた時は、返してくれなかったらどうしようと冷や冷やした。
「気持ち悪い」、「怖い」
 勝手に覗き見てけなすような感想しか言わないクラスメイトにぼくは軽く失望した。
 きもちわるい? こわい?
 そうだろうか。この『わたし』は幸せだ。母親に殺されても、父親に食われても、もしかしたら次は自分が食われるかもしれないのに骨を拾い埋めてくれる兄弟姉妹がいるのだから。
 ぼくにはいない。ぼくは一人だ。

 ぼくが通う公立高校は山林や河川に囲まれた田舎にある。交通の便が悪く、なんせ市と市を結ぶ電車ですら一両編成が一時間に一本通るぐらいという有様だ、車社会なため、通学が困難な生徒用に寮が設けられている。
 十年前まではそれなりに生徒数を確保できていたそうだけれど高速道路に繋がる自動車道が地元まで延伸したのをきっかけに人口流出が進み、それに伴い生徒数も激減したらしく、数年前から隣町との合併がささやかれ始めた。ぼくが通うこの高校も統廃合の対象になり、県から意見を聞かれた校長が寝込んだとか寝込まなかったとかいう話だ。
 校長が壇上で嘆いていた。
「我が高は百十年という伝統があります。全国で活躍している先輩たちは両手では数えきれません。私も偉大な先輩方を間近で仰ぎ見ながら高校時代を過ごしました。我が高の質が落ちているわけではありません。諸君の学問のレベルが低いわけでも決してなく、時代の流れというのでしょうか、入学者数は年々減り続けています。……このままでは我が高の存在意義が薄れ、統廃合の憂き目にあいます」
 乱れた白髪を整えもせず、悲壮感さえ漂わせこうしめくくる。
「諸君一人一人が志を高く持ち、勉学に励み、スポーツに特技に邁進し、一人でも多く社会に出て貢献すれば、それは我が高の誉れとなり、後に続く後輩の励みとなります。そしてそれこそが人が集まる原動力となるのです」
 要するに、我が高が有名になって生徒がたくさん集まるように一人でも多く進学し、社会に出て活躍しなさい、ということだ。
 推薦で入った生徒は優先的に寮に入れる。遠方から来た生徒にとって一人で慣れない下宿生活をするより、学校に隣接し三食付きで同年代の友人と賑やかに住める寮は魅力的らしい。親からしても寮監が二十四時間三百六十五日常駐し費用も格安とくれば安心して学校に通わせられるのだろう。
 そうして夢膨らませ入って来た寮生も細かく決められた規則と管理された生活に嫌気がさし、一年と待たずに出て行く者が後を絶たなかった。おかげでいつも空き室が目立ち、ぼくと同室だった奴も既に四人入れ替わり最後に一緒になった奴は四か月足らずで出て行った。その寮にぼくは三年近くお世話になっている。
 二学期は五日繰り上げで始まり、文化祭と体育祭はさっさと終わった。
「行事や進路指導、研修会等でスケジュールが詰まっています。授業数を確保するための措置です」と始業式の挨拶で教頭が説明していた。
 寮を出て二分も歩けば校門に着く。一、二年の校舎を抜け、中庭を見渡せる渡り廊下を歩き、三年の校舎に入る。階段を上り、二階一番奥がぼくの教室だ。日直が鍵を開けてくれたのだろう、教室は開いていた。自分の席に荷物を下ろし、その足で図書室に向かう。
 早朝の図書室は書架と書架の間から頁をめくる音がかすかに聞こえるくらいで至って静かだ。カウンターにいる図書委員一人が暇そうに欠伸をしている。進学校というわりには図書の数が、特に受験に役立つような資料や参考書が少ないから、調べ物がしたい、希望する大学の過去問が欲しい生徒は市立図書館か、もしくは博物館を併設している県立図書館に行き、学校の図書室は専ら自習室として使われている。ぼくは寮の門限があるから自転車で往復一時間かかる市立図書館や山道が続く県立図書館には土日ぐらいしか行かない。
 ぼくは児童書のコーナーに向かった。借りている『マザーグース』を延長するついでに他に目ぼしい本はないか探す。冒険物を一冊、ファンタジー物を一冊借りることにした。時間を潰すには丁度いい。
 カウンターにぼくの愛読書である『マザーグース』と他の二冊を置き、返却・貸出リストに本のタイトルを書こうとしたら図書委員に止められた。
「その本、もう借りられませんよ」
 図書委員が指さした本は『マザーグース』だった。ぼくは鉛筆を持つ手を止め、図書委員を見た。図書委員は返却・貸出リストをぱらぱらとめくり、ぼくの名前がある個所をペンでチェックしていく。
「この本、もう五カ月以上借りているでしょう。同じ人が長期間借りると他の人が読めないので同じ本を借りる回数は三回までと、先日の図書委員会で決まったんです。あなたはもう、五、……八、……十二回借りています」
 ぼくは答える代わりに『マザーグース』を脇にどけ、他の二冊だけ貸出欄に記入した。貸出人は、キリヤマモル。
「ブックカバーは返します」
 図書委員は慣れた手つきで『マザーグース』から透明のカバーを外す。無理やりはがされたカバーはシワがより、みすぼらしく見えた。
 図書委員は「……ああ、でも、しばらくしたらまた借りていいと思いますよ」と付け足し、上目遣いで二つに畳んだブックカバーを両手で差し出す。
 ぼくは返事をせず、二冊の本とペラペラになったカバーを手に図書室を出た。

 教室に入るなり、手に持った本を取り上げられた。
 クラスの男子だ。夏休み中も勉強をせずに遊びほうけていたんだろう、泥水を頭からかぶったように肌を焼き、長身なうえ硬そうな黒い髪を八方に跳ねさせているから狭い教室が余計窮屈に感じる。ボタンを二つ外した白いシャツから筋肉が発達した胸が見える。太い首、広い肩、引き締まった腕、焼けた肌、百八十センチをゆうに超える身長……、ぼくとは正反対だ。笑うと頭が弱そうに、実際弱いのかもしれない、ガキっぽく見える。名前は、……イイヅカタカシだったか……。人の名前を覚えるのは苦手だ。
「キーリヤ君、何を借りてきたの?」
 タカシはお姉言葉でぼくをからかう。奪い取った本を前から二番目の席で笑っている女子二人に渡す。一人は知らない、もう一人はユカリと呼ばれている。いつもタカシとユカリはぐるになって、時には四、五人のグループになってぼくをからかう。何が楽しいのか、いい加減慣れてしまった。
「なんだー、マザーグースじゃないじゃん。絶対また借りてくるって思ってたのにぃ」
 ユカリはぶつくさ言いながら隣の女子に本を渡す。
「でも、やっぱりメルヘンチックだよ。「竜珠の森」に、こっちは「アドニスの白い牙」だって」
 名無しの女子が頁をめくりながら吹きだす。唾が飛ぶから止めてほしい。ユカリはつまらなさそうに片肘をついてもう一冊の本を開く。ぼくは本が戻ってくるのを待った。
「なんで、借りてこなかったの?」
 ユカリがしつこく聞く。めんどくさいなと思いながら答えてやる。
「同じ本を借りられるのは三回までって、図書委員会で決まったらしい」
「ふうーん。児童書借りるなんてキリヤしかいないんだから別にいいのにね」
 言い方はひっかかるけれど、いいことを言う。あの融通が利かない図書委員に言ってやってくれ。
「マザーグースを持ち歩くキリヤマモルが見たかったなぁ」
 と言ってからユカリは本を返してくれた。
 自分の机に戻ろうとして、思いだす。そうだった、こういう時は笑うんだっけ。ぼくは口の両端を少し上げ、首を少し傾けた。
「あー、キリヤが照れてるー」
 ユカリが高い声で騒ぐ、他の奴らがどっと笑う。
 場が弾ければもういいだろう。ぼくはユカリが言う、照れたような笑みを浮かべ机に戻った。
 借りてきた本をぱらぱらと開く。ついでに借りた本だから読む気がしない。二冊の本にカバーをかけてみたけれど、どれも合わない。
 新しい、自分だけのマザーグースを買おうか。いや、あのマザーグースが良かったんだ。古ぼけて、歴史さえ感じさせるあのマザーグースが。表紙がきれいな、紙の匂いさえするまっさらな本は、もうぼくが欲しいマザーグースじゃない。手触りがよくても、指が切れるほど紙が新しくても、それはただの一冊の本でしかない。……カバーの役割は終わってしまった。
 ぼくはカバーのシワを伸ばし、丁寧に小さく折り畳んで、教室の端に置いてあるごみ箱に捨てた。
 女子の笑い声が響く。ユカリたちだ。ユカリは机に腰かけ、日焼けの跡がくっきり残った太股をさらけ出し、タカシを含む男子二人と名無しの女子とで楽しそうに笑っている。ぼくの話じゃない、別の話題に移っている。
 ユカリが肩を震わせる度に茶色のレースで高く結い上げた長い髪が揺れる。タカシも足を大きく広げイスにもたれゲラゲラ笑う。
 男の笑いは薄ら寒い。女の声は虫唾が走る。
 いつか読んだ小説に首を切断された人間の血が天井まで噴き出す描写があった。あれは本当だろうか。
 ユカリの尻尾のような長い髪に指を絡め後ろに引っ張り仰向かせ、剥き出しになった首にナイフを当て、刃先に骨の感触が伝わるほど深く頭の重みで肉が割れるほど長く横一線に引けば、天井まで届くだろうか。壁を濡らし、床を浸すだろうか。いや、焼く方がいいか。汚れた血は浴びたくない。逃げられないように出口を塞ぎ、窓を閉め、ガソリンを撒き、火を放つ。火炎は天を衝き、一面を火の海に変えるだろう。魂を裂く絶叫も天地を覆う業火の前では無意味だ。腐臭を放つ人間どもを呑みこみ、血の一滴までも嘗め尽くす。
 ぼくは焼けた空から降る火の礫を全身に受けながら、全ての人間が黒い塊から白い結晶へ変わっていくのを見届けよう。髪が溶け、皮膚が焦げ、熱風が鼻腔を突き破り、歯を弾き飛ばし、体内を焼き尽くそうと、融けた血肉が大地に流れ骨が蒸発するその瞬間まで一瞬たりとも目を離さず、奴らが滅びるのを見届ける、――そしてこの世は浄化される。
「おい、席に着け。チャイム鳴ったぞ」
 イスを引く音で騒がしくなる。
 ふっと息を漏らす。ただの空想だ。ナイフはないし、ガソリンもない。ユカリや級友たちに恨みもない。鬱陶しいとは思うけれど。妄想に浸り息苦しさや鬱憤を紛らわせているだけだ。
 甘い余韻に細く長い息を吐き、借りてきた本を鞄にしまった。

 掃除は嫌いじゃない。無心になれるし、散らかった部屋が塵一つなくなったら、汚れた窓が無色透明に光ったら気分がいい。多分、一日が掃除で終わっても苦にならない。
 ぼくのグループは廊下だ。
 ロッカーと壁のすき間に溜まった砂をほうきで掻き出していたら「窓拭き代わって」と女子に言われた。まだ奥の方に溜まっている砂が心残りだったものの、ほうきと雑巾を交換する。
 窓拭きの仕上げは男子がするという取り決めがある。女子では手が届かない場所も男子なら届くし、まあ男子より背が高い女子もいるしぼくみたいに背の低い男子もいるから一概には言えないけれど、それより高い場所はロッカーに上って拭けばいい。女子はスカートだからロッカーに上がらせると下着が見えていろいろ問題がある。
 ぼくは雑巾片手にロッカーに上り、手を伸ばし、背伸びをし、窓を拭いた。下の大きな窓はなんとか隅まで拭けたけれど、上の小さな窓は白く汚れたままだ。窓枠に腕をかけ、爪先立ちで手をめいっぱい伸ばしても届かない。
「危ないよ、キリヤ」「それくらいにしときなよ」
 女子が二人、口々に言う。なれなれしい。同じクラスというだけで呼び捨てだ。
 窓を拭く手を止め、中庭に目を遣る。花は枯れ、土は乾き白くひび割れ、風が吹く度に砂埃が立つ。窓が白いのはそのせいだ。ベランダ側の窓も三年校舎の向かいは校庭だから念入りに磨いても翌日には白くなる。
 そういや来週清掃活動だな。準備する物あったかな?
「明日になったらまた汚れているんだし、そんなにきれいに拭かなくていいよ」
 ……と言われても、下の窓はきれいなのに上の窓が白いとやっぱり気になる。窓枠に乗り、爪先立ちで腰を入れ背中を伸ばし、手も伸ばす。指先でつまんだ雑巾に手応えを感じ、確認したら濃い茶色の筋がついていた。ちょっと、嬉しい。もう一度トライしようと見上げたら小さな埃が目に入った。下を向き、目の端を指で押さえる。
「キリヤ、大丈夫?」
「目、洗って来たら?」
 ぼくのことはいいからあっちに行ってくれ、と言いたい。
「そこ、話を止めてしっかり掃け」
 担任のヤマサキだ。
「違いますよー。キリヤ君が目にゴミが入ったみたいなんで心配してたんです」
「そうですよ、さぼってません」
「あー、分かった分かった。いいから、階段にもゴミが落ちているぞ。しっかり掃いとけ」
「はーい」
 女子二人は声を揃えて返事をし、ほうきとちり取りを手に向こうの階段へ行った。
 さっきぼくが集めた砂が床に残っている、掃き取ってほしかった。
 担任のヤマサキが声量を落とし、ロッカーの上に立っているぼくに言う。
「キリヤ、放課後、職員室に来てくれ。話がある」
「はい」
 ヤマサキの身長なら上まで手が届きそうだ。窓拭き代わってもらえませんか、なんて頼んだら……怒られるな。ヤマサキのつむじにフケがたまっていた。
「ヤマサキ先生ってさあ、若くって背が高くって顔もまあまあなんだけど、お風呂一週間に二回しか入らないんだよー」
「えー、そんなに入ってるかなあ。もっと少ないんじゃない? 髪臭ってたよ」
「シャツの襟も真っ黒だったよ。洗濯もしてないんじゃない?」
「ええー、不潔ー。だから彼女いないんだー」
 と女子が話していた。
 人のことでよくそんなに盛り上がれるな、と驚いたから覚えている。……確かに、ヤマサキは窓拭きより風呂に入った方がいい。
 ヤマサキは「後でな」と言い残し、周りの生徒を監視しながら去って行った。ぼくはロッカーを下り上靴を履いた。
「なに? なんかしたの? 珍しいじゃん。優等生のキリヤが呼び出し受けるなんて」
 ユカリだ。
「実力テスト、悪かったん? それともなにかやらかした?」
 少しは、黙れ。高い声でわめかれると張りとばしたくなる。
「成績優秀なキリヤマモル君がそんなはずないって。ユカリとは違うんだからよ、なあ」とタカシが横から割り込む。
「あんたの方が成績悪いじゃん」とユカリがほうきを振り上げ、「キャア」と叫んで逃げ出すタカシを追いかける。
 あほくさ。
 ぼくはロッカーの上を拭き、砂を掃き取ってから、教室に戻った。

 掃除を終えた生徒が思い思いの場所で歓談している。ぼくは後ろから二列目真ん中の自分の席に着き、五時間目の授業に使う教科書とノートを端と端をぴったり重ね机の左端に置いた。
 教室内を見回す。
 何人かで固まり、教壇の横、黒板の端、ベランダ出入口、後ろの掲示板……、あちらこちらでボリュームも気にせず話に夢中になっている。毎日毎日よくそんなに話すことがあるな。明日になれば忘れるようなどうでもいい内容を人の迷惑も考えず狭い教室でしゃべり続ける奴らの気が知れない。
 学校は制服だ。二学期が始まったばかりの今は全員夏服で、男子は白のワイシャツに紺のネクタイと紺のズボン、女子は白のブラウスに紺のリボンと紺のプリーツスカートだ。体育の時間は男女とも白の半袖に男子が紺の短パン、女子がエンジ色のハーフパンツでゼッケンはなく、左胸に苗字を小さく刺繍してあるくらいだから名前を知る機会はほとんどない。男子なら何人か分かるけれど、毎日ちょっかいをかけてくるタカシは嫌でも覚えた、女子となるとてんで駄目だ。よほど派手な髪型をしているか、髪留めや鞄に付けたストラップとか目印になるような物を付けていないと誰が誰だか分からない。ぼくには皆、同じに見えた。ユカリは別だ、どこにいても目に付く。あいつの騒がしさは並じゃない。
 一年間同じ教室にいるだけの付き合いだから名前なんか気にしない。勉強をし、休み時間は本を読み、時間になれば帰る、それだけのことと思っていたのにどうでもいいことで話しかけてくる。
 さっきのユカリがそうだ。
 ぼくが図書室で何を借りようが担任に呼び出されようがお前には関係ないだろ。他の奴らもユカリとタカシに触発されてか、気安く話しかけてくる。名前も知らない奴らに話をふられても呼びようがないから短い返事で調子を合わせるしかない。休み時間に本を読むのは、本を読んでいるんだから話しかけないでくれ、と彼らを牽制するためでもある。
 窓の外を見ていたら高い確率でタカシとユカリがからかう。
「キリヤくーん、またメルヘンの世界に入っちゃってるの~?」
「止めなよ、タカシ。冗談に聞こえないー」
 といったふうに。周りの奴らも調子に乗って騒ぐ。
 ぼくの立ち位置は『いじられキャラ』らしい。
 殴る蹴るのいじめはない、物を隠されるような嫌がらせもない、そうかといってほっとかれるわけでもない中途半端な位置だ。無視してくれればいいのに。他人に構われるとひどく疲れる。
 まあ、話のネタにされても次の瞬間には別の話題に移っている。ぼくは彼らが飽きるまで『いじられキャラ』のキリヤマモルを演じればいい。
 ぼくが周りの空気に合わせるようになったのは小学校時代の出来事がきっかけだ。
 家の事情で中途入学したぼくはそれまで同年齢の子どもと遊んだことがなかった。いつも団子になってふざける男子たちが物珍しく遠目に眺めていた。誘われれば仕方なく付き合うけれど特別あの集団の中に入りたいとは思わなかった。叩いたり蹴ったりしてふざけ合い、時々喧嘩をしては先生に怒られる。毎日同じことを繰り返すクラスメイトが不可解で、見つかれば強制的に参加させられるから彼らの目に留まらないようにいつもトイレやベランダに隠れていた。
 ぼくは勉強も遅れていて、クラスメイトが九九を斉唱する傍らで引き算と足し算をしていた。
「お前、カタカナも書けないのかよ」
 隣の男子が先生の目を盗んではよくちょっかいを出してきた。ぼくは恥ずかしくて言い返せず、惨めでもあり、両腕でノートを抱え込んでマス目にカタカナを埋めていた。
 勉強する意味も、学校に通う理由も見いだせず、教室にいること自体が苦痛だった。唯一の楽しみは給食だった。初めて給食を目の前にした時は、本当に食べてもいいのか、お金を払わなくてもいいのかと、周りを窺った。いつも菓子パンかカップ麺ですませていたぼくにとって給食はこの上ないご馳走だった。
 簡単な漢字が書けるようになった頃、先生がぼくを図書室に案内してくれた。見たことがないほどたくさんの本が並んでいた。先生は本の種類なんかを簡単に説明してくれ、本の貸し出しや返却の仕方を教えてくれた。手始めに絵本を借り、一冊読み終え、また一冊借りてみた。二度、三度繰り返すうちにぼくは本の魅力に惹き込まれた。
 ぼくの知らない世界が図書室という小さな空間に無限に広がっていた。
 人が乗っても沈まない大きな葉っぱ、子どもの背より大きな花や虫を食べる花、プールより大きなクジラ、一度に一億個以上もの卵を産む魚や貝、周りの景色に合わせ色を変えるカメレオン、アフリカのサバンナを群れで移動する象やヌー、オスからメスへメスからオスへ変わる魚の話、世界は髪や目の色が違う人たちがいて食べ物も服装も言葉も違い、彼らを乗せた六つの大陸は一年間に数センチずつ動いているという。そしてそれらを内包する地球は幾千の銀河系に浮かぶ星の一つでしかないという事実。生命の不思議、地球の神秘、宇宙の広さに圧倒された。
 幻想の世界はぼくを更に惹きつけた。
 天の光は地上をあまねく照らし、空ははるか彼方まで澄み渡り、樹木は茂り、花は咲き乱れ、極彩色の鳥が舞う。黄金の稲穂は頭を垂れ、湖は微笑む。風は滑らかで、祝福された獣たちは畑で採れる肉を食べ、豊富で尽きることがない果物を味わい、白い雲から降る甘い雨で喉を潤し、のんびりと昼寝をする。弱肉強食なんてもっての外、争いなんてない平和な世界。
 竜が空を駈け、天使が歌い、妖精が花畑で戯れる。純朴さだけが取り柄の無力な少年はそんな彼らに愛され、力を授けられ、強くなっていく。そして最後は世界を荒らす魔王や怪物を溢れるパワーで打ち砕き、再び楽園に平和と幸福をもたらすんだ。
 ぼくは本棚の端から順番に一冊ずつといった具合に本を借りた。
 あの時もぼくは本を読んでいた。タイトルは忘れたけれど、内容は主人公の少年が無人島に辿り着き、島を荒らす怪物を手なずけ島を脱出するという冒険物だった。
「その本、面白い? どんな話?」
 クラスの女子が話しかけてきた。
 ゼッケンにイモリとあった。顔は知っているけれど自分から話しかけたことがないぼくにとって名前が分かったからといってその名を口にするのは勇気がいった。なんでこの子はぼくに話しかけるんだろう。それに内容を聞かれてもさっき読み始めたばかりで分からない。だからぼくは黙っていた。
 その子もそれ以上話しかけてこなかったから話は終わったのだと思い頁をめくったら、その子がわっと泣き出した。驚くぼくをそのままに、イモリさんは両手で顔を覆い教室の外へ飛び出して行った。
 何が起こったのか。呆気にとられるぼくを教室のみんなが一斉に睨む。
「なんで無視すんだよ。イモリがかわいそうじゃないか」
「そうよ、返事ぐらいしてあげたら?」
「さいってー」
「つめたー」
 口々に責めたてる。ぼくには何のことかさっぱり分からない。
 クラス中のみんなが散々ぼくを罵った後、教室を出て行った。
 次の日から、イスを蹴られたり、机に落書きをされたり、ランドセルをごみ箱に捨てられたり、嫌がらせを受けた。
 イスを蹴られても我慢した。机の落書きは消しゴムで消せば消えた。ランドセルもごみ箱から取り出せば終わりだ。一番困ったのは「なんで無視したのよ」、「謝りなさいよ」と五、六人の女子に囲まれた時だ。ちょうどその時、担任の先生が教室に入ってきて事なきを得た。その後もしばらく風当たりはきつかった。
 どんなに考えても分からない。
 どうしてあの子は泣いたのか。あの子が泣いて、どうしてクラスのみんなが怒るのか。ぼくには算数の問題より難しかった。
 友情、人間、協調、団結……、国語辞典で関係ありそうな言葉を片っ端から調べた。本屋で難解な哲学書を立ち読みした。
 考え抜いて出した結論、『笑顔』。
 人間が持つ最大の武器と本に書いてある。笑顔で戦争を回避できたという話があるそうだ。笑うのは思ったより簡単だった。口の両端をあげ、目を少し細めればいい。それで笑った顔になる。そしてどんなつまらない質問でも、答えに困るような質問でも、何か返事をする。黙っているのが一番よくない。返事をした後、相手が満足しているようならひとまず安心だ。
 『笑顔』、『返事』、『観察』。
 ぼくはこの三つを紙に書いて家の壁に貼った。
 学年が上がりクラスの雰囲気が落ち着いても、ぼくは相変わらずクラスメイトと打ち解けたいとは思わなかったし、彼らに関わる必要性も感じていなかった。
 あの頃のぼくはまだ人が嫌いではなかった。不可解な存在ではあるけれどどうにか理解しようとぼくなりに努力していた。
 ぼくは暇さえあれば伝記物、歴史物、偉人伝、童話、詩集、文学……、いろんな種類の本を読んだ。中学に上がり高校生になってもそれは変わらない。そのうち人間の感情がどういうふうに動き、何を考えるのか分かってきた。どう行動すれば問題にならないのかも。他人との接し方、人間が持つ喜怒哀楽は全て本で学んだ気がする、――憎しみ以外は。

「キリヤ、来たか。隣の部屋で話をしよう」
 放課後、鞄を肩にかけ職員室に入ったぼくを、ヤマサキは立ち上がり職員室の外へ出るよう促す。
 込み入った話なのか。書き物をしていた先生が二、三人ぼくと目が合い、慌てた様子で書類に目を戻す。
 先を歩くヤマサキに続き隣の部屋へ入る。ヤマサキは左右の壁際に二台ずつ置かれたコピー機の真ん中を抜け右奥にある扉を開け、ぼくが入るのを待つ。
 なんの、話だろう。さすがに少し不安になる。ユカリの言葉じゃないけど悪いことをした覚えはない。妄想がばれた、はずはない。試験も、上がりもしなければ下がりもしない、いつも通りの成績だった。まさか、マザーグースを返してくれる、なんてことはないだろうし。あれは図書室の本でぼくのじゃない。でも、古すぎるからぼくにくれるとか。皆の前では不公平になるから誰もいない所でそっと渡すつもり、とか……。自分でも呆れるほど都合のいい展開を思いつく。
 スチール製の机を挟み右側と左側にイスがいくつか置かれ、ぼくは入口に一番近い左側のイスに腰かけた。上座はどっちで下座はどっちだっけ。採用試験までに覚えとかないと。
 印刷物を綴じるための部屋らしく、窓がない狭い部屋に似つかわしくないほど大きなシュレッダーが二台居座っている。はじめからこの部屋で話すと決めていたようだ、冷房が効いていた。
 ヤマサキは真向いの席に着いても話し始めず、体を斜め横にずらし、無精ひげが残る顎を手で撫でる。よほど気になるのか、顎の下を何度もさする。顎を触る指をとめ、思い立ったように向き直る。
「キリヤ、話なんだが……、あのな……」
 ヤマサキは動きを止め、大きなため息をつく。よっぽど、言いにくい話らしい。
「そういえばお前、進学しないのか? 成績いいのにもったいないんじゃないか。進学しない生徒も毎年いるが、そいつらは成績が悪かったり勉強する気がなかったり、それなりの理由がある。お前は成績いいし、いつも本読んでるよな? 勉強だって好きなんだろ?」
 ……やっぱり、マザーグースの話じゃなかった。がっかりだ。なら何の話ですか。進学? 本を読むからって勉強が好きだって決めつけないで下さい。
「ご両親はなんて言っているんだ。四月の三者面談、来なかったな」
 棘が刺さる。……どうして、あいつらが出てくるんだ。尖端が心臓を真上から突き、ゆっくりと回転しながら深く入っていく。
 痛みとむかつきにぼくは表情を作るのを止め、顔を傾け、忌まわしい言葉を吐いたヤマサキの口元に目を据えた。
 どいつもこいつも人を不快にさせるのが上手い。
「……進路指導の先生に、希望する会社を伝えてあります。推薦してくれると言ってくれました」
「……すまん。進路の話じゃないんだ。いや、それはまたゆっくり話をするとして……」
 ヤマサキは首をバリバリ掻いてから言った。
「……実はな、寮費が三ヶ月間、支払われていないんだ。携帯に電話をしても繋がらなくてな。それで、詳しい事情が知りたいと思ってキリヤを呼んだんだ……」
 何年も帰っていないのに知るか。死んでいるんじゃないか? それとも夜逃げか。
「寮費は奨学金から引き落とされているはずです」
「それがこの三ヶ月、引き落としができなくなっているんだ。学校側も困っていてな」
 通帳は、学費は払うと言うから置いてきたあの通帳はどうした。働きもせず毎日遊び暮らすのが趣味のような奴らだ。くすねたか。変わらないな。
「ぼくが払います」
「……キリヤ、そんなに金を持っているのか? 寮費が安いといったって三ヶ月分だぞ? 小遣いにしても多すぎるんじゃないか?」
「バイトで稼いだお金です。後ろ暗いことはしていません」
 ヤマサキの目の色が変わる。上体を低くし顔を近づける。湿った熱気がさし、ほのかに汗臭い。鼻の横に赤黒いニキビができている。膿んでいるんじゃないですか、病院に行った方がいいですよ。
「お前、バイトしているのか? 受験生はバイト禁止だ」
「夏休み期間中にほんの少しバイトをしていただけです。それにぼくは受験生じゃありません」
「受験生でなくても三年生は全員アルバイト禁止だ」
 ヤマサキが唾を飛ばし強調する。
「もうしません」
 ぼくも苛立ちを隠さず言い返す。
 ヤマサキは上体を起こし、苦みきった顔で咳払いをする。
「もう二学期、始まっているんだ。バイトは止めておけよ。生徒は勉強に専念するものだ。……立て替えるどうこうはまず親御さんと話してからだ」
「……寮を、出て行かないといけないんですか?」
「生徒を追い出すなんてそれはない。ただ、具合が悪いのは分かってくれるな? 学校も赤字経営でな。寮を維持するにも経費がかかるんだ。一人でも寮費を支払えない生徒がいるのはまずい」
 しきりに汗をかいているのは暑いからか、それとも焦っているのか。水色と黄色のラインが交互に入ったネクタイに茶色い染みがついている。ヤマサキはいつもカップ麺を食べていた。独身丸出しだと、女子たちが話のネタにしていた。
 焼きそばでも食べたか。
「それで、キリヤの方からもご両親に頼んでほしいんだ。できれば今日、明日にでも……」
 染みが濃くなった、気がした。
「……わかりました」

 歩く度に床がへこむ。足を浮かしてもへこんだままだから歩きにくいったらない。傷んでいるのか、こんな床だったか。
 階段がかすんでよく見えず、滑り止めがキャラメルを引き伸ばしたようにしなう。危ないなぁ。踏み外さないように滑り止めと滑り止めの間に一段一段慎重に足を下ろす。玄関で靴を履き、足を一歩踏み出し、よろける。地面に小さな山がいくつも生え、踏んづけた小山は潰れ、窪んでいた。かすかに揺れを感じる。重心を安定させようと両足の五指に力を込め、膝を突っ張り、太股の上に上体を乗せる感じで腰を据えてみたが、揺れは酷くなる一方だ。仕方なく、転ばないように足元を見て歩いた。
 首筋が熱くなり、地面に影が出現する。
 いくつもの笑い声が空気の振動とともに鼓膜に触れる。近いと思ったら遠のき、反響し、くぐもる。耳元で囁き、背後で笑い、首筋で揶揄するのは誰か。確かめようとは思わなかった。ぼくは足元を見て歩いた。
 アレェ、キリヤ、マダイタノ? マモル、マダイタノ? ヤマサキノハナシハナンダッタノ、シンガク? アノヒトニイワレテイルデショ、ソトニイナサイ。マサカシュウショクハナイヨネ? キリヤッテアタマイインデショ? アンタ、コウコウニイクツモリ? オカネガカカルデショ、ヤメトキナサイ。
 ……うるさい……。
 ナニダマッテンノ? ナンデダマッテルノ、ハッキリイイナサイ。
 ……黙れ……。口にナイフを突っ込んでしゃべれないようにしてやろうか。
 視界がかすみ、耳鳴りがする。ぼやける意識のまま通り過ぎた。

 公園のベンチに座り、今日借りた本を開く。いくら頁をめくっても、読めない。日本語でも英語でもない、どこか遠い国の言語で書かれているようだ。もう一冊の本を手に取る。ぱらぱらと頁をめくり、指で字を押さえる。これも読めない、分からない、なにが書いてあるのか。手が、震えている。白くなり、指先がピリピリ痛む。そういえばやたらと冷える。かじかむ手を片方の手で擦り、強く揉み、強張った指の関節を曲げてみる。死人の手を握っているようで、どれだけさすっても一向に温まらず、感覚が鈍い。手の甲に爪を立て、ゴムのような皮膚に爪をめりこませ引っ掻く。激痛が頭の芯を刺し腕がひきつり胸苦しくなっても息を止め、歯を食いしばり、皮膚を掻き壊す。三本の線が赤く滲み、手を止めた。
 寒い。鳥肌が立ち吐き気もするのに、額に汗が浮く。苦しい。大きく息を吸い込み、吐き出してみる。吸い込んだ空気は喉を通らず、口腔内に留まりもせず、歯の隙間から漏れていく。胸を、肋骨の間に指が入るくらい強く押さえ、息をする。鼓動が強く胸を打ち、吐き気と眩暈が増すにつれ、景色が黒く変わっていく。腕が重く、肩が落ち、体を折る。背中に何かがのしかかっているようだった、重い。脚が、膝が小刻みに揺れる。振動が太股と胸に挟まった両腕に伝わり、肩を通り、頭に響く。
 気持ち悪い、吐きそうだ。
 汗が滴る。浅い呼吸を繰り返し、……瞼が、重い、目を閉じた。

 いつの間にか眠っていた。辺りは既に薄暗く、気温も下がり、肌寒いくらいだ。息を吸ってみる。ひっかかりもなくすっと冷たい空気が喉を通る。もう一度吸ってみる、大丈夫だ、息ができる。胸を反らし深呼吸を繰り返す。足を踏みしめ靴底から伝わる土の感触を確かめる、ざらざらとくすぐったい。手を開閉し自由に動くか確認する、これもすんなりいく。腕は上がるし、背中に感じた重みもない。膝も伸びる。体は軽く、悪寒も消えている。
 肩をほぐし、ズボンやシャツに付いた砂を払い、ベンチにもたれる。肩甲骨に堅い木の感触を感じ、感覚が戻っている証拠だ、安堵する。引っ掻き傷がずきずきと痛み、発作の名残のようで不快だった。
 腕時計を見る。
 十八時二十四分。寮の門限は十八時三十分だ。部活や特段の理由がある場合は届け出を出していれば二十時まで延長が認められる。これといった事情はない、届け出を出していないぼくは十八時三十分までに帰らないと原稿用紙一枚分の反省文を書かされる。
 今走れば間に合う。……けど、動く気力がない。
 西の空が赤紫色に染まり、鳥の大群が雑木林の向こうへ消えていく。朧だった月が天高く昇り白く輝くまで、ぼくはベンチに座り見ていた。園内は闇に包まれ、公園出入り口に立つ街灯に小さな虫が引き寄せられ、弾き飛び、群がる。ぼくは脇に置いた二冊の本をのろのろと鞄にしまい、足を引きずるように寮へ向かった。

 寮の門はまだ開いていた。正面玄関の大きなガラス扉を開け下足箱でスリッパに履き替えていたら、寮監室から寮監が出てきた。寮監室は正面玄関すぐ左にあり全面ガラス張りだから人が出入りすればすぐ分かる。
「遅かったわね。心配したわよ」
 門限を大幅に過ぎ帰ってきたぼくを寮監は怒らなかった。反省文を書けとも言わなかった。代わりに、
「家に電話をするなら寮監室の電話を使っていいわよ」と言った。
 今日ぼくがヤマサキに呼び出され、寮費が支払われていないから親に連絡するようにと言われたことを知っているんだ。ぼくは返事をしなかった。
 玄関を上がり、食堂がある中央棟へ行く。寮は東棟、中央棟、西棟の三つに分かれる。中央棟は食堂やトイレ、洗面所、男女別々の浴室の他、娯楽室があり、東棟は男子専用の相部屋、西棟は女子専用の部屋になっており、どの棟に行くにしても寮監室がある玄関ホールまで戻らないといけない。各棟の北側に一か所ずつある夜間通用口は寮監が鍵を保管し出入りが制限されている。つまり男子寮と女子寮を自由に行き来できないよう常時寮監が見張っているわけだ。
 寮は携帯やスマホ、ゲーム機は持ち込み禁止で、外から帰ってきた寮生は真っ先に寮監室に入り、用意された袋に入れることになっている。
「外部と連絡を取りたい時は男子寮と女子寮の廊下に一台ずつある固定電話を使いなさい。どうしても携帯を使いたい時は寮監に申し出、許可を得てから使いなさい」
 携帯が使えないからと退寮する者やこっそりスマホやゲームを部屋に持ち込む寮生がいるなか、携帯自体を持っていないぼくは寮監から珍しがられた。連絡を取るような友人も家族もいない、金もないぼくには無駄以外の何物でもない。
 寮生が往来する廊下では寮費の話はしにくいだろう、携帯も持っていないならいつでも寮監室の電話を使いなさい、という寮監の配慮だ。
 ありがた迷惑だ。あいつらに電話する気はない。

 夕食を摂り、入浴を済ませても気分は晴れず、消灯までの時間、ぼくは机に向かい教科書とノートを広げた。タイトルから始まり、まえがき、解説、コメントに至るまで、一言一句漏らさず書き写す。
 何かしていないと、していても、あれは来る、よぎる、湧きだす、前触れもなく、唐突に。
 テレビは見ない。うるさいだけのバラエティーはもちろん、お涙ちょうだいのドラマは白々しい。家族だ愛だというドキュメンタリーは最悪だ。漫画は娯楽室に置いてあるものは何度か読んだ。音楽は男性ボーカルならまだましだ、女の歌声は胸を掻きむしり、耳を削ぎ落としたくなる。ゲームなんてしたことがない。
 ぼくにできる抵抗は本を読むか字を書くことだった。物語の世界に逃げ込んでも不意に出てくる言葉に、単語に、文字に、記憶を呼び覚まされる、突き落される。
 書く方がいい。小説でも物語でもない、参考書や教科書に書かれた字をそのまま、白いノートのラインに沿って左端から右端まで間を空けず文字の羅列として書き写す。何も考えず思わず、ただ一心に、疲れて意識が遠のくまで書き続ける。
 字で埋め尽くされたノートは読み返しても要領を得ず、部屋の片隅に積んだ。
 教科書の文字を指で押さえ書き写す。二行、三行書き、字を間違えた。消しゴムで消し、書き直す。四文字書いて、また間違えた。紙がくしゃくしゃになるほど強く消しゴムを押しつけたら、二つに割れた。でこぼこになった断面を親指の爪で平らになるよう削ぎ落とし、ボロボロと落ちる白い欠片がいつか絵本で読んだ地獄に堕ちる罪人のようで小気味よく、自然と笑みがこぼれる。机に散らばる欠片を指で丹念にすり潰す。
 黒いモノがよぎる。慌てて半分になった消しゴムを持ち直し、しわになったノートを押さえ、字を消す。誰かが見ている。手元に視線を固定させ、気取られぬよう消しゴムを持った手を動かしながら、視界の端に朧げに映るそれに意識を集中する。視界の右上に黒い物がぼんやり映る。更に意識を集中する。いびつに伸びた黒い木目、それを穿つ二つの穴、壁の向こうから滲み出たような茶色い染み、男が叫んでいるようだった。黒い目を開き、茶色い口を歪め、慟哭していた。
 有名な画家の絵を思いだす。
 苦しむなら、苦しめばいい。ここから見ていてやる。苦しみ壊れるさまを、狂い死んでいくさまを。
 一行まとめて消しにかかる。力を入れ過ぎた、紙が破れ、書き連ねた文字が黒く潰れる。せっかく書いた字が……。ぼくの抵抗を笑っている、嘲笑っている。息が荒くなる。一人きりの部屋に呼吸音が反響し、動揺を気取られまいとシャーペンを持ち直し、書き綴る。芯が折れる。芯がないまま字を綴り、不快な音と紙の抵抗で手を止めた。手が震える、歯が鳴る、怒りが噴き上がる。
 シャーペンを握りしめ、ノートに振り下ろした。銀色のペン先が飛ぶ、構わず両手でペンを押さえつけ体を倒しノートに突き立てる。
 ……ろして、おけばよかった。あのとき、殺しておけば。
 手の平にペンがあたり手の甲が胸骨を圧迫しても手は緩めなかった。このまま手を突き破り心臓を貫けばいい。
 忘れようとしているのに、思い出さないようにしているのに、しゃしゃり出てくる。金まで置いて出てきてやったのになんで邪魔するんだ。金ぐらい払え。払わなくていい、現れるな。目の前から消えろ。消え失せろ。
 めった刺しにしてやればよかった。灯油をまいて火をつけ家ごと骨も残らず灰にしてやればよかった。準備はできていた。いつものように何もなければやっていた。あんな話さえ聞かなければやっていたんだ。
 ずっと考えていた。あいつらがいなくなるなら刑務所に十年入っても惜しくない、二十年でも構わない。それで片が付くなら、解放されるなら安いものだと、ずっと思っていた。ずっと、ずっとだ。
 ペンをぎりぎり押しつけ、そのまま覆い被さった。

 *

 眠い。
 ぼくの意思と関係なく上瞼と下瞼がくっつこうとする。座っていても背筋が曲がりすぐに机に寄りかかってしまう。黒板の字を書き写している最中に勝手に目が閉じてしまい、先生に見咎められた。周囲から忍び笑いが聞こえる。気にならない、とにかく眠い。
 あの後、目を開けたら深夜一時を回っていた。変な体勢で寝ていたから首は凝るし、背中は痛い。胸の痛みが特に酷く、服をめくったら痣になっていた。うつ伏せで腕に顔を押しつけていたせいか、目がかすみ、焦点が歪んでいるようで対象物に定まらない。体調は最悪だ。
 休み時間は両腕を枕代わりに仮眠を取ることにした。
「……リヤクン、……キリヤ君、……いいかな……?」
 静かな声だったからすぐには気づかなかった。
「キリヤ君、寝てるの?」
 ……ああ、本当に声がする。瞼を押し開け、頬を腕から引き剥がす。胸の痣が痛んだ。
「ごめん、いいかな? ……キリヤ君、大丈夫? 具合、悪い?」
 誰だっけ? どこかで見たことがある。同じクラスなんだから当たり前か。ぼけた頭をなんとか働かせる。クラスメイトの名前をほとんど知らないぼくでも彼女の名前は知っている。この前の委員会でぼくの隣に座り自己紹介をしていたから。……えーと、……なんだっけ、……えーと、そうだ。
「サカマキさん」
 数瞬、間があった。彼女は困ったように微笑んだ。
「サカモトよ」
 ……間違えた。
「……ごめん……。……なに?」
 サカモトさんはぼくの顔を二度、三度見、首を少し傾ける。
「なに?」用件はさっさと言ってほしい。疲れているんだ。
 ぼくの口調をきつく感じたのか、サカモトさんは表情を硬くした。
 窓から入る風に肩まで伸ばした薄茶色の髪が頬にかかる。日焼けしない体質なのか、それとも日焼けしてもすぐ白くなるのか、白桃のように白く、頬はほんのりと色づき、不思議だ、まつ毛の下から覗く瞳が黄緑色に透けていた。女子の顔をこんな間近で見るのは初めてだ。
「キリヤ君、美化委員でしょう? 来週三日間、学内清掃活動があるから、その打ち合わせをしようと思って……」
 控えめで大人しそうな雰囲気に気を許したのかもしれない。ぼくはサカモトさんの緑がかった薄茶色の目に見入っていた。
 サカモトさんが後ろを指さす。
 掲示板の右端に貼られた一年間の行事予定表の横に誰が描いたのか、小学生でも描けそうな下手な清掃活動啓発ポスターとクラスごとの清掃場所を記した図面、それとうちのクラス担当であるぼくとサカモトさんの苗字が別の用紙にでかい字で貼られていた。
「……なにを、すればいいの?」
「みんなが集めたごみをごみ集積所に持って行くだけ。多分量が多いから台車を用務員さんに借りようと思うんだけど、どうかな?」
 何も考えていなかったから聞かれても困る。
「……サカモトさんに任せるよ」
 サカモトさんはぼくにやる気がないと思ったのか、一段と控えめに言う。
「……私、一人でやろうか? ……具合、悪そうだし……」
 ぼくはムッとした。
「来週だろ? 体調なんかとっくに戻ってるよ。時間決めといてくれたら借りに行くから」
 サカモトさんは聞き取りにくいほど小さな声で「……うん」と言った。
 きつく言いすぎたと反省したけれど、謝る気にはなれなかった。

 学校が終わり門限近くになるまでぼくは近所の公園で時間を潰し、寮の門の前で待ち伏せし帰って行く寮生の集団に紛れ寮監室の前を通り過ぎる。点呼の時は寮監が話しかけてこないように不機嫌そうに顔をしかめ下を向く。廊下ですれ違う奴らがぼくを見て笑っている、食堂で騒いでいる奴らが「あいつ寮費も払っていないのにただ飯食ってやがる」と話しているかと思うとここにいる奴ら全員、寮監もヤマサキもだ、消してやりたかった。
 自室にこもってしまえば、同室の奴はおらずぼくの貸し切り状態だから雑音に悩まされることなく静かに過ごせた。
 このまま、奴らが金を払わなければここにいられなくなる。そうなったらぼくの行き場所は一つしかない。
 壁を見る。見れば見るほどちんけなシミだ。あれを悦ばせるのは癪だけど、……それもいいかもしれない。

 *

 学内清掃活動は掃除時間を三十分延長し、駐輪場や中庭、校舎周辺の溝等、普段あまり手がつけられていない場所を重点的に行う。
 ぼくのクラスは二年校舎と三年校舎に挟まれた中庭と、三年校舎すぐ横にある第二体育館周辺が管轄だ。真面目にやっている生徒は一握りで大抵の奴は石ころをボール代わりにほうきで打っているか、花壇の陰に隠れおしゃべりをしているか、最悪、途中でいなくなる。
 美化委員は清掃活動終了後、皆が持ってきたごみを一つにまとめごみ集積所に運び、終わったら台車を用具室に戻す作業を三日間続ける、簡単な仕事だ。
 植えられていた花は夏休み中ずっと手入れもされずほっとかれたのか、それとも単に寿命が尽きたのか、休み前は黄色や赤い花が咲き乱れていたのに今は八割以上が枯れ、鮮やかに彩られていた庭は見る影もない。中庭の真ん中でひときわ高く天を仰いでいた向日葵も深く頭を垂れ、光り輝いていた花弁は茶色く萎び、黒い種が土の上に散っていた。
 校舎玄関口で配られた軍手をはめ、どこから手をつけようか思案する。ひとまず、ざっと目につく雑草や枯れた花を抜くことにする。腰くらいまで伸びた草はちょっとやそっと引いたくらいではびくともせず、根元をつかみ腰を入れ引き抜く。軍手をしていても手の平が熱を持ちひりひりと痛む。なんとか抜いた長い茎を二重三重にへし折りごみ袋に突っ込む。枯れてしまえばただのごみだ。茶色い向日葵も袋に押し込む。干からびた朝顔の蔓が隣で咲いている朝顔の蔓に絡まり、花に巻きつこうとしているのが目につき、ぼくは元気な方の朝顔が傷つかないよう慎重に外しにかかる。予想外に根気がいる作業で、途中で嫌になり引きちぎりたくなった。時間をかけ解いた後、地面に落ちた蔓や根っこを竹箒で集める。砂埃を吸い込んでしまい、ざらざらした唾を側溝に吐く。
 サカモトさんは体育館入り口にある下足箱を靴やスリッパをどけながら雑巾で一つ一つ拭いている。女子一人がサカモトさんと一緒に入口前にあるすのこをどけ、ほうきで掃き始める。
 サカモトさんは口数が少ない。打ち合わせと台車を借りに行く時に二言、三言、交わしたくらいで、後は別々に行動した。避けられているのかもしれない、きつい言い方をしたから。……まあ、気を遣わなくてすむからいいか。
 九月に入ったとはいえ日差しはきつい。
 容赦ない光がシャツごしに肌を焼き、地面からの照り返しと湿気を含んだ熱気が弱った体を更に痛めつける。
 体調なんかとっくに戻っているよ。
 偉そうに見栄をきったのは誰だっけ。苦笑する。
 ぼくの睡眠時間は長くても三時間、それ以上眠ると悪夢にうなされる。夢は夜ごとに鮮明になり、幻の世界でありながら感覚を伴い、ぼくを苛む。呻き、あがき、目覚めた朝は恐れと怒りでいっぱいだった。頭が冷えちりちりと痛み、壁を殴り、机を蹴っても苛立ちは治まらず、誰でもいい、無性に人を殺したくなった。道往く人間全てが目障りで、店頭に飾ったマスコットさえ挑発的に映り叩き壊してやりたかった。
 もしその時ぼくに敵意を向ける奴がいたら確実に殺している。そいつめがけて胸元に突っ込み馬乗りになって顔面を殴りつけている。鼻が砕け、歯が折れ、口から血が溢れようと手は緩めない。隙を見せたらこっちがやられる。返り血を浴び、拳が砕け、反撃を食らおうと、そいつの頭がぶよぶよの塊になるまで殴り続ける。他の奴らが止めに入っても、刺されても構うな、目の前の敵を確実に殺せ。殺せ殺せ殺せ殺せ、殺し続けろ。
 妄想が止まらず、気が狂いそうだった。
 冷静な一人が囁く。
 もったいない。どうせやるならあいつらだ。あいつらをやれ。同じ罪を犯すなら、標的は赤の他人ではなく、間違いなくあいつらだ。あいつらを殺せ、と。
 ……確かに……。ぼくが殺せる人数を一人か二人までと考えたらどうでもいい人間に手を出すなんて、もったいない。奴らを襲う前に警察に捕まる可能性が高い。そうなったら刑務所を出るまで機会はない。
 ぼくは手元に刃物を置かないようにした。そして眠る前に豆電球を点けた。夢でうなされてもこれは夢だと、目が覚めた時あれは夢だったと、現実と区別できるように。実際、起きた時に豆電球が点いていると頭がすっきりした。日中に訪れる眠気とだるさは変わらないものの、目覚めがいい分、一日を快適に過ごせた。

 日陰に入り、花壇に生えた雑草や地面にこぼれた土を軍手でかき集める。根が切れる感触が心地よく、ぼくは草抜きに没頭した。枯れた花や葉をむしったら赤い極小の虫が慌てた様子で這い出す。
 ……日射しが強い日は苦手だ。隠している本性を炙り出され、全身を業火で焼かれている気になる。地上に引きずり出された腐った根っこか、居場所を失い逃げ惑う葉ダニと同じかもしれない。雨も嫌いだ。低い空から降る雨は下降しがちな気分を更に鬱屈させる。どっちつかずの曇天は怒りすら覚える。
 夜がいい。月の浮かぶ夜が。眩しすぎない、夜を静かに照らす白い月が好きだ。星はいらない、明かりは一つでいい。

 清掃活動が終わり、大きなごみ袋が二つ集まった。ティッシュやお菓子の袋、草、土、石……、いろんな物が透明の大袋に詰め込まれている。
 なんで土や石ころまで入れるんだ。運ぶのが大変じゃないか、と文句を言っても誰が入れたのか分からなければ言いがかりにしか聞こえないだろう。
 袋の中で草の束が動いた。気のせいかと目を凝らす。やっぱり動いている。カマキリだ。葉の裏にでも隠れていたのを草ごと袋に入れられたんだろう、弱々しく鎌を動かしている。細長い鎌が人間の腕に見え、どきりとした。
「終わった、終わった」
「暑かったー。長かったー」
「後、二日もあるの? うんざりー」
 たいして働いてもいないのに不満を垂らし教室に戻って行く。
 カマキリの代わりにあいつらを袋に詰め込んでごみに出したら少しは静かになるかもな。……想像したら、笑ってしまった。
「キリヤ君、ごみ集まった?」
 サカモトさんが女子一人と二人がかりで大きな袋を一つ、小足で運んでくる。
「はぁー、重かったー。ありがとうね、クミ。助かった」
 サカモトさんが持ってきた袋には使い古したスリッパが大量に入っていた。
「先生、これも捨てといてって次々出してくるから……。中庭もだいぶすっきりしたね」
 サカモトさんは中庭を見渡しながら独り言のように言う。
 クミと呼ばれた女子は「明日も手伝うね」と軽く手をふり、ぼくをちらりと見てから、去って行った。さっきサカモトさんと一緒に体育館入口を掃除していた女子だ。仲がいいんだな。
 サカモトさんは首に巻いた白いタオルで顔を拭きつつ「全部で三つね。一度に載るかな?」とぼくに尋ねているふうでもなく、呟く。
 タオルを準備してくるなんてずいぶんはりきってるな。驚き半分感心半分、つい白いタオルに目がいく。
 サカモトさんは「一番重いのを下にした方が崩れにくいと思う」とごみ袋を一つずつ持ち上げる。
「……あ、……カマキリ……」
 気付いたようだ。持ち上げたごみ袋を置き、しゃがんで袋に顔を近づける。
「キリヤ君、虫、触れる?」
「ううん」
 嘘をついた。小学校の夏休みに昆虫採集をしたくらいだ、虫は平気だ。カマキリは虫じゃない。
 サカモトさんはごみ袋の前で座り込んで動かない。なにを思ったか、ごみ袋の結び目を解き始める。開けた袋からこもった熱とともに土とごみが混じった臭いが立つ。
「キリヤ君、軍手貸してくれる?」
 答える代わりに軍手を渡す。
「ありがとう」
 サカモトさんは軍手をはめた手でごみ袋を漁る。突飛な行動に目が離せなくなる。サカモトさんは異臭がするごみを掻き分けながら、もがいているカマキリに手を伸ばす。どうやらカマキリを助けるつもりらしい。手が届きそうになったところでカマキリは底の方へ逃げてしまった。
「あっ、そっちじゃないのに……」
 サカモトさんは手を抜き、残念そうに呟く。白い腕が肘の近くまで土で汚れ葉っぱがはりついている。サカモトさんは気にするふうもなく今度はしゃがんで袋からごみを出し始める。お菓子の袋や鼻をつく牛乳パック、ガムを包んだ紙、パンの袋……、ほとんどのごみを外に出した後、狙いをつけるように袋の中をじっと見つめ、手を左右に動かす。一度動きを止め、素早く底に溜まった土に頭を突っ込んでいる緑色の長い胴体をつかんだ。サカモトさんが喉に張りつくような悲鳴をあげた。カマキリを持つ指がぎこちなく、ゆっくりした動作で腰をあげ、中腰というよりへっぴり腰でそろそろと花壇に近づき、カマキリを花壇に落とす。
 カマキリがのそのそと花の陰に消える。
「ふうぅー」サカモトさんは腰を伸ばしてから、またしゃがんで外に広げたごみを袋に戻し始める。
「……虫、好きなの?」とてもそうは見えなかったけれど。
 サカモトさんは手を休めず答える。
「嫌い、っていうか、怖い。触るのも駄目」
「……じゃあ、なんで助けたの?」
 サカモトさんは振り向き、ぼくを見上げる。
「手伝ってくれると、嬉しい……」
 仕方なく、ぼくは近くに落ちているごみを拾った。
「だって、可哀そうじゃない。助けなきゃごみと一緒に回収されて燃やされるんだよ」
 いいじゃないか、虫が一匹死ぬくらい。痛くもかゆくもない。
「知ってる? カマキリって一冬越せないんだって。春に百六十匹以上生まれても生き残るのはごくわずかで、オスはメスに食べられるのを覚悟で交尾するんだよ」
 その本能むき出しの浅ましさが嫌なんだ。
「メスだって卵を産んだら死んじゃうんだって」
 ぼくはごみを集めながら聞いていた。
「……詳しいんだね。虫が怖いのに……」
 サカモトさんはちょっと照れたように笑った。
「弟が持っている本を読んだだけ……」
 サカモトさんはごみ袋を結び直し、「うんしょっ」と台車に載せた。
「お待たせ。遅くなっちゃったね。行こうか」
 サカモトさんが笑う。白い額に汗が光った。

 ぼくが借りる本は児童文学や伝記物、詩集が多い。異国の姫君が魔法で世界を救う話や冒険物、妖精や天使が出てくる物語、困難を乗り越え偉業を成し遂げた人物の生きざまが描かれた作品を好んだ。裏切りや嫉妬が渦巻く妙に生々しい内容は避けた。汚らわしい者、卑屈な者、醜い者は嫌いだ。一切の汚れを寄せつけない高潔な者、いかなる苦境においても揺るがぬ強い者をぼくは求めた。もちろん、そんな人間がいるわけない。そうなりたいというぼくの願望だ。
 彼女も同じ醜悪な人間の一人、と思うのに、気づけばサカモトさんを見ていた。ぼくが言うのもおかしいけれど、クラスの中で彼女は目立たない方だった。騒がしいユカリやタカシのグループと違い、いつも一人か、もしくは「クミ」と呼んでいた女子とぼくの斜め前にある窓際の席で話している。
 窓から入る陽射しで彼女の髪が淡く輝き、風に揺れ、白い首筋にかかる。桜色の唇で屈託なく笑う彼女にぼくは見とれた。
 なにを話しているんだろう。名前はなんていうんだろう、苗字しか知らない。なにが好きで、どんな本を読むんだろう。本は好きかな。
 話しかける勇気がない、友人もいないぼくに、彼女の名前を知る術はない。

 学内清掃活動は今日で終わりだ。ぼくとサカモトさんはいつものように別々の場所を掃除した。まともに話したのはカマキリの時だけだ。足元にあるごみを集積所に降ろし、二人で台車を校庭の端にある物置に返せばそれっきりだ。名前を聞くチャンスは今日しかない。話しかけるチャンスも。
 手が触れるほどの距離で一緒に台車を押しているのに一言も話さず、ただ土くれが詰まったごみ袋が台車から落ちないように手を添えているぼくは、はっきり言って間抜けだ。結局、台車を返し、校庭の隅で解散するまで一言も話しかけられなかった。
 サカモトさんが首にかけたタオルの両端をつかんで笑う。
「三日間、お疲れさま」
 嬉しそうだ。清々しているようにさえ見える。ぼくと離れられるから……。ぼくは彼女の紺色のリボンに視線を落とし、ぼそりと返す。
「……おつかれ……」
 聞くなら今だ。ぼくの意思に反し口は開くどころか、歯を食いしばるように固く閉じていた。人と話すのは苦手だ。
「私、顔を洗ってから教室に戻る。じゃあね、キリヤ君」
 サカモトさんはくるりと背を向け走って行った、ぼく一人を残して。
 胸が、疼く。虚しさと少しばかりの憎しみを感じながら彼女の背中を見送る。
 誰もいない校庭に風が吹き、砂埃が空へ舞い上がる。
 『ぼくの前に道はない ぼくの後ろに道はできる』、高村光太郎の『道程』だ。
 ……ぼくの周りは真っ黒だ。

 放課後、ぼくはまた担任のヤマサキに呼び出され、コピー室の奥に隠すように設けられた小部屋でヤマサキと向かい合った。
「キリヤ、あれからご両親に連絡したか?」
 ぼくは答えなかった。
「電話、していないんだな?」
 ヤマサキが重ねて聞く。ぼくは黙っていた。
 ヤマサキは考えるように髪の生え際を手で触り、前髪を撫でつける。額に赤いニキビがいくつもできていた。
「……あのな、キリヤ。先生一度、キリヤのご自宅にお伺いして、ご両親と話してみようと思うんだ」
 ぼくはヤマサキを見た、睨みつけていたかもしれない。ヤマサキは机に散らばったフケや髪の毛を指で集めながら言う。
「寮費のこともあるが、やっぱりキリヤは大学に行くべきだと思うんだ。お前、勉強好きだろう?」
 好きじゃない、他にすることがないからだ。
「成績だっていい」
 一日中なにかしらノートに書きつけていたら馬鹿でもよくなる。
「今の時代、やっぱり大学に行っといて損はない。家庭の経済状況が悪いなら奨学金で通う手もある」
 あんたはアホか? 金をあいつらが使い込んでいるから問題になっているんだろ。
「ぼくは働きたいんです。早く自分で稼いで一人前の社会人になりたいんです。四年間だらだら過ごすのは嫌なんです」
「そうは、言ってもなあ。大卒と高卒じゃあ初任給からして違う。高卒が悪いっていうんじゃない。可能性があるのにせっかくのチャンスを潰しているようで、先生もなんだかなあ、惜しい気がするんだ。進路指導の先生も『キリヤ君は大学に行った方がいいんですがねぇ』って残念がっていたぞ」
 あいつは二言目には進学の話しかしなかった。ぼくのことを考えて言っているんじゃない。進学率をあげたいだけだ、手柄を立てて校長に媚を売りたいだけだ。 
 相手の真意を見極めず取り繕った言葉を鵜呑みにしぼくを言いくるめようとするヤマサキに殺意さえ覚える。
「ソトムラ先生も心配していた。お前、ソトムラ先生に高校進学の時に世話になっただろう」
 中学三年の担任だ。一年間しか付き合いがない、それも進学の時少し関わっただけの教師に心配されるいわれはない。
「ソトムラ先生は先生の恩師でもあるんだ。キリヤのこと、くれぐれも気にかけてやってくれって頼まれていてな」
 だったらその老いぼれを連れてこい。殺してやる、今すぐおまえのめのまえで!
 まずい、だめだ。自分でも感情が昂っているのが分かる。考えるな、思うな、冷静になれ。荒くなる呼吸を鳩尾に力を入れて抑え込む。
「キリヤからもご両親に一言、進学したいと伝えればご両親も考えてくれると思うんだ。奨学金が駄目でも夜間大学や通信大学、働きながら勉強する方法はいくらでもある。お前の意志さえはっきりしていればご両親も聞き入れてくれると思うんだ。先生からもお願いするつもりだ。どうだ、俺と一緒に頼んでみないか?」
 ヤマサキの顔は上気し、二重瞼の目がさらに大きくなって潤んでいる。
 ぼくは黙ることにした。一人で熱くなって一人で突っ走っている。なにを言っても通じない。ヤマサキは女子テニス部の顧問だったか。女子テニス部は強いらしい。指導熱心なヤマサキ先生のおかげで十二年ぶりに県大会を制覇し全国大会に出場したそうだ。一回戦で前年度優勝校に勝利し、二回戦で惜しくも敗退したとか。
「選手が疲れていなければ優勝も夢ではなかった」と壇上で校長が興奮していた。
 ぼくは嘲った。勝利にひた走る忠誠心厚い女子テニス部員とぼくを一緒にするなと。
「家庭環境が複雑でも社会に出て立派に活躍している人はごまんといる。先生だって五人兄弟で生活が苦しくて進学は諦めていたのに、ソトムラ先生が勉強を教えてくれてな、奨学金も世話してくれた。おかげでこうやって念願の教師になれた。先生もソトムラ先生と同じように、とまではいかなくても、できるだけのことはお前にしてやりたいと思っている。ご両親と腹を割って話し合ってみたらどうだ? 分かり合えるはずだ、家族なんだから」
 危うく吹きだしかけた。カゾク? 陳腐な言葉だ。欺瞞に満ちている。嘘くさい言葉をしらふで吐けるほど気楽な人生を歩んできたのか。教師という立場上生徒にきれいごとも言わなければ格好がつかないのか。口から迸りそうになる罵声を鳩尾に力を入れ押さえつける。行き場を失った怒りが増幅し、肺胞の一つ一つが弾けるような痛みと息苦しさに拳を握り、耐えた。
 ぼくは反論せず、ヤマサキの話が終わるのをひたすら待った。
「ご両親も話を聞いて下さると言っている」
 痛みと息苦しさが極限に達し、一瞬、景色が揺らいだ。
 ……いま、……なんて、いった……? 
 視線をあげる。
 ヤマサキはぼくの目を見て、大きく頷いた。
「さっき、ご両親と連絡がついてな。寮費と進学の件でお話をしたいと伝えたら、『いつでも来て下さい』と言って下さったんだ。では近々息子さんと一緒にお伺いしますと伝えた」
 首筋に氷を当てられたように熱がすっと引く。ヤマサキの声が耳鳴りと混じり鼓膜に響く。灰色の事務机がかすむ、揺れる、重心はどこにある? ぼくは机の上に両腕を出し、ぐらつく上半身を支えた。手が震えている。あれが、来る。拳を握り、爪を皮膚に食い込ませ、痛みに集中する、己を保つために。
「キリヤ、どうした? 顔色が悪いぞ……」
 ヤマサキの声が、遠い。
 ぼくは呻くように聞いた。
「……いつ、……ですか?」
 紙がぱらぱらとめくれる音がする。ヤマサキが大きな咳払いを一つした。
「再来週の連休にしようと思うんだ。日曜は部活で遠征があるから月曜日に日帰りで行きたい」
 ……再来週の、月曜……。
「……決まり、ですか?」ぼくは努めて冷静に聞いた、と思う。
「そうだ。ご両親にもそう連絡しておく」
 反論は許さないといったふうにヤマサキはきっぱりと言った。
 ぼくは「……わかりました……」と答えた。
「そうか。よしっ、往復の電車代は先生が出すから心配ない。切符はまた後で渡す。よしっ。いっちょう、やるかっ」
 ヤマサキは力がこもった声で何度も「うん、うん」と頷いている。堪りかね、ぼくは席を立った。
 早く、この場を離れないと。ここが、どこか分からなくなる前に、……はやく……。
「……おやじゃ、ない。……あいつは、……あの女の情夫であって、ぼくの父親じゃない。ほんとうの父親は……、会いたいとも思わない」
 ヤマサキに言うつもりだったのか、独り言のつもりだったのか。体が浮いている。足が宙を歩くように頼りない。景色は白くぼやけ、何体ものひとがたが通り過ぎる。声は聞こえない。
 音は消えていた。

 目を開けたら、寮のベッドだった。制服のまま寝ていたせいで裾に小さなシワができていた。黒のTシャツとジーパンに着替え、制服をハンガーに吊るす。職員室を出てからの記憶がとんでいた。
 ……違う。学校の廊下を、アスファルトを歩く足だけを見ていた。寮の敷居を跨ぎ、スリッパに履き替え、自室の床を踏み、ベッドの縁をつかみ跨いだのを覚えている。それっきりだ。
 イスに座り、部屋を見渡す。二段ベッドの上は空、もう一つある勉強机もしばらく使われていない。
 卓上カレンダーを見る。再来週の月曜まで、……後十一日か……。いや、今日が終われば十日だ。それまでに部屋を片付けないと。
「たまには音楽ぐらい聞けよ」とルームメイトが置いて行ったCDや漫画も処分しておくか。結構お節介な奴だった。片付けるのがめんどくさかっただけかもしれない。図書室や市立図書館で借りている本、古いノートや参考書も片付けないと。後から入ってくる奴が困らないように、初めから誰もいなかったと思えるくらいきれいにしておこう。
 長く生きるつもりはなかった。二十歳くらいまで生きられればいいかと、なんとなく思っていた。それが少し早まっただけだ。
 あいつらを殺し損ねた時に結末は決まっていた、――ぼくが死ぬと。
 苦痛を抱え、一分一秒を生きてきた。それがようやく終わる。もう憎悪に苛まれることも、孤独に蝕まれることもない。やっと、楽になれる。
 再来週の月曜日か。なら、前日の日曜日がいいかな。
 ぼくは卓上カレンダーに赤いペンで小さく丸をつけた。

 *

 市立図書館に返しに行く本がまだ読み終えていない。ぼくは時間を惜しんで本を読んだ。
「うげっ、まじかよ。あいつも誘うのか。止めておこうぜ。しらけるだけだぜ」
「なによ、冷たいわね。同じクラスの仲間でしょ。嫌ならあんたは来なくていいよ。私、仲間外れする奴って嫌い」
「そりゃ、言い過ぎだろぉ」
「どこがっ、いじめじゃん。幻滅した。そんなちっさい奴とは思わなかった」
「小さい? 俺のどこが小さいんだよ」
「小さいじゃん。図体がじゃなくて器がね」
「んだとおぉ」
「なによ、女の子を叩く気?」
「ままま、止めなよ」「ちょっと、落ち着いて。ねっねっ」
 ユカリとタカシグループだ。今日は一段と騒がしい。喧嘩ならよそでしてくれ。頬杖をつくふりをし指で耳に栓をする。
「もういいわよ。私が聞いてくる」
 ユカリがぼくの机に両手をつき、「ねぇねぇ、キリヤ。遊園地行かない?」となれなれしく声をかける。
 とうとういかれたか? ぼくは頬杖をついたままユカリを見る。
 ユカリは軽くウェーブのかかった髪をぼくの前にずらずらと垂らし、ぼくが読んでいる本を覗くように前かがみになる。香水をふっているようだ、花びらをすり潰し煮詰めたような強い匂いに息を止めた。強い匂いを嗅ぐと頭が痛くなる。
「行こう。今クラス中に声かけてるの」
 一番苦手なタイプだ。騒がしく、人の迷惑を考えない。本を読んでいようが寝ていようがお構いなしに他人の境界にずかずかと土足で入ってくる。
 ユカリはしゃべり続ける。
「ねえ、行こうよ。ほら、私たちって受験生じゃない? もうじきテストや入試で遊びに行くどころじゃなくなると思うのよね。入試が終わったらすぐ卒業式来ちゃうし。二学期始まってすぐにした文化祭は屋台出しただけ、体育祭もなんか盛り上がりに欠けていたでしょ? 今のうちにみんなで思い出つくっといた方がいいと思うんだ。名付けて『思い出ピクニック』。どう?」
 ぼくは聞くふりをしながら字を目で追う。ユカリが本を取り上げる。どこまであつかましい女なんだ。睨みつけてもユカリは頁をめくり気づかない。
「キリヤだってたまには外で遊んだ方がいいと思うのよね。いっつも本ばっかり読んでるから真っ白じゃん。夏休み中もずっと引きこもってたんでしょ?」
 その口を塞いでごみ箱に突っ込んでやろうか。
「今のところ、参加するのはタカシと私と、あそこにいるユキと、ミチカと、ヒトシと……、他に……」
 ユカリが指さしたのはさっき二人をなだめていた連中だ。どうやら言い争いの原因になった「あいつ」とはぼくのことらしい。ずいぶんないいぐさだ。教室に座り黙って本を読んでいるだけでも気に入らないのか。別に好かれたいとは思わないけれどぼくなりに波風立てないようふるまっていたつもりだ。それが無駄だったと思うと存在そのものを否定された気になる。……自業自得か。蔑んできた奴らに罵り返されたわけだ。
 ……まあいいか。もうすぐお前らともおさらばだ。
「ユタカとカズキ、それに……」
「悪いけど、行く気ない」
 ぼくは本を奪い返した。
「そうそう、サカモトさん」
 忘れていた、いや考えないようにしていた名前が突然耳に飛び込んできてぼくは不自然なほど動揺した。
「あとは、ヤイダさんに、コマツサンに……」
 ユカリは平然と指折り名前をあげてから、最後にぼくの目を覗き込んだ。
「ねっ、キリヤも行こっ」
 ……こいつ、なにか裏があるのか。
 ユカリの表情に、目に邪な色が浮かんでいないか注意深く探る。
「……いつ……?」
「来週の日曜日。ちょうど連休だからいいかなって。十時三十分にヤマカワ遊園地に現地集合するつもり」
 あいつらに会いに行く日の前日、――ぼくがこの世を去る日だ。信じられないほどのタイミングのよさにユカリの本心を疑ってしまう。知っているはずはないのに。
「行く? 行こう。絶対楽しいよ」
 キンキン響くユカリの声を不快に思いながら、……迷う……。今更、サカモトさんに関わってどうする。全て終わりにするのに……。……でも……。
「……いくよ……」
 結論が出ないまま答えてしまった。
「やっり! 決まりね。じゃ、キリヤマモル、参加ね」
 ユカリは短いスカートをひらひらさせ、不満そうにイスでふんぞり返るタカシの元へ戻って行った。

「キリヤ君、遊園地行くんだって?」
 廊下にある掃除道具入れにほうきをしまっていたぼくはサカモトさんに声をかけられた。珍しい、清掃活動以来か。
「……サカモトさんも、行くんだろ?」
 さり気なく確認する。
 サカモトさんは浮かない顔で「……うん……」と答えた。
 用具入れの扉が歪んで上手く入らない。扉が軋み、ぼくは無理に押し込んだ。鼓膜を引っ掻く音に左耳を庇い、顔をしかめる。
 サカモトさんが呟く。
「シノザキさんがせっかく誘ってくれたんだけど……、どうしようかな、と思って……」
 シノザキ? あのうるさいユカリはシノザキという名前なのか。いつも下の名前で呼ばれているから知らなかった。
「行っても、あんまり話したことがない人たちばかりだから、私一人じゃなぁ、って……」
「いつも一緒にいる女子は行かないの?」
「うん。クミは、キハラさんはちゃんと断った。私は断りきれなくて……」
 要するに、彼女は行きたくないらしい。話し相手がいないのはぼくも同じだ。サカモトさんが行くと聞いたから参加すると決めた。だけど彼女は行こうかどうか悩んでいる。
「断るなら断れば? 我慢して行くことない」
「……そうだけど。……キリヤ君は? キリヤ君もシノザキさんに断りきれなくて行くんじゃないの?」
「違うよ。行きたいと思ったから行くんだ」
 君が行くと聞いたから参加するんだ、とは絶対に言わない。
「……そう、なんだ」
 サカモトさんは大きな目を更に大きくしてぼくを見つめる。意外すぎて言葉が続かないといった感じだ。
 そりゃそうだろう、一日中黙って本を読んでいる奴が誰かと遊びに行くなんて想像もつかないだろう。
「嫌なら断るよ。サカモトさんとは違う」
 サカモトさんは反論せず、唇をきゅっと結び、うつむく。前髪の隙間から覗くまつ毛が濡れている。言い過ぎた。彼女は悪くない。ぼくの完全な八つ当たりだ。
 教室を出入りする奴らが足を止め、不思議そうにサカモトさんとぼくをじっと見て行く。ぼくがサカモトさんを泣かせている、……ようにしか見えないな。その通りなんだけど。謝る代わりに提案する。
「……ぼくが、代わりに断ってあげようか?」ユカリに話しかけるのは気が滅入るけれど。
 サカモトさんは少ししてから、首を振った。顔を上げ、ふっきれたように明るく言う。
「ううん、いい。やっぱり行く。皆とどこかに行くって初めてだし、きっと最後だから」
 サカモトさんが笑う。ぼくは息を呑んだ。
「愚痴ってごめんね。ありがとう」
 小さく笑って立ち去る彼女に、ぼくは動けずにいた。
 ……さいごだから……。
 ぼくに言っているのかと思った。

 電車はもちろん、バスは不便でしょうがない。便数は少ないうえ、妙に遠回りだし、すぐ渋滞に巻き込まれる。ぼくは寮の駐輪場にある貸出用の自転車を使い市立図書館に向かった。学校から市立図書館まで自転車で片道三十分、学校が十七時に終わり門限が十八時半の平日に往復一時間かけて市立図書館まで行こうとは思わない。『思い出ピクニック』が入ってしまったから片づけをする時間が減ってしまった。土日がなんだのと言っていられない。ぼくは自転車をとばした。自転車に乗ると視線が高くなり周りを見ていないと危ないから自然と視野が広がる。
 大きな橋を渡り、土手沿いを走る。ガードレールを隠すほど雑草が茂り、季節外れのタンポポが点々と咲く。涼しい風が顔に当たり、どこからか虫の音が聴こえる。ぼくは自転車を止め、土手の向こうに広がる西の空を一望した。
 中空まで下りてきた太陽は真昼の熱を失ってもなお輝きを増し、空全体を金色に染めるばかりか山の裾野から川の両側に広がる河川敷までも薄い金色のベールに包む。川面に映るもう一つの光球が潜水橋を照らし、水流がきらめく。土手を埋め尽くす雑草の合間から白いユリが顔を出し、蝶の形をした白い影が茂みに消えては現れる。疾走する車の騒音を忘れるほど、静かな光景だった。
 見納めになる。ぼくは目に焼きつけた。

 市立図書館は町を蛇行する川のほとりにある。田舎の図書館にしては二階建ての立派な建物で、書籍や資料が豊富、児童書もフロアの三分の一を占めている。一階読書スペースには大テーブルが三つと間仕切りがある個室スペースが二十前後、それとキッズスペースが設けられ、なにより、通うのに時間がかかりすぎることを除けば一人十五冊までを三週間借りられるのは魅力的だった。ぼくは借りた本を返し書棚を見て回った。借りるつもりはない、単なる習慣だ。目に付いたタイトルを手に取りざっと読む。
 『夢十夜』、夏目漱石が書いた小説だ。タイトルは知っていた。頁をめくる。第一夜から第十夜まである。
 悪夢には懲り懲りだけどこっちの夢は面白そうだ。寝る前に一話ずつ読んだら、……時間が足りない。ぼくは本を元に戻した。
 雑誌コーナーに移動し、地元の観光ガイドを探す。カラー写真をふんだんに使い名所だけでなく地元住民しか知らない穴場まで載っているものを選び、所要時間が一時間半以内で人目に付きにくい、それでいて自然が多い場所をいくつかカラーコピーする。
 寮で死なれても他の者が困るだろう。
 場所もそうだけど方法も決めておかないと。やることはいっぱいある。

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