第3話

文字数 12,246文字

 *

 六年生にあがり、女は「給料がいいから」と夜のバイトを始めた。仕事を終え帰ってきた男と入れ替わるように女は出かけていった。
 いかないで、とは言えなかった。
 女がいないと、男は冷蔵庫からビールを数本取り出し居間の机に並べ一人で酒盛りを始めた。男は酒を飲むと陽気になった。一人で手拍子を打ち、歌を歌い、体を揺する。そして決まってぼくを隣に正座させた。杓が遅いと頬を打ち、目つきが気に入らないと髪を引っぱり、酒の肴がないと肘鉄をくらわせた。畳に散らばった自分の髪を拾い、ツマミになるような物を、ないと分かっているのに、戸棚を開け探した。持って行かなければまた殴られる。ぼくは暴力に慣れてしまっていたのかもしれない。男の手が動くと、殴られるのを待つように体を固くし肩をすぼめ下を向いた。
 人は痛みでは泣かない、気がする。腹を蹴られれば涙が出るし、顔を殴られても涙は出るけれどあれは痛いからという理由ではなく、目にごみが入ったら涙が出るくらいのごく自然な反応なんだと思う。痛みの強さなら自転車でコンクリート塀に激突した時の方が何倍も痛かった。でも、泣かなかった。赤黒く腫れた膝を庇い公園まで自転車を押し、歯を食いしばり水道で血を洗い流した。
 あの頃毎日のように泣いていたのは、閉鎖された空間で男と二人でいる恐怖心が、殴られても止めてくれる者はいない絶望感が泣くという行動に表れていたのだと思う。もしくは、認めたくないけれど、泣けばやめてくれると期待していたのか……。
 暴行を受ける度にすすり泣いていたぼくは泣くのを止めた、男を喜ばせるだけだ。声を出すのも止めた、誰も助けてくれやしない。痛がりも怖がりもしないぼくへの暴力は更に激しく巧妙になった。女にばれないように顔や手足ではなく目につきにくい腹や背中を痛めつけた。水を溜めた洗面器に顔を突っ込まれ、電気が消えた風呂場に何時間も閉じ込められた。寒さに震えながら扉が開くのをひたすら待った。
 女の不在が続くと男の酒量は増えた。いかがわしいビデオの音声が筒抜けの部屋からぼくを呼びつける。
 ここには男とぼくしかいない。行きたくないけど行くしかない。
 ぼくは宿題をする手を止め、男がいる部屋へ入った。
 男はバスタオルを腰にかけ熱心に画面に見入っていた。手招きをし、ぼくを隣に座らせる間もタオルの下で片手をせわしなく動かす。
 酒が入り赤くなった顔が更に紅潮し、息遣いが荒くなる。男の異様な様子に、凍りつく。足がすくんで動けない。テーブルの上にビールの缶が倒れ、焼酎も半分以上なくなり、コップは空だ。男は獣が唸るような息を吐き、充血した目でぼくを射すくめ、妙に優しい手つきでぼくの首筋を撫でる。
 口を開けてみろ。いいことを教えてやる。
 耳元で囁く。戸惑うぼくの襟足をつかみ、タオルの下から出した指を口にねじ込んだ。生臭い臭いが鼻をつき、苦い味が舌を刺す。のけ反るぼくを上向かせ、男は荒い息を吐きながら指をもう一本差しこむ。べたつく指で歯の裏を撫で、歯茎をさすり、舌を挟む。嫌な味とぬめりが口に広がり吐きそうだった。唾液が溢れ口から滴り落ちそうになっても差しこまれた二本の指に口を閉じられず、涎がだらだらと流れた。男は強弱をつけ、執拗に口腔内をいたぶる。引っぱられた髪が抜け、荒々しい息が顔にかかる。顎が痛い、歯が男の手に当たり、殴られるのが怖くて閉じようとする口を、痛みに耐え、開け続けた。顎が外れそうで、頭がずきずきと痛み、男の顔が涙でぼやける。たまらず唸り声をあげた。男はようやく指を抜き、唾液にまみれた二本の指を何度もぼくの頬になすりつけ、満足そうに笑った。タオルがはだけた男の下半身は剥き出しだった。
 無知は恐ろしい。ぼくは男から受ける仕打ちにどんな意味があるのかも分からず、嫌悪感を抱きながら抵抗しなかった。
 二人きりになるのを避け、夜八時を過ぎても帰らず、居間の電気が消えるのを窓ごしに確認できるまでアパートの周りをうろついた。
 中学生になり、高かった声が低くかすれ、胸や肩に筋肉らしき盛りあがりを感じるようになった頃、教室で成人雑誌を回し読むクラスメイトの猥談にぼくは全てを理解した。奴はぼくの口を女性器に見立て自分の精液を塗りつけていたんだ。
 羞恥と屈辱に震え、おぞましさに憎悪を募らせた。
 殺してやる。
 毎日、台所にしまわれた包丁を確認した。そんな時に限って女の顔が頭をよぎる。あいつが死ねば悲しむか。あんな奴でも女には大事なのか。女が泣く姿は見たくなかった。まだ、母である女への想いを断ち切れずにいた。
「あいつと別れて。ぼくはあいつに暴力をふるわれているんだ。助けて、もう嫌なんだ」最初で最後のお願いだった。
 女は笑って言った。
「あの人不器用なのよ。オーバーに言い過ぎ」
「違う、信じて」
 服をめくり、痣だらけの胸を、腰を見せた。熱湯をかけられただれた下腹部も。
「全部あいつがやったんだ。……それに……、それにあいつは、あいつはぼくに変なことをするんだ。アダルトビデオを見ながら、ぼくの口に指を入れてくるんだ」
「やめなさいっ」
 ぼくの訴えを女の金切り声が遮った。
 女の頬が朱に染まる。眉間に皺を刻み、目尻を吊り上げ、赤い唇で叫ぶ。
「あんただって、あんただって黙って見てたじゃない。私があんたの父親に殴られるのをぼっと突っ立って見てたじゃない。私はあんたの父親に腹を蹴られて流産したのよ。あんたよりもっとひどいことをされているの。それぐらい我慢したらどうなのっ」
 体中から血の気が引いた。膝が折れ、床にへたり込む。呆然と見上げた女の顔は怒りに満ちていた。
「自分の時だけ言わないでほしいわ。あんたなんかほんとはいらなかったのよ。医者に中絶できないって言われたから仕方なく産んでやったのよ。あんたの父親より素敵な人はいっぱいいたの。私に声をかける男はいっぱいいたんだから」
 天井が、床が歪む。眩暈に襲われ、土下座をするような格好で両手をつき、体を支えた。ドアが開く音が、背後でした。
「おいおい、あんまり責めるなよ。可哀そうじゃないか。まだほんのガキだったんだろ、なあ」
 野太い声が背中ごしに聞こえる。ぼくの横にしゃがみ、酒臭い息を吐く。
「ちょっと酒を買いに行ってたら、俺のいない間に告げ口か? いい根性してるじゃないか。なあ、おい」
「言ってみただけよ。はなっからなにも期待していないわよ、この子には」
「きっついなあ、お前のお母さんはー」
「あんただってこの子に手ぇ出しているじゃない。ひとのこと言えないでしょ。溜まってるんならこの子相手に変なことしてないで仕事で発散してよ。こっちは深酒我慢して夜の仕事しているのよ」
「ちょっとふざけただけだって。そんなに怒んなよ。また割が合う仕事を探すから、なっ。勘弁しろよ」
「……ほどほどにしてよね。学校にばれたら責められるのは私なんだから」
「分かってるって。もうしないって。また告げ口されたらかなわんからな。……それよりお前、俺たちがよろしくやってるところを覗いているんじゃねえだろうな? 興味がある年頃ってのは分かるが、それはいかんぞー。まさか、母親の乱れた姿を見て自分の息子を慰めてんじゃねえだろうなぁ。ああん?」
 ざらついた笑い声が鼓膜に触る。
「ばかっ、なに言ってんの」
「いでっ」
 固い音をさせて何かが床に落ちる。転がる音が近づき、塩が入った小瓶が薬指と小指に当たる。
 目の奥が熱くなる。視界がぼやけ、溢れそうになるものを、目を見開き必死に堪える。
 こいつらに泣くところは見せたくない。
 
 結局、一睡もできなかった。目覚ましが鳴る前にボタンを押す。ベッドに腰かけ、片付きすぎた部屋を眺める。
 まさか、もう一度この部屋に戻って来るとは思わなかった。壁のシミが嘲笑っているようだった、ざまあみろ、やっぱり怖気づいて帰ってきた、と。
 部屋全体がうっすらと明るい。
 もうすぐ夜が明ける。
 手に彼女の温もりが残っている。片方の手を添え、額を押さえる。彼女に支えられている気がした。
 大丈夫だ、ぼくは、大丈夫……。

 朝食を簡単にすませ、昼ご飯はパンでも買うか、リュックに財布と切符だけを入れ、ヤマサキとの待ち合わせ場所に向かった。
 駅の構内にヤマサキがいた。腕時計を見る。待ち合わせ時間までまだ五分以上ある。さすがテニス部の顧問だ。集団行動が身についている。
「おお、キリヤ、こっちだ」
 ヤマサキが大きく手を上げる。
 ぼくは苦笑した。腹痛でもおこして休んでくれればよかったのに。朝からシャワーをしたようで石鹸の香りがする。いつも黒く脂ぎっていた髪がふんわりとまとまり、髭を剃り、ネクタイやシャツはシミ一つ見当たらない。どこから見ても清潔感溢れる好青年だ。
 ヤマサキは上着を腕にかけ、暑苦しそうにネクタイを緩める。
 そんなに張り切らなくていいのに。
 ヤマサキとぼくは改札口を通過し、電車に乗った。
 ヤマサキは座席に着くなり腕を組み居眠りを始める。部員を全員自宅に送り帰宅したのは深夜一時だったそうだ。連休なのにお疲れさまだ。そのまま夜まで寝てくれ。
 車窓を眺める。電車に揺られる度に、景色が流れるごとに、振動のせいか、耳鳴りが酷くなっていく。締めつけられるように頭がぎりぎりと痛み、首筋を伝い脇腹におりていく。吐きそうで吐けない。ぼくは手を、彼女の温もりが残る手を額に当てた。
 耳鳴りが止まない。うるさい、静かにしてくれ。彼女の温もりが残った手を強く額に押し当てる。音がうるさくて、振動が、あいつらの元へ走る電車の振動が気になって集中できない。彼女の顔が、声が急速に遠ざかる、思い出せなくなる。
 ぼくは体を起こした。窓に両手をつき、朝日に照らされたレールを見つめる。刈り取られた田んぼが、枯草が茂る野原が流れていく、通り過ぎていく。
 泣いても喚いても無駄だ。憐れな囚人は鉄の箱に入れられ、醜怪な化け物が待つ棲家へ送られる。心優しい付添い人に促され、舌なめずりをし、鉈を振り上げる化け物の生餌となるんだ。奴らは嬉々として血肉を貪るだろう。骨が砕け、肉が裂けても、逃げることも叫ぶことも餌には許されない。ただ奴らの欲するままにこの身を差し出す。
 剛毛に覆われた化け物が黄ばんだ歯で頭部を噛み砕く絵を想像したら、……笑えた。

 駅を出ると、見慣れた風景が広がる。錆びついた道案内の看板、営業しているのかどうか分からない店内が暗い小売店やカラオケ喫茶、排水溝から漂うすえた臭い、……何も変わっていない。
「ここからはキリヤが案内してくれ」
 ヤマサキが気安く頼む。
 ぼくは黙ってヤマサキの前を歩いた。
 舗装が剥がれた道を右に曲がり、荒れた田畑が広がる小道を百メートルくらい歩いたところで水子地蔵を祀る祠が現れる。赤い涎かけは茶色く色あせ、地蔵は左目周辺が苔に覆われ鼻が欠け、祠の扉は蝶番が緩んで外れかけている。生まれてこられなかった霊を慰めるために作られたはずなのに祀られてなお見捨てられているように思えて、気が滅入る。窓が割れた廃屋を通り過ぎ、アパートと民家が入り組む住宅地に入り、足を止める。
 あの家だ。三階建てのアパート。ベージュの外装は色が剥げ、茶色いシミが三階屋上から壁を伝い一階通路の側溝まで伸びる。ヒビ割れが随所に見られ、屋根が一部欠けている。三年前に飛び出したあの時のままだ。
 厚い壁に阻まれたようにそれ以上先に進めなくなる。
 ……行きたく、ない。行きたくない、行きたくない。行きたくないんだ。
 ヤマサキをふり返る。帰りたいと言え。行きたくないと。叫びたいのに声にならない。どうすれば伝わる。泣けばいいのか、わめけばいいのか。
 ヤマサキがぼくの隣に並び、地図を手にアパートを見る。
「あれが、キリヤの家か。よし、行くぞ」とぼくの背中を押す。動かないぼくの前方に立ち「なにしてる、早く行くぞ」と急かす。
 ……今更、だった。他人に救けを求めるような性格ならもっとましに生きている。
 ぼくは歩きだした。
 アパートの周りは雑草が茂り、犬の糞がいくつも転がっていた。薄暗い階段を上り、ごみが散らかった通路を歩き、奴らの住む玄関の前に立った時には、冷めていた。胸の辺りは鉛が詰まったように重苦しいけれど、憎しみも、恐怖も、怒りもない。思考も停止しているようでなにも頭に浮かばない。風景が切り取られた写真のように映る。人は追い詰められると冷静になれるのかもしれない。
 ヤマサキがインターフォンを押す。ぼくはヤマサキの背後に移動した。
 玄関横の壁に取り付けられた灰色の小さな箱から女の声が聞こえ、奥から子どもの歓声と走り回る音がする。息苦しさに痛みが伴い、ぼくは地面に視線を落とした。
 ドアが開き、「遠いところから、どうもすみません。暑かったでしょう」と女の声がした。
「こちらこそお忙しいところ、ご自宅まで押しかけてすみません」
 ヤマサキが二度、三度頭を下げ、中に入る。ぼくも背後霊のようにヤマサキについて行った。
「散らかっていますけど、どうぞ。主人は仕事に出ておりませんの。最近残業続きで、今日も祝日なのに仕事なんですよ」
 女は上機嫌な声でスリッパをヤマサキに勧める。
 主人? 籍を入れたか? そんなはずはないだろう。あんなに毛嫌いしていた前の男にわざわざ連絡して離婚するほど律儀な性格だったか?
 ふっと湧いた嘲りの言葉を頭から追い出し、感情を心の奥深くに沈める。
 子どもが小さな手で女のスカートをつかみ、ヤマサキとぼくを見上げている。髪は脱色したような茶色で、頭は大きく、手足は短い。腕も足も肉づきがよく、お腹も丸い。頬はリスのように膨らみ、玩具の新幹線を持ち、恥ずかしそうに女のスカートに顔を埋める。十五歳違いの異父弟だ。無事だったか。
「お子さんがいらっしゃったんですか?」
 ヤマサキが調子の外れた声で聞く。
「三歳です。アキラっていうんです。もうじっとしていなくて大変でー」
「いやー、でも可愛いですね。ぼくも子どもがほしくなっちゃいます。そうですか、子どもがいらっしゃったんですか」
「あら、先生は独身?」
「ええ、恥ずかしながら……」汗をかいたのか、ヤマサキがポケットからハンカチを出す。
「背も高くてかっこいいのに、もったいないわ。本当はもてるんでしょう?」
「いえいえ、さっぱりですよ」
 しゃがんだ女のつむじは白髪が目立ち、顔にシミやシワが増えていた。けれど、記憶に残る面影より優しそうに見えた。女が子どもを抱き上げ、子どもが安心したように女の首に抱きつく。
 畳部屋に通され、ぼくはヤマサキの隣に座った。記憶がよぎる。
 ……ここで、よく殴られた。
 ヤマサキがぼくの進学と寮費の支払いについて話をする間、ぼくはテーブルに書かれた落書きを目でなぞり、玩具を広げ遊ぶ異父弟を横目で観察した。
 ぷくぷくと太り、服からはみ出た手足や体に目立った傷はない。虐待はされていないようだ。子どもはみんなそうなのか、ちょこまかと動き回り止まることがない。テーブルの周りを走り、女に叱られ、抱き止められる。
 女が笑いながら言う。
「もう、本当にじっとしていなくて。叱るんだけどちっともいうことをきかないんですよ。可愛くて、つい許しちゃうのよね」
「いや、それでいいと思いますよ。子どものころはしっかり甘えさせた方がいいらしいです」
「私、ずっと子どもがほしかったんです。流産を繰り返していたから諦めていたのにやっと生まれたから、余計可愛いくて……」
 明るく言ってのける女に、
「……それは、どういえばいいか。……苦労されましたね……」
 とヤマサキは言葉に詰まっていた。
 ぼくはせせら笑った。ヤマサキみたいに人がいい男はすぐ騙される。子どもが欲しかったなんて話、今初めて聞いた。
「マモルは薄情な子でね。この子が生まれても一度も会いに来なかったんですよ。電話の一本も寄こさなかったのよね。ねぇ、マモル、アキラに会うのこれが初めてでしょ? 兄弟なのにみずくさいったら。誰のおかげでここまで大きくなったと思ってんのかしらね、お前の、お、に、い、ちゃ、ん、は」
 子どもの両手を取り、手遊びをするように上下に振る。子どもが嬉しそうに笑う。
 底に沈めた感情が顔を出す。
 ……そのガキに感謝しろ。そいつが腹にいなかったら、お前はこの世にいない。とっくに消しずみにされていた。腹の中で浮かんでいるだけの赤子に恨みはない。お前らを両親に持ち哀れに思うくらいだ、ぼくと同じ目に遭わなければいいと。
 十五歳下の異父弟が声を立てて笑い、女が笑顔で見つめる。胸が疼き、目を逸らした。席を立つ。
「トイレか?」
 ヤマサキの問いに答えず、玄関で靴を履き外に出た。

 アパートから出られて、女から離れられて、ほっとする。奴がいないのもよかった。記憶の女と今ヤマサキと話している女、どちらが本物なのか。たった三年で変わったというのか。子どもが生まれたら母性に目覚めたと? 奴は、働き始めたのか。一日中酒を飲んではぼくを虐めるしかしなかった奴が。血の繋がった子どもができたから? 以前の奴ならぼくが落書きでもしようものなら蹴り飛ばしていたはずだ。自由に動き回る異父弟に殴られたような痕はなかった、……多分……。
 三歳の異父弟をぼくは直視できなかった。異父弟は奴にそっくりだった。

 帰りの電車の中、ヤマサキは座席にもたれ、考えるように腕を組んだ。
「思ったより、優しそうなお母さんじゃないか。子どもの医療費や服代なんかでいろいろと要りようだったらしい。これからは寮費をきちんと支払うと約束してくれた。進学も奨学金で行くなら自由にすればいいっておっしゃってくれたぞ」
 寮費は奨学金が振り込まれるぼく名義の通帳で払っていた。
 今まで育てるのにいくらかかったと思っている。少しくらい返せ。
 そう言うから、新聞配達で貯めた金も、通帳も全部置いてきた。義理立てされる覚えはない。
「お母さん、これからはちょくちょく帰ってこいって言ってたぞ。家族なんだから遠慮するなって」
 ……家族? あっけらかんと言ってのける女が目に浮かぶ。散々ぼくを否定してきたあんたがそれを言うのか。家族だろうが親子だろうが、分かりあえない。女とぼくは平行線のまま交わることがない。家族だから憎い、家族だから信じた、裏切られた、求めた、絶望した。赤の他人だったらそういう人間もいるのかと思える。もう二度と会うことがない人間なら忘れることもできる。家族だから許せないんだ。
 薄皮一枚でぶら下がる尻尾のようにいつまでも離れず、立ちはだかり、かさぶたを引っぺがす。優しさを求めた。愛してほしいと願った。罵られても女の帰りを待った。布団を敷き、帰ってこない女のために風呂を沸かした。男の肩を揉み、酌をした。殴られても我慢した、三人で暮らせるならと。
 ……面白かっただろう、殴っても蹴ってもなついてくるさまは。犬だ。プライドも善悪の区別もなくあいつらに気に入られようとすり寄る自分が大嫌いだった。反吐が出る。思い出したくもない過去だ。
 二度と帰らない。はっきり分かった。はじめからぼくは必要とされていなかった。存在しようとしまいと奴らには何の関わりもなかったんだ。
 移りゆく風景に、かつて抱いた思慕を、忌まわしい過去を、捨てた。

 手の感覚が戻っている。温もりが甦る。ぼくはもう一方の手でその手を包んだ。
 来て、くれるだろうか? 待っていると言ってくれた。
 ……ぼくには彼女しかいない。

 *

 翌日、いつもより早く寮を出た。サカモトさんに会いたかった。会って、あの約束が現実にあったことか確かめたかった。
 校門に入り、中庭を横切り、三年の校舎の玄関で靴を履きかえる間も肩まで伸ばした髪を、小さな背中を探した。階段を駆け上がる。教室の前の廊下に、サカモトさんはいた。窓から入る風を楽しむようにサカモトさんは顔をあげ、目を閉じていた。柔らかそうな明るい髪が風に弄ばれ、首筋が露わになる。開放した窓から見える教室には誰もいない。ぼくは足音を忍ばせ、彼女に近づいた。
「……お、はよう……」
 サカモトさんは気づかない。ぼくの小さな声は風にさらわれてしまった。
 サカモトさんとは何度も話しているのに、やけに緊張する。おかげで声は消え入りそうなほど小さいし、顔は火照るし、動悸がして心臓にも悪い。今度はもう少し大きな声で言ってみる。
「おは、よう」
 彼女は振り向き、大きな目をふっと細め口元をほころばせる。
「おはよう」
 息がかかるくらい近くに彼女が立ち、ぼくは驚いて二歩下がる。誰もいないから安心しているんだろうか。それとも……。
 彼女は声をひそめ言った。
「……昨日は、……大丈夫だった……?」
 ああ、心配してくれていたのか。
「……うん、大丈夫だった」おうむ返しのように答える。
「……よかった。……様子がおかしかったから、……心配で……」
 澄んだ瞳で安心したように微笑むからぼくは見とれてしまった。照れ隠しじゃないけれど話をかえる。
「サカモトさん、いつもこんなに早いの?」
 サカモトさんが窓の外を見るように顔を逸らす。
「……ううん……。だって、気になったから、……キリヤ君の、こと」
 ふっと体が軽くなる。綿毛のようなものに包まれ、頼りないほど柔らかな毛先が体のあちこちをくすぐる。くすぐったいけど、温かい。
「……あ、りがとう……」
 彼女は頬を赤らめ、小さく頷いた。
 抱きしめたい。彼女をこの手で抱きしめたい。強く抱きしめて離したくない。こんな気持ちは初めてだ。両腕が反応する。止めておけ、驚かせてしまう、逃げられるかもしれない。二度と振り向いてくれなくなるぞ。
 理性が勝つ、ぼくは腕を垂らした。
「……あの、……やくそく……」
 声がうわずっている。さっきから、やたら熱い。特に胸から上が熱くて汗ばむ。もしかしたら赤くなっているかも。かっこ悪いなと目の下を手で覆い、尋ねる。
「……電車の中でした、……約束、覚えてる?」
「……う、うん」
 サカモトさんがためらいがちに返事をする。
「あのね、そのことなんだけど……」
「おっはよー、鍵開けてくれたんだー。私が日直だからいいのにー。……あれ、キリヤ、早いじゃん」
 ぼくは舌打ちした。ユカリだ。
「あれ、あれ、あれぇ。サカモトさんも一緒? ああっ、もしかして、二人付き合いだしたの?」
 ユカリがぼくとサカモトさんを交互に指さす。
 サカモトさんは壁にぶち当たるかと思ったほど勢いよく飛び退き、
「ちっ、ちがうの。たまたま、たまたま偶然よ。今、ばったり会ったの。ねっ、キリヤ君」と耳まで真っ赤になって手をぶんぶんふる。
 必死に否定するサカモトさんに、ぼくは傷ついた。
「そぅお? 隠さなくていいよ? 遊園地、いい雰囲気だったじゃん」
 どこがだっ、最悪だった、お前の目はふし穴か。
「ほんとに、ほんとにそんなんじゃないの。あ、私、用があるからもう行くね」
 サカモトさんは胸の前でせわしなく手をふり、走って行った。ユカリとぼくが残される。
「……うーんっと……」
 ユカリがとぼける。
「……もしかして、私、邪魔しちゃった?」
 答える代わりに睨みつけてやった。
「ごっめーん、キリヤ」ユカリが頭に手を置き「てへっ」と笑う。
 ……いつか、殺す。
 ぼくは無言で教室に入った。

 何度かサカモトさんの様子を窺ったけれど、意識的になのか彼女は一度もぼくと目を合わさなかった。
 待っていると言ったのは夢か。追い詰められたぼくが都合よく紡ぎだした白昼夢か。
 早く夜になれ。いや、ならなくていい。夜が怖い。望みが潰えてしまいそうで。彼女は来るか? 来ないだろう。いや、待っていると言ってくれた。嘘だ、ならあのよそよそしい態度はなんだ。来るはずがない。お前は騙されたんだ。裏切られるに決まってる。あの女も他の奴らと同じだ。善良ぶってお前を弄んでいるんだ。薄汚い、ずるい女だ。……うるさい……。騙されているんだ、目を覚ませ。黙れ。騙されている騙されている騙されている騙され……。
 本は手元にない。代わりに世界史の本を広げ考えないようにした。
 全ては夜になれば分かる。

 一日の終了のチャイムが鳴ると同時にぼくは教室を出た。寮に戻り、机の引き出しを開け鍵を取り出す。正面玄関の鍵ではなく、男子寮の北側にある夜間通用口の鍵だ。
 寮の規則は厳しい。ぼくは平気だけど、寮の運営についていけず出て行く生徒は多い。ぼくと同室だった奴も「寮のやり方はひどすぎる。これじゃあ刑務所だ。親に仕送りをしてもらってアパートで下宿する」と出て行った。
 ぼくはといえばこれで気兼ねなく過ごせると喜んだ。人付き合いは苦手だ。ましてや、他人と一緒に暮らすなんて苦痛以外の何物でもない。
 鍵はそいつが「いらなくなったから使いたい時使えよ。その代り、ばれないようにな」と言い残し置いて行った物だ。
 そいつはサッカー部だった。
 遠征で帰りが遅くなる日は、寮にいる部の代表者一人が事前に寮監から鍵を借り、翌朝返す決まりになっている。練習だろうが所用だろうが遅くなる度に寮監に申し出、書類に記入し鍵を借りなければならない煩わしさからか、鍵をこっそりコピーする者が現れた。コピーをコピーし、いつの間にかコピーキーは誰も把握できないほど増えた。中には使い物にならない粗悪品もあったが、幸運にもそいつが置いて行った鍵は使えた。ぼくはこの鍵を使い何度か寮を抜け出したことがある。夜に紛れたくて、明るい月を見たくて。
 夜九時の点呼が終われば誰も部屋を移動しない。寮監も来ない。……ばれたら、寮にいられなくなるかもしれない。それでもいい。
 今夜、ぼくはこの鍵を使う、――彼女に会うために。

 寮を抜け出すのは久しぶりだ。
 風がない静かな夜だ。丸みを帯びた半月が暗い空に浮かび、街灯がない小道を明るく照らす。人も犬もいないひっそりした田畑を虫の音が渡る。心が洗われるようだ。
 彼女はこんな夜に生まれたのかもしれない。だから小夜と名付けられたんだ。ぼくは、もう一つの小さな夜に会うために公園へ急いだ。
 公園に近づくにつれ、早く会いたい気持ちと、いないかもしれないという不安と、来てくれるはずだという期待と、そして、いたらどうしようという戸惑いで足取りは乱れる。
 公園入口のポールを抜け、園内を見渡す。小さな外灯と月灯りで園の中央は白く浮かび、ブランコや滑り台はひっそりとしている。樹木の下に設置されたベンチに人影はない。
 彼女は、いなかった。
 砂場を横切り、ベンチに腰かける。時計を見る。時間は過ぎていた。もう一度誰もいない公園を見渡し、月を見上げた。
 怒りも、憎しみも湧かない。ただ、虚しい。
 やっぱりな、思ったとおりだ。
 声がしても腹は立たなかった。
 空に浮かぶ月が白々と光る。こんなもんだろう。希望は泡のように消える。
 虫が鳴く声に耳をすませ、目を閉じる。

 土を蹴る音がした。小さく、次第に大きく、はっきりと聞こえた。
「キリヤ君」
 振り向くと、彼女が、小夜がいた。
 諦めていたからすぐに声をかけられなかった。彼女は息を切らせ駆け寄ってきた。
「ごめん、なさい。……遅くなって……。家を抜けるのに、……時間、かかっちゃって……」
 サカモトさんは肩で息をしながら、謝る。
「……家、出てくるの、まずかった?」
「……ちょっと、ね。うち、夜は出歩いちゃいけないんだ……。あ、でも、今日は特別。約束だからね」と肩で息をしながら、笑う。
「……ごめん。気がつかなかった」
 謝るぼくに、サカモトさんは嬉しそうに目を細めた。
「待っていて、くれたんだ。よかった、帰っていたらどうしようって、思った」
 変な言い方だ。
「……どうして? 会いたいって言ったのはぼくなのに……」
 サカモトさんは「……だって……」と口ごもる。
「……友達として会おうって、言ってたから……。どういうつもりなのかな、って。からかわれたのかな、なんて……」
「からかうなんて、しないよ」
「……うん……」
 彼女は小さく頷いた。

 サカモトさんは水飲み場で喉を潤す。走ってきたから汗をかいたらしく、顔を洗い、ハンドタオルで顔を何度も押さえ、ぼくの隣に座る。
 ぼくはなにを話せばいいのか分からなくて、月を見た。
「……怒らないで、聞いてね。……会いたくない人って、キリヤ君のご両親?」
「……知って、るの?」
「ヤマサキ先生とキリヤ君が駅で一緒だったって、友達が言ってたから。休日に先生と電車に乗って会いに行く人って、……もしかしたら……と思って。……ごめん……」
「……いいよ」
 女子の情報網はぼくの想像を超えている。
「……思ったより、平静でいられた。なんともなかったよ」
「……よかった……」
 ぼくたちは黙った。
「また、会ってくれる? 今度は夜じゃなく、昼間にするから」
 沈黙が流れる。
 ぼくは彼女の横顔を見る。彼女は石を足先で転がしている。迷っているようだ。
「……嫌なら、嫌でいいよ。怒らないから……」
「……友達として会うって、こと……?」
 なにが言いたいんだろう。ぼくはサカモトさんの横顔を見つめる。彼女は顔を反対側に向ける。ぼくは彼女の背中に聞いた。
「……付き合って、って言ったら、付き合ってくれる?」
 意外にも返事はすぐに返ってきた、「いいよ」と。
 聞き間違いか、もう一度確かめる。
「本当に? 付き合ってくれる?」
「うん」彼女が頷いた。
「ユカリが、シノザキに聞かれた時あれだけ否定してたじゃないか」
 彼女はふり返り、らしくもなく大きな声で言い返す。
「だって、あんなふうに言われたら誰だって否定するよ。それに本当にまだ付き合っていないし……」
「じゃあ、付き合ってくれ」
 返事を待たず彼女の腕をつかみ引き寄せる。彼女の肩はびっくりするほど小さく、ぼくの両腕にもおさまった。指に両腕に力を入れしがみつくように抱きしめる。柔らかい髪がぼくの頬に触れ、彼女の吐息が首筋にかかる。シャンプーの香りがする髪に頬を押しつけ、頼んだ。
「ずっと、そばにいてくれ」
 もう、一人は嫌だ。孤独にもがく夜は耐えられない。助けてくれ。助けてくれ、助けてくれ。ずっとそばにいてくれ。離れないでくれ。
 震えるぼくを彼女は優しく抱いてくれた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み