第3話 東京大空襲

文字数 4,948文字

 注文を終えると和貴は祖母と向かい合った。
「東京大空襲って、沢山の人が亡くなったの?」
「ええ、一晩で十万人以上」
「え? そんなに? 防空壕とかあったんでしょう?」 
「街が丸ごと燃えたのよ、防空壕に入って炎は防げても熱は防げないわ」
「……」
 広島、長崎に投下された原爆の事は学校でも習うし、今でもマスコミで良く取り上げられる、しかし、この東京でそこまでの大量虐殺があった事は正直な所知らなかった。
 空襲、防空壕、焼夷弾、焼け野原……それらは知識としては知っている、しかし、十万人となれば原爆に迫る死者数じゃないか……焼夷弾と言うのは木造家屋を焼き払う物だと思っていた、江戸の昔、東京は何度も大火に見舞われている、そのようなものだったのかと……しかし防空壕では熱まで防げない、と言う事は蒸し焼きにされたと言うことではないのだろうか、それほどの火に、熱に晒されて命を落とす、生きながら火葬にされるようなものだ……。
「お祖母ちゃんは良くその中で無事だったね」
「お姉ちゃんが……和貴から見ると大伯母に当る静子お姉ちゃんのおかげだったわ」

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 昭和二十年三月九日、その日もいつものように明け、いつものように暮れた。
 東京への空襲は頻度を増しているが、その夜は家族が寝る支度を終えた頃までは空襲警報も無く、むしろ平穏な日だったとすら言えた。
 夜十時過ぎ、空襲警報が鳴り響いた。
「またぁ?」
 静枝はうんざりしたように溜息を付いた。
 その頃には空襲警報は日常茶飯事となっていて、警報発令~解除の繰り返しだったのだ。
 昨年暮れから東京はしばしば空襲を受けている、一週間ほど前にも大規模な空襲があり多くの犠牲者が出ている事は知っていたが、まだ子供だった静枝は戦況が逼迫している事を理解していなかった、大本営発表は日本の戦果を続々と伝えているし、なにより父が日本の勝利を疑っていない、『そのうちに日本の兵隊さんがアメリカをやっつけてくれる』くらいに考えていたのだ、直接的に被害を受けていない以上、空襲での被害もよそ事のように思っていた、それよりも寒空の中、やっと温まって来た布団を抜け出して防空壕に逃げ込まなくてはならないことが億劫だったのだ。
「そんなこと言わないの、本当に爆弾が落ちてきたら大変でしょ?」
 姉の静子にたしなめられた。
 静子は友人とその兄から色々と聞いていたので、東京が空襲されると言う事態はどういうことなのか察していた、戦況の詳細まではわからないが、大量の爆撃機が飛来すると言うことはアメリカ軍がすぐ近くまで迫っているということだ、日本は本当に追い詰められていることは間違いない、と認識していたのだ。
 頻繁な空襲警報、それは東京の空が無防備とまでは言わないにせよ、アメリカ軍が爆弾を落とそうと思えばその通りにできると言うことに他ならない、いつ本当に爆撃を受けるかわからないという危機感は抱いていた。
 友達やご近所は次々と疎開して行った、そのほうが賢明だと静子も思う、しかし両親ともに下町っ子、地方に頼るべき親戚もない状況ではそれもままならない、静子が出来る事は警報の度に妹を促し、父に肩を貸して防空壕に身を潜めることだけだった。
「でもぉ」
「でも、じゃないの!」
 静枝が渋々布団から這い出すのを見届けると、静子は母を手伝って父に肩を貸し、防空壕へと避難した。

 だが、防空壕に入ってしばらくすると警報は解除された。
「やっぱり今日も解除じゃない、あのまま寝てれば良かった」
 静枝は膨れ面をする……爆撃機の編隊がいつもとは違うルートを辿った事で、房総沖へと抜けると判断して警報を解除したのだが、実際にはそれは誤りだった。
 B-29の大編隊はかつてない規模の、より『効果的』な爆撃を画策していた。
『絨毯爆撃』……軍事関連の基地や工場を狙ったピンポイント爆撃から作戦を変更し、町を焼き尽くす無差別大量虐殺へと舵を切っていたのだ。
 予想外とも言える日本軍の抵抗に会い戦争が長引くことにアメリカは焦れていた。
 その夜、B-29がその銀色の腹に抱えていたのは新開発されたクラスター型ナパーム弾、束ねられた小型焼夷弾が空中で分解して雨の様に降り注ぐように設計され、それぞれの小型焼夷弾は瓦屋根を貫通できる形状となっている、屋根こそ防火性能が高いが、内部は燃えやすい日本家屋の欠点を研究し、より効果の高いものとなっていたのだ。
 屋内に着弾した焼夷弾はゼリー状のガソリンを撒き散らして発火し家屋をあっという間に炎上させる仕組み、それを絨毯のように満遍なく落とせば大量の民間人死者が出る事は当然予想できる……だが、中々音を上げようとしない日本に苛立ち、『軍事工場の労働力を削ぐ』と言う名目の下、簡単な技術で安価に製造できる大量虐殺兵器を使用して民間人を殺戮すること、それに躊躇はなかった。
 アメリカの若者が流す血と、『イエロー・モンキー』である日本人の命、それは天秤にかけるまでもない事だったのだ。
 
「静枝! 静枝!」
 一度冷え切ってしまった布団にもぐりこみ、ようやくぬくぬくと寝入った途端、静枝は姉の静子に揺り起こされた。
「空襲よ!」
「え?……だって空襲警報は解除されたでしょう?」
「今度は本当に空襲なの!」
 静枝は眠い目をこすった……が、次の瞬間、いっぺんに目が覚めた。
 窓の外が真っ赤に染まっている……人々の悲鳴や怒号も渦巻いていた。
「起きて! 逃げるのよ」
「うん」
「あたしはお父さんを……」
 静子がそう口にした時、しづが勇蔵を担ぐようにして部屋から出てきた。
「手伝う!」
 静枝が駆け寄ろうとした時、しづは目を吊り上げてキッパリと叫んだ。
「お父さんはあたしに任せて、あんたは静枝を守りなさい!」
「だって……」
「だってもなにもない! きっとそうしなさい!」
 その時、静子のすぐ後ろに立っていた静枝の目に飛び込んで来た母の目。
 その目が語る言葉、まだ子供だった静枝には読み取ることが出来なかったが、静子は全てを読み取って理解していた。
 表は既に火の海、脚の悪い父を庇いながらでは防空壕に辿り着けるかどうかさえ定かでない、自分は夫を見放す事は出来ないから静枝を守ってやる事は出来ない……自分と夫は助からないかも知れない、でも子供たちだけはなんとしても生き延びて欲しい、だからあなたがしっかりとして静枝を守ってあげなさい。
 母の目はそう語っていたのだ。
 それでも静子は逡巡していたが、父母の寝間からも火の手が上がるのを見て、覚悟を決めた。
「わかった! 静枝! 一緒に来なさい!」
 静子は静枝の手を引き、路地を抜けて通りへと飛び出した。
 そこも既に火の海、逃げ惑う人々でごった返している。
 振り向くと狭い路地は瞬く間に火に包まれ、両側の建物が崩れ落ちて行く、そこにはまだ父母がいるはずなのに……。
 一瞬、目もくらみそうな喪失感に包まれたが、母の覚悟を無駄にする事はできない。
「お父さん! お母さん!」
 静枝がそう叫んで火に包まれた路地に飛び込もうとする、静枝はその手をつかんで引っ張った。
「行っちゃダメ! 逃げるのよ!」
「だって!」
「だってじゃない! あたしはお母さんにあんたを託されたのよ! あんたを死なせたらお母さんに顔向けできない!」
「だって! だって!」
 そう叫ぶ静枝を強引に引っ張り、静子は隅田川を目指した。
 どこもかしこも火の海、この火の勢いは街を全て焼き尽くすまで衰えるとは思えない、静枝を助ける道があるとすればそれは隅田川しかない、普段から水に親しんでいる静子にとってそれは自然な発想だった。
 逃げ惑う人々の群れにもまれながらようやく隅田川に到着したが……静子は体中の力が抜けてしまうような絶望を覚えた。
 両国橋は人で溢れて身動きできない状態、その両側のたもとから火は迫っていて、到着したばかりの人は衣服に火がついてしまい、踊るかのように悶えて倒れて行く。
 橋はだめだ、となれば……水面に目を移すと、そこにさえ人が溢れている、既にこと切れてしまったのだろう、うつぶせに浮かんでいる人の姿も……。
 そして、水面に浮かぶ無数の遺体は橋脚に引っかかって流れを堰き止め始めている、水に飛び込んだとしても流れに身を任せたら次々に流れて来る遺体で身動きが取れなくなってしまうだろう。
(どうすればいいの?)
 泣きじゃくっている妹を見やった。
 自分ひとりなら泳ぎには自信がある、流れに逆らって上流を目指せば助かる道があるかもしれない、しかし妹には無理だ。
 しかも今は三月、川の水は身を切るように冷たいはず、たとえ泳げるとしても長いこと水に浸かっていたら命はないかも……だが、今、ここで焼け死にたくなければ他に道はない。
「お姉ちゃんにしっかり掴まってなさい」
「どうするの?」
「飛び込む」
「えっ!?
 逡巡している間はない、泳ぎがそう得意ではない妹はこの冷たい水の中を流れに逆らって泳ぐなどと言う事は考えられないに違いない、だが説明していたら手遅れになる。
「ブラウスを脱ぎなさい!」
「え? だって」
 静枝はためらったが、姉が先にブラウスを脱いでいるのを見て、それに倣った。
 静子は二枚のブラウスの袖をしっかりと結びつけると、一方を静枝の胸に巻き、一方を自分の腰に巻きつけた。
「行くわよ!」
 静子は妹を抱きかかえるようにして水面に跳んだ。

 どれ位泳いだのだろうか……冷たい、体が痺れるようだ。
 腰に巻いたブラウスは妹の状態を伝えてくれる、妹も懸命に泳いでいるならばそんなに重さは感じない、しかし、妹が力尽きそうになるとブラウスは腰に食い込んで来る。
 その都度肩を揺さぶり、励まして、共に泳いで来たが……。
「静枝! しっかり泳ぐのよ! 静枝! 静枝!」
 反応がない……十も年上で身体も大きく、泳ぎは人一倍得意な自分でも、この冷たい水の中を流れに逆らって泳ぐのはもう限界に近い、妹はもう限界に来てしまっているのは明らかだ。
 吾妻橋のたもとで川から上がり、意識も定かでない静枝を抱えるようにして土手を登ったが、火の手は吾妻橋の東側と雷門方向、どちらからも迫っている。
(これまでか……)
 静子は全身から力が抜けて行くのを感じた。
 最後に見た母の目、最後に聴いた母の言葉が脳裏に浮かぶ。
(お母さん、ごめんね、無理だった……)
 そのままへたり込んだ静子の目に、人々を飲み込んで行く建物が飛び込んで来た。
 地下鉄浅草駅……地下に長い空間があるはず、助かるとすればあそこしかない。
 静子は最後の力を振り絞って静枝を抱き上げ、浅草駅になだれ込む人々の波に身を任せた……。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

「あたしは泳いでる途中で気を失っちゃったんだけど、後で静子姉から聞いたのよ、吾妻橋まで泳いで、地下鉄に逃げ込んで何とか助かったって」
「そうだったんだ……」
 和貴はようやく声を振り絞った。
 七十二年前、和貴にとっては遠い昔のようでもあるが、目の前の祖母は、正にその時代に生き、その惨劇を生き延びてここにいるのだ。
 そして第二次世界大戦……祖母は大東亜戦争と呼ぶが……は教科書やドラマの中の出来事ではなく、今の自分に繋がっている事を実感した。
 もしその時祖母が亡くなっていたなら母はこの世に生まれず、当然自分も生まれていなかったのだから。
『静子姉』には会った事はない、写真すら残っていないのだ。
 しかし、その時大伯母がいなかったら、その判断を誤っていたなら、曽祖母の覚悟がなかったら、その時この祖母が命を落としていた事は間違いない。

「静子姉にはその時命を救ってもらっただけじゃないのよ、戦争はまだ半年近く続いたし、戦後の混乱期を、のほほんと育った十二歳の子供が一人生きて行けるはずもなかったからね……」

 祖母の話はなおも続いた。
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