第5話 特殊慰安施設協会 RAA

文字数 6,046文字

 戦時下の暮らしも辛かったが、戦争が終わったからと言ってそれが一変したわけでもない、姉妹二人のバラック暮らしはもう限界に来ている、栄養不足は深刻で少しでも体調を崩すようなことがあれば命取りになりかねない、いや、確実に命を落とすだろうと思う。

 そんな中、静子は電柱に張られた一枚の張り紙に目を留め、釘付けになった。

【急告 特別女子従業員募集 衣食住および高給支給 前借ニモ応ズ 地方ヨリノ応募者ニハ交通費ヲ支給ス 東京都京橋区銀座○ノ○ 特殊慰安協会】
 電話番号も記されていた。

(そんな美味い話があるはずはない)と思う反面、(もし本当なら……『特殊慰安協会』? いかにもいかがわしい匂いがする……でも……)
 背に腹は代えられない、静子は藁をも掴む気持ちで書かれていた住所を訪ねた。

『日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性を求む』

 張り紙の仕事はそういうことだった。
 役人然とした男が回りくどい説明をしてくれたが、要約すれば……。
『進駐軍が大挙して入ってくると、性的欲求不満から日本人女性を片っ端から強姦しかねない、それを防ぐために『特殊慰安協会』を設立した、当協会に所属すれば衣食住に加えて高給も保証する、それを代償として進駐軍兵士相手に身体を売ってくれ、性的欲求のはけ口となってくれ』
 そう言うことだ。
『日本女性の貞操を守る防波堤になって欲しい』
 とも言っていた……まるで人柱か生贄だ、進駐軍は神様か何かなのだろうか?
 待遇に関しては確かに破格のものであることに偽りはなかった、そもそも『特殊慰安協会』は進駐軍からの要請で政府が設立に関わった組織だったのだ。

(冗談じゃない!)
 当然、そう思った。
 父母の仇に身体を売るなど、考えただけで身の毛がよだつ。
 実際に、その通りの言葉を投げつけて静子は席を蹴った。
 それでも『面接に来てくれたのだから』と交通費が支給された、受け取りたくはなかった、しかし、受け取らなければ歩いて帰るより他はない、いや、実際には歩いて来たし、帰りもそのつもりだった、たとえいくばくかでもお金は必要、そしてそれを得る術は持っていないし、職を得られる見込みもない、名目は何であれお金はいずれ食べ物に替えて胃袋に消えることになるだろう、食べることは生きること、電車賃などで浪費するわけには行かないのだ。

 数日後、食べ物がほとんど手に入らず、静子は特殊慰安協会で受け取った交通費で芋を買い、バラックに持ち帰った。
 貪るようにそれを食べる妹……はしたないなどと言うのは衣食足りた者の台詞だ、妹の食欲は生きている証、妹も懸命に生きようとしているのだ……それを目の当たりにした時、静子の腹は決まった。
(妹を守る事はあたしの戦い……日本女性の貞操を守る防波堤になること、それも戦いなんだ)と……。

 なけなしの硬貨をはたいて公衆電話から協会に電話をかけ、応募する旨を告げると、すぐにでも来て欲しいと言う。
 下宿の用意は出来ているし、前借にも応じるからと。

「静枝、引っ越すよ」
「え? どこに?」
「品川に仕事が見つかったのよ、これからは人間らしい暮らしが出来るよ」
 妹は無邪気に喜ぶ……仕事の内容はとても言えなかった、言えば喧嘩になるに決まっている、自分を軽蔑するかも知れない……しかし、自分はこの妹を死なせたくない、母とも約束した、妹も懸命に生きようとしているではないか……どんな事をしても生かさなければならない……。
 品川に移り住んでしばらく後、最初の数日こそ、お腹一杯食べることが出来、ちゃんと布団の上で眠れることに浮かれていた静枝だったが、同じ下宿に住む女性たちが一様に暗い顔をしていることに気付いた、姉も当然その一人だ。
 『仕事』は一日おき、しかし、仕事に出た日はぼろきれのように疲れ果て、魂が抜けたようになって帰って来る、そのくせ酷く機嫌が悪いのだ。
「お姉ちゃん、仕事ってなんなの?」
「それは……」
 できることなら告げたくはない、妹はまだ十二なのだ、こんな世の中の暗部を知らせたくないし、自分がその中に取り込まれてしまったことも知られたくない。
 だが、それも時間の問題だ、どのみちいつかは知らせなくてはならないこと、ならば早いに越した事はない。
 静子は特殊慰安協会、通称RAAのこと、仕事の内容をかいつまんで話した。
『防波堤』と言う表現も随所に使って。
 おそらく喧嘩になるだろうと思っていた、なじられ、軽蔑されるだろうと……それは辛いことだが、現実、こうするほかに生きる術は見つからない。
 静枝は目を丸くして聴いていたが、怒り出しはしなかった。
 むしろ目に涙を一杯にためて静子にすがりつき、姉の重荷になってしまっていたことを、それに気付かずにいた事を詫びた。
 そして『もうそんな仕事はしないで、またバラック暮らしに戻っても良いから、ここを出ようよ』と訴えた。
 しかし、静子は首を横に振らざるを得なかった。
「もう前借りしちゃってるからそれは無理、それに、バラックに戻ってどうするの? また魚や蛙を取って食べて生き延びるの? トタン板の上で寝るの? 私はもうあんな暮らしはまっぴらよ!」
 ……嘘だった。
 自分ひとりなら泥水をすすってでも生き延びられればそれで良いと思っていた、しかし、自分は母に妹を託されたのだ。
 それだけではない、たとえ敵兵に身体を売ったとしても魂まで売ってしまった訳ではない、『日本女性の防波堤となる』事、それは静子なりの戦なのだ、そしてそうする事を決めて身体を汚してしまった以上、今更元には戻らない……後に退く事はできないのだ。

 RAAには連日早朝から兵士が詰め掛けた。
 次から次へと『客』は引きも切らずにやって来る、一人の女性が一日に相手をする数は三十人から多い日には五十人にも上った。
 一方、RAAに所属する女性は千六百人あまり、一日おきの勤務として、毎日約三万人の兵士が欲望を満たしたことになる。
 実際、皆無ではないものの一般女性が強姦を受ける事件は一日四十件ほど、RAA発足前の一ヶ月間に比べて激減している、静子たちは立派に『防波堤』の役目を果たしていたのだ。
 しかし、RAAの存在が知れ渡るにはそう時間はかからず、その存在が知られるようになると世間の風当たりは冷たかった。
 RAAの『特別女子従業員』は他に生きる術を見つけられず、『日本女性の防波堤』となる事を甘んじて受け入れた女性がほとんどを占める、それでも進駐軍兵士に身を任せるなどと言う事は軽蔑の対象となり、白い目で見られ、後ろ指を指されたのだ。
 『文化人』を名乗る者からは、暴行事件がゼロにならないことを指して、RAAに『防波堤』の効果はない、そこで働く女たちは、ただ欲望に身を任せて金を稼ぐ卑しい女たちであるとまで言われた。
 身も心もぼろぼろにされながら、世間からの冷たい目にも耐えなくてはならない。
 性病に感染するリスクを背負い、粗悪な避妊具ゆえに妊娠の可能性も小さくない。
 心を病んで辞めて行く者も少なくないが、RAAで進駐軍兵士の相手を務めていたとわかれば軽蔑の対象とされてしまう。
 身体が仕事に耐え切れずに辞めて行く者も少なくない、性病や中絶は身体に大きな傷を残す。
 だが、同僚がぼろきれの様になって去って行くのを見ながらも、辞めるわけには行かない者もまた少なくない。
 一家の大黒柱を戦争で失った家族はいくらもあり、特別な技能を持たない女性が働ける場所は限られる、それでも家族を食べさせて行かなければならないならば、他にどんな道があると言うのか。
 静子もその一人だ、身も心も擦切らせながらも静子はRAAでの仕事を続けた。
 

 しかし、翌年三月、RAAは突然廃止となった。
 あくまで建前上だ、その証拠にその二年後となっても協会事務所は存続している、赤線組合組織事務所と名を変えて……要するに官から民へ移行されたに過ぎない。
 どのみち売春組織は存続して行く事を見越して、官が体面を繕っただけの事だ、RAAの存在を知った米大統領夫人の鶴の一声があったのだとも噂された、噂が本当だとしたらそれこそ上っ面の偽善だ。
 高い身分と贅沢な暮らしを保証された者が、ただ自分や家族の命をつなぐために心ならずも『仇』に身を売らざるを得ない者の何がわかると言うのだろうか、野良犬から『お腹を壊すから』とごみ箱を取り上げるようなものだ、それがもたらす結果を顧みない愚行、善意のつもりであるらしいことが余計に腹立たしい。
 実際、RAAで働いていた女性たちの多くはそのまま仕事を続けている、RAAが廃止された事は、身分を曖昧にされ、中間搾取を受けるようになっただけのこと、防波堤となる事を要請されながら、体面の為に見放されただけの事だった。
 そして人は彼女たちを『パンパン』と呼び、蔑んだ。
 RAAと言ういわば密室から、街角と言う野に放たれたことで余計に世間の目に晒されるようになったのだ。
 静子も相変わらず仕事を続けていた。
 勿論、静枝は工女でもなんでも良いから自分も働くと申し出たのだが、姉は進学しろと言って聞き入れなかった、せめて高等科を出ていればましな仕事に就けるからと。
 静枝はもうすぐ国民学校高等科を卒業する、自分は勉強嫌いだったが、静枝は成績も良い、望むなら上位の専門教育を受ける資格も得られるのだ。
 静枝は静子がこの仕事を続けて行くことを、今でも認めてはいない、事ある毎にもう辞めて欲しいと懇願する、辞めて欲しいのは姉が身を削っている事をひしひしと感じるからだ、『パンパン』である姉を蔑んだりする事は勿論しないし誰にもそれは許さない、囃し立てる者がいても、東京大空襲の夜からどうやって生き延びて来たのかをつぶさに話して聞かせる、『わかった、もう良い』などと言われても、追いかけてでも必ず最後まで言って聞かせる、それがせめてもの静枝の『戦い』なのだ。
 妹の将来を思いやって、夜な夜な心ならずも真っ赤なルージュを引く姉を蔑んだりできるものか、蔑ませてなるものか……。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

 終戦から二年後、一曲の歌が世に出た。
 『星の流れに』だ。

 ♪星の流れに身を占って 何処をねぐらに今日の宿
  荒む心でいるのじゃないが 泣けて涙も涸れ果てた
  こんな女に誰がした

  煙草ふかして口笛吹いて 当てもない夜のさすらいに
  人は見返る我が身は細る 町の火影の侘しさよ
  こんな女に誰がした

  飢えて今頃妹は何処に ひと目会いたいお母さん
  ルージュ哀しや唇噛めば 闇の夜風も泣いて吹く
  こんな女に誰がした

 (作詞:清水みのる 作曲:利根一郎 歌唱:菊池章子)

 その唄はパンパンと呼ばれる女性たちの間に瞬く間に広がり、静子も良く口ずさんだ。
 その歌を口ずさむと胸が締め付けられる思いだ、しかし、口ずさまずにいられない、胸が締め付けられた分、気持ちは少し軽く、楽になるような気がした。

▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽    ▽

「その最後のフレーズだけなら知ってるよ」
 和貴が言う。
「『こんな女に誰がした』って……大伯母さんは誰のせいだと思って歌ってたんだろう」
「一言で言ってしまえばアメリカね、直接的には間違いなくそうだもの、でもね、静子姉はアメリカ兵にもいろんな人がいるって言ってた、性欲を充たすだけ充たして、その実日本人を蔑んで人間扱いしない兵士もいれば、人間として、女として扱ってくれる人もいるって……、RAAに入ったばかりの頃は『アメリカ兵』ってひとくくりでしか見ていなかったけど、実際は色々だって……だから、どうなんだろうね、アメリカと日本が戦争したこと、そして日本がその戦争に負けたこと、そのせいだと思っていたのかもしれないね、もっと言うならばそんな時代に生まれ付いてしまったことかも知れないね……」
「『時代』……か……」
「『時代が違う』とか一言で言っちゃうと、話はこれで終わりって意味の決まり文句みたいに思われるけどね、時代の波に抗ってそれを変えられる人間なんていないと思う、時代を変えた偉人と言われるような人も、時代の変わり目に少しばかりきっかけを作っただけのような気がするよ。
 コップに水が溜まって溢れそうになっていた時にスプーンでコンと叩いて波紋を作るくらいのものね、時代はいつだって人間の欲望が作り出すんだと思う、時代ごとの常識や倫理観も人間が都合の良いように形作るものなんじゃないかしらね」
「それも力の強い人間がね」
「そう、あの当時、アメリカやヨーロッパの白人は、白人だけが神の子孫、優れた存在であって、異教を信じる有色人種は未開人だと考えてた、それが常識だったのね、だからアジアやアフリカ、南アメリカの国々を植民地として統治する事は当然だと考えていた、未開人に信仰と文明をもたらしてやるんだ、それが正義なんだとすらね、そしてその実、自分たちが豊かになるために植民地を奪い合った、時に敵対して、時に手を組んでね、日本はそれに最後まで抗ったけれど、結局は負けてしまった」
「あ……だからさっき『日本の過ちは戦争に負けたこと』だって……」
「そう……戦う事を決断した以上は負けてはいけなかった、白人が支配する世界と言う時代に抗うのなら時代を変えてしまわないといけなかった、そう思うのよ……最後まで抵抗したことで白人が支配する世界に一石は投じられたと思うけど、その代償も大きかった……」
「それが『白旗を揚げるタイミングを誤った』ってことなんだね?」
「そうよ……でも、誰にも本当のところはわからない、もう少し早くに降伏していれば広島や長崎、そして東京であれほど沢山の人が死ぬことはなかったのかも……でも、逆にそこまで抵抗したからこそ植民地にされずに済んだのかも……どっちが良かったのかなんてわからない、あたしはあの空襲でお父さんとお母さんを亡くしてるから、降伏は遅すぎたって思うだけかもしれないしね……」
「もし植民地になっていたらどうなってたのかな……」
「東南アジアにはかつて欧米の植民地だった国がいくつもあるわね」
「そうか、それと同じように……」
「多分同じではなかった気がするわ、戦わずに降参した国を治めるより抵抗して戦った国を治めるほうが難しいでしょう?」
「そうか、より厳しく統治しないと……」
「そう、力で押さえつけておかないと安心できない、どこまでもね」
「大伯母さんだって戦い続けてたんだもんね」
「そうよ、静子姉は戦い続けてくれたの、病に斃れるその日までね……」
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