第11話 再会と永久の別れ

文字数 5,932文字

 それから数年、幸子は病院で忙しい日々を送っていた。
 まだ薬も栄養も不足していたが、従軍していた医師も次々と還って来て戦地とは比べ物にならない、まともな医療に従事することができた。
 幸子は再び戦争を相手に戦い始めたのだ、戦争で傷ついた人々を救うと言う戦いを。

 そして……ある朝、病院に担ぎ込まれた女性を見るなり、幸子は息をのんだ。
「静子! 静子じゃないの!」
 病院で働き始め、住む場所も得られた幸子は立て札に自分の居所を書き加え、その後も何度も立て札に何か書き加えられていないか確かめに行ったし、ぽつりぽつりと戻って来る顔見知りに、彼らが知っていることは全部聞いた。
 両国橋から上流へ向かって泳ぎ出した姉妹……それが静子と静枝だと言うことには確信に近い思いを抱いていた、だが、数年たっても連絡がないと言うことは、無事にどこか安全な場所へ泳ぎ着くことは出来なかったのかも知れない、そう考えざるを得なかったのだ。
 親友が生きていたと言うのは嬉しい、元気な姿で会えたのなら抱き合って涙を流し無事を喜ぶところだ。
 だが、担ぎ込まれた静子の顔色は土気色、意識もなくかなり危ない状況だと言うことは医師の診断を待つまでもなくわかる。
「静子! しっかりして! 一体何があったの?」
 幸子はその手を握った……冷たい……。
「この人を見つけた時の状況は?」
 幸子は担ぎ込んで来た警官に尋ねた。
「公園に倒れていた、暴行を受けた上に犯されたんだろう、着衣ははぎ取られていた」
「なんてこと……」
「本官はこの女を知っている、何度もしょっ引いたからな……いわゆるパンパンだよ、進駐軍相手に体を売って金を得ている女だ、おおかた痴情のもつれでこうなったんだろうな」
 まるで静子の自業自得だと言いたいかのような物言い……。
「私はこの人を良く知ってる、親友なのよ! お金欲しさに身を売るような人じゃない!」
 警官は幸子の勢いに少し気圧された様子だったが、態度を変えることはなかった。
「パンパンはパンパンだ、体を売って金を得ている卑しい女には違いない」
 幸子は思わずカッとなった。
「誰のための警察!? 日本人のため? それとも進駐軍のため? 身を売ってまで懸命に生きている女一人守ってあげられないで……それでも日本の警察なの!?」
 幸子の剣幕に注目が集まり、警官は身の置き場に困っている様子だったが、幸子の怒りは収まらない。 
「あたしの兄はフィリピンからまだ還っていないわ! 日本を、日本人を守ろうと戦ったのよ! 兄だけじゃない、兵隊さんはみんなそう、それなのにあんたはそれでも日本男子なの? 兵隊さんたちの死を無駄にするつもり?」
 警官の胸倉を掴んだところで医師が飛んで来て割って入った。
「中山君、今は患者の処置が優先だ、酷い肺炎を起こしているぞ」
 幸子はそれを聞いてはっと我に返り、警官の胸倉を離した。
「知り合いか?」
「親友です、いえ、戦友の誓いを交わした仲です」
「では何としても助けないとな」
「はい」
 幸子は医師と共に静子を病室に運んで行き、警官はきまり悪そうにその場を後にした。

 湯たんぽで体を温め、ブドウ糖点滴を施す……本当ならつきっきりで看病してやりたいところだが、他にも患者はたくさんいる、幸子は断腸の思いで他の病室を回っていたが、翌朝、幸いにして静子は危機を脱し、意識も回復した。
「幸子? 幸子なのね?」
「そうよ、静子、良く生きててくれた……」
「幸子も……南方へ行ったと聞いてたから心配してた……立て札は見たわ、無事に帰って来てくれたのを知って嬉しかったけど、今のあたしは幸子に合わせる顔がなくて……」
「何言ってるの? 生きてるだけで、生き延びただけで充分に立派なことよ、何も恥じる事なんてない」
「ありがとう……ごめんね、すぐに知らせなくて……」
 親友同士、いや、戦友同士は固く手を握り合って再会を喜んだ、いや、再会をと言うよりもお互いにここまで生き延びて来られたことを喜び合ったのだ。

「そうだったの……私も復員して来て両国の有様を見た時は呆然としたわ……大好きな水泳が静子と静枝ちゃんの命を助けたのね……わたしもそう、静子と一緒に泳いで体力をつけてたから生きて戻れたの、飢えや風土病で命を落とした看護婦もたくさんいたのよ」
「でも良かった……こうして生きてまた会えるなんて……」

 二人の話は尽きないが、残酷なことに、静子には時間はそう長く残されてはいなかった。

「肺炎の原因はクラミジアだったよ」
 静子の検査を終えた医師は、まだ十五歳の静枝ではなく、幸子にその結果を伝えた。
「クラミジアは彼女自身が持っていたものだ、体力が落ちている中寒空に放置されたことで肺炎を引き起こしたのだろう」
「と言うことは……」
「残念ながら梅毒に冒されている、肝臓も調べたがかなり悪い、その上」
「その上?」
「このレントゲン写真を見てみたまえ」
「これは……」
「肝臓ガン、それも末期だ、残念だがもう手の施しようはないな」
「先生……静子は……」
「残された時間をできるだけ安楽に、有意義に過ごさせてあげなさい」
 やんわりとだがはっきりとした医師の宣告……幸子は言葉を失った。
 南方でも東京でも沢山の人々が亡くなるのを目の当たりにして来た、どの命も救いたいと願って尽力して来たことに嘘偽りはないが、肉親にも等しい親友となればやはりショックは大きい。
 だが、医療に携わる者として医師の見立てに誤りはないことも理解できる、静子に残された時間がわずかであることもわかってしまう……残酷なことだが。
 静子の病室に向かう途中、ふと涙がこぼれ出してしまい、幸子は歩を止めた。
 両国のあの惨状を生き延びた静子、静枝の命も救った静子、両親を失い、仕事どころか食べ物もない中、パンパンに身を堕とそうとも懸命に生き、静枝を守って来た静子……その強い静子が病魔に屈しようとしている。
(せっかくここまで生きて来たのに……そんなのってない……)
 そう思うのだが、事実は事実として受け止める他はない、せめて最期まで付いていてやるのが看護婦としての、そして親友としての務め……。
 幸子は涙を拭って再び歩き始めた。
 
「あら、静枝ちゃん」
「お世話になります」
 静子のベッドの傍らには静枝が付き添っていた。
『あの夜、妹を母から託されたの、生き延びて妹を守ることが自分の戦い』静子はそう言っていた、その気持ちは痛いほどわかる、兄も家族を、両国を、日本を守るのだと言って出征して行った。
 自分も少しでも兵隊さんの役に立ちたいと言う思いで看護婦になった、何かを守りたいと心から思った時、人は強くなれるものだ。
「顔色が良いわ、早く元気になってね」
「うん……」
 静枝の返事には力がなかった……ここまで気丈に生きてきた静枝にしては弱々しい。
(自分の体の状態を知っているのかな……)
 そんな思いも頭をよぎる。
 実際、あれほど肝臓をやられていれば動くのも億劫だったはずだ、『顔色が良い』とは言ったがそれは方便に過ぎなかった、黄疸の症状も明らかに出ている。
 幸子は看護婦として点滴を取り換える、中味はブドウ糖と抗生物質だ。
 体力の回復と梅毒の治療、ガンがなければそれで静子は良くなるはずだ、体力も気力も備わっているのだから……だがガンに効く薬はまだない、手術に頼るほかないのだがレントゲン写真を見ればもう手が付けられる状況にないことは幸子にもわかっている。
 医療の、そして自分の無力を呪うが幸子にはどうにもならない、医師が言った通り、残された時間を有意義に、安楽に送らせてやることしか……。


「幸子さん」
 翌日、幸子は廊下で静枝に呼び止められた。
「今日もお見舞い? 感心ね」
「お姉ちゃんの具合……どうなんですか?」
「……」
 言葉に詰まった、ガンのことは本人にも伝えていない、伝えるとすれば静枝だが受け止められるだろうか……。
「本当のところ、教えてください」
 幸子は静枝の真剣な目をしばしの間真っ直ぐに見つめ、受け止められるだろうと判断した。
「肺炎はもう良くなってる、それは実は梅毒から来てたんだけど、そっちも抗生物質で治療できる」
「それだけじゃないんですね?」
「ええ、一番厄介なのは肝臓ガン、正直なところこれはもう手が付けられないの」
「治らない……そういうことですか?」
「手術すればちょっとの間は改善するかも……でもあの段階まで進んじゃってると転移は避けられない、肝臓のガンも綺麗に取り除くことはできないの、血管が集まっているところだから、それほどの手術に耐えられる体力ももう……」
「あと……どれくらい?」
「二か月かも知れないし一か月かもしれない……」
「……そうですか……」
 静枝が肩を落としたのは見て取れた、しかしその華奢な肩に現実をしっかり受け止める強さもまた見て取れた。

 静子はそれから一月余りを病院で過ごした。
 自分の病状については聞かなかった、聞かなくてもわかっていたのだろう。
 そして、気分が良い日には時折病院の庭に出てお日様に当たっていた、夜の女として生きてきた静子には心地良かったのだろう、そしてそんな時、決まってあの歌を口ずさんでいた。

 ♪星の流れに身を占って 何処をねぐらに今日の宿
  荒む心でいるのじゃないが 泣けて涙も涸れ果てた
  こんな女に誰がした

  煙草ふかして口笛吹いて 当てもない夜のさすらいに
  人は見返る我が身は細る 町の火影の侘しさよ
  こんな女に誰がした

  飢えて今頃妹は何処に ひと目会いたいお母さん
  ルージュ哀しや唇噛めば 闇の夜風も泣いて吹く
  こんな女に誰がした

 (作詞:清水みのる 作曲:利根一郎 歌唱:菊池章子)

 実際の静子はこの歌に出て来る女よりも強く生きて、妹を守り抜いた。
 日本女性の防波堤になる覚悟を決めてRAAに志願した。
 だが、この歌のように涙が枯れ果てるまで泣き、真っ赤なルージュを引いた唇をかみしめることもあったかもしれない、人は気を張ったままでは生きられない、この歌は張り詰めた心をふと緩めてくれる歌だったのだろう。
 そして……『こんな女に誰がした』……静子はどう思っているのだろうか……。

 臨終の時、静子は何も言わずに息を引き取った。
 命を懸けて守り抜いた妹を幸子に託したい、そんな気持ちはあったのだろうが、それも口にはしなかった。
 妹はもう自分で生きて行けると思ったのかもしれない、混乱したままの世の中で幸子の負担になることは言えなかったのかもしれない。
 様々な思いはあったのだろう……だが静子はそれを全て心の中に抱えたまま旅立って行った。
 静枝も姉の臨終に立ち会いながら、涙は流さなかった。
 悲しくないはずもない、しかしここまで自分を支え続けてくれた姉に弱気な姿を見せてはいけないと思ったのだろう……。

 僧侶の読経が静かに流れている。
 葬儀らしいところと言えばそれだけだった。
 火葬場で死出の寝床に横たわる静子の亡骸……。
 僧侶に促されて最後の線香が手向けられると、釜の蓋が開けられ燃え盛る炎が目に飛び込んで来た。
 その時。
「お姉ちゃん!」
 静枝がそう叫んで火の中に飛び込もうとする、幸子はとっさに背後から抱きかかえた。
「離して! あたしもお姉ちゃんと一緒に逝く」
「駄目よ! 静枝ちゃん!」
「離して! 後生だから離して! あたし、もう生きていけない、生きていたくなんかない!」
 その叫びを聞いて、幸子は静枝を引き倒して馬乗りになった。
「馬鹿! 静枝ちゃんの馬鹿! 静子の気持ちがわからないの? 必死であなたを守って、生かして来た気持ちが!」
 それを聞くともがいていた静子の体から力が抜けた。
「いい? 良く聴いて! 聴いてしっかり思い出しなさい! 両国を焼き尽くした空襲の夜、静子はあなたを引っ張って泳いだんでしょう? 地下鉄にあなたを担ぎこんで助けたんでしょう? 河原にバラックを建てて二人で生き延びたんでしょう? 進駐軍に体を売ってまであなたに食べさせたんでしょう? 中学校にも上げたんでしょう? 今あなたが死んだらそれは全部無駄になるの! 静子が歯を噛みしめて、唇を噛んで頑張って来たことが全部無駄になるの!」
 静枝はとめどなく涙を流しながら幸子の顔をじっと見つめていた。
 幸子もその顔を見て語気を緩めた。
「静子は言ってたわ、死んだら負けだって思ったって、あなたを死なせたら負けだって思ったって……静子は負けなかった、そうでしょ? 病には負けてしまったけど、短い生涯だったけど、戦争には、アメリカには負けずに生き抜いたのよ、なのに今、あなたが負けてしまって良いの?」
 静枝はかぶりを振った、しかし……。
「でもあたし、独りぼっちになっちゃった、どうやって生きて行けばいいかわからない……」
「独りぼっちはあたしも同じ、両親の消息も兄の消息も判らない……おそらく駄目でしょうね、どこかで生きていると信じたいけど、正直なところもう信じられない……でもあたしは生きるわよ、生きて看護婦として一人でも多くの人の命を救いたい、フィリピンで死んだ同僚の分まで、それがあたしの戦い、あたしはそう思ってる」
「……あたしも……」
「何?」
「あたしも看護婦さんになりたい……」
「ええ」
「なれるかな……」
「ええ、ええ、なれるわ、きっと……いい? 良く聴いてね、あなたは確かに独りぼっちになっちゃったわ、でもあたしもとっくに独りぼっち……独りぼっちはもう沢山なの、だからこれからは二人で生きましょう、あなた、あたしの妹になって頂戴」
「え?」
「看護婦になるには高等学校に行って、そのあと看護学校で学ばなきゃいけないの、あなた、頑張れるわよね?」
「うん……でもお金が……」
「あなた、あたしの妹になってくれるわよね?」
「……うん……」
「だったらあたしが学校に行かせてあげる、あたしの下宿に一緒に住んで勉強なさい、そして立派な看護婦になりなさい、静子もきっと喜んでくれるわ、それがあなたの戦い、静子の戦いをあなたが引き継ぐの、いい? その覚悟ができる?」
「……はい……」
 静枝がはっきりと頷くのを見て、幸子は静枝を助け起こした。
 そして、静子の亡骸を焼く炎に照らされながら抱き合い、姉妹の契りを結んだ……。
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