後編
文字数 1,794文字
「不細工な蝦蟇め、鯉の道行 を邪魔しおって。覚悟しろ」
鯉のぼりがにやりと笑った、と思う間にその鱗 がミラーボールのごとくキラキラと輝き始めた。明るくなる部屋の中で、二体の妖獣 が鮮やかに浮かび上がる。
フオッ。
化け物鯉が口をすぼめて鏡の前を覆っていたセーラー服を吹き飛ばした。
「ぐ、ぐおっ」
反対に青い顔をして、硬直したのはヨーガマ。
「どうしたの?」
「わ、わが身のあまりの醜 さに……」
鯉のぼりの鱗が作り出すまばゆい光に照らされて、鏡に映った己の姿。四六の蝦蟇は総身 から、たら~り、たらりと脂汗を流し始めた。
「はははは、妖 しの物と言えども所詮 蝦蟇。己の醜 さを目の当たりにして、恐れおののくが良い」
滝江を飲み込まんと勢いを増して襲い掛かかってくる真鯉。物差し丸で防戦するも、汗のためにヌルヌルと安定しない足場の上では次第に滝夜叉姫の形勢も不利となる。
しかし。
「動きが?」
徐々に鯉のぼりの動くスピードが遅くなっているのに滝江は気がついた。
良く見ると、飛び散る蝦蟇の油が染み込み胴体がべとべとに粘っている。
油の重さでバランスを崩し浮き上がることもままならなくなった真鯉の尻尾が、とうとう床に張り付いた。
「いただき!」
剣が空を走り、鱗をばらりと剥 ぎ飛ばした。真鯉は悲鳴を上げて床をのたうち回る。しかし、動けば動くほど床に広がった蝦蟇の油を吸い込んだ鯉のぼりは、やがて完全に動きを止めた。
「覚悟おし、この物の怪っ」
物差し丸がのたうつ化け物鯉を貫 こうとした、その瞬間。
「お待ちください!」
滑るようにして部屋に入ってきたのは、赤い色をした鯉のぼりだった。
「今度は緋鯉 っ?」
滝江がすっ頓狂な声を上げる。
「馬鹿な亭主ですが、お許しくださいませっ」
真鯉をかばうように、緋鯉は自らの身体を投げ打って命乞いをした。
「あれは、十年前。私達の可愛い子がカラスにずたずたに破かれてしまった時でございます。年端もいかぬお嬢様が捨てられようとした私たちの子供を縫って、ご両親に命乞いをしてくださいました。そのお姿を見たこの宿六 が身の程知らずにもお嬢様に懸想 した次第。恥ずかしながら、子供が傷を負ったのは母親の監督不行き届きのせいだと私をなじり、あれ以来夫婦仲も冷えこんで……」
油にまみれた真鯉はしゅん、としてうなだれている。
「恋の病は、人の良いアホ亭主であったわが夫を妖 に変え、恩人であるお嬢様を逆恨み。ああ、情けなや」
しかし、緋鯉はきっと強い目で滝江を見上げていった。
「しかし、馬鹿でもアホでも我が夫。死ぬときは一緒と決めておりまする。亭主を切るならまず私からお切りください」
「お、お前」
涙と蝦蟇の汗でどろどろになりながら、震える声で真鯉が呟く。
「子供の怪我に動揺してお前に八つ当たりし、その上心変わりまでしたこの俺に情けをかけてくれるのか。ああ、俺はなんといううつけ者だ。お前という素晴らしい妻が居ながら、浮気なんぞして。お、俺が悪かった、すまなかった――」
緋鯉に巻き付いて、真鯉は大きな瞳からぼろぼろと涙を流した。
「もう、化けて出ちゃだめよ。いい奥さんじゃない、大切になさい」
口元に笑みを浮かべ、滝江は物差し丸を下ろす。
「あ、ありがとうございます」
鯉のぼりの夫婦は頭を擦り付けんばかりにして、礼をした。
「ご亭主の傷は我が油を付けると良い。妖 には効果てきめん、どんな傷でもたちどころに改善すること請け合いだ。敵に塩を送るという言葉があるが、今宵は油を贈ることとしよう」
ヨーガマの言葉に3匹は笑い声を上げる。しかしキョトンと立ちすくむ滝江。
「ねえ、敵に塩を送るってどういう意味?」
「もっとお勉強をなさってください、姫」
ヨーガマはがっくりと首を落としてつぶやいた。
五月の空にうす汚れた真鯉と緋鯉が泳ぐ。
「あれじゃあ、他の人に差し上げられないわね」
セーラー服の胸ポケットに忍ばせた蝦蟇の人形に滝江はささやいた。
あの夜は3匹と一人、油だらけになった部屋の掃除で大変だったのだ。
「しっかし、まあ早業だこと……」
滝江が以前補修 した子供の鯉の下に、もう一匹新しい鯉が泳いでいる。
「鯉が増えてる~っ、ってお母さんの悲鳴。ご近所にとどろいてたわよ」
「喧嘩の後の子作りは極めて心地良い、といいますからな。夫婦円満良いことです」
ヨーガマがこそりとつぶやく。
「まっ」思わず赤くなる滝夜叉姫であった。
鯉のぼりがにやりと笑った、と思う間にその
フオッ。
化け物鯉が口をすぼめて鏡の前を覆っていたセーラー服を吹き飛ばした。
「ぐ、ぐおっ」
反対に青い顔をして、硬直したのはヨーガマ。
「どうしたの?」
「わ、わが身のあまりの
鯉のぼりの鱗が作り出すまばゆい光に照らされて、鏡に映った己の姿。四六の蝦蟇は
「はははは、
滝江を飲み込まんと勢いを増して襲い掛かかってくる真鯉。物差し丸で防戦するも、汗のためにヌルヌルと安定しない足場の上では次第に滝夜叉姫の形勢も不利となる。
しかし。
「動きが?」
徐々に鯉のぼりの動くスピードが遅くなっているのに滝江は気がついた。
良く見ると、飛び散る蝦蟇の油が染み込み胴体がべとべとに粘っている。
油の重さでバランスを崩し浮き上がることもままならなくなった真鯉の尻尾が、とうとう床に張り付いた。
「いただき!」
剣が空を走り、鱗をばらりと
「覚悟おし、この物の怪っ」
物差し丸がのたうつ化け物鯉を
「お待ちください!」
滑るようにして部屋に入ってきたのは、赤い色をした鯉のぼりだった。
「今度は
滝江がすっ頓狂な声を上げる。
「馬鹿な亭主ですが、お許しくださいませっ」
真鯉をかばうように、緋鯉は自らの身体を投げ打って命乞いをした。
「あれは、十年前。私達の可愛い子がカラスにずたずたに破かれてしまった時でございます。年端もいかぬお嬢様が捨てられようとした私たちの子供を縫って、ご両親に命乞いをしてくださいました。そのお姿を見たこの
油にまみれた真鯉はしゅん、としてうなだれている。
「恋の病は、人の良いアホ亭主であったわが夫を
しかし、緋鯉はきっと強い目で滝江を見上げていった。
「しかし、馬鹿でもアホでも我が夫。死ぬときは一緒と決めておりまする。亭主を切るならまず私からお切りください」
「お、お前」
涙と蝦蟇の汗でどろどろになりながら、震える声で真鯉が呟く。
「子供の怪我に動揺してお前に八つ当たりし、その上心変わりまでしたこの俺に情けをかけてくれるのか。ああ、俺はなんといううつけ者だ。お前という素晴らしい妻が居ながら、浮気なんぞして。お、俺が悪かった、すまなかった――」
緋鯉に巻き付いて、真鯉は大きな瞳からぼろぼろと涙を流した。
「もう、化けて出ちゃだめよ。いい奥さんじゃない、大切になさい」
口元に笑みを浮かべ、滝江は物差し丸を下ろす。
「あ、ありがとうございます」
鯉のぼりの夫婦は頭を擦り付けんばかりにして、礼をした。
「ご亭主の傷は我が油を付けると良い。
ヨーガマの言葉に3匹は笑い声を上げる。しかしキョトンと立ちすくむ滝江。
「ねえ、敵に塩を送るってどういう意味?」
「もっとお勉強をなさってください、姫」
ヨーガマはがっくりと首を落としてつぶやいた。
五月の空にうす汚れた真鯉と緋鯉が泳ぐ。
「あれじゃあ、他の人に差し上げられないわね」
セーラー服の胸ポケットに忍ばせた蝦蟇の人形に滝江はささやいた。
あの夜は3匹と一人、油だらけになった部屋の掃除で大変だったのだ。
「しっかし、まあ早業だこと……」
滝江が以前
「鯉が増えてる~っ、ってお母さんの悲鳴。ご近所にとどろいてたわよ」
「喧嘩の後の子作りは極めて心地良い、といいますからな。夫婦円満良いことです」
ヨーガマがこそりとつぶやく。
「まっ」思わず赤くなる滝夜叉姫であった。