中編

文字数 2,458文字

 叫び声を上げても声は風に吹き消される。助けを求めて滝江の視線は宙をさまよった。
 ふと、滝江の視線が蝦蟇(がま)の置物の上に止まる。
 蝦蟇は、鯉の作り出す乱流に巻かれて散乱する本やぬいぐるみをしり目に、壁に作り付けられた本箱の上に微動だにせず鎮座していた。その姿は妙に不自然で、滝江に向けられた物言いたげな瞳は、まるで何かを訴えているかのようであった。

 あの瞳。
 眠たげで、濁って、どこか不気味な光を(たた)えた、あの瞳。
 滝江の頭の奥底で、何かが火花を上げた。

――さあ、姫様。我が名を。

 突然、脳裏に響く声。
 この声は知っている。
 どこか、どこか、遠い昔。
 ああ、思い出せない。混乱する頭を抱えて滝江はベッドにしがみついたまま、うずくまる。
 鯉の起こす気流の渦がますます激しくなり、滝江のフリルのパジャマがめくれ上がった。白い背中が闇の中で浮かび上がる。

「これは眼福(がんぷく)

 鯉の目がとろんと妖しく光る。

「さあ、我とともに魔界への道行きに、いざ」

――姫様、我が名をお呼びください。

 滝江の頭に再び声が響いた。
 妖しい蝦蟇の目がまっすぐにこちらを見ている。
 妖しい、蝦蟇。

 お、お前は……。滝江の瞳が大きく開かれた。
 ぐらりと動いて、ベッドが持ち上がる。
 ベッドごと鯉の口に飲み込まれる、その寸前。

「た、助けてっ、ヨーガマ!」

 無意識に口から出たのは、滝江の思いもよらぬ名前であった。
 しかし、その瞬間。
 蝦蟇の目がフラッシュをたいたように強く光り、部屋中に煙が立ちこめた。そして、薄まる煙の中から現れ出でたのは巨大な蝦蟇。

「やっと我が名を思い出していただけましたか、姫様!」

 その言葉に導かれるように滝江の身体が自然に浮いた。同時に無人のベッドが、牙の生えた漆黒に飲み込まれていく。
 滝江は空中で一回転すると、蝦蟇の背中にふわりと着地した。足の裏にひやりと蝦蟇の湿った感触がしみわたる。蝦蟇の皮膚は、ともすれば吹き飛ばされそうになる滝江を支えるかのように、ぺっとりと滝江の足に吸い付いた。

「おお、さすが姫様。お身体は覚えておられましたな、見事でございます」

「お、お前も妖怪だったの?」

「私はあなた様の(しもべ)筑波山麓(つくばさんろく)四六(しろく)妖蝦蟇(ようがま)。そしてあなた様こそ我が主人、平将門様が娘、滝夜叉姫(たきやしゃひめ)の生まれ変わり!」

「た、滝夜叉(たきやしゃ)?」

 蝦蟇が返事をする間も無く、するどい牙をむいた鯉が襲い掛かる。

「ええい、控えい、この化け物鯉め。このお方は将門様のお嬢様であるぞ」

 ヨーガマの叱責にひるんで、化け物鯉は動きを止める。

「な、なにっ。日本三大怨霊(おんりょう)の一人、将門様の――」

「ねえ、将門って誰なの?」

 背中の上から降ってきた想定外の言葉に、ヨーガマは絶句した。

「姫、高校の日本史で出てきたでしょう……」

 そういえばこの姫君は勉強嫌いだった。ヨーガマは学校から帰るなり、鞄をそのままにしてスマホにかじりつく姫君の姿を思い出す。

「平将門様は平安時代の武将で、関東一円を統治し朝廷からの独立を目指した偉大なお方です。残念ながら朝廷との戦いに負けて討ち取られましたが、その首は体を失った今も(じゅ)となって都を守護しておられまする」

 ヨーガマはチラリと空中に浮かぶ鯉を見るとつぶやいた。

「身分違いも(はなは)だしい。将門様の姫君、滝夜叉姫はお前などが懸想(けそう)してよいお方ではないのだ」

 フオオオオオオッ。

 鯉は徐々に黒い体をマグマのごとく赤く染め、体を震わせる。

「そのような高貴な方の娘御とは。身分違いの恋とは、ますます興奮! 第一この現代において、身分など関係ないわ。引っ込んでいろ、この頭の固い化け蝦蟇(がま)野郎め」

 言葉とともにふたたび旋風が室内に荒れ狂う。風は大きな渦となり、鯉の口に様々な物を引きずり込んでいった。机の上の鞄が横倒しになり、明日使う裁縫セットが散乱する。巻き尺や針の刺さった針山が空中を舞った。

「危ないじゃない、やめなさいっ」

 滝江は思わず手で頭をかばう。
 ヨーガマは吹き飛ばされまいと、床に張り付くが、凄まじい鯉の吸引力にじりじりと引きずられていく。

「何か妖術はないの? ヨーガマっ」

「わ、私は姫様の助言役です。戦力的に言ってみれば、ま、単なる乗り物でして……」

 姫のお守り役というわりには、蝦蟇の返事は頼りない。
 鯉の口が大きく開き、今にも蝦蟇ごと滝江を飲み込もうと襲いかかってきた。


 その時、彼女の眼前に何かが吹き飛ばされて来た。無意識のうちに滝江の右手が開き、それをつかむ。
 視界が生暖かい暗闇に閉ざされようとした寸前、滝江は無我夢中で右手を振った。

 ブフォオオオオッ。

 鯉はドーナツのような姿で回転しながら、部屋の隅まではね跳んだ。

「イタっ、イタっ、イタタタタターっ」

 よく見ると鯉の口の端がわずかに切れている。大きな傷ではないが、鯉は痛みに敏感な(たち)らしい。

 フ、フオッ。

 口元が切れたことで、口を大きく開けられなくなり十分な吸い込みができなくなったのか、吹きすさんでいた旋風が止んだ。

「こ、これは」

 滝江の右手に握られていたのは、裁縫用の長い物差し。
 いや、元物差しと言ったほうがよいか。彼女の手には目盛りの付いた銀色の太刀が握られていた。
 いつの間にか、外は土砂降りとなっている。
 稲光がひらめき、轟音とともに蝦蟇の上に立ち剣を構えた滝江の姿が黒いシルエットとなって壁に浮かび上がった。
 ピンクのパジャマに不似合いな、乱れた長い髪が妖しい雰囲気をいや増している。

「それは姫様の妖力で変化したのでしょう。名前をお授けなさい、さすればその剣は姫様の(しもべ)となりましょう」

 ヨーガマが牽制(けんせい)するように化け物鯉を睨み付けながら、滝江に(うなが)す。

「じゃ、も、物差し丸と」

「……まんまですな」

 ヨーガマの声には、若干の失望の響きがこめられていた。

「姫は昔から、命名のセンスがありませんでした。だから私も妖しい蝦蟇だからヨーガマなどという、語感の悪い名前にされてしまって……」

「悪かったわね、センスが無くて」

 (いさか)いをしている間にダメージを回復したのか真鯉(まごい)がむくむくと起きだしてきた。
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