前編
文字数 2,758文字
何かが強く光ったような気がして滝江 は目を覚ました。
目をこすりながらベッドから上半身を起こして部屋の中を見回す。
薄いカーテンから漏れる月の光に照らされて、滝江の勉強机の上には通学用のリュックと明日の家庭科に使う裁縫セットが入った手提げがぼんやりと浮かび上がっている。
机の横の壁には、壁に取り付けられた四角い鏡。
鏡の上にはハンガー用のフックが取り付けられており、鏡を覆うように赤いリボンのセーラー服がつるされていた。寝ている時に姿が鏡に映ると運気を吸い取るから、布で覆っておく方がいいと祖母に言われてから、滝江は必ず夜には鏡の前に服を掛けておくことにしている。
その横にはつくりつけの本棚。残念ながら、勉強があまり好きではない滝江の本棚は教科書以外には、申し訳程度のマンガが立てかけられているばかりだ。
そのほかにはたいした家具もない、殺風景な六畳間。
いつもとは違う闇に沈んだ無彩色の世界だが、いつもと変らぬ滝江の部屋だ。
「気のせいかしら」
闇に慣れてきた目にふと、本棚の上の小さな置物が映った。古ぼけた石でできた、手に乗るほどの蝦蟇 の人形。黒に近い茶色で、肩から横腹にかけてすっと赤い帯のような模様が入っている。
これは滝江が生まれてから1ヶ月めの初宮参り から帰ったとき、産着 から転がり落ちてきたといういわく付の蝦蟇だ。きっと滝江の守り神だろうという親の言葉を信じて時々ほこりを拭 ってやっていたが、正直ちょっと不気味で最近は本棚の上にあげて視界に入らないようにしていた。
その蝦蟇の金色の目がじっ、と滝江のほうを見ている。
光が来たのはこちらの方向だ。まさか、この蝦蟇の目が……?
滝江は妙な考えを払うように、ぶんぶんと顔を振る。
「気のせいよ。もう寝ちゃおう」
と、呟いたその時である。
フオオオオオッ。
まるで紙袋に勢い良く風を吹き込んだかのような音が、机とは反対側の隅っこから聞こえてきた。
思わず布団から飛び出すフリルの付いたピンクのパジャマ姿の滝江。
「相変わらず、胸キュンの可愛さ……」
低い声が部屋の隅にうずくまる黒い塊から響いてきた。
「だ、誰」
息を飲んで、滝江はその漆黒を凝視した。
そこには。
「あんた……真鯉 じゃない」
闇に慣れた滝江の目に飛び込んできたのは、口を大きく開いた鯉のぼりが隅っこで窮屈 そうにとぐろを巻いている姿だった。それは、小さい頃から5月になると滝江の家で飾ってきた、見慣れた鯉のぼり。いつもは一階の物置にしまい込まれているはずなのに、なぜ。
「こ、これは夢? まぼろし?」
鯉のぼりはぶんぶんと顔を振った。
瞬きをしても、頬をつねっても、鯉のぼりは消えない。
周りを見回しても、操っている糸も無く、人の気配もない。
と、すればこれはやっぱり現実?
まさか、家の鯉のぼりが妖怪になったの?
滝江はゆっくりと、混乱する頭をまとめる。
その間、鯉のぼりの化け物は、何か言いたげに上目遣いでじっと滝江を見つめている。
そのどこかすっとぼけた丸いキョトンとした目を見ていると、滝江は徐々に落ち着きを取り戻してきた。
まあ、ほかでもない。五月の節句ごと、竿 にくくりつけて上げてきたなじみの鯉のぼりだ、化け物だとしても怖がる理由がない。
小さい頃から滝江は妙に豪胆 であった。常にマイペースで少々のことには動じない彼女は、軽く首をかしげて鯉のぼりの化け物にたずねた。
「ねえ、何で無理してとぐろ巻いているの?」
「そこ? 質問するのはそこですかっ?」
きっと『きゃあ、何なの君はっ』系の可愛いリアクションを期待していたのだろう、鯉のぼりは顔をしかめる。
「うん、気になるの」
滝江は無表情でうなずく。
確かに、鯉のぼりは短い胴をひねって無理矢理とぐろを巻いているため、まるで出来損ないのソフトクリームのようだった。
「昔、玩具屋 の展示で横にいた、しゅっとした飾り物がこう座っておりました。ああ、なんと威厳のある凜々しい座り方だと思い、それ以来まねをしているのでございます。おそらく同族と思われますが、奴は出雲のほうに行ったと風の噂で――」
口を閉じることができないからだろうか、鯉はどこか締まりの無い声で答えた。
「そりゃ、オロチだわよ。お神楽 の。いいこと、鯉のぼりはとぐろなんて巻かないの」
滝江は吹き出した。
それを見た途端、鯉のぼりの血相が変わった。
「所詮、私はつまらぬ鯉のぼり。オロチのまねをしたって、オロチのように格好良くはなれないということですか……」
鯉のぼりは悔しそうに身悶 えした。
「そんなことは言ってないわよ、鯉のぼりには鯉のぼりの可愛らしさがあるじゃない」
「ああ、お優しい」
紙袋に風が吹き込んだような声で言うと、鯉のぼりは頭を下げて身を震わせた。
「そう言えば確か、あんた大久保さんの家に差し上げる予定だったわよね。お別れでも言いに来てくれたの?」
滝江の弟も中学生になり、もう鯉のぼりに関心を向ける事も無くなった。小さい男の子の居る親戚にそろそろ譲ろうかという話が先日出ていたばかりだ。
滝江の言葉に鯉のぼりはいきなり宙に浮かぶとぐるぐると部屋を飛び回り始めた。
風をはらんでパンパンに膨らんだ鯉の体が、徐々に鈍く光り始める。
「ちょっと、ホコリが立つじゃない、ここは部屋の中なんだからバタバタ泳がないでよっ」
滝江は天井から落ちてくるホコリを払って、真鯉をにらみつけた。
「ああ、切ない。この鯉心 をわかっていただいて無かったなんて」
「何よ、それ」
「あなたが幼少のころから恋焦がれ、愛し続けたこの私を捨てるおつもりか」
丸っこい目が急に三角につりあがり、鱗 が逆立った。
「ちょっと、何言ってるのかよくわからないんだけど」
滝江のつぶやきは、鯉の怒りに油を注いだようだった。
「ええい、我が心のわからぬ鈍感なお嬢様だ。可愛さ余って憎さ百倍、我とともに魔界の道行 きにお連れ申す」
魔の本性を現した鯉のぼりは左右にくねくねと体を動かしながら滝江のほうににじり寄ってきた。
「きゃあ、来ないでっ」
ぽかんと大きく開いたその鯉の口には、まるで別次元の入り口のように不気味な漆黒 の空間が広がっている。化け物鯉の特別仕様なのか、喉の奥にはギラリと尖った歯が並んでいた。
気の強い滝江もさすがに叫び声を上げる。
「誰か――、誰か来てえっ」
しかし、返事がない。
「いくら叫んでもムダだ。この部屋はもう結界の中だ」
フオオオオオッ。
妖魔の様相を呈した鯉は、口をラッパのように広げて大きく息を吸いこんだ。
轟音とともに、部屋中の軽い小物がまるで坂から転がり落ちるように鯉の中に吸い込まれていく。掛け布団が飛ばされ、慌てて、ベッドにしがみ付く滝江。しかし、ベッドごとじりじりと身体は鯉の口に引きずられていった。
目をこすりながらベッドから上半身を起こして部屋の中を見回す。
薄いカーテンから漏れる月の光に照らされて、滝江の勉強机の上には通学用のリュックと明日の家庭科に使う裁縫セットが入った手提げがぼんやりと浮かび上がっている。
机の横の壁には、壁に取り付けられた四角い鏡。
鏡の上にはハンガー用のフックが取り付けられており、鏡を覆うように赤いリボンのセーラー服がつるされていた。寝ている時に姿が鏡に映ると運気を吸い取るから、布で覆っておく方がいいと祖母に言われてから、滝江は必ず夜には鏡の前に服を掛けておくことにしている。
その横にはつくりつけの本棚。残念ながら、勉強があまり好きではない滝江の本棚は教科書以外には、申し訳程度のマンガが立てかけられているばかりだ。
そのほかにはたいした家具もない、殺風景な六畳間。
いつもとは違う闇に沈んだ無彩色の世界だが、いつもと変らぬ滝江の部屋だ。
「気のせいかしら」
闇に慣れてきた目にふと、本棚の上の小さな置物が映った。古ぼけた石でできた、手に乗るほどの
これは滝江が生まれてから1ヶ月めの
その蝦蟇の金色の目がじっ、と滝江のほうを見ている。
光が来たのはこちらの方向だ。まさか、この蝦蟇の目が……?
滝江は妙な考えを払うように、ぶんぶんと顔を振る。
「気のせいよ。もう寝ちゃおう」
と、呟いたその時である。
フオオオオオッ。
まるで紙袋に勢い良く風を吹き込んだかのような音が、机とは反対側の隅っこから聞こえてきた。
思わず布団から飛び出すフリルの付いたピンクのパジャマ姿の滝江。
「相変わらず、胸キュンの可愛さ……」
低い声が部屋の隅にうずくまる黒い塊から響いてきた。
「だ、誰」
息を飲んで、滝江はその漆黒を凝視した。
そこには。
「あんた……
闇に慣れた滝江の目に飛び込んできたのは、口を大きく開いた鯉のぼりが隅っこで
「こ、これは夢? まぼろし?」
鯉のぼりはぶんぶんと顔を振った。
瞬きをしても、頬をつねっても、鯉のぼりは消えない。
周りを見回しても、操っている糸も無く、人の気配もない。
と、すればこれはやっぱり現実?
まさか、家の鯉のぼりが妖怪になったの?
滝江はゆっくりと、混乱する頭をまとめる。
その間、鯉のぼりの化け物は、何か言いたげに上目遣いでじっと滝江を見つめている。
そのどこかすっとぼけた丸いキョトンとした目を見ていると、滝江は徐々に落ち着きを取り戻してきた。
まあ、ほかでもない。五月の節句ごと、
小さい頃から滝江は妙に
「ねえ、何で無理してとぐろ巻いているの?」
「そこ? 質問するのはそこですかっ?」
きっと『きゃあ、何なの君はっ』系の可愛いリアクションを期待していたのだろう、鯉のぼりは顔をしかめる。
「うん、気になるの」
滝江は無表情でうなずく。
確かに、鯉のぼりは短い胴をひねって無理矢理とぐろを巻いているため、まるで出来損ないのソフトクリームのようだった。
「昔、
口を閉じることができないからだろうか、鯉はどこか締まりの無い声で答えた。
「そりゃ、オロチだわよ。お
滝江は吹き出した。
それを見た途端、鯉のぼりの血相が変わった。
「所詮、私はつまらぬ鯉のぼり。オロチのまねをしたって、オロチのように格好良くはなれないということですか……」
鯉のぼりは悔しそうに
「そんなことは言ってないわよ、鯉のぼりには鯉のぼりの可愛らしさがあるじゃない」
「ああ、お優しい」
紙袋に風が吹き込んだような声で言うと、鯉のぼりは頭を下げて身を震わせた。
「そう言えば確か、あんた大久保さんの家に差し上げる予定だったわよね。お別れでも言いに来てくれたの?」
滝江の弟も中学生になり、もう鯉のぼりに関心を向ける事も無くなった。小さい男の子の居る親戚にそろそろ譲ろうかという話が先日出ていたばかりだ。
滝江の言葉に鯉のぼりはいきなり宙に浮かぶとぐるぐると部屋を飛び回り始めた。
風をはらんでパンパンに膨らんだ鯉の体が、徐々に鈍く光り始める。
「ちょっと、ホコリが立つじゃない、ここは部屋の中なんだからバタバタ泳がないでよっ」
滝江は天井から落ちてくるホコリを払って、真鯉をにらみつけた。
「ああ、切ない。この
「何よ、それ」
「あなたが幼少のころから恋焦がれ、愛し続けたこの私を捨てるおつもりか」
丸っこい目が急に三角につりあがり、
「ちょっと、何言ってるのかよくわからないんだけど」
滝江のつぶやきは、鯉の怒りに油を注いだようだった。
「ええい、我が心のわからぬ鈍感なお嬢様だ。可愛さ余って憎さ百倍、我とともに魔界の
魔の本性を現した鯉のぼりは左右にくねくねと体を動かしながら滝江のほうににじり寄ってきた。
「きゃあ、来ないでっ」
ぽかんと大きく開いたその鯉の口には、まるで別次元の入り口のように不気味な
気の強い滝江もさすがに叫び声を上げる。
「誰か――、誰か来てえっ」
しかし、返事がない。
「いくら叫んでもムダだ。この部屋はもう結界の中だ」
フオオオオオッ。
妖魔の様相を呈した鯉は、口をラッパのように広げて大きく息を吸いこんだ。
轟音とともに、部屋中の軽い小物がまるで坂から転がり落ちるように鯉の中に吸い込まれていく。掛け布団が飛ばされ、慌てて、ベッドにしがみ付く滝江。しかし、ベッドごとじりじりと身体は鯉の口に引きずられていった。