第5話 次々と・・・

文字数 2,167文字

「ちょっと待ってくれよ」

 (とおる)は叫んだ。彼の大声に驚いた田中が目を剥き、口を半開きにしたまま固まる。

「田中さん、あんたの奥さんの話は、この際どうでもいいよ。その、デートの時に買った傘はどうなったんだよ。傘の運命がどうしたって?」

「そうでしたね」田中はうんうんと頷いた。
「つい脱線してしまいました。それで、レストランからの帰りに買った傘なのですが、その日のうちに壊れてしまいました。畳んだ時に留めるバンドが生地に付いているでしょう。帰宅して畳むときにあれを引っ張ったら、その部分の生地が破れたのです」

 ああ、やっぱりという感想が亨の頭に浮かんだ。

 亨はペットボトルのキャップを開けると、お茶を一口だけ口に含んだ。そして自分の車に載せてある二本の傘に思いを馳せる。一本はほぼ新品、もう一本は七、八年くらい前に買ったものだが、まだ現役だ。
 骨の部分の錆が外から見え、古くて傷んでいるのが一目瞭然だが、壊れてはいない。

「つまりはさあ、田中さんは傘に関して物持ちが悪いという話をしたいのかな」

「そういうことになります」
 田中は複雑な表情を見せる。その目は哀愁を帯びていた。

 悲劇なのか、喜劇なのか、亨には判断はできなかった。

「話を続けていいですか?」
「どうぞ」

「私はしばらく傘を持たないことにしました。短い期間で四本もの傘を失いましたから。いや、折りたたみ傘の不具合も含めると五本ですね。でも梅雨の真っ盛りで、毎日のように雨が降っている時期に傘も持たないで生活していると周りから変な目で見られます。そこで一時期は外出時にポンチョを着ていたこともありましたが、佳代子からはかっこ悪いからやめるように言われました。支店長からも変に思われるから傘を持てと言われました」

 傘がないと答えたところ、黒田は青と黒のツートンカラーの傘を貸すと言ってきたという。さすが断りましたよ、と半笑いを浮かべながら説明する田中の口許は歪んでいた。

「あれは私の傘だったんですからね。借りるというのがおかしいし、それを紛失して弁償するのも悔しいですよ」

 田中はペットボトルを口につけて傾けたが、どうやら中身がほとんど残っていなかったようで、すぐに口から離した。そしてキャップを閉めると、「また買ってきましょうか?」と亨に聞いてきた。

「俺はまだ飲んでいるから大丈夫だよ」

 亨は申し出を断ると、田中に「話を先に進めてよ」と促した。煙草を吸うためだけに立ち寄っただけなのに、すでに三十分近くの時間を費やしてしまった。そろそろ紗英(さえ)が心配するかも知れない。

「まあ、この時期は傘との付き合い方について分かっていませんでしたからね。とにかく被害を受けないようにすることしか考えていませんでした」

 田中は一つ息を吐いた。「まあ、つまりは逆だったのです」

「――」

 亨は田中からクイズを出題されているような気分になり、少し苛立った。
「結局、十年前に高額の傘を立て続けに無くしたという話だったの。それとも支店長への怨念、という話だったのかな」

「次に買った傘は、使った翌日に父親に奪われました。以前に借りて無くしてしまった傘の代わりだと言われましたね」

 まだ傘の話が続くのかよ、と亨は唖然とした。いったい一晩に何回、呆れることになるのだろうか。

「まあ、同居しているんだったら家族の傘ということで、奪うとかいう話じゃないよね」

 雨は勢いを無くし、足元のアスファルトからの水の跳ね返りもほとんどなくなっていた。その一方で、強い風が一定周期で濡れた身体を横から押してきた。生暖かい風だ。

「その次の傘は、佳代子からのプレゼントでした。木製の濃紺の傘で、それなりの高級品だったと思います。私は身が引き締まりましたよ。これを紛失したら、彼女を失望させることになるからです。何しろ、順調に交際をしていたところでしたのです。相手を失望させることはできなかったのです」

 亨は何となく話の先が見えていたが、何も言わなかった。灰皿の前に立つと、三本目の煙草に火を点ける。

「でも、そんな心配は無用でしたね。彼女自身が車で()いて壊してしまったんですから」

 ははは、と田中が表情を変えないままかすれた声を出して笑う。亨は胸の内がざわざわした。

「あれは佳代子が初めて私の家を訪ねてきた時でした。彼女は運転を誤って、我が家の玄関に突っ込んだのです。駐車場から出てきた車が、突如と自分に向かってバックしてきた時には殺されると思いましたよ」

 佳代子は運転が下手なのです、と田中が続けた。亨にはそれが運転の巧拙(こうせつ)の問題とは思えなかったが、口を挟むことはやめた。

「私の両親との初顔合わせだったのですが、とんでもない顔合わせとなりました。玄関はめちゃくちゃになりました。そして彼女からプレゼントされた傘はたった一回使っただけで、半分に折れてしまいました」

 亨は何と言っていいのか分からず、お茶を流し込んだ。彼の中での佳代子という女性の人間像が定まらなかった。
 それなりの紳士に見える夫を蹴飛ばして前進する女性で、夫の実家に車で突っ込む女性。粗野に思えるが学歴もあって頭の回転もよいというが、さながら女性騎士なのであろうか。

「それから次の傘の話になりますが――」

「えっ、まだ傘の話が続くの?」

「私と傘の話をしているのですから。まだ続きがあります」
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